2015年12月21日月曜日

ゼリーフライ@鐘つき堂


 

ゼリーフライ@鐘つき堂

 


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Subj:真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分
 

バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。

でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!

ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)


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小百合さんが連れてきたトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。

。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。 
ぎゃははははは。。。

どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。

僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。

行田船着き場跡


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(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。

田山花袋の『田舎教師』に出て来る斉藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。


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この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。 

(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。


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 (中略)

昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。

そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。

特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。

八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。

 (中略)


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英照皇太后


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昭憲皇后

明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。

ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。

「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。

帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。

吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。

とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。

即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。


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省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)



5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社

ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。


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なんと、その船着き場で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけなのです。 (爆笑)

もちろん、それだけではありません!

なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!

しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!


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ぎゃははははは。。。

そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。

面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。

とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。

では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。

じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。


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『手作り弁当@船着き場』より
(2015年12月3日)




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デンマンさん。。。 どうしてまた 上のメールを持ち出してきたのですか?


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小百合さんが釣りに拘(こだわ)っていたのですよ。 三男のトモユキ君が釣りが好きだと言うので、“行田船着き場跡”が 釣りに手ごろな場所だと下見までして拘りましたからねぇ~。。。

いけませんか?

いや。。。 別に釣りに拘ってもかまわないけれど、“行田船着き場跡”に拘ったところが僕には気にかかっていた。

どうして。。。?

あのねぇ~、釣りに適した場所ならば他にも たくさんあるはずですよ。。。 “行田船着き場跡”で釣りをしている人を僕はこれまでに見たことがない。。。 「あんな場所で釣りができるのか?」。。。 僕は不思議に思ったほどです。

でも。。。 当日、トモユキの他にも高校生ぐらいの男の子が二人やって来て釣りをしていたじゃありませんか!

そうなのです。。。 僕はマジで驚いたのですよ。

その事を言うために上のメールを わざわざ持ち出してきたのですか?

いや。。。 もちろん、それだけじゃありません。。。 トモユキ君が釣りをしている間に、“行田船着き場跡”で僕と小百合さんが弁当を広げてピクニックをしましたからねぇ~。。。


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デンマンさんは お腹が空いてなかったのですか?



もちろん、空いてましたよ。。。 でもねぇ~、まさか“行田船着き場跡”でピクニックすることになるとは考えてもいませんでした。

いけなかったかしら?

いや。。。 かまいませんけれど。。。 段ボール箱が近くにあったら、ホームレスのカップルが昼飯を食べていると誤解されてしまうだろうと思いましたよ。。。 (微笑)

つまり、その事を言いたくて わざわざ上のメールを持ち出してきたのですか?

いや。。。 もちろん、それだけじゃありません。。。 あのねぇ~、今日の記事のタイトルは“ゼリーフライ@鐘つき堂”なのですよ。


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あらっ。。。 もしかして“鐘つき堂”で売っているゼリーフライと“行田船着き場跡”が関係あると言うのではないでしょうねぇ~?



小百合さんが行田にやって来ると必ず“鐘つき堂”で売っているゼリーフライを御土産に買って帰る。。。 だから“ゼリーフライ”と“行田船着き場跡”が関係あると考えるのも分かります。。。 でも、そうじゃないのです。

じゃあ、何が“行田船着き場跡”と関係あるのですか?

あのねぇ~、上の写真で見ても解るとおり、“かねつき堂”の中に“鐘”はないのですよ。

“かねつき堂”の中にあった“鐘”は 今どこにあるのですか?

城趾公園内にあるのです。


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でも、僕が子供の頃には城趾公園内にはなかった。



どこにあったのですか?

「かねつき堂」のすぐそばにあったのですよ。 今でも本丸跡の北側、国道125号線を隔てて諏訪曲輪の土塁跡が残っています。


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この土塁の上に鐘楼があって、そこに鐘があったのです。 大晦日には108つの除夜の鐘が響いたものですよ。 でも、この鐘は、もともと行田にはなかった。



あらっ。。。 そうなのですか?。。。どこにあったのですか?

江戸時代の桑名藩にあったのですよ。

桑名ってぇ、三重県の桑名ですか?

そうです。

どうして桑名藩にあったのですか?

次のような運命をたどって、行田、つまり、江戸時代の忍藩にやってきたのですよ。

忍の時鐘

忍の時鐘程、幾回も動かされたものは少ないであろう。
この鐘こそ240年の時の流れを体験した唯一のものといえよう。
鐘が歴史を知っているとでも表現したい様な、波乱の運命を背負っている。

松平侯三代忠雅は相続争いの為(白川騒動)に二代忠弘の孫でありながら、11歳で家督相続し白川城より山形城へ、8年間で福山城(広島県)へ、12年間で桑名城へ移封となった。
正徳元年7月(1711年)のことである。
一生涯で遠隔の地を移封になった藩主は少ないであろう。 (略) そして侍従少将となり異例の出世であった。

忠雅は桑名入城を記念し「永保家国」(銘文)を祈り、享保2年(1717年)11月にこの鐘を桑名城内に完成させた。
260年前の事である。

ところが宝暦5年(1755年)1月12日桑名城下町本町から出火、海風にあふられて320軒、居城各門を焼失する大火となってしまった。
この洪鐘も力一杯乱打され、鐘自身も火を受け、ひびが入ってしまった。

父忠雅が誇っていた洪鐘を破損不能にした事を残念とし、宝暦14年(1764年)2月父忠雅の銘文と自分の銘文を入れて、現在ある洪鐘を改鋳した。
鐘を改鋳したからでなく、偶然にも四代は忠刻(ただとき)という名である。
鋳造した冶工は広瀬出雲大掾藤原道次、彫工は藤原儔次で親子であるらしい。
わざわざ書いたのは桑名市に広瀬家の後裔の方がいらっしゃるので、友好都市として敬意を表したいからである。

それから60年、五代目の忠堯(ただたか)の文政6年、突然武州忍へ移封となったのである。


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この鐘も桑名港から海路を渡り、東京湾から利根川を上って酒巻に着き、この地に運ばれたわけである。
そしてここ二階櫓の上に安住し、広い忍沼にその音色を響かせたのである。

六ツ(むつ)と正午の時を報せ、慶応4年(1868年)1月14日大雪の夜、維新の急変の一報を藩士集合と乱打された。
それから5年、明治政府は東京に一番近い親藩である理由で、本年中に忍城の建物等一切の取り壊しを命じて来た。
藩財政は取り壊しをするどころではなかった。
強制入札で借金を棒引きして売りつけ、引きとらせたという。
だから「私の家の門は忍城の木で造った」とか、「家の蔵は忍城のものだそうだ」とかいう人が多い。

この時鐘は二階櫓から降ろされて櫓は取り壊したものの、時鐘の引き取り手がないので、そこに野ざらしにされたままだった。
ところが、“忍城の鐘”の音色がいいのは金がたくさん入っているからだと噂され、イボ(乳頭)を盗む者が出て来てしまった。
今も幾つかないままに昔を物語っている。

明治7年仕方なく東照宮が今の地に移されたので、鐘のみ社務所の前にひと先ずおいて盗難をさけた。
世川農士麿は何としても鐘の響きを聞かせたいと有志をつのり、宅地を提供してそこに今の形のものを造り、昔通りの時を撞いた。
何しろ時計のない時代だから唯一の時を報せるものだったのである。

明治14年1月6日今の中央小学校の地に、埼玉県下最初の洋風二階建ての学校、進修館が新築されたのを機に、その玄関の前に移転した。
それから進修館小学校は移り大正11年、忍高等女学校となり、やはり時の鐘は打ち続けられた。
昭和20年忍高女は進駐軍の病院に接収されたので万一を思い、今の東照宮、諏訪曲輪西端の今の地に移されたのである。

想えば数奇な運命をたどった洪鐘である。
忍城時代ここにあったことを書いておかないと、いつしか昔から東照宮の所にあったと思い込まれてしまう。
多聞櫓、二重櫓の南、白壁の数百米の塀の中、大きな鐘掛松といわれた松の大木の脇の、二階櫓の上から打ち響く鐘の音は広い忍沼を渡り、行田町中はおろか、物の本には“四里四方響く”とさえ書いてある。
16粁四方まではどうかと思うが、風向きでは随分遠くまで聞こえたという。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)



134-138ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社



上の本が書かれた1979年には、鐘は東照宮の裏にあったのです。 つまり、諏訪曲輪の土塁の上に鐘楼があって、そこにあったのです。



。。。で、城趾公園ができた時に、現在の場所に移されたのですか?

そうです。

ところで、その“鐘”と“行田船着き場跡”がどのように関係しているのですか?

上の小文にも書いてあるようにこの鐘も桑名港から海路を渡り、東京湾から利根川を上って酒巻に着き、この地に運ばれたわけですよ。。。 つまり、小百合さんとピクニックした場所で“鐘”が船から降ろされたのです。


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あらっ。。。 そうだったのですか?。。。 じゃあ、お弁当を広げた所に“鐘”が降ろされたのかもしれませんわねぇ~。。。



そういうことですよ。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
小百合の手作りのお弁当を見たら、あたくしもお腹が空いてきましたわ。
あたくしも何かを作って食べようと思いますゥ。

あたくしの好物は 具のたくさん入った“あんかけ焼きそば”でござ~♪~ますう。
あなたのために、作り方を教えますわねぇ。


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どうですか? 美味しそうでしょう?

でも、あたくしは これだけでは満足できませんのよう。
デザートに“たいやき”をいただくのでざ~♪~ますわよう。
うふふふふふふ。。。

最近では、餡に替わってクリームや溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどの洋菓子素材を詰めたものもでてきましたわ。

サンドウィッチ式に肉類や生野菜、各種ソースやリゾットなどを挟む「おかずたい焼き」もあらわれました。


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あなたも 好きなものを“たいやき”に詰めてみませんか?

では、あなたのために あたくしが育った地元の京都の“たいやき”をお見せしますわね。
うふふふふふ。。。



お腹がすいてきて、“たいやき”が食べたくなってきたでしょう?
でも、この記事を最後まで読んでから、近くの“たいやき屋さん”に走ってくださいね。

ところで、小百合さんがどうして「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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