義理チョコと十三夜
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デンマンさん。。。 義理チョコと十三夜なんて全く関係ないように見えますけれど、どういうわけで上のようなタイトルにしたのですか?
あのねぇ~、夕べ、バンクーバー図書館から借りてきた『日本の空を見つめて』という本を読んだのですよ。
(lib30106.gif)
赤枠で囲んである本ですか?
そうです。 その本に次のように書いてあったのですよ。
十三夜
今日10月11日は旧暦9月13日、十三夜のお月見である。
旧暦8月15日夜の「中秋の名月」に対して、十三夜は「後の月」と呼ばれてきた。
諺辞典に「十三夜に曇りなし」とある。
(中略)
(ichiyo02.jpg)
五千円札の樋口一葉(1872-96)の短編小説『十三夜』は「不幸な結婚に悩むお関を主人公とし、封建的な環境での女の悲劇を精緻な筆で描」いた(『広辞苑』)といわれている。
本稿を書くに当たり、何回目かの読み直しをしてみた。
お関は望まれて高級官吏に嫁ぐが、身勝手な夫は子供が生まれると態度を変え、実家の貧乏や無教育を言い立てて、離縁を迫るかのようにふるまう。
7年目の十三夜に実家に帰ったお関は両親に離縁の許しを請う。
玉の輿(こし)に乗った娘の幸せを喜び、家柄の違いを思って交際も遠慮していた実家では、母は離縁に賛成するが、父は婚家に戻り子を育てよと説得する。
辛うじて納得して戻る人力車を引いているのは、零落した昔の恋人だった…… この作品発表の翌年、一葉は肺結核で24歳の青春を閉じた。
薄幸な娘に「憂き世の辛抱」を説く父の切なくも説得力のある言葉を、23歳の女性がよくも書けたものだと、改めて驚嘆する。
名作は何回読んでも新しい。
(赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
127-128ページ 『日本の空をみつめて』
著者: 倉嶋 厚
2009年11月13日 第3刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
今日10月11日は旧暦9月13日、十三夜のお月見である。
旧暦8月15日夜の「中秋の名月」に対して、十三夜は「後の月」と呼ばれてきた。
諺辞典に「十三夜に曇りなし」とある。
(中略)
(ichiyo02.jpg)
五千円札の樋口一葉(1872-96)の短編小説『十三夜』は「不幸な結婚に悩むお関を主人公とし、封建的な環境での女の悲劇を精緻な筆で描」いた(『広辞苑』)といわれている。
本稿を書くに当たり、何回目かの読み直しをしてみた。
お関は望まれて高級官吏に嫁ぐが、身勝手な夫は子供が生まれると態度を変え、実家の貧乏や無教育を言い立てて、離縁を迫るかのようにふるまう。
7年目の十三夜に実家に帰ったお関は両親に離縁の許しを請う。
玉の輿(こし)に乗った娘の幸せを喜び、家柄の違いを思って交際も遠慮していた実家では、母は離縁に賛成するが、父は婚家に戻り子を育てよと説得する。
辛うじて納得して戻る人力車を引いているのは、零落した昔の恋人だった…… この作品発表の翌年、一葉は肺結核で24歳の青春を閉じた。
薄幸な娘に「憂き世の辛抱」を説く父の切なくも説得力のある言葉を、23歳の女性がよくも書けたものだと、改めて驚嘆する。
名作は何回読んでも新しい。
(赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
127-128ページ 『日本の空をみつめて』
著者: 倉嶋 厚
2009年11月13日 第3刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
十三夜のお月見から樋口一葉作品の『十三夜』について書いたものですわね。
そうです。
この部分にデンマンさんは感銘を受けたのですか?
いや。。。感銘を受けたというよりも「辛うじて納得して戻る人力車を引いているのは、零落した昔の恋人だった」を読んだ時に、そのシーンを鮮明に思い出したのですよ。
デンマンさんは映画で『十三夜』を観たのですか?
いや。。。違うのです。 もう20年以上も昔になりますよ。 まだ僕が日本で暮らしている頃のことです。 確か、NHKのドラマかなんかで『十三夜』をやっていたのです。
「十三夜」(朗読:馬場精子)
樋口一葉旧居跡
樋口一葉の世界
残念ながらタイトルは覚えていないのですよ。 「十三夜」ではなかったような気がするのです。 でも、あらすじは間違いなく『十三夜』なんですよ。 お関に扮していた女優が誰だったのか? 栗原小巻さんだったか? 佐久間良子さんだったのか? そんな雰囲気の女優さんだった。 人力車を引いていた役者の名前は忘れてしまったけれど、顔ははっきりと覚えてますよ。
でも、どうしてそれほどまでに印象的にそのシーンを覚えていたのですか?
あのねぇ~、実は、僕にも悲恋の体験がある。 ちょうど、「零落した昔の恋人」の車引きの男に僕は自分を重ねて共感するものがあったのですよ。 それで、しみじみと涙を浮かべて観たことがあったのです。 僕が大学を出て社会人になり始めの頃ですよ。
マジで。。。?
小百合さんは僕が冗談を言っていると思うのですか?
だってぇ~、零落してデンマンさんはマジで車引きになったのですか?
やだなあああァ~、時代が違いますよ。 もちろん、僕は人力車の車引きになったわけではありませんよ。 でもねぇ~、昔の恋人であるお関を人力車に乗せて引っ張っている男の気持ちが僕には手に取るように解って泣けてきたのですよ。
デンマンさんが車引きの男に感情移入して泣いたなんて、ちょっと信じられませんわ。
実は、僕は意外と涙もろいところがあるのですよ。 小百合さんの前では涙を見せたことはありませんけどねぇ~。。。
そうなのですか? マジで意外ですわ。。。で、「義理チョコ」と「十三夜」が関係あるのですか?
あのねぇ~、昔の悲恋を思い出しながら涙ながらに本を読み進めてゆくと次の箇所に出くわしたのですよ。
義理チョコ
人為的な商業季節の盛衰も見られる。
たとえば「バレンタイン・チョコ」の始まりは昭和33年に東京新宿の伊勢丹デパートで売り出した50円のハートチョコだが、売れたのは3枚だけ。
しかし昭和48年にはチョコレート騒ぎが加熱して話題になった。
もっとも「家計調査年報」では、この年の1年間のチョコレートへの支出金額に対する2月の支出の割合は11%で、特に目立って多くなってはいない。
この数字は昭和54年に13%、昭和60年に20%、平成4年に32%と増えている。
私が初めて「義理チョコ」をもらったのは、札幌気象台の予報課長をしていた昭和54年2月14日、部下の女子職員からだった。
ただし平成12年にはこの数字は23%に減少しており、「義理チョコ」への反省が表れている。
(赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
145ページ 『日本の空をみつめて』
著者: 倉嶋 厚
2009年11月13日 第3刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
人為的な商業季節の盛衰も見られる。
たとえば「バレンタイン・チョコ」の始まりは昭和33年に東京新宿の伊勢丹デパートで売り出した50円のハートチョコだが、売れたのは3枚だけ。
しかし昭和48年にはチョコレート騒ぎが加熱して話題になった。
もっとも「家計調査年報」では、この年の1年間のチョコレートへの支出金額に対する2月の支出の割合は11%で、特に目立って多くなってはいない。
この数字は昭和54年に13%、昭和60年に20%、平成4年に32%と増えている。
私が初めて「義理チョコ」をもらったのは、札幌気象台の予報課長をしていた昭和54年2月14日、部下の女子職員からだった。
ただし平成12年にはこの数字は23%に減少しており、「義理チョコ」への反省が表れている。
(赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
145ページ 『日本の空をみつめて』
著者: 倉嶋 厚
2009年11月13日 第3刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
上の「義理チョコ」の話を読んでデンマンさんは、さらに悲痛な思い出に涙を流したのですか?
いや、違うのですよ。 『十三夜』のシーンを思い出してかなり落ち込んでいたのだけれど、この「義理チョコ」の話を読んで、僕の気持ちは舞い上がったのですよ。
あらっ。。。 どうして急にデンマンさんの気持ちが舞い上がったのですか?
やだなあああァ~。。。 小百合さんは忘れてしまったのですか?
何を。。。?
やっぱり忘れているのですね。 じゃあ、次の小百合さんからの手紙を貼り出しますから思い出してくださいよ。
前略
バレンタインデーに
間に合うように
送ります。
でも、もしかすると
間に合わないかも…
デンマンさんと一緒に食べた
長崎ちゃんぽん。
「柚子こしょう」も入れました。
行田の「とんでん」で
茶そばが旨いと言っていた
デンマンさん。
面倒でも5分で茹で上がるので
食べてみてね。
それに今回も
「麺職人」を入れましたよ。
それから、心躍る甘酸っぱさの
フルーティMINTIA!
(mintia10.jpg)
最近、私はカバンに入れて
持ち歩いてます。
デンマンさんの
迷惑そうな顔が
思い浮かびます。
でも、1年に一度ぐらいは
女の子の気持ちになって
ルンルン気分で
スキップしながら
舐めてみてください。
うふふふふ。。。
うららかな春のバンクーバーの
街を歩きながら。。。
また、フードストアに向かう
買いものついでに。。。
それから、思いつくままに
チョコレート、即席うどん
山菜そばを入れました。
日本の味を懐かしみながら
食べてみてくださいね。
では。。。
早々
小百合より
2011年2月3日
『愛とロマンの小包』から
(2011年2月20日)
あらっ。。。 またこの手紙ですか!? もう一昨年になるのですわね。
そうですよ。 月日の経つのは早いものです。 小百合さんからのメールを読んでねぇ、ルンルン気分になったのでよ。 手紙と共にバレンタイン・チョコも入っていたのですから。。。
デンマンさん。。。 このようなメールは受け取った本人だけが密かに読んで胸に秘めておくものですわ。 こうしてデンマンさんはネットで公開しちゃいますけれど、読まされる人は白けるだけですわ。
いや。。。 「義理チョコ」じゃなく、心のこもったバレンタイン・チョコを送る人もいるのだということを。。。
あらっ。。。 私は「義理チョコ」を送ったつもりですけれど。。。
やだなあああァ~。。。 この期(ご)に及んで、そのようなつれない事を言わないでくださいよ。 せっかく僕は舞い上がったのですから。。。 ついでだから次のメールも読んでみて下さい。
Subj:小百合さん、おはよう!
帰省中の楽しい思い出をありがとう!
きゃはははは。。。
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date:Wed, Oct 27, 2010 2:53 pm
日本時間:10月28日(木)午前6時53分
1ヶ月の帰省だったけれど経ってみれば本当に、あっと言う間に過ぎてしまったという感じがします。
でも、小百合さんとの楽しい思い出がたくさんできました。ありがとう。
Irish cream-flavored coffee beans を栃木の田舎から、わざわざ持ってきて大長寺の大仏様の前の白いテーブルで小百合さんが入れてくれたコーヒーの味は格別でした。
10月25日はインターネット・コミック・カフェ「自遊空間」で待ち合わせ、近くの「印度市場」で食べた本場のカレー。
それから、さきたま古墳公園へ行ったよね。
休息パビリオンのテーブルで小百合さんがコーヒーを入れてくれた時には生八ツ橋まで持ってきてくれた。
僕は思わず菊ちゃんの事を思い出しましたよ。
小百合さんが菊ちゃんのエピソードを感情移入しながら読んでいたのだと、改めて感慨深く振り返ってみたのでした。
急に思いついたと言って買ってきてくれた「柚子こしょう」
なぜ「柚子こしょう」なのか?
思い出しましたよ。
県道ルート66の「長崎ちゃんぽん」の店で小百合さんと一緒に食べた時に「生姜こしょうドレッシング」と「柚子こしょうドレッシング」があったんだよね。
「柚子こしょうドレッシング」を「長崎ちゃんぽん」にかけて食べたら実に旨かった。
僕がそう言ったのを小百合さんは覚えていたに違いない!
これからはラーメンにも「柚子こしょう」を入れてみます。
そのたびに小百合さんと一緒に食べた「長崎ちゃんぽん」を思い出しそうですよ。
今朝は6時半に目覚めました。
気温は13度。晴れ。
急に寒くなったけれど、バンクーバーに戻るにはお誂(あつら)えの晴天。
成田を午後5時55分に出てバンクーバーに着いたのが日付変更線の関係で同じ日の午前10時。
飛行時間は9時間の予定だったけれど、ジェット気流がいつもより強く吹いたので1時間早くバンクーバーに到着したとパイロットが機内放送で言ってたよ。
バンクーバーも快晴で飛行機がタッチダウンした時は11度だったけれど、現在(午後2時半)は13度。
バンクーバーはめっきり秋らしくなりました。
でも、まだきれいな紅葉は見られません。
とにかく、帰省中の楽しい思い出をありがとう!
ところで、軽井沢タリアセン夫人は軽井沢でスキーですか?
まだ早いかな?
札幌では初雪が降ったと言うから、そのうち軽井沢でも降るでしょう。
風邪を引かないようにルンルン気分で楽しんでね。
じゃあ、また。。。
『ボクシングデー』より
(2010年10月31日)
デンマンさん。。。 しつこいと思いますわ。 読まされる人はさらに白けますわよ。
あのねぇ~、小百合さん。。。 十三夜の晩、秦任官・原田勇の妻であるお関は、実家に帰って、子供が生れてからの夫の精神的虐待ぶりを訴え、七年間我慢を重ねたあげく、離婚の決意を涙ながらに語るのです。 しかし、お父さんは静かにお関をさとし、「同じ泣くのなら原田の妻、太郎の母として泣け」と説得するのですよ。 母性という弱点を指摘されたお関はお父さんの言葉に従い、死んだ気で生きようと決意するのです。
それで。。。?
帰り道、乗った車を引いていた男が幼馴染で初恋の人・高坂録之助だったのですよ。 運命のいたずらですよ。 お関は、彼からその転落の軌跡を聞くことになる。 録之助はお関の嫁入り後、放蕩にあけくれ、家財を失い、妻子とも別れ、虚無的な生活を送っていたのです。
それで、その高坂録之助の気持ちに感情移入してデンマンさんは涙を流したのですか?
いや。。。もちろん、それもあるかもしれません。 でもねぇ~、録之助はお関の嫁入り後、放蕩にあけくれ、家財を失い、妻子とも別れ、虚無的な生活を送っていたと言うのですよ。 もし、お関の嫁入り後に録之助が決心してハワイに移住していたら、人生は変わっていたと思うのですよ。
どうして。。。?
やだなあああァ~、僕はカナダに移住して小百合さんとの出会いがあったのですよ。 そのような出会いがあったからこそ小百合さんが僕にバレンタイン・チョコを送ってくれるようになったのですよ。
うふふふふ。。。「義理チョコ」ですわ。
あのねぇ~、少しは僕の話に合わせてくださいよう。
つまり、お関が政府の高官に嫁入りしたことで録之助は落ち込み、放蕩にあけくれ、家財を失い、妻子とも別れ、虚無的な生活を送っていた。 そんな事をするくらいなら、いっそのことハワイに移住すればよかったとデンマンさんは言うのですか?
別にハワイに移住しなくてもいいですよ。 でもねぇ、お関が政府の高官に嫁入りしたからといって、いつまでもウジウジ自分の殻に閉じこもって落ち込んで虚無的な生活を送ってないで、自分の殻から飛び出せばいいのですよ。
でも、人間には弱いところがあってそれが出来ない人もいるのですわ。
分かってますよ。 十人十色ですからね。 だからこそ僕は録之助に同情したのですよ。 それで泣けたわけなのですよ。 それに引き換え、今の僕は世界を放浪してからカナダに20年以上落ち着いて小百合さんとの出会いもあったバレンタイン・チョコをもらうようになった。
「義理チョコ」ですわ。
小百合さん! しつこいですよ! じゃあ、「義理チョコ」でもいいですよ。 とにかく、僕は自分の殻に閉じこもってウジウジしている自分が嫌になったので海外に飛び出したのですよ。 広い世界に飛び出した。 だからこそ新しい出会いがいろいろあって、小百合さんともバーナビーで出会ったというわけです。 そしていろいろと話をしていたら、なんとォ~、小百合さんの祖先と僕の祖先が百済からやって来たということが判明した。
それはデンマンさんが勝手に決め付けていることですわ。
とにかく、次の記事を読んでもらえばネット市民の皆様にも理解できると思うのですよ。
■『韓国からようこそ!
デンマンの祖先は百済からやって来た』
つまり、海外に雄飛すべきだということですか?
違いますよ。 自分の殻に閉じこもるべきでないと言いたいのですよ。
でも、その事と「義理チョコ」とは本質的に関わりのないことですよね?
いや、本質的に関わりがありますよ。
どのようなわけで。。。?
自分の殻から出て広い世界を見るということは夢とロマンを求めるということなのですよ。 そうすれば新しい出会いも待っている。 そしてバレンタイン・チョコをもらえるようになる。
「義理チョコ」ですわ。
「義理チョコ」でもいいですよ。
あらっ。。。 「義理チョコ」でもいいのですか?
問題は本当の「バレンタインチョコ」か「義理チョコ」か? ということではないのですよ。 そのチョコからインスピレーションを受けたかどうか? 生きる張り合いが生まれたかどうか? 。。。そういうことですよ。
。。。で、デンマンさんは「義理チョコ」からインスピレーションを受けて、生きる張り合いが生まれたのですか?
生まれましたよ。
マジで。。。?
本当ですよ。 その証拠に僕は小百合さんからの心温まる手紙とバレンタイン・チョコを受け取って、インスピレーションが湧き出てきて「軽井沢タリアセン夫人」という夢とロマンに目覚めたのですよ。
ただ、それだけのことですか? 夢は儚(はかな)いものですわ。
いや。。。 決して儚いものではありません。
そうでしょうか?
その証拠に「軽井沢タリアセン夫人」はネット上で咲き乱れていますよ。
(gog30107.gif)
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
デンマンさんがいつものように勝手なことをしゃべっていますわ。
ところで樋口一葉さんは少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられていますわ。
やがて上野元黒門町の私立青海学校に通うようになります。
高等科第四級を首席で卒業するのですけれど、上級に進まずに退学しました。
これはお母さんの多喜さんが、女性に学業は不要だと考えていたからだということです。
一方、お父さんの則義さんは娘の文才を見抜き、知人の和田重雄さんのもとで和歌を習わせたました。
1886年(明治19年)、お父さんの旧幕時代の知人である遠田澄庵さんの紹介で、中島歌子さんの歌塾「萩の舎」に入門します。
ここでは和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学んでおり、源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフになっているのでござ~♪~ますう。
やっぱり、源氏物語は日本人の教養なのでござ~ますわ。
だからこそ、あたくしも京都にある女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますう。
一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引っ越しを繰り返したと言われています。
1888年(明治21年)、戸主であった長男の泉太郎さんが死去し、お父さんを後見に相続戸主となります。
1889年(明治22年)、お父さんは荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去します。
それにともなって一葉の許婚であった渋谷三郎さんとの婚約が破談になります。
お父さんの死後、樋口家には多額の借金があったのに渋谷三郎さんから高額の結納金を要求されたことが原因とされているのです。
一葉さんは不運な星の下に生まれたのですわね。
本郷菊坂(東京都文京区)に移り住むと、お母さんと妹さんと三人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられます。
ただし一葉自身は労働に対する蔑視が強く、針仕事や洗い張りはもっぱらお母さんや妹さんがこなしていたそうです。
それで一葉は同門の姉弟子である田辺花圃が小説『薮の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説を書こうと決意します。
20歳で「かれ尾花一もと」を執筆。
さらに小説家として生計を立てるため、東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事します。
桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続けます。
それで次第に、一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになってゆきます。
しかし二人の仲の醜聞が広まるのでした。
双方独身でしが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮でした。
それで一葉は桃水と縁を切るのですってぇ。
その後、検事になったかつての許婚者・阪本三郎(前述の渋谷三郎)が求婚してくるのですが一葉はきっぱりと拒否します。
さすがでござ~♪~ますわ。
あたくしならば二つ返事で結婚してしまいそうですわ。 うふふふふふ。。。
一葉は生活苦打開のため、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開きます。
しかし1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居します。
この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となります。
12月に「大つごもり」を『文学界』に、翌1895年(明治28年)には1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表し、その合間に「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを発表し、「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれます。
異常な創作活動を続けたのでござ~ますわ。
1896年(明治29年)には『文芸倶楽部』に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛を受け、森鴎外は「めさまし草」で一葉を高く評価し、『文学界』同人も多く訪れるようになります。
5月には「われから」、『日用百科全書』に「通俗書簡文」を発表。
しかし一葉は当時高い確率で死に至る病、肺結核が進行しており、8月に恢復が絶望的との診断をうけます。
そして11月23日に24歳と6ヶ月で亡くなってしまうのですう。
一葉の作家生活は14ヶ月あまりでした。
本当に惜しい人材が亡くなってしまったものでござ~ますわ。
とにかく、興味深い話題が続きますう。
どうか、あなたもまた読みに戻って来てくださいませ。
じゃあ、またねぇ。。。
ですってぇ~。。。
デンマンさんがいつものように勝手なことをしゃべっていますわ。
ところで樋口一葉さんは少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられていますわ。
やがて上野元黒門町の私立青海学校に通うようになります。
高等科第四級を首席で卒業するのですけれど、上級に進まずに退学しました。
これはお母さんの多喜さんが、女性に学業は不要だと考えていたからだということです。
一方、お父さんの則義さんは娘の文才を見抜き、知人の和田重雄さんのもとで和歌を習わせたました。
1886年(明治19年)、お父さんの旧幕時代の知人である遠田澄庵さんの紹介で、中島歌子さんの歌塾「萩の舎」に入門します。
ここでは和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学んでおり、源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフになっているのでござ~♪~ますう。
やっぱり、源氏物語は日本人の教養なのでござ~ますわ。
だからこそ、あたくしも京都にある女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますう。
一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引っ越しを繰り返したと言われています。
1888年(明治21年)、戸主であった長男の泉太郎さんが死去し、お父さんを後見に相続戸主となります。
1889年(明治22年)、お父さんは荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去します。
それにともなって一葉の許婚であった渋谷三郎さんとの婚約が破談になります。
お父さんの死後、樋口家には多額の借金があったのに渋谷三郎さんから高額の結納金を要求されたことが原因とされているのです。
一葉さんは不運な星の下に生まれたのですわね。
本郷菊坂(東京都文京区)に移り住むと、お母さんと妹さんと三人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられます。
ただし一葉自身は労働に対する蔑視が強く、針仕事や洗い張りはもっぱらお母さんや妹さんがこなしていたそうです。
それで一葉は同門の姉弟子である田辺花圃が小説『薮の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説を書こうと決意します。
20歳で「かれ尾花一もと」を執筆。
さらに小説家として生計を立てるため、東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事します。
桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続けます。
それで次第に、一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになってゆきます。
しかし二人の仲の醜聞が広まるのでした。
双方独身でしが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮でした。
それで一葉は桃水と縁を切るのですってぇ。
その後、検事になったかつての許婚者・阪本三郎(前述の渋谷三郎)が求婚してくるのですが一葉はきっぱりと拒否します。
さすがでござ~♪~ますわ。
あたくしならば二つ返事で結婚してしまいそうですわ。 うふふふふふ。。。
一葉は生活苦打開のため、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開きます。
しかし1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居します。
この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となります。
12月に「大つごもり」を『文学界』に、翌1895年(明治28年)には1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表し、その合間に「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを発表し、「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれます。
異常な創作活動を続けたのでござ~ますわ。
1896年(明治29年)には『文芸倶楽部』に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛を受け、森鴎外は「めさまし草」で一葉を高く評価し、『文学界』同人も多く訪れるようになります。
5月には「われから」、『日用百科全書』に「通俗書簡文」を発表。
しかし一葉は当時高い確率で死に至る病、肺結核が進行しており、8月に恢復が絶望的との診断をうけます。
そして11月23日に24歳と6ヶ月で亡くなってしまうのですう。
一葉の作家生活は14ヶ月あまりでした。
本当に惜しい人材が亡くなってしまったものでござ~ますわ。
とにかく、興味深い話題が続きますう。
どうか、あなたもまた読みに戻って来てくださいませ。
じゃあ、またねぇ。。。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
「小さな親切運動」というのを聞いたことがありますか?
デンマンさんが子供の頃にそういう運動があったのですってぇ~。。。
小さな親切は結構ですけれど、
あまり親切にこだわると問題ですよね。
あまり拘(こだ)るとお仕着(しき)せがましくなります。
ええっ。。。お仕着せがましいってどういうことかって。。。?
次のようなことですわ。
電車の優先座席に座って携帯メールを打っていたら、
横にいた子どもづれのおばさんが私に言いました。
『優先座席では携帯の電源を切らないといけないでしょう』
『はい、すみません』
すると、おばさんの携帯がけたたましく鳴りました。
しばらくは、すごく気まずい雰囲気になりました。
運よく、次の駅でおばさんたちは降りました。
でも、降りるとき 一緒の子どもさんが言いました。
『おかあさん、ここ降りる駅じゃないよ』って……
横にいた子どもづれのおばさんが私に言いました。
『優先座席では携帯の電源を切らないといけないでしょう』
『はい、すみません』
すると、おばさんの携帯がけたたましく鳴りました。
しばらくは、すごく気まずい雰囲気になりました。
運よく、次の駅でおばさんたちは降りました。
でも、降りるとき 一緒の子どもさんが言いました。
『おかあさん、ここ降りる駅じゃないよ』って……
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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