2011年10月1日土曜日

万葉集の謎と山上憶良

 


万葉集の謎と山上憶良





山上憶良の「貧窮問答歌」

風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 
寒くしあれば 堅塩を 
取りつづしろひ 糟湯酒 
うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 
ひげかきなでて 吾をおきて 人は在らじと 誇ろへど 
寒くしあれば 麻ぶすま 引き被り 
布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 着そへども 
寒き夜すらを 吾よりも 
貧しき人の 父母は 餓え寒からむ 
妻子(めご)どもは 乞ひて泣くらむ この時は 
いかにしつつか 汝が世は渡る

天地(あめつち)は 広しといへど 
吾がためは 狭くやなりぬる 
日月(にちげつ)は 明しといへど 吾がためは 
照りや給はぬ 人皆か 
吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 
人並みに 吾も作れるを 
綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと 
わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの 
曲いほの内に 直土に 藁解き敷きて 
父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 
憂へさまよひ かまどには 火気ふき立てず 
こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊く事も忘れて 
鵺鳥の のどよひをるに 
いとのきて 短きものを 端きるといへるがごとく 楚取る 
里長が声は 寝屋處(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 
かくばかり 術無きものか 世の中の道

(反歌) 
世の中を憂しとやさしと思へども 
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば


風交じりで雨が降っていると思えば、雨がだんだん雪になってしまったなあぁ~
寒くてどうにもならんよ。塩でもなめながら、糟湯酒をすすることにするかな。
ああもう、くしゃみは出るわ鼻水は出るわ。
それでも、ヒゲをなぜながら、「この世にはワシはワシ一人しかおらん!」と誇らしく思うけれど
寒さに変わりはありゃせんわ。頭から麻布団かぶって、
ありったけの着物かきあつめて着ても、
それでも寒いなぁ~ ワシより貧しい人の、とおちゃんやかあちゃんは、腹空かして寒がっているだろうなあ。
女房子供は、ハラ減って泣いているだろうなぁ~
そういう時、あなたなら、どうします?この厳しい世間で生活するって、大変ですよね。

世間は広いと言うけれど、
ワシには狭いんだよねぇ~。どこにも逃げ場がないんだよ。
お天道さんもお月さんも明るいと言うけれど、ワシは、
いっこうに陽の目を見てないよ。
皆、一緒かなぁ。ワシだけかなぁ~。 人並みに生まれてきたはずなのに。
綿も入ってない着物、ワカメみたいに
びらびらになってるのを、カッコだけ肩にひっかけて、着てはみるのだけれど。
ボロ屋の土の上に直(じか)に藁(わら)をばらまいて、
オヤジとお袋は枕の方に、女房子供は足の方で、ワシを囲んで
泣き暮らすみたいに寝ているのですよ。かまどに火の気もないし、
お釜には蜘蛛の巣張って、それというのも、米炊くのも忘れるほど何もないんですよ。
鵺という鳥が、獲物をさらう時には、
弱いヤツを選んでさっとはさんでくっちゅうけれど、
ワシらもおなじ弱い者や。おおおお~、またかぁ~、里長が怒鳴りこんで来たよ。
まだ税金を取り立てるつもりなのか?ひどすぎる!厳しい世の中だなあ~。

(反歌) 
世渡りはいつの時代でも大変なんだよね。
でも、鳥ではないんだから、飛び立って蒸発するわけにもゆかないし、
現実逃避は、やっぱ、ダメだよねぇ~。


僕がかなり意訳して現代文で書いています。
誤っている箇所があれば指摘してもらえると助かります。

次に引用するエッセーは章子さん(仮名)がジオシティーで書いたものの一部です。
実は、僕はこの女性のことをほとんど知らないのです。
文章を読んで僕なりに想像したところでは、高校の歴史の先生のようです。

持統天皇の“天香具山”の歌については僕はすでに詳しく書きました。
関心のある人は次のリンクをクリックして読んでみてください。
『いにしえの愛を訪ねて --- 万葉集の謎と持統天皇』

この記事では山上憶良について書こうと思っています。
それで、冒頭に有名な「貧窮問答歌」を載せたというわけです。

では、まず、章子さんのエッセーを読んでください。






春すぎて 夏来にけらし 白妙の

 衣ほすてふ 天香具山


これは万葉集の中に載せられている持統天皇の歌です。

天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。
付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。
それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは私には感動的でさえある。

この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。

このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。

山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。

この時代一般の農民が、豊かなことなど普通は考えられないことであって、
それを言い出せば、貴族以外のすべての人間たちの生活の悲惨さを言わねばならなくなる。

問題の本質はそういうところにはないのであって、
貴族社会の中に生きる人々の中にも、
自分たちが支配する農民たちの生活の貧しさに
心を砕くものが居たということの方が、
重要なのではないかと思う。

その貧しさを一人の貴族がいたわりの目で見ているということが大事なのだと思う。
そしてそれは単に山上憶良だけに限られるものではなく、
上にあげた持統天皇の歌にも見られるように、
多くの貴族たちの共通した農民観だったのではないかと思うのである。

本当はそこから古代の政治家たちの農民観ひいては政治観を導き出すことが重要なのではあるまいか。
それがうまく行われずに、ただ農民の悲惨さだけを訴える史料として使われているところが何とも残念なことである。

【山上憶良の『貧窮問答歌』】より
(注: 読みやすいように写真や改行を加え、大幅にデザインを変えてあります。)


持統天皇の詩を人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈をしていると思います。
章子さんが上の文章を書いたページの一番下に“教育崩壊”というロゴが表示されています。

教育の現場で生徒に教えながら、最近の教育が崩壊しているのではないか?
そういう問題意識を持ってこの文章を書いていることが実に良く分かります。

しかし、僕が『いにしえの愛を訪ねて --- 万葉集の謎と持統天皇』の中で書いたように
章子さんは持統天皇の表面的なことしか見てないような気がするのです。
もし、持統天皇の生い立ちや、持統天皇が大津皇子を死に追いやった事などを考え合わせると、上の“天香具山”の歌は次のようには見て取れないのです。


付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。

それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは

私には感動的でさえある。

この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。


少なくとも、持統天皇の波乱に富んだ人生をじっくりと見れば、香具山のふもとで農民たちが白妙を干しているのを、ぼんやりと眺めながら歌を詠むような人ではないんですよ。
それが僕の解釈です。
つまり、上の持統天皇の歌は、読み方によって幾通りにも解釈できるわけです。
読み手がどれだけ持統天皇の性格や、人生や、行動を理解しているかによって、当然解釈が違ってきます。

章子さんには、初めに人道的な観点、また人間性ということを重要視したスタンスがある。
それに基づいて持統天皇の歌を解釈している。
僕にはそのように見えるんですよ。

では、一体どのような見方をする必要があるのか?

その当時に戻って、この場合だったら持統天皇が生きていた奈良時代に遡(さかのぼ)って、
その当時の生活を生きるような姿勢で見る必要があると思うのですね。
そのような事は実際にはできないのだけれど、そのような姿勢が大切なのではないか?
僕はそう言いたい訳です。

なぜなら、“皇国史観”の歴史的な見方が、現在の“日本史”教科書にも残っています。
だから、天皇の“悪口”は、ほとんど書いてないんですよね。
天皇だって、人間なんですからね、我々と同じように50の長所と50の欠点を持っています。
でも、太平洋戦争中には、天皇の“悪口(欠点)”は書けなかった。
だから、持統天皇の“悪口”も書けなかった。

現在でも皇室をはばかって、大正天皇が精神病を患っていて、かなり奇行のある人だった、という事は歴史の教科書に書いてないでしょう。
大正天皇は後年、精神状態が悪化して政務を行う事が困難になり、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政として政務を行っていた。
近親結婚が重なると、優生学上、好ましくない遺伝子が現れてしまうので良くない。
民間から正田美智子さん(現在の皇后)が皇室に入ったということも、このようは背景があった。

つまり、歴史を振り返ってみるときには、“表”だけを見ても仕方がないんですよね。
“奇麗事(きれいごと)”だけしか書かれていない場合が多いからです。また、故意に悪口を書いたりする。
例えば、大和朝廷は“蝦夷(えぞ)征伐”をする都合があったので、蝦夷(えぞ:えみし)のことを『日本書紀』に悪い人間だと書いた。
“蝦夷征伐”を正当化するためです。

つまり、上の章子さんの文章は人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈だと僕は思います。
しかし、持統天皇の“表”ばかり見て“裏”を観ていません。
歴史を読むとき、“読み人”は歴史の裏も表も読まなければならないと僕は信じています。
それが歴史を読む人のスタンスであるべきです。

山上憶良の「貧窮問答歌」に対しても章子さんは一面的な見方しかしていないような気がします。
章子さんは次のように書いています。


農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。

このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。

山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。


つまり、章子さんは自分独自のスタンスで眺めている。
もちろん、誰もが独自のスタンスを持っています。
しかし、歴史を眺める時には、一旦、自分独自のスタンスを離れて、歴史の中に飛び込んでゆく必要があると僕は信じています。
タイムマシーンがあるわけではないので、それは不可能な事だけれども、
少なくとも、タイムマシーンに乗って時代を遡(さかのぼ)って自分でその当時を生きてみる努力が必要なのではないか?
僕は、その態度と姿勢のことを言っているわけです。

具体的には、防人の事ですよ。
章子さんはこの防人の実態について良く理解していません。
だから、大きな誤りを犯しています。
大伴家持は防人たちの苦しい実情を自分が防人たちを監督掌握している役人の立場に居たので良く知っているのですよ。

防人の苦しい実態とは。。。?
それは次のようなものでした。

東国人は天智天皇によって

防人として狩り出された




天智天皇は百済を助けるために古代韓国で戦争に加担した。
それで、663年に白村江の戦いで敗れた!
天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手だった。
先ず人望を失います。

これとは反対に、多くの人が、大海人皇子(後の天武天皇)になびいてゆきます。
ちょうど、太平洋戦争に負けた日本のような状態だったでしょう。
当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという重大ニュースです。

おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。

国を滅ぼされてしまった百済人が難民となって続々と日本へやってきます。
天智帝が援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。

そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。


664年

「甲子の宣(かっしのせん)」を出して豪族の再編成をすすめる。
対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり-東日本出身の兵隊)や
通信手段としての「烽(とぶひ)」を置く。
戦前に造った山城を強固にする。
博多湾岸にある那津官家(なのつのみやけ-筑紫大宰)を
南の内陸部(現太宰府市)に移転する。
百済からの亡命者の指導によって,大宰府を守るための水城を築く。

665年

新たに,大宰府の役人たちが逃げ込むための城として大野城や基肄(きい)城、
長門城などの朝鮮式山城を築く。
11月さらに大和に高安城、讃岐に屋島城,対馬に金田城を築く。

667年

飛鳥から大津に都を遷都する。

668年

中大兄皇子、正式に天智天皇として即位する。
大津遷都には多くの豪族が不満を持つ。
常に急進的な政治を行う中大兄皇子の一大決心だったが、
大和の豪族たちは大反対運動を起こす。




しかし、天智天皇は重大な間違いを犯してしまった。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
(現在で言うなら、テポドンに備えるようなものですよ!
その防衛網を実際に構築したんですよ!
その実行力は確かにすごい!)

そのために、一体何十万人の人々が動員されたことか?
しかし、天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。

「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」

大多数の人は理解に苦しんだことでしょう。

魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人(アイヌ人の祖先)というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。
これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です!
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです。
このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族、古代アイヌ人から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」

しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
東国には、当時アイヌ人の祖先がたくさん暮らしていた。
つまり、大和人に同化したアイヌ人もたくさん居た。
この人たちは、文字通り、万物に神が宿ると信じて、平和に感謝して生きる人たちだった。

この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
そのような素朴な人たちまでもが警備兵として狩り出される。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。
つまり自費で帰国しなければなりません。

したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけがありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」

それで、バチが当たって(?)天智天皇は暗殺されたわけです。
これまでの天智天皇の政策と防人の実態についての説明は次の記事から引用したものです。
『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人』より

大伴家持は役人としてこの防人たちを監督していた事があるんですよ。
もちろん、天智天皇が防人を狩り集めていた頃から100年がたっていましたが、当時の事情も十分に知っています。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。


大伴 家持 (おおとも やかもち)

養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。



橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろうこの山上憶良なのです。


山上憶良(やまのうえのおくら)

斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。



702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。
『平安時代は決して平安ではなかった』

章子さんは、上のエッセーの続きで次のように書いています。


ヨーロッパ社会に、例えばギリシアやローマの時代、
もっと下ってヨーロッパ中世の時代や、古代オリエント社会に、
このような農民たちの生活の悲惨さに心を砕いた支配者が居たのかどうか、
私は寡聞にしてそういう話を聞いたことがない。

中世社会の徳政令にしても、
私は古代から受け継がれた農民観の延長線上で
考えるべきではないかと思うのである。
本来、「仁政」を意味するものが「徳政」令なのであるが、
それが現在では曲解されて、徳政といえば悪政の代名詞になっている。

江戸時代の「慶安の御触書」(現在は御という文字はつけないことになっていて、
それはそれで問題点をはらむのだが)にしても、
農民への指導書と受け取れば、もっと素直に読めるはずなのだ。

江戸時代には「撫民」という思想があり、
貧しい農民たちに芋がゆなどの施しをするのは、
為政者としてのあるべき姿だと考えられていた。
そのような観点に立って「慶安の御触書」を素直に読めば、

「年貢さへすまし候へば、百姓ほど心易きものはこれなく、
よくよくこの趣を心がけ、子々孫々まで申し伝え、
よくよく身持をかせぎ申すべきものなり。」

という言葉も、年貢さえ支払っていれば、
あとは干渉しないということを述べているのであって、
これは税金さえ払えば、農民の私的所有権を認めるということなのである。
こういう社会は決して奴隷制社会ではない。
そして私的財産を貯めていくためのいろいろな心がけを教えている。
これを幕府の「愚民観」の表れだと捉えるのは、行きすぎではないかと思う。

私は、もし武士階級が百姓に対して、
よくいわれるような愚民観を持っていたとすれば、
明治になって、武士の子も百姓の子も机を並べて
同じ小学校で勉強することなど不可能だったと思う。
しかしそこに混乱があったという話は聞かない。
武士階級も農民の子供たちと一緒に
勉強することをすんなり受け入れていったのである。
そのことをどう説明すべきなのか。
そこが従来の日本史を流れる「愚民観」では説明がつかないのである。

そしてそのことは親が子供を愛でる気持ちの豊かさとつながっている。

山上憶良にはもう一つの有名な歌がある。
「しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」

このような親の子に対する情愛の深さは、
決して自分の子供に対してだけ生まれるものではなく、
社会生活全般の情愛の深さの中で育まれていくのである。

【山上憶良の『貧窮問答歌』】より


僕はこの20年間、ヨーロッパ史、古代オリエント史、古代ギリシャ史、古代ローマ史、古代日本史、古代中国史、古代インド史、。。。を自習してきました。
つまり、僕は20年近く“歴史馬鹿”であり続け、歴史の本や映画を暇があれば片っ端から観たり読んだりしてきました。
しかし、ヨーロッパ社会に、例えばギリシアやローマの時代、もっと下ってヨーロッパ中世の時代に農民たちの生活の悲惨さに心を砕いた支配者はめったに居ませんでしたね。

江戸時代だって、農民に対する政策の基本は“生かさず殺さず”だったですよ。
つまり、為政者の中で本当に庶民のことを考えている人は極めてまれだったんですよ。
奈良時代に山上憶良のような“社会派歌人”は極めてまれだったんです。

だからこそ、大伴家持が政治批判のために『貧窮問答歌』を載せた。
でも、これは完全に藤原政権から無視された。
だから、庶民は平安時代に地獄のような生活を余儀なくされた。

そして、現在の日本の政治家を見てくださいよ。
大伴家持や山上憶良のような“社会派”の役人も政治かも極めてまれですよ!
でしょう?

何度も言うように、政治家が年金をごまかす!
日本国民の福祉と幸せを願って国政を預かる人たちが年金をごまかす。
一体、どういう神経を持っているのか?
どういうオツムを持っているのか?
これでは、平安時代の藤原氏と全く変わりがありません。
自分のことしか考えてない!

年金をごまかした国会議員のほとんどすべてが、
今でもあなたの税金を使いながら、国会議事堂の中を歩いていますよ。
うへへへへ。。。。

“デンマンさん、日本へもどってきて政治家になってください”、と言ってくれた人が居ますが、
年金をごまかすような日本のダメな政治家と国会で政治をやるなんて馬鹿らしくてできませんよ。
あの大橋巨泉さんが嫌気がさしてしまうぐらいの政治の内容なんですからね。。。。
馬鹿馬鹿しくてやってられないんでしょうね。その気持ちが分かりますよ。

だから僕は、国を越えたレベルで、
世界のネット市民の一人として正しいと思うことを一人でも多くの人に読んでもらう。
それが僕のできる事だし、それが僕にとって“草の根政治”だと信じていますよ。

日本に年金をごまかす政治家が居る限り、馬鹿馬鹿しくて政治家なんかになれませんよ。
時間の無駄です。
意味のない事をやる事は犬死ですからね。
年金をごまかす政治家と肩を並べて政治をやるのは、僕にとって犬死に等しいですよ。
それよりも、自分の信じる事をこうしてブログで記事にして書いた方が
よっぽど世界のネットの発展のためになると信じているんですよ。
うへへへへ。。。。

だから、世界のネット市民の一人としてバンクーバーでこうしてブログを書いています。
Grassroots Net Politicsを実践しているつもりなんですよ。。。うへへへへ。。。。。

"grassroots net politics" を入れてGoogleで検索してみたら、
一つも引っかかりませんでした。
注: この言葉を記事の中で僕が何度も書いたので、
    現在では僕が書いたものばかりがたくさん引っかかります。
    試してみてください。 
    ダブルクオートで囲むことをお忘れなく。


いづれにしても、このような活動をしている人が全世界に居ますよ。
僕もそのうちの一人です。

So, let's carry out grassroots net politics, shall we?

では。。。




初出: 2006年7月1日 



ィ~ハァ~♪~!

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では、今日も一日楽しく愉快に

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