狸とイタチの化かし合い
真理とは何か?
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絶対の真理というものは
あるのだろうか?
おそらくないでしょう。
真理というのは、ある現象を最もよく、つまり、誰もがより容易に納得の行くように説明できる仮説だ、と私は信じています。
要するに絶対というものはないでしょう。
時代と共に新しい仮説が出て、それが、これまでの真理と思われていた仮説よりも、よりうまくその現象を説明できるならば、新しい仮説が真理として受け入れられることになります。
しかし、その認められた仮説でさえも、さらにその時代が過ぎると、新しい仮説が現れて、もっとよく、もっと広範囲の現象をより簡単に説明することができるかもしれません。
ニュートンの法則がアインシュタインの相対性理論によって修正されたのはこのよい例です。
そうなると、絶対の真理というものはないことになります。
科学技術の進歩に伴って新しい仮説が時代と共に現れてきます。
アインシュタインは特殊相対性理論を発表してから、さらに一般相対性理論を一応完成しました。
しかしアインシュタインでさえ、一般相対性理論が絶対だとは考えていませんでした。
彼はさらに重力と電磁力が同じものではないかと考え、これを証明するために「統一場の理論」を構想しました。
現在では、この2つの「力」の他にさらにもう2つの「力」(原子核と電子を結びつけている弱い力と原子核を結びつけている強い力)を含めた「統一場の理論」が構築されつつあります。
要するに、宇宙の現象をもっとよく説明できる仮説があるはずだということで理論物理学者がしのぎを削っているわけです。
最近話題になっていることでは、光より速く走るものがあるか?ということがあります。
アインシュタインによれば、光よりも速く走るものは「絶対にない」のです。
しかし、これも絶対ではないとイギリスのスティーブン・ホーキング博士が新しい宇宙論を展開しています。
光さえも抜け出せないはずのブラックホールから電磁波が出ているということでホーキング博士は相対性理論に不確定性原理を持ち込んだのです。
そうすることによって、一時的に光の速度を超えることは可能であると主張しています。
このように、絶対と信じられていた真理が新しい仮説によって覆されたり修正されたりしたことは、歴史を振り返ってみると、しばしば目にすることができます。
例えば、天動説と地動説は最もよい例です。天動説はずいぶん長いこと「真理」として受け入れられていました。
もちろん、地動説を唱える人はかなり居ました。
古代ギリシャにも居たのです。
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あまりに早く生まれすぎた
アリスタルコス
(紀元前310?~前230?)
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古代ギリシャで展開された宇宙に関する議論の中で、最も驚くべきものは、アリスタルコスによって唱えられた地動説でしょう。
このサモス生まれのアリスタルコスの地動説は後にアルキメデスによって紹介されています。
アリスタルコスは、三角測量の技法に基づいて、地球から太陽までの距離が月までの距離の19倍になることをつきとめたのです。
(実際には、2つの距離の比は400なのですが、この差は結論を導くまでの障害にはなりませんでした。)
これほど離れているにもかかわらず、地球上から太陽と月がほぼ同じ大きさに見えるのは、太陽が月の19倍の直径を持ち、
大きさ・質量ともに地球などとは比べ物にならないほど大きいからだ、とアリスタルコスは考えたのです。
「そんな大きなものが、地球のように小さなものの周りを回るということがありうるだろうか?」
三角測量の技法に基づいて、地球から太陽までの距離を割り出すほど頭のよい人でしたから、当然そのような新たな疑問が頭をもたげます。
確かに、巨大な太陽が小さな地球の回りをまわるのは不自然です。
アリスタルコスも、むしろ地球の方が太陽の周囲を回っているはずだと考えたのです。
これが彼の地動説です。
アリスタルコスはさらに、地球が大きな円を描いて運動しているのに、恒星の見かけの明るさや方位に季節ごとの変化が見られないことに疑問を抱きました。
結論として、アリスタルコスは、これらの星が、人々が想像しているよりも遥か遠くにあるからだと考えたのです。
しかし彼のこのような考えは、当時あまりにも奇抜だと考えられたようです。
彼の上のような説明を聞けば、現在の我われには、よーく納得が行くのですが、当時の人はそのような科学的な知識を持っていません。
アルキメデスといえども、アリスタルコスの考えを荒唐無稽として斥けてしまったのです。
しかし、上のエピソードからも分かるように、精密な観測機器を持たない時代にあっても、人間の知性は物事の本質に迫ることができたのです。
地動説が認められるまで、
なぜ1700年以上
かかったのか?
地球が丸いことも、どうやら地球が太陽の周りを回っていることも、古代ギリシャ人の中には知っている人も居たわけです。
しかし、これほど長い間天動説が真理として通用していたのは、キリスト教が地動説を認めようとしなかったことが大きく影響していました。
地動説を改めて見出したコペルニクス、ガリレイ、ケプラーは、いずれも熱心なクリスチャンでした。
しかし、キリスト教団の組織を動かしていたローマ法王や彼を取り巻く人たちが、地動説を異端視したのです。
「神は、あなた方が言うように地球が回っているというような宇宙を、お造りにはならなかったのだ!」
と言うわけです。
中世にあっては特に宗教が、そして現代にあっては政治が、科学技術の発展に大きな影響を与えています。
最近の例では、冷戦時代の月ロケット開発競争が上げられます。
冷戦がなかったら、人間はまだ月に足跡を残していなかったでしょう。
歴史の中の真理とは?
歴史の中の真理も、原則として科学の中の真理と全く同じものだと考えられます。
つまり、絶対の真理というものはありません。
日本には『古事記』と『日本書紀』という歴史書が存在しています。
古代史を研究する者にとって、この両書は聖書のようなものです。
いわば、『日本古代史』教の『聖書』です。
キリスト教団の幹部たちが、地動説を異端視したことは上に述べました。
「神は、あなたが言うように地球が回っているというような宇宙を、お造りにはならなかったのだ!」とガリレオに向かってしかりつけたのでした。
『古事記』と『日本書紀』も、いわば、このような宗教的と呼ぶに等しい「思想」に基づいて書かれた書物です。
『古事記』には『日本創世記』と呼ぶにふさわしい記事が見えます。
つまり、イザナミ・イザナギの『国生み神話』です。
これこそ、ピタゴラスが聞いたなら荒唐無稽と言って笑い出すでしょう。
もちろん、皇国史観が全盛だった太平洋戦争中も、この『国生み神話』を本当のことだと考えた人は居なかったでしょう。
それでは、なぜ『国生み神話』を作らねばならなかったのでしょう?(なぜ、伝承の昔話から取り上げねばならなかったのか?)
それはごく簡単な理由です。
他の国の神話が多くそうであるように、日本という国は独自に出来上がったんだということを言いたいがためです。
『古事記』が成立したのが712年、『日本書紀』が完成したのは720年です。
この辺の事情については、このページ (日本で一番古い書は?) で説明しています。
実はこの両書が成立するまでの100余年という期間は、次に示す簡単な年表に見るように激動の時代でした。
592年
蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺する。
645年
中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原鎌足)と共に蘇我入鹿を討つ。
蘇我氏(本宗家)滅びる
(詳しいことはこのページ【藤原鎌足は、どのように六韜を実践したのか?】を読んでください。新しいウィンドーが開きます。)
663年
白村江の戦い
百済滅びる。
百済の貴族・官僚などが大挙して日本へ亡命する。
この人たちは政府の役職に付く。中には現在の大臣に当たる役職に付く者まで出てくる。
671年
天智天皇、大海人皇子(天武天皇)に暗殺される。
(詳しいことはこのページ【天智天皇は暗殺された】を読んでください)
672年
壬申の乱
天武天皇実権を握る。
この政権交代で注意する必要があるのは、藤原氏がこの政変で滅びていないということです。
むしろ、ますます栄えてゆくことに注目する必要があります。
686年
大津皇子、持統天皇に殺される。
上の一連の事件に関わりを持ち、結局実権を握ったのは誰か?という事を考えれば、ごく自然にいろいろな疑問が解決します。
もちろんそれは藤原氏に他なりません。
『古事記』と『日本書紀』は
藤原氏が政権担当の正当性を
主張するために書いた史書
「でも、学校ではそんなふうに教わらなかったけれど。。。」
そんな呟きが聞こえてきそうです。
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天武天皇が『古事記』と
『日本書紀』を
編纂させたことになっているが…
現在、日本で一番古い書は、古事記ということになっています。
古事記が編纂されたのは和銅5年(712)、日本書紀は養老4年(720)です。
中臣鎌足(藤原鎌足)が亡くなったのが669年ですから、もうこの時代は、彼の息子の不比等【659(斉明5)~720(養老4)】の時代です。
古事記は712年に成立した、と書かれている場合が多いのですが、実際には、天武天皇の時代(680年代前半)から書き始められています。
天武天皇は壬申の乱の後、諸氏に伝承される「帝紀(テイキ)」(天皇家の皇統譜)と「旧辞(クジ)」(古代の説話)をまとめて後世に残そうとしました。
もちろん、これには、理由があって、天武帝が自分の王朝の正当性をこの史書に盛り込もうとしたわけです。
当然一人ではできませんから、強力な手助けが必要になります。それが藤原不比等だというわけです。
しかし、私は、これは全く話が逆だと見ています。
つまり、天智天皇の右腕であった鎌足が、天武天皇に取り入るには、それ相応の実力(利用価値)を示さなければなりません。
そこで、鎌足の出自がものを言います。
つまり、百済出身であるということが、ここで役に立つわけです。
天武天皇は新羅派の統領です。
鎌足が天武帝と協力すると言うことは、百済派の勢力をそいで新羅派に百済派の一部を持ち込むことになるからです。
しかも、彼が「六韜(りくとう)」を愛読していたということを忘れるわけにはゆきません。
というのは、ここでも、彼は六韜の教えを実践しているからです。
『六韜』についてはこのページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)
を読んでください。
派閥抗争についてはこのページ (天智天皇は暗殺された) を見てください。
新しいウィンドーが開きます。
『古事記』と『日本書紀』
にはなぜ謎が多いか?
ところで、古事記が日本書紀よりも古いとすると、おかしな点がいくつかあるという人たちが居ます。
例えば、
- どちらの書も天武天皇によって編纂作業が進められた歴史書なのに、日本書紀には古事記についての記述がまったく見当たらない。
- また、古事記の内容には日本書紀よりも新しいものがある。
- 日本書紀には他の多数の書の引用が載っているので、他にも書があったことが分かるのだが、
古事記には日本書紀の本文と他の書をまとめて1つの話にした神話という形で載っている。 - 古事記の編纂者は後から作られた日本書紀の内容をどうして知っているのか?編纂者が同じだったからなのか?
- また、風土記という書があり、元明天皇によって日本書紀と同じ年に成ったこの書の内容が、古事記にふんだんに引用されている。本当に、
日本最古の書は古事記なのだろうか?
私は、両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが、史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと、上で指摘されたような矛盾が、ところどころ顔をのぞかせるわけです。
これは、いわば、当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は、自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は藤原氏が、日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。
何よりも、不比等が、親の七光りで、編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。
中国風史観に
こだわる執筆者たち
『大化の改新』がなぜ日本史の中で重要かというと、日本に中国風の律令国家を築く礎になったということになっています。
この『大化の改新』を行ったのは中大兄皇子であることはよく知られています。
しかし、元々この構想を持っていたのは、彼よりも中臣鎌足だったようです。
鎌足が亡くなると、彼の遺志を継いだのが、次男である不比等でした。
なぜ長男でなく次男なのか?と疑問に思う人が居るかもしれません。
実は長男の定慧(じょうえ)は暗殺されています。
生きていたら、不比等と共に相当な影響力を持ったことでしょう。
詳しいことはこのページ (藤原鎌足と長男・定慧) を読んでください。
大宝律令の施行令十一巻は代表責任者を天武天皇の息子の刑部(おさかべ)親王とし、実質的な編纂は藤原不比等が中心になって進めました。
700年(文武4年)に完成し翌年正式に年号を建て、大宝元年として大宝律令を施行したのでした。
唐の制度を真似しながらも、藤原不比等の眼目とするところは天皇親政から藤原氏中心の太政官制にあったようです。
大宝律令に引き続いて、藤原不比等は、もっと藤原氏と自分に都合のよいような「養老律令」を作ろうとします。
そのため、唐から帰ってきた若い留学生たちにこの仕事をやらせています。
矢集虫麻呂(やずめのむしまろ)、大倭国小東人(やまとのこあずまひと)、塩屋古麻呂(しおやのこまろ)、百済人成(くだらのひとなり)といったような人たちです。
この若い留学生たちは唐の新しい法律知識や最新の唐の政治情勢などを身に着けて帰ってきたのでした。
忘れてならない事は、これと平行して『古事記』と『日本書紀』の編纂も進められていたということです。
当然のことながらこの帰国留学生たちもこの両書の編集に加えられたでしょう。
ここで考えなければならないことは、この両書の編纂に携わった留学生や渡来人たちの史観です。
当時の日本には史観と呼べるようなものはまだ確立していませんから、これも中国の歴史書を参考にする他になかったでしょう。
むしろ中国で常識と考えられていた史観以外に持ちようがなかったと思われます。
では、この中国の史観というものは一体どのようなものだったのでしょうか?
中国ではこれまでの王朝を倒した新王朝の史官が前王朝の歴史を書くのが慣習になっていました。
結果として、現王朝の史官が現王朝の歴史を書くよりも事実に即した客観的な歴史を書いてきたのです。
つまり、歴史の偽造にこのような慣習によってブレーキがかかっていたことになります。
歴史書を書くときには勝手なことは書かないという「史観」が“史官”にはあったわけです。
六韜史観
『古事記』と『日本書紀』の編纂に携わった帰国留学生や渡来人は、先ず間違いなくこのような中国の史観に通じていたはずです。
ところが編集長として彼らを統括している藤原不比等の史観は全く彼らの史観とは違っています。
不比等の史観は、しいて言うならば“六韜史観”と呼ぶようなものです。
つまり自分の都合のよいように歴史的事実を書いてゆく史観です。
若い帰国留学生は編集長の指図に従って、不比等の言うように仕方なく書き直すことがあったかもしれません。
しかし、古参の渡来人たち、あるいは土着の豪族出身の史官の多くは、不比等が時々口を挟んで事実を編集長の都合のよいように書けという指示を苦々しく思ったことでしょう。
何よりも不比等が親の七光りで編集長になっているという事実がおもしろくありません。
しかも、勝手に事実をゆがめて書けというようなことを言う。
おそらく喧嘩になってやめていった人もいたに違いありません。
やめない人は、何とかして、事実を『古事記』と『日本書紀』の中に書き残そうと懸命に努力したに違いありません。
そういう努力が、我われの眼には“矛盾”であったり“謎”として文中に登場するわけです。
『日本書紀』の中に
隠された声
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これを読む読者の皆さん。
ぜひ、文中の矛盾に気づいてください。
私たちは、編集長の理不尽な要望によって歴史的事実を曲げて書かされています。
しかし、私は何とかしてこの文章の中に真実を書きとめたいと思っています。
100年先、いや、500年先、いや1000年先の皆さんが、もしこの歴史書を読んで、これが全部事実だなんて思い込まれると思うと私は全くいたたまれません。
また、やりきれません。
こんなことは中国の歴史書を見ればお分かりの通り、やってはいけないことなんです。
本当は、こんなことには、かかわりたくありません。
やめて行った人も居ます。
しかし、誰かがこの歴史書の性格について訴えないかぎり、誤った事実が後世に残されてしまいます。
わたしの努力は微力かもしれません。
しかし、最善を尽くして文中に真実が現れるよう努力したいと思います。
そういうわけですから文章中の矛盾や謎は、どうか真実の一端だと思って読んでください。
少なくとも、『日本書紀』を読むと、所々に矛盾や謎と思われるような箇所が顔を覗かせます。その時、上のような声が聞こえてくるような気がします。
しかし、ここで個人的な感想を述べていても仕方がないので、実際、そのような矛盾とはどのようなものなのか、具体的な例を挙げてお話しようと思います。
乙巳の変
(いっしのへん)
板蓋宮(いたぶきのみや)
における暗殺の場。
太刀を振り上げているのが
中大兄皇子(後の天智天皇)、
弓を手にしているのが中臣鎌足。
645年6月12日、上の絵に示したように、蘇我入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足によって惨殺されます。
最近の調査で、この事件は皇極天皇の内裏(住居)の庭で起きたことが分かっています。
蘇我石川麻呂は蘇我入鹿と共に宮廷に入ります。
入鹿はどこへ行くにも常に剣を身につけていました。
この日、鎌足が命じた従者(後世の狂言に出てくる太郎冠者のような者)が面白おかしく
「御腰の太いものを頂戴いたします」と言ったので、
つい吹き出してしまい、剣を渡してしまったのです。
天皇の前には、古人大兄皇子、蘇我入鹿、蘇我石川麻呂の3人が進み出ました。
かなり離れたところには長槍を持った中大兄皇子(20歳)、
弓矢を持った中臣鎌足(32歳)、それに2人の刺客、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらぎのわかいぬかいのむらじあみた)が隠れていました。
石川麻呂が上表文を読み始めたら刺客が飛び出して入鹿を斬りつけ、これを合図に中大兄皇子と中臣鎌足が援助することになっていたのです。
やがて大極殿で石川麻呂が上表文を読み始めます。
しかし、どうしたわけか何も起こりません。
実はこの時、2人の刺客は入鹿を恐れて飛び出せなくなっていたのでした。
計画が狂ったことで、にわかに恐怖がこみ上げてきて石川麻呂は声も体も震え始めます。
その様子を蘇我入鹿が見て不審に思い声をかけます。
「どうした?なぜそんなに震えているのか?」
「あの、。。。帝の前ですので、その。。。つい緊張してしまって。。。」
これはやばいと思い、その瞬間、柱の陰に隠れていた中大兄皇子が剣を抜いて入鹿の頭から肩にかけて斬りかかります。
子麻呂が足を斬りつけ、鎌足は弓を構えました。
「私に何の罪があるのか」と叫ぶ入鹿に中大兄皇子は答えます。
「山背大兄皇子を殺して天皇の力を衰えさせようとしている」
目の前で一部始終を見ていた中大兄皇子の母、皇極天皇はこの時入鹿を助けようともせず、驚きと怖さで奥に立ち去ってしまいます。
子麻呂と犬養連網田がさらに入鹿を斬りつけ、やがて入鹿は息絶えたのでした。
入鹿の死体は宮の外に放り出され雨に濡れてまま放置されました。
しかし、上の絵をよーく見てください。
実際には庭で殺されたようですが、江戸時代に描かれた上の絵では、入鹿はよほど無念であったと見え、
彼を助けようともせずに奥へ引き下がってしまった皇極天皇を追うように、
切られた首が宙を飛び御簾(みす)に喰らい付いています。
なぜか?
このへんの事については、このページ (知らぬ顔を決め込む皇極天皇) で説明しています。
読んでください。
新しいウィンドーが開きます。
『日本書紀』に
隠された真実の声
この事件の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、
ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。
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「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
上の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。
これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。
要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、このページ(藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) を用意しました。
ぜひ読んでください。
『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。
この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。
執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。
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「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
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「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
「彼は韓からやって来たのかね?」
「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。
中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。
何か具合の悪いことでも?」
「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」
恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。
執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。
古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。しかし、
『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。「死人に口なし」です。
このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、
父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、
このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。
長屋王の変
729(天平元)年
「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。
もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。
完全に濡れ衣を着せられたものでした。
藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。
それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。
結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。
一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。
皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。
「養老律令」後談
律令の成立を見てゆくと、唐の新しい制度を取り入れて天皇を中心とする中央集権制度を確立するという姿勢が見えます。
しかし、これは中臣鎌足とその息子の藤原不比等にとっては「建前」、つまり表向きの理由であって、本心は天皇親政から
藤原氏が実権を持てるような政治機構を構築することにあったわけです。これは、その後の歴史の進展を見てゆくともっとはっきりします。
上の系図を見ると、利用できるものは何でも利用しようという『六韜』の精神が良く現れています。
不比等はこの系図の中で空前絶後のことをしています。
系図の中の番号は皇位継承順位を表しています。
本来ならば、持統天皇の後は天武天皇の子供たちへと皇位が移るはずなのです。
しかし、持統天皇は自分の血がつながらない子供たちへは皇位を譲りたくなかったのです。
不比等は新羅派である天武天皇の子供たちを毛嫌いしていました。
彼らへ皇位が移れば当然のことながら、藤原政権は座を失います。
このあたりの、百済派、新百済派、新羅派の確執については、このページ (天智天皇は暗殺された) を読んでください。
持統天皇から孫の文武天皇へ皇位が移ります。
これがあの有名な『天孫降臨』の神話が『記紀』に受け入れられた理由です。
つまり、このような変則的な皇位継承を正当化するためでした。
この文武天皇に不比等は自分の娘を嫁がせています。
文武天皇が亡くなると、なんと皇位は彼の母親へ移ります。
これが元明天皇です。
その後、聖武天皇が皇位につくまでの時間かせぎに、彼女の娘の元正天皇が皇位につきます。
やがて、望みどうりに聖武天皇になるわけです。
この間、天皇の有資格者である、天武天皇の息子たちが幾人もいたのです。
しかし、すべて無視されました。もちろん不比等がそのようにしたのです。
しかし、このようにただ系図を操るだけでは、不比等は満足しなかったようです。
大宝律令は、不比等の目にはまだ十分ではなかったようで、
そのために「養老律令」に着手しました。
不比等は自分の娘婿である聖武天皇の即位とともに公布することで、自己の地位を確立しようとする狙いを持っていました。
しかし、不比等は養老4年(720)8月に亡くなります。
作業は停滞し、養老6年2月には未完のまま作業は中断されました。
従って、聖武天皇即位にあたっても公布されず、政府の文書庫に眠ったままになったのです。
この養老律令を公布に持ち込んだのは、不比等の孫の藤原仲麻呂です。
「橘奈良麻呂の変」直後の天平勝宝9年(757)5月でした。
仲麻呂はこの頃から、藤原氏を皇族と同等に位置づけ、その基礎を築いた不比等らを顕彰するとともに、自己の地位を強化しようとしたのです。
その一環として不比等の手がけた養老律令を施行したのが真相です。
初出:『真理とは何か?』
(2003年9月24日)
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
デンマンさんが真面目にお話してくださいましたわ。
いかがでござ~♪~ましたか?
もし、あなたが古代史に興味があるなら次の記事も読んでみたいと思うかもしれません。
時間があったら、ぜひ読んでみてください、あし。
■天武天皇と天智天皇は
同腹の兄弟ではなかった。
■天智天皇は暗殺された
■定慧出生の秘密
■藤原鎌足と長男・定慧
■渡来人とアイヌ人の連合王国
■なぜ、蝦夷という名前なの?
■平和を愛したアイヌ人
■藤原鎌足と六韜
■古事記より古い書物が
どうして残っていないの?
■今、日本に住んでいる人は
日本人でないの?
■マキアベリもビックリ、
藤原氏のバイブルとは?
とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。
ィ~ハァ~♪~!
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こんにちは。ジューンです。
外国人が日本語を勉強するのに、
最も難しいのは敬語の使い方です。
日本人でさえ適切に敬語が使えない人が
増えていると聞いています。
だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。
英語にも敬語が無いわけではありません。
でも、日本語ほど体系的には使われていません。
ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは
敬語の定義次第です。
敬語を広く「人物間の上下関係や
親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば
英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め
学校で生徒が教師に、
軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に
sir や madam(ma'am)を付ける例があります。
英語の二人称代名詞である you はもともとは敬称でした。
英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと
常に本来敬称であった you のみを使うようになったために
you が敬称としての意味を失い、
敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。
現在では敬語表現としては
次のような形を使って表現することが多いです。
Could you ...?
Would you ...?
May I ...?
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを
やっています。
興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして
覗いてみてください。
■『あなたのための笑って幸せになれるサイト』
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ
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