日本へ、紀元前のメイフラワー号
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デンマンさん。。。 紀元前にメイフラワー号に乗って日本へやって来たのが 上のおっさんをリーダーとした船団でござ~♪~ますか?
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その通りですよ。
でも、そのような事を学校の歴史の時間に勉強しませんでござ~ましたわァ!
たぶん卑弥子さんも、この記事を読んでいるネット市民の皆様も学校では習わなかったと思うのですよ。
どうしてでござ~ますか?
戦前には皇国史観がはびこっていて、紀元前にメイフラワー号に乗って日本へやって来た古代中国人がたくさん居たなんてことは無視されていましたからね。。。
太平洋戦争後も、学校で教えなかったのでござ~ますか?
あのねぇ~、日本史で古代のことを生徒に教えようとする時、『古事記』と『日本書紀』に書いてあること以外のことは学校の歴史の時間に教えることを控えようとする傾向があったのですよ。
どうしてでござ~ますか?
実は、上のおっさんの名前は“徐福”というのですよ。 もちろん、当時の船の名前は“メイフラワー号”ではなかった。 たぶん、“延命長寿丸”とか“蓬莱丸”とかいう名前がついていたかもしれません。
その“徐福”さんが日本へやって来たという事実は『古事記』と『日本書紀』には書いてないのでござ~ますか?
書いてないのですよ。 だから、戦前から、“徐福”をリーダーとして紀元前3世紀に5千人以上の古代中国人がやって来たのは伝説として扱われていた。 つまり、桃太郎や浦島太郎の話と同列に扱われていたのですよ。
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中国の史書にはちゃんと書かれてあるのでござ~ますか?
書いてあるのですよ。 あの有名な司馬遷が書いた『史記』に出ている。 だから、中国の歴史学者の9割は史実として扱っているのですよ。
でも、日本では伝説としてしか扱われていないのでござ~ますか?
遅ればせながら 1989年に佐賀市で「日中友好・徐福シンポジウム」が開かれて、ようやく専門学者が徐福伝説を史的事実として研究するようになったのですよ。
。。。んで、日本には徐福さんがやって来たという伝説を伝える地域がたくさんあるのでござ~ますか?
あるのですよ。 中国はもちろん、韓国にも、日本にも徐福の伝説を伝える場所が次の地図で示すように たくさんあるのです。
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日本伝承地:
① 佐賀県武雄市
② 佐賀県佐賀市
③ 佐賀県諸富市
④ 福岡県八女市
⑤ 福岡県筑紫野市
⑥ 鹿児島県串木野市
⑦ 鹿児島県坊津町
⑧ 宮崎県延岡市
⑨ 宮崎県宮崎市
⑩ 高知県佐川町
⑪ 山口県上関町祝島
⑫ 広島県宮島町
⑬ 京都府伊根町
⑭ 和歌山県新宮市
⑮ 三重県熊野市
⑯ 愛知県熱田神宮
⑰ 愛知県小坂井町
⑱ 静岡県清水市
⑲ 山梨県富士吉田市
⑳ 山梨県河口湖町
21 東京都八丈町
22 東京都青ヶ島村
23 秋田県男鹿市
24 青森県小泊村
韓国伝承地:
A 済州(チェジュ)島
B 南海(ナメ)島
中国伝承地:
1 秦皇島
2 千童城・丱兮城(黄驊県)
3 黄県 (登州湾)
4 成山頭
5 徐福島 (嶗山湾)
6 徐山 (膠州湾)
7 琅邪台 (琅邪湾)
8 贛楡 (海州湾)
9 東海
10 霊山 (舟山群島)
11 大蓬山 (慈渓・杭州湾)
12 会稽 (紹興・杭州湾)
13 蓬莱山 (象山県)
① 佐賀県武雄市
② 佐賀県佐賀市
③ 佐賀県諸富市
④ 福岡県八女市
⑤ 福岡県筑紫野市
⑥ 鹿児島県串木野市
⑦ 鹿児島県坊津町
⑧ 宮崎県延岡市
⑨ 宮崎県宮崎市
⑩ 高知県佐川町
⑪ 山口県上関町祝島
⑫ 広島県宮島町
⑬ 京都府伊根町
⑭ 和歌山県新宮市
⑮ 三重県熊野市
⑯ 愛知県熱田神宮
⑰ 愛知県小坂井町
⑱ 静岡県清水市
⑲ 山梨県富士吉田市
⑳ 山梨県河口湖町
21 東京都八丈町
22 東京都青ヶ島村
23 秋田県男鹿市
24 青森県小泊村
韓国伝承地:
A 済州(チェジュ)島
B 南海(ナメ)島
中国伝承地:
1 秦皇島
2 千童城・丱兮城(黄驊県)
3 黄県 (登州湾)
4 成山頭
5 徐福島 (嶗山湾)
6 徐山 (膠州湾)
7 琅邪台 (琅邪湾)
8 贛楡 (海州湾)
9 東海
10 霊山 (舟山群島)
11 大蓬山 (慈渓・杭州湾)
12 会稽 (紹興・杭州湾)
13 蓬莱山 (象山県)
これだけ伝説の場所が残っているということは、徐福さんが日本へやって来たという可能性があるということですわね。
そうですよ。 「火のない所に煙は立たず」と昔の人も言いましたからね。。。
でも、日本中に伝説の地が散らばっているというのは、どういうわけでござ~ますか?
あのねぇ~、徐福さんの一行は5,000人を越えていたのですよ。。。 ということは一艘の船に 175人が乗るとして、およそ50艘の船でやって来たのですよ。 すると、この50艘の船を造るとしても一箇所では造れない。 だから、出航地も一箇所ではなかったと考えられる。 上の地図にはたった一つの航路だけを書き入れたのだけれど、本当は、もっとたくさんの航路を使ってやって来たわけですよ。
それで、中国でも伝承地がいくつかあるのでござ~ますわねぇ?
そういうことですよ。
でも、船が着いた所が日本中に散らばっているというのは、どういうわけでござ~ますか?
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あのねぇ~、遣唐使のことを考えてみても、当時の船旅は4艘で船出をすると その内の1艘か2艘は遭難したのですよ。 だから、一番近い九州を目指したとしても、黒潮に流されて、四国や、和歌山県のあたりや 東海地方、八丈島や青ヶ島に流されたりしてしまう。 また黒潮は日本海のほうにも分かれていて、それに乗ると京都府の伊根町や、遠く、秋田県や青森県の方まで流されてしまう。
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上のおっさんの写真は、実は、青森県北津軽郡中泊町にある「徐福の里公園」に立っている徐福の像ですよ。
。。。んで、一体どう言う訳で徐福さんたちは日本へやって来たのでござ~ますか?
あのねぇ~、徐福と彼の船団が日本へやって来たのは紀元前210年から紀元前200年頃なのですよ。 秦の始皇帝が長寿の神薬(不老不死の薬)を欲しがったので、それで徐福が日本へ行けば手に入れることができると願い出て旅立ったのですよ。 それから80年経った頃の事として『史記』には次のような証言が載せられている。
海の上で大神に会いました。
神は「西の皇帝の使者か」というので、「そうです」と答えました。
「何を求めるのか」と訊くので、「延命長寿の薬です」と答えました。
神は「汝の秦王の礼物が少ないので手にいれることができないのだ」と答えました。
ついで東南の蓬莱山に私を連れて行きました。
霊芝(れいし)でつくられた宮殿を見ました。
使者は銅色(あかがね)で龍の形をしており、光が上がり天を照らしていました。
「何を献上すればいいですか」と尋ねますと、「育ちのいい少年少女といろいろの道具、技術を献上すれば神薬を得られるだろう」と言いました。
始皇帝は大いに喜びその通りにしました。
徐福は海の向こうの平野で水の豊かな地に着き、王となって帰りませんでした。
そこで秦の民は悲しみ、嘆きあい、乱を起こそうというものが十戸のうち六戸になった、という。
出典:『史記』 巻118・列伝58
神は「西の皇帝の使者か」というので、「そうです」と答えました。
「何を求めるのか」と訊くので、「延命長寿の薬です」と答えました。
神は「汝の秦王の礼物が少ないので手にいれることができないのだ」と答えました。
ついで東南の蓬莱山に私を連れて行きました。
霊芝(れいし)でつくられた宮殿を見ました。
使者は銅色(あかがね)で龍の形をしており、光が上がり天を照らしていました。
「何を献上すればいいですか」と尋ねますと、「育ちのいい少年少女といろいろの道具、技術を献上すれば神薬を得られるだろう」と言いました。
始皇帝は大いに喜びその通りにしました。
徐福は海の向こうの平野で水の豊かな地に着き、王となって帰りませんでした。
そこで秦の民は悲しみ、嘆きあい、乱を起こそうというものが十戸のうち六戸になった、という。
出典:『史記』 巻118・列伝58
徐福さんは、どうして秦の国に帰らなかったのでござ~ますか?
あのねぇ~、初めから帰る気がなかったのですよ。
どうして。。。? それでは、秦の始皇帝に嘘を言って船出をしたことになるではござ~ませんかァ!
あのねぇ~、上の引用文の中には徐福が帰らなかったので「秦の民は悲しみ、嘆きあい、乱を起こそうというものが十戸のうち六戸になった」と書いてあるけれど、因果関係は逆なのですよ。
どういうことでござ~ますか?
あのねぇ~、秦の始皇帝が不老不死の薬を欲しがっている。。。 つまり、始皇帝が我侭な政治を行うようになっていたのですよ。 だから、当時、秦の国は乱れ始めて、乱があちこちで起こり始めた。 それで、難民が出始めていたのですよ。
つまり、5、000人もの難民を従えて日本に逃亡するのでは とても不可能と見て 徐福さんは計略を思いついたのでござ~ますか?
そうですよ。 始皇帝の欲しがる不老不死の薬が 日本へ行けばゲットできると申し上げれば渡航の許しが出るに違いない、と考えたわけですよ。
それで、まんまと 5、000人以上を引き連れて日本へ逃亡したのでござ~ますか?
その通りですよ。 考えてみてください。 あの有名なメイフラワー号だって、清教徒がイギリスでの迫害に耐えかねてアメリカへ集団で逃亡したのですよ。
メイフラワー号
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メイフラワー号(the Mayflower)は、ピルグリム・ファーザーズが1620年イギリス南西部プリマスから、新天地アメリカの、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ったときの船の名。
マサチューセッツ州プリマスはプリマス植民地の中心地となった。乗客は102名、乗組員は25から30名だった。
メイフラワー号が出発したのは1620年9月16日(ユリウス暦9月6日)で、病気に苦しめられた66日間の厳しい航海を経て、ケープコッド先端の釣り針のようになっているところ(プロビンスタウン港)に錨をおろしたのは11月21日(11月11日)のことだった。
本来の目的地はハドソン川河口で、現在のニューヨーク市付近であり、当時のイングランドのヴァージニア入植地の北端あたりだった。
ヴァージニア入植地は全米最初のイギリス人移民地で、これより13年早い1607年に建設されたジェームズタウンから入植が始まった。
しかし、メイフラワー号はコースを外れてしまい、冬が来たためにケープコッド湾に留まって越冬することになった。
1621年3月31日(3月21日)、冬の間船内で生き延びた乗客らはプリマスの岸まで移動し、メイフラワー号は同年4月15日(4月5日)にイングランドに向かって旅立った。
メイフラワー号はその後のヨーロッパによるアメリカ植民地化のシンボルとして大きな位置を占めている。
同号に乗っていた25~30名の乗員を除く船客102名のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派に属していた。
このピューリタンの非国教徒の一派が信教の自由を求めてこの船に乗った。
そのため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、歴史の教科書で必ず触れられている。
先祖がニューイングランド地方出身というアメリカ人は、メイフラワー号の乗客の末裔だと信じていることがよくある。
出典: 「メイフラワー号」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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メイフラワー号(the Mayflower)は、ピルグリム・ファーザーズが1620年イギリス南西部プリマスから、新天地アメリカの、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ったときの船の名。
マサチューセッツ州プリマスはプリマス植民地の中心地となった。乗客は102名、乗組員は25から30名だった。
メイフラワー号が出発したのは1620年9月16日(ユリウス暦9月6日)で、病気に苦しめられた66日間の厳しい航海を経て、ケープコッド先端の釣り針のようになっているところ(プロビンスタウン港)に錨をおろしたのは11月21日(11月11日)のことだった。
本来の目的地はハドソン川河口で、現在のニューヨーク市付近であり、当時のイングランドのヴァージニア入植地の北端あたりだった。
ヴァージニア入植地は全米最初のイギリス人移民地で、これより13年早い1607年に建設されたジェームズタウンから入植が始まった。
しかし、メイフラワー号はコースを外れてしまい、冬が来たためにケープコッド湾に留まって越冬することになった。
1621年3月31日(3月21日)、冬の間船内で生き延びた乗客らはプリマスの岸まで移動し、メイフラワー号は同年4月15日(4月5日)にイングランドに向かって旅立った。
メイフラワー号はその後のヨーロッパによるアメリカ植民地化のシンボルとして大きな位置を占めている。
同号に乗っていた25~30名の乗員を除く船客102名のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派に属していた。
このピューリタンの非国教徒の一派が信教の自由を求めてこの船に乗った。
そのため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、歴史の教科書で必ず触れられている。
先祖がニューイングランド地方出身というアメリカ人は、メイフラワー号の乗客の末裔だと信じていることがよくある。
出典: 「メイフラワー号」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、徐福さんの一行も秦の滅亡を予感し、戦乱を逃れる逃避行だったとデンマンさんは言うのでござ~ますか?
その通りですよ。 秦が滅んだ600年後 4艘の遣唐使船で出かければ2艘が沈むというのが常識だった。 そのような危険が当時の航海にはつき物だった。 徐福さんがやって来たのは遣唐使よりもずっと以前の時代ですよ。 それにもかかわらず、命の危険も省(かえり)みずに未知の航海に乗り出す理由には、「どうせ戦乱に巻き込まれて秦で殺されてしまうのであれば、一か八かの勝負にかけてみよう!」と思ったに違いない。
それで、徐福さんは5、000人以上の難民と共に船出したわけでござ~ますか?
その通りですよ! 紀元前のボートピープルです。
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呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。
これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。
聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。
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隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?
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サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。
漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。
現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。
『日本人はどこから来たの?』より
(2013年10月1日)
つまり、歴史的には徐福がボートピープルの先陣を切ったのですよ。
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ですってぇ~。。。
あなたは信じることができますか?
そのような事を言う学者は、あたくしが知る限り居ませんわ。
本当は、どうなのでござ~ましょうか?
とにかく、あなたも真剣に考えないでくださいね。
デンマンさんのお話は、どこまでが真実で、どこからが冗談なのか分からないのですから。。。
デンマンさんのお話を伺うよりは ぜひ次の平安史、古代史の記事をお読みくださいまし。
あなたも、きっと、このお話ならば、納得がゆくと思いますわァ。
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とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
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