2015年4月20日月曜日

道鏡伝説の謎


 

道鏡伝説の謎

 


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デンマンさん。。。あんさんは、どうして道鏡伝説などをタイトルにしやはったん?


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あのなァ~、わては、たまたまライブドアの わての『徒然ブログ』のアクセス解析の記録を見ていたのやァ~。。。


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『拡大する』



そやけど、上のリストには どこにも道鏡さんの名前がありませんがなァ。



その通りやァ。。。道鏡さんの名前は上のリストの中にはあらへん。。。そやけど、“肥後ずいき”が仰山(ぎょうさん)出てきよる。 そやけど、この“ずいき”は食べようと思って検索したのとちゃうねん。

そんなら どうしようと思うて検索しやはったん?

誰もが“性具”の“肥後ずいき”について調べようと思うて検索して わてのブログの記事を読みはってん。

確かに、『肥後ズイキが性具になったきっかけは?』という記事を読みはった人もいてますなァ~。。。

そうやァ~。。。 実は、「肥後ズイキ」を見て、わては思い出したのやがなァ。 そう言えば 道鏡さんについて書いたと。。。

つまり、このページのトップに貼り出しはったイラストは その時に、あんさんが描きはったものやのォ~?

そういうこっちゃ。。。 うしししし。。。 

そやけど、「肥後ズイキ」がどうして道鏡さんと関係ありはるのォ~?

あのなァ、“性具”がキーワードなのやァ。。。めれちゃんかて性具のことを知ってるやろう?

言葉の意味ぐらい知ってますがなァ。。。そやけど、その程度のことで、わたしを“エロい女”やというレッテルを貼らんといて欲しいねん。

わては、めれちゃんが“エロい女”やと思うておらんでぇ~。。。

そやけど、あんさんの顔に、そう書いてありますやん。

さよかァ~。。。うへへへへへ。。。

あんさん!。。。下卑(げび)た笑いなど浮かべてえ~へんでぇ、性具と道鏡さんとの関係を説明せんかいなァ!

あのなァ。。。わては、その事でも記事を書いたのやがなァ。 ちょっと、その部分を読んで欲しいねん。

『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』


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上の絵は葛飾北斎の「魂胆遣曲道具」の一部を忠実に再現したものです。
『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』と画題がついていますが、道鏡が鎧兜をつけて戦いに臨んだということはもちろん記録にありません。
奈良時代の僧には、鎌倉時代のようにまだ僧兵として活躍できる場はありませんでした。では、なぜ、道鏡の鎧甲という画題で、葛飾北斎が上の絵を描いたのでしょうか?
よく絵を見てください。
確かに鎧兜らしきものが2つ描かれていますが、私たちが普通頭に思い浮かべる鎧兜とは格好がかなり違っています。

もちろん、これは戦争で身につける鎧兜ではありません。
江戸時代に使われた性具を描いたものです。左が鎧で右が兜なのです。
鎧はペニスに装着します。これを男根に嵌(は)めるこことによって太さが増すと共に、この凹凸が腰を使った前後運動に伴い女性の膣壁をしっかりと摩擦することになります。
つまり、これによってGスポットが、確実に愛撫されるというわけですね。
江戸時代の研究家が、性生活の知恵としてこういうものを考え出したようです。

兜は亀頭にかぶせます。
リングだと思えばどのような効果があるか想像がつくと思います。
しかし、使ったことがない場合、この絵だけで判断しますから、とても実用的とは思えませんね。
これでは、すぐに外れてしまいそうです。何か仕掛けがあるんでしょうか?
この性具に詳しい方が居たらぜひ教えて欲しいものです。

『光謙帝香合(こうけんていこうごう)』


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上の絵も葛飾北斎の「魂胆遣曲道具」の一部を忠実に再現したものです。
『光謙帝香合(こうけんていこうごう)』という画題がついています。
気がついたと思いますが、孝謙女帝の『孝』の字が『光』になっています。
おそらく、天皇の名を性具の名にかぶせるのは恐れ多いことだとして、わざと一字だけ変えたのでしょう。
中国では、皇帝の名は庶民は使えませんでした。
現在よりも、中国の文化の影響が強かった時代ですから、葛飾北斎か、あるいは、この煉香(ねりこう)媚薬の考案者が、そのように配慮したものだと思います。

この香合(こうごう)というのは国語辞典で引くと「香の入れ物(香盒とも書く)」と出ていますが、この場合の香合は「こうあわせ」のことです。
つまり、二種の香木をたいて、その匂いや香銘の優劣を競うゲームのようなものです。

孝謙女帝はご存知のように、巨根の道鏡を愛人にしていたと、下世話では昔から言い伝えられてきました。
最近では、多くの研究家がそれはデマだと言うようになりました。
私も、そのうちの一人です。
詳しい事は次の記事を読んでください。

『日本女性の愛と情念の原点』

従来どおり下世話に従うなら、巨根の道鏡を愛人として受け容れていたわけですから、この女帝はたぐい希な巨マンの持ち主だったというわけです。
その孝謙女帝の巨陰の姿をそのまま写した煉香(ねりこう)が、上の絵に描かれているわけです。



『道鏡と孝謙女帝は性具でも有名』より
(2004年3月1日)



デンマンさん。。。あんさんは、ずいぶんと詳しいやんか。。。道鏡さんの鎧甲(よろいかぶと)を使いはったん?



めれちゃん、言うに事欠いて何を言うねん? わては道鏡さんの鎧甲(よろいかぶと)を使う必要ないねん。

つまり、使わんでも道鏡さんの鎧甲(よろいかぶと)に太刀打(たちう)ちできると、あんさんは自慢したいん?

めれちゃん。。。脱線しているやん。。。脇道にそれたらアッカ~♪~ン!

分かりましたわ。。。あとでゆっくりと見せてもらいますよってに。。。(微笑)。。。それで、他に何が言いたいねん?

わては、たまたまバンクーバー図書館からおもろい本を借りてきたのやがなァ。

何がそれほどおもろいのォ~?

芥川龍之介がエロ本を探して欲しいという依頼の手紙を書いてるねん。 ちょっと次の部分を読んで欲しいねん。


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大正10年3月、芥川はある人に こんな手紙を書いている。

「拝啓 支那の本中楊貴妃の生殖器なぞの事を書いた本と云(い)ふのは何と云う本ですか御教示下されば幸甚です
なほそんな本で面白いのがあつたら御教へくださいませんか
僕の知つてゐる誨淫(かいいん)の書は金瓶梅。
肉蒲団。 杏花天。 牡丹奇縁。 痴婆子。 
貪官報。 歓喜奇観。 殺子報。 野嫂曝言(やそうばくげん)。 
如意君伝(にょいくんでん)。 春風得意奇縁(しゅんぷうとくいきえん)。 
隔簾花影(かくれんかえい) 等です
以上」



172ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎 2009年9月20日発行
発行所: 株式会社 新潮社



あらっ。。。あの有名な芥川さんがエロ本に関心がありはったん?



あのなァ~、男なら、まず間違いなくエロ本に関心のない人はおらん。

そうやろか?

『春本を愉しむ』を読むと、森鴎外、北原白秋、石川啄木なども春本をずいぶんと愛読していたと書いてある。

あんさんもエロ本を愛読してはるのォ~?

最近は、それほどでもないんやけど、日本に居た頃にはずいぶんとあさって読んだものなのやァ。 うししししし。。。

あんさん!。。。下卑た笑いを浮かべている場合と違いますやろう?。。。それで何が言いたいねん?

上の続きがあるねん。 ちょっと読んでみて欲しいねん。

芥川が「知っている」書の中に、『如意君伝』なるタイトルが見える。 

この本は、作家・駒田信二氏によれば、「中国風流本の四大奇書」の一書だそうである。 

他の三書は『痴婆子伝』 『肉蒲団』 『杏花天』 だそうで、芥川は全部読んでいたことになる。 

駒田氏の教示に従い、『如意君伝』の素性を紹介しよう。

この本は中国では禁書となり、押収されて滅びてしまった。 

ところが、わが国に伝わり、宝暦13(1763)年に日本橋南通3丁目の小川彦九郎、同庄七の手で和訓本の体裁で発行された。

その4年後、翻訳書が出版された。 

『通俗如意君伝』である。 翻訳者は「自辞矛斎蒙陸(じじむさいもうろく)」という。 中野三敏氏の研究では、この狂号のぬしは山口輝雄(きゆう)という。 通俗は、わかりやすいという意味である。

 (中略)

本編の主人公は、独裁者、則天武后である。 

この恐るべき女傑のお相手をつとめるのが、「如意君」、彼は何者であるか?

薛敖曹(せつごうそう)という。 

背が高く、色白のはなはだ美しい若者で、色男に似ず頭が優れており、読書を好み諸芸に通じ、おまけに酒が強い。 

変わっているのは、「肉具ハナハダ壮大ニシテ常ノ人」ならず、男の一物が馬鹿に大きかったというのである。

何でも頭から根まで筋ばっていてミミズのようで、怒ると頭は蝸牛(かたつむり)の如く、竿は皮を剥ぎたる兎の如し、突き立つ雁首に一斗の粟(あわ)を入れた袋を下げてもたるることなし、というから力も強い。

遊郭の女は皆恐れて、叫びながら逃げ去る。

 (中略)


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「頃(このころ)太后スデニ六十余歳に及ビ玉ヘドモ。 淫心サカンナルママニ」肉具の大なる男を召し入れては寵愛する。

牛晋卿(ぎゅうしんけい)という宦官(かんがん)が、武后のかすかな溜息を聞き、恐れながら、としゃしゃりでる。 

声をひそめて奏上することは、かの薛敖曹のことである。 

武后の目が光る。 晋卿の郷里の者という。 

聞くに従い、よだれをが流れだした。 そなた、早速その者を連れて参れ、と命ず。

 (中略)

晋卿、ささやきていわく、君の肉具に合う容器は武后以外に無し、この機会を逸すと君は、人道(男女の交わり)を知らないで終わるぞ。

この時、敖曹、30歳である。

晋卿の、人道うんぬんに、たちまち心がぐらついたというのだから、まあ大した男ではない。

もっとも大した男だったら、春本に登場するはずがない。

春本の読者にすれば、こんな嬉しい人物はいないのである。

 (中略)


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奈良後期の女帝、孝謙帝に重用された、河内の人、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は実在の僧だが、彼は宮中に入って病気を治した功で帝に信頼されたのだった。

このくだりは、ロシア帝政末期の怪僧ラスプーチンと似ている。

道鏡は太政大臣禅師に昇任し、ついには法王にもなった。

野望はさらに募り、宇佐八幡のお告げと称して皇位の継承を企てた。

孝謙帝が亡くなられて失脚したが、道鏡が女帝に目をかけられた理由が巨根だったから、という俗説は、恐らく『如意君伝』がわが国に伝えられてからのことと考えて間違いあるまい。

『如意君伝』が成立したのは明代らしく、日本の室町時代である

いつごろ原本が伝来したのか不明だが、江戸期には知識人の間で読まれていた様子である

紹介した『通俗如意君伝』が出版された前後から、道鏡と巨根を結びつけた川柳が、続々と詠まれている。

道鏡はすわるとひざが三つ出来

「ちんぽこめらと公卿(くげ)を嘲弄す」

「公家めらがやきおりますと道鏡言い」

(注: 写真はデンマンが貼り付けました)



175-187ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎 2009年9月20日発行
発行所: 株式会社 新潮社



ずいぶん長々と引用しやはったけど、『通俗如意君伝』が日本で読まれるようになってから道鏡さんの巨根伝説が生まれたと、あんさんは言わはるのォ~?



そうや。。。 めれちゃんかて上の文章をじっくりと読めば中国の則天武后と薛敖曹(せつごうそう)の話が孝謙女帝と道鏡のエロ話の元になっているのが判るはずやねん。

そやけど、則天武后は唐時代の女帝ですやん。 当時の日本は奈良時代やった。 それなのに江戸時代まで則天武后のエロ話が日本に伝わってき~へんかったと言うのはおかしいんとちゃうん?

あのなァ~、則天武后が生きていた時代に則天武后が登場するエロ話を書いて出版したら首が飛ぶねん。 則天武后が亡くなったあとかて中国の女帝になった人をエロ話に登場させて出版したら、当局の役人に睨(にら)まれて出世の道はなくなってしまうねん。

つまり、則天武后が悪女やと言う事が世間で受け入れられる明の時代まで『如意君伝』のような書物は出版できへんかったと、あんさんは言わはるのォ~?

そうや。。。 それが証拠に明朝の時代といえども『如意君伝』は禁書となって押収されて滅びてしまったのやがな。 日本に密輸入された物が日本に残って、その原本が 1767年に翻訳されて出版された。 それが『通俗如意君伝』やんかァ!

要するに、『如意君伝』が中国で出版されへんかったら道鏡伝説は日本に広まらなかったと、あんさんは言わはるのォ~?

そうやァ。。。

そやけど、日本の庶民が独自に道鏡さんの巨根伝説を作ったと言う事だって考えられるんとちゃうん?

それは、ありえないと、わては思うでぇ~。。。

どうして。。。?

あのなァ~、もともと道鏡さんは悪い事をしてへん。 藤原氏が政権を奪い取って思いのままに日本を動かそうとすることに対して孝謙女帝と道鏡さんが立ち向かったのやがな。 そやから、道鏡さんをからかうような戯(ざ)れ歌など奈良時代や平安時代にできるわけあらへん。

その証拠でもあるん?

そのことでは、すでに、わては記事の中で書いたのや。 めれちゃんも読んでみィ~なァ!


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道鏡は本当に悪者だったのか?

当時、僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのです。
生半可(なまはんか)な人間には とうてい真似の出来ないことでした。

道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。

道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に異国語を習得することは大変なことだった。
したがって、相当の頭脳の持ち主であったことはまず間違いないようです。

しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。

これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。
以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。

この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。

道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。
とにかく鑑真和尚が居た頃の話です。

なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか?

称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。
称徳天皇がまだ健在だった時に、道鏡は臣下としては最高の太政大臣まで上りつめたのです。
多くの歴史書は道鏡が天皇になろうとした、と伝えています。

もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。

こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。

なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか?

それは、その後 権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。
称徳天皇もれっきとした藤原氏の一員です。
一員どころか、一見して藤原氏の中核の座を占めていたように見えます。
あの有名な光明皇后と聖武天皇の娘です。

この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。
しかし、この人は藤原氏にあって反主流派の立場を貫いたようです。

この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。
最初の時は孝謙天皇と呼ばれました。
しかし、この時の実権は母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。

のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙天皇と衝突したわけです。
しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。

つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、ないがしろにしていたわけです。
これではおもしろいはずがありません。
娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。

要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。
つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。

しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。
藤原永手を中心にして、例の『六韜』の教えに基づいて暗躍を開始しました。

この『六韜』がどういうものか、まだ読んだことがない人は次のリンクをクリックしてじっくりと読んでみてください。
これは、何を隠そう藤原氏のバイブルです。

『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野の薬師寺に左遷されたわけです。
道鏡が現在伝えられているほど悪い事をしていないということは、彼が左遷されたにすぎないということが何よりも良い証拠です。

伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。



『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)



つまり、道鏡さんが法王になって日本を乗っ取ろうとした企みが事実とすれば『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていた。 そうならへんかったのは藤原氏の陰謀があったという何よりの証拠やと、あんさんは言わはるのォ~?



その通りやァ。。。明治時代の「大逆事件」を見れば、すぐに分かろうと言うものやァ。

大逆事件

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1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。
日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。

特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す。
幸徳事件ともいわれる。

概要

政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。
裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。

堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。
以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件

敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。
1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。
これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下している。

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。
松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。
平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。
検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。
1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。
特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。
仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。



(写真は『軍歌余談』より拝借)

出典: 「大逆事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



道鏡さんが企てたことが本当やとしたら大逆事件以上に日本国に対する最大の罪やん。 少なくとも藤原氏の目には、そう見えたはずや。 死刑にしてもまだ足りないはずやったのに、なぜ下野(しもつけ)の国にある寺に左遷だけやったのか?



なぜやの?

つまり、藤原氏の側に後ろめたさがあったのや。 悪いのは孝謙女帝と道鏡さんではなくて、自分たちだと言う事をよ~く知っていたのやがなァ。

その証拠は。。。?

その当時の刑罰には5つの刑が定められていた。

笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)

大逆事件以上の事件を起こしたのやさかいに道鏡さんは死刑になっても当然なのやがなァ。 それなのに死刑にせんかった。 それよりも軽い流(る)罪やった。

だから、どうして。。。?

あのなァ~、当時の人はマジで霊魂を信じていたのやァ。 無実の人を罪に陥(おとしい)れて死なせたりしたら、どうなるのか? 藤原氏の人たちはよ~く知っていたのやァ。 

無実の人を死に追いやると、どうなるん?

恨みを持って死んでいった人の霊魂の祟(たた)りに遭うのやがなァ。 そういう事件が実際に起きてしもうた。

長屋王の変

長屋王(ながやのおおきみ)

生年: 天武天皇13年(684年)?
没年: 神亀6年2月12日(729年3月16日)


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長屋王は、奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。

長屋王政権

長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。
平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。
ただし、長屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。

霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が薨去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。
さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に薨去すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位にあった房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。
その後長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。

当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身の法がある。
また養老3年(719年)には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている。

神亀5年(728年)5月には、王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願している(神亀経)。

長屋王の変

このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。
不比等の生前こそ、舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露になってきた。

神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。
これが長屋王の変である。
讒言であったとする説が強い。

聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏系の安積親王しか男子がいなかった。
政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であったことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。

王の薨去後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。 王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。

なお、『続日本紀』によると、翌10年(738年)の7月10日、王のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。
子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。

なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。
『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている



出典: 「長屋王の変」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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つまり、陰謀で道鏡さんを退(しりぞ)けようとした藤原氏の人たちは、道鏡さんを死刑にしたら自分たちが後で祟りに遭って死んでしまうと、それで祟られないように下野(しもつけ)のお寺に左遷するだけにしたと、あんさんは言わはるのォ~?


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その通りやァ。。。めれちゃんかて祟りの事を考えたら道鏡さんを死刑にはできへんやろう? それ程、藤原氏の陰謀家たちも祟りを恐れていたのやァ。 要するに、道鏡事件も藤原氏が祟られるような事をしていた何よりの証拠やねん。

そう言う考え方が一般的やったので江戸時代まで道鏡さんの巨根伝説は生まれなかったと、あんさんは言わはるのォ~?

その通りやァ。

。。。で、江戸時代になって民衆が『通俗如意君伝』を読むようになってから、道鏡さんの巨根伝説が生まれたと、あんさんは言わはるのォ~?

そうやァ。

そやけど、それってぇちょっと飛躍しているのとちゃうん?

決して飛躍してへんでぇ~。。。これまでの話をもう一度噛み締めてみれば、民衆が『通俗如意君伝』を読むようになってから、道鏡さんと孝謙女帝のカップルを薛敖曹(せつごうそう)と則天武后に面白おかしく結びつけるようになったのやがなァ~。 祟りを恐れなくなるまでに、これだけの年月が必要だったと言うことやァ。

そうやろかァ~?

あのなァ~、『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』も江戸時代になってから葛飾北斎によって描かれたものやァ。


(doukyox1.jpg)



つまり、江戸時代になるまでは祟りが恐ろしくて画けなかったと、あんさんは言わはるのォ~?



いや。。。祟りやのうてぇ、『通俗如意君伝』を読むまでは道鏡さんが巨根の持ち主だという発想が湧いて来なかったのやがなァ~。



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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。
道鏡さんの巨根伝説が生まれたのは『通俗如意君伝』が読まれるようになった江戸時代かもしれませんわ。
でも、道鏡さんを死刑にしなかった事が藤原主流派の陰謀説という根拠は、ちょっと飛躍していると思うのです。

なぜならば、確かに律令制度には次の5つの刑罰がありました。

笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)

でも、この制度が実施されていた平安時代には事実上、死刑は行われなかったのです。
なぜなら、死刑にすると罪人の怨霊に祟られると言う考え方が藤原氏の上層部にあったからですわ。

もちろん、下々の間では人殺しはノミやシラミをつぶす様に日常茶飯事でした。
追いはぎなどをしないと食べては行けない人がたくさんいたのです。
うふふふふ。。。

笑い事ではありませんわ。
失礼いたしました。

とにかく、次回は、さらに面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。


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こんにちはジューンです。

性具のお話を興味深く読ませていただきました。

洋の東西を問わずに性具というのは

昔からあったようですわ。

わたしもその類のお話を聞いたことがあります。

わたしは実際に使ったことがありませんが

東洋から伝来した性具として“Benwa”というものが

カナダやアメリカでは知られています。

Burmese bells とか

Geisha balls とも呼ばれています。


(benwa10.jpg)

卵よりも一回り小さなボールを2つ繋(つな)げたもので

それを女性の大切な所に入れるのだそうです。

そうすると、行為の最中に、

よりいっそうの刺激を受けることになり、

女性は、より甘美な快感に浸れるのだそうです。

日本語では何と言うのですか?

デンマンさんに、そう尋ねましたら

“卵形ローターのことじゃないの?”

そうおっしゃったのですが、私は別物だと思いますわ。

もし、時間があったら、

あなたも調べてみたらいかがですか?


(catanta2.jpg)

ところで、デンマンさんがレンゲさんの記事を集めて

一つにまとめました。

もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

■ 『最近のレンゲ物語 特集』


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とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。



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