吉田兼好とアレクサンダー
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デンマンさん。。。 吉田兼好というのは『徒然草』の作者でござ~ますか?
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それ以外にはちょっと考えられないでしょう!?
でも、アレクサンダーがあの有名なアレクサンダー大王だとすると、二人の間には何も接点がないじゃござ~ませんかァ~!
一見、何も接点がないように見えて実はあるのですよ。
でも、二人の生きていた時代が全く違うではござ~ませんかァ!
あのねぇ~、生きていた時代が違っていても思想的に、あるいは観念的に接点がある場合もありますよ。 例えば、仏教の開祖・ガウタマ・シッダールタと聖徳太子は生きていた時代は違っていても、聖徳太子がガウタマ・シッダールタを篤(あつ)く敬(うやま)っていたという点で二人には接点があるのですよ。
つまり、吉田兼好はアレキサンダー大王を篤く敬っていたとデンマンさんは言うのですか?
いや。。。 そのような事実はないと思いますよ。 まず間違いなく、吉田兼好はアレクサンダー大王が歴史的人物であったことも知らなかったと思うのですよ。
それなのに、どうして「吉田兼好とアレクサンダー」というタイトルのしたのでござ~ますか?
だから、二人の間には観念的に接点があるからですよ。
その観念的に接点があるというのは一体どういうことでござ~ますか?
あのねぇ~、実は、バンクーバー市立図書館から本を借りて読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
一芸の極みは慎重にあり
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兼好法師は、道を究めた人の話が好きで、40歳過ぎになって書かれた後半部分にその記載が多いのは、齢をとるにしたがって見えてくるものを伝えたかったのであろう。
達人・名人話は王道へつながる。
まず、第185段に乗馬の達人の話が出てくる。
城陸奥守泰盛(じょうのむつのかみやすもり)という馬乗りの名人がいた。
馬を引き出させたときに、足を揃えて門のしきいをひらりと飛び越えるのを見て、「これは気の荒い馬だ」と言って乗らなかった。
また、馬が足を伸ばしたままで、しきいに蹴あてると、「これは鈍感な馬で、こんな馬に乗ったら失敗するだろう」と言って乗らなかった。
というエピソードを紹介して、次のような感想を述べている。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや
(乗馬の道に通じていないような人は、どうしてこれほどまでに用心するだろうか)
物をよく知っているからこそ、慎重になる。
ごく当たり前のことでありながら、われわれが実生活の中で見過ごしてしまいがちなことを、兼好はここでも説いている。
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NHK まんがで読む古典
徒然草 19段前半
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
36-37 ページ
『転ばぬ先の転んだ後の 「徒然草」の知恵』
著者: 嵐山光三郎
2012年4月10日 第1刷発行
発行所: 株式会社 集英社
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兼好法師は、道を究めた人の話が好きで、40歳過ぎになって書かれた後半部分にその記載が多いのは、齢をとるにしたがって見えてくるものを伝えたかったのであろう。
達人・名人話は王道へつながる。
まず、第185段に乗馬の達人の話が出てくる。
城陸奥守泰盛(じょうのむつのかみやすもり)という馬乗りの名人がいた。
馬を引き出させたときに、足を揃えて門のしきいをひらりと飛び越えるのを見て、「これは気の荒い馬だ」と言って乗らなかった。
また、馬が足を伸ばしたままで、しきいに蹴あてると、「これは鈍感な馬で、こんな馬に乗ったら失敗するだろう」と言って乗らなかった。
というエピソードを紹介して、次のような感想を述べている。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや
(乗馬の道に通じていないような人は、どうしてこれほどまでに用心するだろうか)
物をよく知っているからこそ、慎重になる。
ごく当たり前のことでありながら、われわれが実生活の中で見過ごしてしまいがちなことを、兼好はここでも説いている。
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NHK まんがで読む古典
徒然草 19段前半
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
36-37 ページ
『転ばぬ先の転んだ後の 「徒然草」の知恵』
著者: 嵐山光三郎
2012年4月10日 第1刷発行
発行所: 株式会社 集英社
つまり、上の文章を読んで、このエピソードこそ王道へつながる達人・名人話だと思ってデンマンさんは感動したのでござ~ますか?
いや。。。 違うのですよ。 吉田兼好は上のエピソードを紹介するような人物だから“王道”から外れた人生を歩んだと思ったのですよ。
“王道”から外れた人生とは、一体どういうことでござ~ますか?
あのねぇ~、吉田兼好はウィキペディア(Wikipedia)には次のように書かれている。
吉田 兼好
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弘安6年(1283年)頃-文和元年/正平7年(1352年)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。
治部少輔卜部兼顕の子。
本名は卜部兼好(うらべ かねよし)。
卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。
また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集『兼好法師家集』がある。
経歴
卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社の神職であった。
母や生年は明らかでないが、一般には弘安6年ごろの出生と考えられている。
堀川家の家司となり、正安3年(1301年)に後二条天皇が即位すると、天皇の生母である西華門院が堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。
従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。
『徒然草』に最初に注目したと言われる正徹の歌論書『正徹物語』以来、後宇多法皇の死を悲しんで発心したとする説もあったが、1324年の法皇崩御のはるか以前、1313年以前には遁世していたことが文書から確認されており、後宇多院崩御を契機とする説は現在では否定されている。
法名としては、俗名を音読した兼好(けんこう)を名乗った。
出家した後の兼好の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。
鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。
その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺の境内に庵があったと伝えられる。
二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。
その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。
また、散文で思索や見聞した出来事を記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、
当時の社会風潮などを知るための貴重な史料ともなっている。
室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。
また晩年は、当時の足利氏の執事高師直に接近したとされる。
逸話
『太平記』巻二十一の艶書(ラブレター)を代筆した話が知られる。
足利幕府の執事高師直は、侍従という女房から塩冶高貞(塩谷判官)の妻が美人であると聞いて、急に恋心を起こし侍従に取り持ちを頼むが上手くいかない。
いっそう思いを募らせた師直は「兼好とひける能書の遁世者」に艶書の代作をさせ、使者に届けさせる。
しかし判官の妻は、その手紙を開けもせず庭に捨ててしまったので、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁じてしまったのだという。
この話は真偽はともかく、江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』を代表として芝居や小説などの素材に数多く採り上げられ、兼好の恋の道もわきまえた「粋法師」としてのイメージを形成する上で大きな影響を与えている。
出典: 「吉田兼好」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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弘安6年(1283年)頃-文和元年/正平7年(1352年)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。
治部少輔卜部兼顕の子。
本名は卜部兼好(うらべ かねよし)。
卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。
また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集『兼好法師家集』がある。
経歴
卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社の神職であった。
母や生年は明らかでないが、一般には弘安6年ごろの出生と考えられている。
堀川家の家司となり、正安3年(1301年)に後二条天皇が即位すると、天皇の生母である西華門院が堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。
従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。
『徒然草』に最初に注目したと言われる正徹の歌論書『正徹物語』以来、後宇多法皇の死を悲しんで発心したとする説もあったが、1324年の法皇崩御のはるか以前、1313年以前には遁世していたことが文書から確認されており、後宇多院崩御を契機とする説は現在では否定されている。
法名としては、俗名を音読した兼好(けんこう)を名乗った。
出家した後の兼好の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。
鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。
その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺の境内に庵があったと伝えられる。
二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。
その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。
また、散文で思索や見聞した出来事を記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、
当時の社会風潮などを知るための貴重な史料ともなっている。
室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。
また晩年は、当時の足利氏の執事高師直に接近したとされる。
逸話
『太平記』巻二十一の艶書(ラブレター)を代筆した話が知られる。
足利幕府の執事高師直は、侍従という女房から塩冶高貞(塩谷判官)の妻が美人であると聞いて、急に恋心を起こし侍従に取り持ちを頼むが上手くいかない。
いっそう思いを募らせた師直は「兼好とひける能書の遁世者」に艶書の代作をさせ、使者に届けさせる。
しかし判官の妻は、その手紙を開けもせず庭に捨ててしまったので、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁じてしまったのだという。
この話は真偽はともかく、江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』を代表として芝居や小説などの素材に数多く採り上げられ、兼好の恋の道もわきまえた「粋法師」としてのイメージを形成する上で大きな影響を与えている。
出典: 「吉田兼好」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、兼好法師は30歳前後に出家遁世するのですよ。 要するに、京都修学院や小野の辺りの山里に隠棲し、30代後半には比叡山・横川に庵(いおり)を構えて世捨人(よすてびと)になったのです。
要するに冒険を好まず、危険を回避して慎重過ぎる生活態度が兼好さんに“世捨人”の道を選ばせたとデンマンさんは言うのでござ~ますか?
その通りですよ。 兼好法師は物をよく知っているからこそ、慎重になる性格だったと僕は思うのです。 少なくとも人生を慎重に歩みたいと願っていたのでしょうね。 だから、上の乗馬の名人・エピソードを敢(あ)えて『徒然草』の中に書き入れたのですよ。
そうでしょうか?
だってぇ、上のエピソードに感動しない限り吉田兼好は『徒然草』に取り上げませんよう。
。。。んで、兼好法師さんはマジで足利幕府の執事・高師直さんのラブレターを代筆したのでござ~ますか?
いや。。。 僕はそうは思いませんね。 兼好法師が感動した上のエピソードを読めば「君子危うきに近寄らず」というのが兼好法師の生活信条だと思うのですよ。 だから、あとで面倒なことになりそうなラブレターの代筆など兼好法師は絶対にしなかったというのが僕の考えですよ。
じゃあ、ラブレターの代筆は後世の作り話でござ~ますか?
僕はそうだと思いますね。 吉田兼好が恋の道もわきまえた「粋法師」として語りたいための作り話だと思うのですよ。
そうだとしても、アレクサンダー大王がどこにも出てきませんわ。 一体、吉田兼好さんとアレクサンダー大王がどのように関係しているのでござ~ますか?
あのねぇ~、ちょっと次の映画を見てください。
(alex08.jpg)
Alexander the Great
アレクサンダー大王
ドキュメンタリー(2時間15分)
あらっ。。。 すべて英語ではござ~ませんかァ! あたくしは英語は苦手なのでござ~ますわァ。
じゃあ、日本語の次のクリップでも見てください。
アレクサンダー大王が生きた世界
上の日本語のクリップを見ても、吉田兼好さんとアレクサンダー大王がどのように関係しているのか? あたくしには理解できませんわァ。
あのねぇ~、アレクサンダー大王には愛馬・ブケパロス(Bucephalus)との間に有名なエピソードがあるのですよ。
ブケパロス
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紀元前355年? - 紀元前326年6月
アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)が愛馬とした1頭の軍馬。
その名はラテン語形では Bucephalas(ブーケパラース/現羅:ブケファラス)もしくは Bucephalus(ブーケパルス/現羅:ブケファルス)と表記される。
日本語ではブケファロスとの表記も多い。
大きな黒い馬で、額の星(ウマの額にある毛模様)が牛の角の形であったことから「ブーケパロス(雄牛の頭)」と呼ばれた。
牡馬であったとされているが、語尾変化を論拠に牝馬であったという説もある。
また、伝説では星ではなく角が生えていたともいわれ、ポンペイ遺跡から出土した壁画にも角が描かれている。
また、偽カリステネスの『マケドニア人アレクサンドロスの生涯』系統伝説は、人食い(英語版)馬であったと記している。
プルタルコスの『プルターク英雄伝』によると、ブケパロスはペラスギティス産(テッサリアの馬の産地)でアレクサンドロスの父ピリッポス2世への貢物であったが、暴れ馬で誰も乗りこなすことはできなかったという。
若きアレクサンドロス王子(のち、アレクサンドロス3世)はブケパロスが彼自身の影に怯えていることに気付き、父と賭けをし、馬の視線を太陽の方向へ向かせることで落ち着かせ、見事に騎乗馴致してみせたという。
以来、ブケパロスはアレクサンドロスの愛馬となる。
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(buce04.jpg)
Alexander & Bucephalus
紀元前326年、アレクサンドロス3世軍とポロス王の軍がぶつかったヒュダスペス河畔の戦いにて、ブケパロスは戦死した。
戦いに勝利したアレクサンドロス3世は、愛馬を丁寧に埋葬し、この地に築いた新都市(アレクサンドリア都市)をブケパロスにちなんで「アレクサンドリア・ブケパロス」と名付けた。
出典: 「ブケパロス」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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紀元前355年? - 紀元前326年6月
アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)が愛馬とした1頭の軍馬。
その名はラテン語形では Bucephalas(ブーケパラース/現羅:ブケファラス)もしくは Bucephalus(ブーケパルス/現羅:ブケファルス)と表記される。
日本語ではブケファロスとの表記も多い。
大きな黒い馬で、額の星(ウマの額にある毛模様)が牛の角の形であったことから「ブーケパロス(雄牛の頭)」と呼ばれた。
牡馬であったとされているが、語尾変化を論拠に牝馬であったという説もある。
また、伝説では星ではなく角が生えていたともいわれ、ポンペイ遺跡から出土した壁画にも角が描かれている。
また、偽カリステネスの『マケドニア人アレクサンドロスの生涯』系統伝説は、人食い(英語版)馬であったと記している。
プルタルコスの『プルターク英雄伝』によると、ブケパロスはペラスギティス産(テッサリアの馬の産地)でアレクサンドロスの父ピリッポス2世への貢物であったが、暴れ馬で誰も乗りこなすことはできなかったという。
若きアレクサンドロス王子(のち、アレクサンドロス3世)はブケパロスが彼自身の影に怯えていることに気付き、父と賭けをし、馬の視線を太陽の方向へ向かせることで落ち着かせ、見事に騎乗馴致してみせたという。
以来、ブケパロスはアレクサンドロスの愛馬となる。
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Alexander & Bucephalus
紀元前326年、アレクサンドロス3世軍とポロス王の軍がぶつかったヒュダスペス河畔の戦いにて、ブケパロスは戦死した。
戦いに勝利したアレクサンドロス3世は、愛馬を丁寧に埋葬し、この地に築いた新都市(アレクサンドリア都市)をブケパロスにちなんで「アレクサンドリア・ブケパロス」と名付けた。
出典: 「ブケパロス」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上のYouTube のクリップを見れば解るように暴れ馬で誰も(ブケパロスを)乗りこなすことはできなかった。 しかし、若きアレクサンダーはブケパロスが彼自身の影に怯えていることに気付き、父と賭けをし、馬の視線を太陽の方向へ向かせることで落ち着かせ、見事に騎乗馴致してみせたのですよ。 つまり、『徒然草』に出てくる乗馬の名人は慎重すぎてブケパロスには乗らなかったでしょうね。
つまり、本当の“王道”は慎重過ぎてはダメだと言うことでござ~ますか?
そうですよ。 アレクサンダー王子が『徒然草』の中に出てくる乗馬の名人だったら、アレクサンダー大王にな成れかったと思うのですよ。 だから、事実、城陸奥守泰盛(じょうのむつのかみやすもり)という馬乗りの名人は織田信長や豊臣秀吉のような男にはなれなかった。
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(himiko22.gif)
ですってぇ~。。。
確かに、そうかもしれませんわ。
織田信長ならば、まず間違いなくブケパロスを乗りこなそうとしたでしょうね。
でも、振り落とされて殺してしまったかも知れませんわ。
ホトトギス 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
。。。ですものねぇ。
だから。。。
ブケパロス おとなしく乗せろブケパロス
俺を乗せぬなら 殺してしまうぞブケパロス
。。。ですよね。
とにかく、あなたも吉田兼好さんとアレクサンダー大王の違いを今夜じっくりと考えてくださいまし。
ところで、吉田兼好さんもアレクサンダー大王も それなりに面白いのですけれど、
ぜひ次の平安史、古代史の記事もお読みくださいまし。
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