かぎろいミステリー
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デンマンさん。。。どうして「かぎろい」を持ち出してきたのですか?
(kato3.gif)
あのねぇ~、夕べ、たまたま『なぜ万葉集は古代史の真相を封印したのか』という本を読んだのですよ。
それが「かぎろい」と関係あるのですか?
もちろんですよ。 その本の中で柿本人麻呂が詠んだ、あの有名な「かぎろい」の歌が出てきたのです。
それで、今日「かぎろい」を取り上げる気になったのですか?
そうです。。。 小百合さんも柿本人麻呂が詠んだ、あの有名な「かぎろい」の歌を読んでみてください。
人麿が見た「かぎろい」とは何か
『万葉集』巻(まき)1の48番に柿本人麿(かきのもとひとまろ)の有名な「かぎろい」の歌がある。
東(ひむがし)の
野に炎(かぎろひ)の
立つ見えて
かへり見すれば
月傾(かたぶ)きぬ
歌意は「東方の野には曙(あけぼの)の光がさしそめるのが見えて西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている」(『万葉集』日本古典文学大系、岩波書店)というものだ。 ここで「かぎろひ」は「曙の光」とあるが、人麿が見たのはどんな現象なのだろうか。
(shoko05.jpg)
「かぎろい」は『古語辞典』(岩波書店)では、まず「揺れて光る意。 ヒは火。 炎」とあり、また「立ちのぼる水蒸気に光があたり、光がゆらめいて見えるもの」とし、「陽炎(かげろう)、地面が熱せられたときに見られる」の意をあげている。
さて日の出前には日中われわれがよく見る陽炎のようなものは出現しないので、「陽炎説」は成立しない。 「かぎろい」は万葉集では「炎」という字があてられていることに注目したい。 「かぎろい」にはこれまで天文学的に意味のある説が二つある。
その一つは、戦前、中山正実画伯が「かぎろい」にちなむ大作「阿騎野(あきの)の朝」を描くにあたってなされた考証にもとづくものである(中山説)。 それによれば柿本人麿の「かぎろひ体験」は、場所(東経135°.9、北緯34°.4)だけでなく、日時をも特定できるという驚くべき説で、持統天皇の朱鳥(しゅちょう)6年11月17日(ユリウス暦ではA.D.692年12月31日)、午前5時50分(日本標準時、日の出前約1時間)、月は望(満月)をわずかに過ぎて西の地平線の上10°の高さにあったという。 中山説はこのときの東の空の現象が「かぎろい」だとするものである。
もう一つは黄道光(こうどうこう)説である。 黄道光とは、太陽系の地球の公転軌道の付近に分布している固体微粒子が太陽光を受けて散乱しているものである。 この説を提唱している斉藤国治氏によれば、古天文学にもとづき、「かぎろひ」とは、季節は黄道光がもっとも見えやすい秋の朝とし、東の空に「舌」のような形で、日の出約1時間前に「立って見える炎状の光体」という形であらわれるというものである。
この二つの説はどちらも、主要点として「かぎろひ」は日の出前1時間の東の空の現象としているが、この日の出現象という一連の過程からみると、つぎのような疑問がわいてくる。 日の出前1時間というのは、日本列島の地理的位置を考慮すると、平均して太陽が地平線下12°にあるときということになる。 そのころ、東の空では薄明がはじまってはいるものの、よほど暗く、その色もせいぜい薄く青白いという程度で、当然ながら空全体が静かで何らの動きも感じられない。 また、黄道光も実際にはぼうっとした白っぽいもので、じっとしたまま動きもなく、日本のようにしめっぽい空ではそれを見分けることさえたやすくない。 まして「炎」ないしは「炎が立つ」というような強烈な印象には欠けるように思われる。
ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。 その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。 「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
17 - 19ページ 『空の色と光の図鑑』
著者: 斉藤文一・武田康男
2002年8月1日 第8刷発行
発行所: 株式会社 草思社
『万葉集』巻(まき)1の48番に柿本人麿(かきのもとひとまろ)の有名な「かぎろい」の歌がある。
東(ひむがし)の
野に炎(かぎろひ)の
立つ見えて
かへり見すれば
月傾(かたぶ)きぬ
歌意は「東方の野には曙(あけぼの)の光がさしそめるのが見えて西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている」(『万葉集』日本古典文学大系、岩波書店)というものだ。 ここで「かぎろひ」は「曙の光」とあるが、人麿が見たのはどんな現象なのだろうか。
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「かぎろい」は『古語辞典』(岩波書店)では、まず「揺れて光る意。 ヒは火。 炎」とあり、また「立ちのぼる水蒸気に光があたり、光がゆらめいて見えるもの」とし、「陽炎(かげろう)、地面が熱せられたときに見られる」の意をあげている。
さて日の出前には日中われわれがよく見る陽炎のようなものは出現しないので、「陽炎説」は成立しない。 「かぎろい」は万葉集では「炎」という字があてられていることに注目したい。 「かぎろい」にはこれまで天文学的に意味のある説が二つある。
その一つは、戦前、中山正実画伯が「かぎろい」にちなむ大作「阿騎野(あきの)の朝」を描くにあたってなされた考証にもとづくものである(中山説)。 それによれば柿本人麿の「かぎろひ体験」は、場所(東経135°.9、北緯34°.4)だけでなく、日時をも特定できるという驚くべき説で、持統天皇の朱鳥(しゅちょう)6年11月17日(ユリウス暦ではA.D.692年12月31日)、午前5時50分(日本標準時、日の出前約1時間)、月は望(満月)をわずかに過ぎて西の地平線の上10°の高さにあったという。 中山説はこのときの東の空の現象が「かぎろい」だとするものである。
もう一つは黄道光(こうどうこう)説である。 黄道光とは、太陽系の地球の公転軌道の付近に分布している固体微粒子が太陽光を受けて散乱しているものである。 この説を提唱している斉藤国治氏によれば、古天文学にもとづき、「かぎろひ」とは、季節は黄道光がもっとも見えやすい秋の朝とし、東の空に「舌」のような形で、日の出約1時間前に「立って見える炎状の光体」という形であらわれるというものである。
この二つの説はどちらも、主要点として「かぎろひ」は日の出前1時間の東の空の現象としているが、この日の出現象という一連の過程からみると、つぎのような疑問がわいてくる。 日の出前1時間というのは、日本列島の地理的位置を考慮すると、平均して太陽が地平線下12°にあるときということになる。 そのころ、東の空では薄明がはじまってはいるものの、よほど暗く、その色もせいぜい薄く青白いという程度で、当然ながら空全体が静かで何らの動きも感じられない。 また、黄道光も実際にはぼうっとした白っぽいもので、じっとしたまま動きもなく、日本のようにしめっぽい空ではそれを見分けることさえたやすくない。 まして「炎」ないしは「炎が立つ」というような強烈な印象には欠けるように思われる。
ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。 その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。 「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
17 - 19ページ 『空の色と光の図鑑』
著者: 斉藤文一・武田康男
2002年8月1日 第8刷発行
発行所: 株式会社 草思社
そもそも“かぎろい”ってぇ、どのようなものなのですか?
次の写真を見てください。
(kaki104.jpg->shoko07.jpg)
柿本のおっさんは、こうして「かぎろい」を見ながら歌を詠んだのですよ。 おっさんのバックグラウンドに見えているのが“かぎろい”ですよ。
。。。で、今日は“かぎろい”のミステリーに迫るのですか?
そうです。 『万葉集』日本古典文学大系によると、柿本のおっさんが詠んだ歌の意味は次のようだと書いてある。
(shoko04.jpg->shoko07)
東方の野には
曙(あけぼの)の光が
さしそめるのが見えて
西を振りかえると
月が傾いて
淡い光をたたえている
デンマンさんは、この歌の解釈が気に喰わないのですか?
いや。。。人麿の歌の意味を表面的に解釈すれば、確かに上のような意味になるでしょう。 でもねぇ、はっきり言って、このような和歌ならば誰にだって詠めるのですよ。 僕は初めて上の歌を見たときから、この歌が『万葉集』に取り上げられる程に素晴らしい和歌だとはどうしても思えなかった。 小百合さんはどうですか?
私はもともと和歌には関心が極めて薄いので『万葉集』のことはほとんど知らないのですわ。 うふふふふふ。。。
やだなあああァ~。。。このような時に「うふふふふふ。。。」と言って笑って済まさないでくださいよ。 日本人のミーちゃん、ハーちゃんが国際的に一番嫌われる悪い癖ですよ。
でも、マジで上の和歌が良いものとも、ダサいものとも私には分かりませんわ。
あのねぇ~。。。、冷静になって考えてみてくださいよ。 上の和歌が素晴らしいなんて思う人は、まず居ないと思うのですよ。 もう一度上の和歌の意味を読んでみてください。
(shoko05.jpg->kaki005)
東方の野には
曙(あけぼの)の光が
さしそめるのが見えて
西を振りかえると
月が傾いて
淡い光をたたえている
何度読んでみても、とりわけ心が揺さぶられるような素晴らしい歌ではないのですよ。
それはデンマンさんの個人的な意見ですわ。
あのねぇ~、小百合さんも、もう一度マジで読んでみてくださいよ。 いったい、どこに『万葉集』に載せるほどの魅力があると言うのですか?
だから。。。いいと思った人が昔に居たのですわ。
でもねぇ、その良さを『万葉集』日本古典文学大系を書いた人は全く理解してないのですよ。 だから、月並みな説明をしているだけ。。。 しかも「東方の野に 曙の光が見えて 西を振りかえると 月が傾いて淡い光をたたえている」というような、正に月並みなことしか書いてない。 バカバカしい! こんなバカバカしいことしか書けないから、日本のミーちゃんハーちゃんは万葉集など読まないのですよ。
デンマンさんは、なんだか上の和歌の本当の素晴らしい意味が分かっているようなことを言ってますわね?
そうですよ。。。僕は上の和歌の真意を理解しているのですよ。
マジで。。。?
このような時に冗談やウソが言えますか!?
分かりましたわ。 それで、その真意って一体どのようなものなのですか?
あのねぇ~、それを説明するには、ちょとばかり歴史を知らないと理解できないのですよ。 小百合さんのためにここに書き出しますから読んでみてね。
高市皇子(たけちのみこ)
生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)
日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。
672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。
679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。
天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。
母の父は胸形君徳善である。
正妃は天智天皇皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)で、この間の子が長屋王である。
他に子供は鈴鹿王、河内女王、山形女王。
また万葉集によれば異母妹但馬皇女が邸内にいたという。
これが事実とすると但馬皇女は高市皇子の妻または養女であった可能性がある。
また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた(または、恋人、夫婦であった)のではないかとの説もある。
壬申の乱
大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。
高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。
和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。
不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。
各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。
28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。
29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。
7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の二つの軍を送り出した。
一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。
これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。
近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたとみるのが自然だが、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたとみることも不可能ではない。
7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。
天武天皇の時代
乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。
天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。
この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。
皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。
太政大臣
天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。
持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。
持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。
持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。
持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。
挽歌
万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。
(kaki004.jpg->kaki199.jpg)
ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。
高市天皇説
上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)
高市皇子の歌
•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)
日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。
672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。
679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。
天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。
母の父は胸形君徳善である。
正妃は天智天皇皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)で、この間の子が長屋王である。
他に子供は鈴鹿王、河内女王、山形女王。
また万葉集によれば異母妹但馬皇女が邸内にいたという。
これが事実とすると但馬皇女は高市皇子の妻または養女であった可能性がある。
また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた(または、恋人、夫婦であった)のではないかとの説もある。
壬申の乱
大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。
高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。
和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。
不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。
各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。
28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。
29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。
7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の二つの軍を送り出した。
一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。
これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。
近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたとみるのが自然だが、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたとみることも不可能ではない。
7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。
天武天皇の時代
乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。
天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。
この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。
皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。
太政大臣
天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。
持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。
持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。
持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。
持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。
挽歌
万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。
(kaki004.jpg->kaki199.jpg)
ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。
高市天皇説
上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)
高市皇子の歌
•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、上の和歌の本当の意味と高市皇子が関係しているのですか?
もちろんです。 だから高市皇子の略歴を持ち出したのですよ。
もしかしてデンマンさんは高市皇子が天皇になっていたと考えているのではありませんか?
確かに、そのような説があるのですよ。 上の略歴を読んでも天武天皇の子供の中では「壬申の乱」で高市皇子が一番活躍したのです。 だから、天皇になっていたとしても不思議じゃなかった。
天武天皇の長男だったのに、どうして天皇になれなかったのですか?
高市皇子のお母さんが天皇の娘ではなかったからですよ。 母親の身分による序列では10人中8番目だった。 でも、実力はナンバーワンだった。
それで柿本人麻呂が高市皇子を尊敬していたのですか?
そうですよ。 だからこそ、万葉集の中で最長の挽歌を高市皇子のために柿本人麻呂が詠んだのです。 つまりねぇ、高市皇子を天皇にしたいと思っていた人がかなり居たということですよ。
実力主義でなかったので高市皇子が天皇になれなかったのですわね?
いや。。。そう言う訳でもない。 実際、天武天皇が天皇になたのは「壬申の乱」というクーデターによって天智天皇の長男である大友皇子を破って天皇になったのですよ。 要するに実力によって天皇になったということですよ。 だから、高市皇子が天皇になっても不思議じゃなかったのです。
でも、そうならなかったのはなぜですか?
天武天皇の第一夫人の力が強かったのですよ。 クリントン夫人のようなものです。
(hillary07.jpg)
クリントン夫人って、それほど実力があったのですか?
クリントンが大統領になたのもクリントン夫人がついていたからですよ。 夫人が居なかったらまず大統領にはなれなかったでしょう!?
。。。で天武天皇の第一夫人って誰ですか?
天武天皇のすぐ後で持統天皇になった鸕野讚良皇女ですよ。
つまり、クリントン夫人のような、でしゃばっている夫人が居たために高市皇子は天皇になれなかったのですか?
その通りですよ。 持統天皇は自分の子供に天皇になって欲しかった。 だから、自分の子供が天皇になる間だけ自分が天皇になって時間稼ぎをしたというわけですよ。
つまり、その間に柿本人麻呂を含めたグループが高市皇子を天皇にしようという動きがあったのですか?
その通りです。
でも、失敗してしまったのですか?
その通りですよ。
どうしてデンマンさんは、そうだと思うのですか?
あのねぇ、そういう動きに参加していたために柿本人麻呂は持統天皇に睨(にら)まれて左遷され、一生を棒に振ってしまったのですよ。
マジで。。。?
もちろんですよ。 柿本人麻呂の略歴を読んでみてください。
柿本人麻呂
(kaki003.jpg)
660年頃 - 720年頃
柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
出自・系譜
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。
また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。
いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。
ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。
賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。
近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。
代表歌
•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ
•東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。
官位について
各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
人麻呂にまつわる異説・俗説
その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。
なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。
『続日本紀』、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。
この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ、皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。
しかし、当時、藤原宇合(うまかい)・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いことはすでに指摘されている。
このため、井沢元彦は『逆説の日本史』で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。
柿本サルについては、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(kaki003.jpg)
660年頃 - 720年頃
柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
出自・系譜
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。
また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。
いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。
ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。
賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。
近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。
代表歌
•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ
•東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。
官位について
各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
人麻呂にまつわる異説・俗説
その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。
なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。
『続日本紀』、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。
この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ、皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。
しかし、当時、藤原宇合(うまかい)・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いことはすでに指摘されている。
このため、井沢元彦は『逆説の日本史』で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。
柿本サルについては、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上の略歴に手がかりがあるのですか?
そうですよ。 人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれと書いてあるでしょう? 僕は人麻呂が刑死したとは思わないけれど、間違いなく政争に巻き込まれ、持統天皇ににらまれて左遷されたと思っているのですよ。
その根拠は。。。?
あのねぇ、『万葉集』を編纂したのは大伴家持なのです。 大伴家持も柿本人麻呂も日本では「歌人」として知られているけれど、当時の文人は中国の伝統に則(のっと)って、現在の感覚で言えば政治家としての活動もしていた。 その政治家としての活動の部分が日本史では取り上げられてない。 脱落している。 特に柿本人麻呂の略歴からは政治的活動はすっぽりと脱落している。
大伴家持の場合には政治的活動も略歴の中に書かれているのですか?
書かれてますよ。 だから、そのことで僕は『万葉集』は単なる歌集ではなくて、政治的批判の書であると次の記事の中で書いたことがある。
(temple53.jpg)
■『万葉集の謎と山上憶良』
(2006年7月1日)
(sayuri55.gif)
つまり、柿本人麻呂が高市皇子を天皇にするための政治的活動をして、それが持統天皇の知るところになって、人麻呂は左遷されて一生を棒に振ったとデンマンさんは信じているのですか?
(kato3.gif)
そうですよ。
持統天皇はそのような事をする人なのですか?
する人なのです。 子供の頃に不幸な事件が度重(たびかさ)なってぇ心にトラウマを受け、権力に人一倍こだわるようになってしまった不幸な女性なのですよ。 その事で僕は次の記事を書いたのです。 ぜひ読んでみてください。
(bond010.gif)
■『古代のある女の悲劇』
(2006年7月3日)
■『愛と怨霊』
(2007年6月9日)
■『いにしえの愛とコミュニケーション』
(2007年1月8日)
。。。で、柿本人麻呂の詠んだ「かぎろい」の和歌は、実は、政治批判の歌だとデンマンさんはおっしゃるのですか?
その通りですよ。
(kaki104.jpg->shoko07.jpg")
東(ひむがし)の
野に炎(かぎろひ)の
立つ見えて
かへり見すれば
月傾(かたぶ)きぬ
上のつまらない和歌が『万葉集』の中に柿本人麻呂の代表的な歌として載せられている。 なぜだと思いますか?
どうしてですか?
万葉集を編纂した大伴家持が歴史の真相を後世の我々に知って欲しかったからですよ。
その歴史の真相ってぇ何ですのォ~?
だから、高市皇子を天皇にするための政治的活動があったということですよ。
でも、そのような事を歴史の時間に先生は言いませんでしたわ。
多分、そのような事を言った人はあまり居ないでしょうね?
でも、デンマンさんはマジで柿本人麻呂が高市皇子を天皇にする政争に巻き込まれたと信じているのですか?
マジで信じています。
。。。で、上の和歌の真意はどのようなことになるのですか?
次のようになるのですよ。
(shoko07.jpg->shoko05.jpg)
実にきれいな日の出です。
この太陽が天照大神(あまてらすおおみかみ)のシンボルです。
そしてまた女帝・持統天皇のシンボルでもある。
どうして。。。?
あなたは、きっとそう思うでしょうね。
天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話です。
なぜ、この説話を持ち出してきたのか?と言えば、持統天皇がちょうど同じようにして孫に皇位を継がせている。
その事を正当化するために「天孫降臨」を『古事記』や『日本書紀』に書かせたことも十分に考えられます。
政治家としての持統天皇は、天武天皇から我が子の草壁皇子、そして孫の珂瑠(軽)皇子(かるのみこ)に皇位を伝えることに拘(こだわ)った。
持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣(つ)ぐことを望み、夫に働きかけて草壁皇子を皇太子に就け、夫の死後に草壁皇子のライバルであった大津皇子を陰謀によって排除した。
天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだった。
しかし、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自分が即位して孫の珂瑠皇子が文武(もんむ)天皇として皇位につくまでの時間稼ぎをした。
系図で見ると次のようになります。
(keizu03.gif)
つまり、珂瑠(軽)皇子が文武(もんむ)天皇として輝く。
それが上の日の出の光景です。
でも、「壬申の乱」を見れば、誰でも高市皇子の活躍を無視するわけにはゆかない。
だから、天武天皇の長男であり、実力もナンバーワンの高市皇子が次期天皇になるのが当然だと思った人が居たとしても不思議じゃない!
その一人が柿本人麻呂だった。
高市皇子が次期天皇になるように支援し協力したのです。
だから持統天皇に睨(にら)まれて左遷されてしまった。
(kaki105.jpg->shoko07.jpg)
「かぎろい」とは太陽が昇る前の上のような光景です。
ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。
その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。
「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。
(注: 赤字はデンマンが強調)
19ページ 『空の色と光の図鑑』 株式会社 草思社
その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。
「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。
(注: 赤字はデンマンが強調)
19ページ 『空の色と光の図鑑』 株式会社 草思社
火のように揺れ、燃え輝いている「かぎろい」こそ、人麻呂の眼には、持統天皇の野心と陰謀に映る。
当然、人麻呂はムカついているのです。
そして、西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている。
つまり、高市皇子が次期天皇になるという望みは完全に絶たれてしまった。
やがて沈んでしまう月のように。。。
要するに歌の意味は次のようになるのですよ。
東(ひむがし)の
野に炎(かぎろひ)の
立つ見えて
かへり見すれば
月傾(かたぶ)きぬ
(kaki003.jpg->kaki005.png)
野に炎(かぎろひ)の
立つ見えて
かへり見すれば
月傾(かたぶ)きぬ
(kaki003.jpg->kaki005.png)
ああ、何ということだ
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。
この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。
高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。
この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。
高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。
確かに持統天皇は野望を実現させたけれど、
まさか自分が死んだあとに、天皇の実権が藤原氏に移るとは想像もしていなかったに違いない。
庇を貸して母屋を取られる
藤原不比等は持統天皇以上の野望を胸に秘めていた。
持統天皇に協力していると見せかけて、
実は、藤原氏は天皇から実権を奪い取ろうと着々とその計画を進めていた。
天皇にはなれなかったけれど、高市皇子は実際に実力を持った人物だった。
その実力は長男の長屋王に引き継がれてゆく。
(keizu901.png)
藤原氏に対抗して天皇を中心とした政治を行おうとした長屋王は、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀に遭って自殺しなければならなかった。
これが世に言う「長屋王の変」です。
高市皇子は持統天皇の野望に破れ
その子の長屋王は藤原氏の陰謀によって自滅しなければならなかった。
このようにして藤原氏の政権は確立されていった。
ずいぶんと長ったらしい説明ですわ。 柿本人麻呂の和歌に上のような歴史的事実が込められているという根拠があるのですか?
ありますよ。 あのねぇ~、柿本人麻呂の和歌を選んだのは万葉集・編集長の大伴家持なのですよ。 この人は万葉集の最後に自分の歌を載せている。
(yakamo3.jpg)
新しき 年の初めの 初春の
今日降る雪の
いやしけ吉事(よごと)
新しい年の始めの初春の
今日降る雪のように、
これからの世には
よい事がいっぱいありますように…。
これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。
どのような。。。?
あのねぇ~、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。
大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。
でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。
その事件と大伴家持が関係あるのですか?
大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。
わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?
そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。
なぜ。。。?
だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。
どうして。。。?
なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。
つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?
その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。
要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのですか?
そうです。。。でも「歴史馬鹿」だけ余計ですよ。(苦笑) とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 だから、柿本人麻呂は当たり障りのない「かぎろい」を詠む事によって歌の中に歴史の真実を読み込んだのですよ。 僕の言おうとしていることが小百合さんにも分かるでしょう?
もちろん、デンマンさんのお話を聞けば、そうなのかな?とも思いますけれど、歴史的には証拠がないのでしょう?
あのねぇ~、歴史にハマッている僕の歴史的仮説ですよ。 この記事を読んでくれる人の中に上の説明を読んで、そのような事も大いにあったかも知れないと思ってくれる人が居れば、こうして小百合さんと話した甲斐があるのですよ。
(laugh16.gif)
【卑弥子の独り言】
(himiko22.gif)
ですってぇ~。。。
あなたはデンマンさんの説明に納得できましたかァ?
ええっ。。。 歴史には興味がないのォ~?
そんな事を おっしゃらないでくださいましなァ~。。。
じゃあ、あなたにも興味がある話題を。。。
どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
(suikyu9.jpg)
それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
(hand.gif)
(himiko22.gif)
ですってぇ~。。。
あなたはデンマンさんの説明に納得できましたかァ?
ええっ。。。 歴史には興味がないのォ~?
そんな事を おっしゃらないでくださいましなァ~。。。
じゃあ、あなたにも興味がある話題を。。。
どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
(suikyu9.jpg)
それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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