天平の麗しき淑女
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(yang103.jpg)
あぁ~♪~っらぁ、デンマンさん。。。 あたくしも「天平の麗しき淑女」のお仲間に入っているのでござ~♪~ますか?
。。。ん? 卑弥子さんが「天平の麗しき淑女」のお仲間?
だってぇ、上の画像の3番目に、あたくしが登場してますわよう。
うん、うん、うん。。。 確かに卑弥子さんの写真が貼ってあります。
だから、あたくしも「天平の麗しき淑女」のお仲間になっているのでしょう?
やだなあああァ~。。。 勘違いしないでくださいよう。 確かに卑弥子さんは十二単(ひとえ)を着ているけれど、でも、十二単は天平時代じゃなくて平安時代でしょう?
そうでござ~ますわ。
だったら、「天平の麗しき淑女」のお仲間には入らないでしょう!?
でも、あたくしの写真が貼りだしてござ~ますわ。
あのねぇ~、それには訳(わけ)があるのですよ。
だから、あたくしも「天平の麗しき淑女」の一人なのでござ~ますでしょう?
やだなあああァ~。。。 卑弥子さんは天平時代に生きていたわけじゃないでしょう! 現在、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っている現代人なのですよ。 確かに上の写真の中に卑弥子さんが出てくるけれど、誰も卑弥子さんを「天平の麗しき淑女」だとは思いませんよう。
だったら、どうして、あたくしの写真を貼り出すような誤解を与える事をなさるのでござ~ますか?
だから言ったでしょう! これには深い訳があるのですよ。
分かりましたわ。 じゃあ、その深い訳を聞くことにいたしますわ。 早く話してくださいなァ。
あのねぇ~、ものには順序というモノがあるのですよ。 だから、すぐに深い訳が話せるわけじゃないのです。 まず次の小文を読んでください。
聖林寺
(shorin02.jpg)
(shorin05.jpg)
奈良県桜井市下692にある真言宗の単独寺院。
桜井市の南部、多武峯(とうのみね)街道の西側の高地に位置する。
(中略)
十一面観音像
(11kanons3.jpg)
もと大神(おおみわ)神社の神宮寺であった大御輪寺にまつられていたが、明治の廃仏毀釈に際し、本寺に迎えられた。
一材から彫り出した心木に乾漆を厚く盛って塑形したもの。
頭体の比例が整い、肉づけや衣文の起伏に自然味があって、しかも荘重な気分に富んでいる。
天平時代後半、8世紀半ば過ぎから盛行した木心乾漆像の代表的な作品である。
(117ページ)
法華寺
(hokke02.jpg)
(hokke03.jpg)
奈良県法華町882にある真言律宗の尼寺で、法華滅罪之寺とも称している。
門跡氷室御所。
法華滅罪之寺は、天平13年(741)、国ごとに僧寺として金光明四天王護国寺、すなわち国分寺建立の詔が出されたときに、同じく国ごとに尼寺として建立されたものである。 (略) 大和の法華寺は、もとは藤原不比等の旧邸を充て、はじめ皇后宮であったが、天平17年に宮寺となった。 (略) 藤原氏との関係で、本尊の十一面観音像(国宝)は光明皇后の姿を模したものとも伝えられ、その関係からも、藤原氏を背景として、平城京の東北にかなりの伽藍配置を示して、全国の尼寺の総国分尼寺的な性格を帯びていたものとも考えられるのである。
十一面観音像
(11kanonh2.jpg)
いま法華寺本堂本尊であるが、その造立に関する記録はない。
像高100センチ。
榧(かや)材の一木造り、頭髪・眉目・唇などに彩色するほかは素木のままで檀像風に仕上げているが、黒目、頭髪の一部、装身具などに銅板製のものを用いる。
反らせた手指先、踏み出した右足のはね上げた親指など細部に至るまで緊張感のある造形で、風に翻える天衣や裳裾とともにみごとな動きを表現している。
彫り口は鋭く鮮やかで、典型的な翻波式(ほんばしき)衣文が見られる。
平安時代初期木彫の一頂点を示す作例である。
台座も当初作。
面貌表現の観心寺如意輪(にょいりん)観音像との共通性から、9世紀前半、その半ば近くの製作と思われる。
光明皇后の作とも光明皇后の姿を写したものとも伝えられる。
(254-256ページ)
(jiten110.jpg)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『奈良古社寺辞典』
編者: 吉川弘文館編集部
2010年4月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 吉川弘文館
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(shorin05.jpg)
奈良県桜井市下692にある真言宗の単独寺院。
桜井市の南部、多武峯(とうのみね)街道の西側の高地に位置する。
(中略)
十一面観音像
(11kanons3.jpg)
もと大神(おおみわ)神社の神宮寺であった大御輪寺にまつられていたが、明治の廃仏毀釈に際し、本寺に迎えられた。
一材から彫り出した心木に乾漆を厚く盛って塑形したもの。
頭体の比例が整い、肉づけや衣文の起伏に自然味があって、しかも荘重な気分に富んでいる。
天平時代後半、8世紀半ば過ぎから盛行した木心乾漆像の代表的な作品である。
(117ページ)
法華寺
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奈良県法華町882にある真言律宗の尼寺で、法華滅罪之寺とも称している。
門跡氷室御所。
法華滅罪之寺は、天平13年(741)、国ごとに僧寺として金光明四天王護国寺、すなわち国分寺建立の詔が出されたときに、同じく国ごとに尼寺として建立されたものである。 (略) 大和の法華寺は、もとは藤原不比等の旧邸を充て、はじめ皇后宮であったが、天平17年に宮寺となった。 (略) 藤原氏との関係で、本尊の十一面観音像(国宝)は光明皇后の姿を模したものとも伝えられ、その関係からも、藤原氏を背景として、平城京の東北にかなりの伽藍配置を示して、全国の尼寺の総国分尼寺的な性格を帯びていたものとも考えられるのである。
十一面観音像
(11kanonh2.jpg)
いま法華寺本堂本尊であるが、その造立に関する記録はない。
像高100センチ。
榧(かや)材の一木造り、頭髪・眉目・唇などに彩色するほかは素木のままで檀像風に仕上げているが、黒目、頭髪の一部、装身具などに銅板製のものを用いる。
反らせた手指先、踏み出した右足のはね上げた親指など細部に至るまで緊張感のある造形で、風に翻える天衣や裳裾とともにみごとな動きを表現している。
彫り口は鋭く鮮やかで、典型的な翻波式(ほんばしき)衣文が見られる。
平安時代初期木彫の一頂点を示す作例である。
台座も当初作。
面貌表現の観心寺如意輪(にょいりん)観音像との共通性から、9世紀前半、その半ば近くの製作と思われる。
光明皇后の作とも光明皇后の姿を写したものとも伝えられる。
(254-256ページ)
(jiten110.jpg)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『奈良古社寺辞典』
編者: 吉川弘文館編集部
2010年4月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 吉川弘文館
先日、デンマンさんは『京都古社寺辞典』を読んだと思っていたら、今度は『奈良古社寺辞典』でござ~ますか?
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辞典を小説のように読んではいけませんか?
いいえ。。。 個人の自由ですから何をお読みになってもかまいませんけれど、ずいぶんと物好きですわねぇ~。。。 辞典などよりも小説の方が読み易いでしょうにィ~。。。
あのねぇ~、僕は歴史が好きだから『奈良古社寺辞典』ならば、必ずや日本史の面白いエピソードでも書いてあるのじゃないかと。。。 そう思いながら読んだのですよ。
それで上の十一面観音像に惹かれたのでござ~ますか?
そうですよ。 いけませんか?
仏像のどこがそれ程魅力的なのでござ~ますか?
あのねぇ~、「光明皇后の作とも光明皇后の姿を写したものとも伝えられる」と書いてあるでしょう!?
ええ。。。 確かにそのように書いてござ~ますわ。
かつて、僕は興福寺の阿修羅像を見た時に、まるで“神のお告げ”を耳にしたように、「ああァ~。。。 この阿修羅像は、きっと仏師が称徳天皇の少女時代の姿(阿部内親王)をモデルにして造ったに違いない!」と感動に体がブルブル震えてきたことがあたのですよ。
マジで。。。?
このような時に嘘やデマカセを僕は言いませんよう。 信じてください。 「信じる者は救われる」とも言いますから。。。 (微笑)
つまり、上の小文を読んだら、十一面観音像は「光明皇后の作とも光明皇后の姿を写したものとも伝えられる」と書いてあったので、本を読みながらデンマンさんは感動で体がブルブル震えてきたのでござ~ますか?
そうですよう。 しかも、先日、僕は次のように書いていたのです。
和気清麻呂の心の底には常に後ろめたさがあったのですよ。 あらぬ罪状をかぶせられて下野(しもつけ)の薬師寺に左遷された道鏡さんが亡くなると怨霊に祟(たた)られるのではないかと清麻呂さんは恐れた。
それで、当時の薬師信仰が呪詛厭魅、怨霊の調伏に関係することから道鏡の怨霊への対抗として和気清麻呂さんは薬師如来像を造って道鏡さんの怨霊を鎮(しず)めようとしたのでござ~ますか?
その通りですよ。 和気清麻呂さんが造らせた薬師如来像をもう一度じっくりと見てください。
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どう見たって、この姿は女性ですよ。
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胸・腹や大腿部を強く盛り上げた量感のある体軀、
鋭く深く彫った複雑な衣文など、
平安時代初期の木彫の中でもことに迫力がある。
だから本にも、このように書いてある。。。 僕は思うのだけれど、亡くなった称徳天皇(孝謙天皇)を極秘でモデルにして和気清麻呂は薬師如来像を造らせたと思うのですよ。
どうして。。。?
そうすれば、亡くなった道鏡さんも下野(しもつけ)の薬師寺の土の下で喜ぶだろうと思ったのでしょうね。 そうすれば和気清麻呂を呪(のそ)い殺すようなことはないだろうと。。。
『エロい道鏡と薬師如来』より
(2013年7月13日)
つまり、上の十一面観音像は、どなたかの怨霊の鎮魂のために、天平の麗しい淑女である光明皇后の姿を写して造らせたとデンマンさんは主張するのでござ~ますか?
その通りですよ。
。。。んで、いったいどなたの怨霊を鎮魂するためだったのでござ~ますか?
かつて僕が書いた次の小文を読んでください。
阿部内親王は、なぜ女帝になったのか?
天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。
阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。
つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。
一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。
天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。
聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。
それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。
持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。
藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。
美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。
藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。
『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。
藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。
橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。
感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。
僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。
■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い
このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?
長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。
本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。
上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。
『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)
天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。
阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。
私の母上の大皇后(光明皇后)が私にお告げになった。
「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。
それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」
このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである
SOURCE: 『続日本紀』
「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。
それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」
このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである
SOURCE: 『続日本紀』
つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。
一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。
天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。
聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。
それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。
持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。
藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。
美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。
藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。
『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。
藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。
橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。
感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。
僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。
■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い
このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?
長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。
本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。
上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。
『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)
つまり、基親王を亡くしてから子供が生まれない光明皇后は、“長屋王の崇り”だと感じて心を痛め、それで長屋王の怨霊の鎮魂のために自分の姿に似せて十一面観音像を造らせたと言うのですか?
その通りですよ。
分かりましたわ。。。 んで、阿部内親王や光明皇后のような「天平の麗しき淑女」のお仲間に入らないのに、デンマンさんがあたくしの写真を貼り付けたという深い訳は、いったい何なのでござ~ますか?
やだなあああァ~。。。 これまでの説明を聞いていて卑弥子さんにはまだ解らないのですか?
だってぇ~、上の小文の中に、あたくしのことはどこにも出てきませんでしたわ。
出てきましたよう! 卑弥子さんの御先祖が出てきたじゃありませんか!
あたくしの御先祖様でござ~ますか?
そうですよう! 橘卑弥子・准教授の遠い御先祖様ですよう! 美努王と離婚して、深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ藤原時代を導いた、したたかで男勝(まさ)りな橘三千代ですよ!
つまり、あたくしの御先祖様の代わりに、あたくしの写真を貼り出したのでござ~ますか?
そうですよう。。。 橘三千代は、まず間違いなく卑弥子さんのような容貌をしていたに違いないと僕には思えるのですよう。
【小百合の独り言】
ですってぇ~。。。
あなたは納得できますか?
さて、次の写真を見てください。
この女性は西暦734年当時16才でした。
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?
上の引用文の中にも出てきましたが、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
この阿修羅像を造ろうと言い出したのは光明皇后(光明子)なんですってぇ。。。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。
2度女帝になった人です。
もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。
この仏像の造られた背景を調べた結果、阿部内親王以外には居ないだろうとデンマンさんは思ったそうです。
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ですってぇ~。。。
あなたは納得できますか?
さて、次の写真を見てください。
この女性は西暦734年当時16才でした。
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?
上の引用文の中にも出てきましたが、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
この阿修羅像を造ろうと言い出したのは光明皇后(光明子)なんですってぇ。。。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。
2度女帝になった人です。
もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。
この仏像の造られた背景を調べた結果、阿部内親王以外には居ないだろうとデンマンさんは思ったそうです。
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