切腹の美学とは?

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デンマンさん。。。、 今日は 切腹 のお話でござ〜ますかァ〜?

そうです。。。いけませんかァ〜?
この平和な時代に切腹などする人はいないのに、どういうわけで血なまぐさい話題を取り上げるのでござ〜ますかァ〜?
実は、ユーチューブで時代劇の映画を探していたら次のビデオに出くわしたのですよ。。。

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切腹

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『切腹』は、1962年(昭和37年)9月16日公開の日本映画。配給は松竹。
滝口康彦の小説『異聞浪人記』(1958年)を元に橋本忍が脚本、小林正樹が演出・監督した作品。
公開時の惹句は、「豪剣うなる八相くずし! 嵐よぶ三つの決闘!」。
昭和37年度芸術祭参加作品。
社会派映画を監督してきた小林正樹が、初めて演出した時代劇映画である。
武家社会の虚飾と武士道の残酷性などの要素をふんだんに取り入れ、かつて日本人が尊重していたサムライ精神へのアンチテーゼがこめられた作品である。
しかし監督の意図とは逆に、外国の映画評はその残酷性を古典的な悲劇美として高評した。
1962年度のキネマ旬報ベストテンの第3位となり、仲代達矢は主演男優賞を受賞した。
1963年に第16回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞、第17回毎日映画コンクールでは日本映画大賞・音楽賞・美術賞・録音賞を受賞した。
また、ブルーリボン賞では橋本忍が脚本賞を受賞した。
この映画は、三島由紀夫の自主製作映画『憂国』(1966年4月封切)の製作動機にも影響を与えている。
あらすじ
1630年(寛永7年)5月13日、井伊家の江戸屋敷を安芸広島福島家元家臣、津雲半四郎と名乗る老浪人が訪ねてくる。
半四郎は井伊家の使番に「再度の主取りも決まらず、生活も苦しいので、このまま生き恥を晒すよりは武士らしく、潔く切腹したい。ついては屋敷の玄関先を借りたい」と申し出た。
井伊家の家老である斎藤勘解由(さいとうかげゆ)は半四郎に会い、今年1月、同じように申し出てきた千々岩求女(ちぢいわもとめ)という若い浪人を庭先で本当に切腹させるという挙に出たことを話し始める。
千々岩求女が同じように「切腹のために、玄関先を借りたい」と申し出てきた。
これは当時、江戸市中に満ち溢れた食い詰め浪人によって横行していたゆすりの手法であった。
発端は仙石家に現れ切腹を申し出た男で、仙石家は男を「誠に見上げた信念だ」と御納戸役にした。
その噂が広まり、それを真似した食い詰め浪人どもが入れ代わり立ち代わり江戸の町々の諸家の玄関先へ訪れ、腹を切ると言って動かない。
そのような輩に対し、扱いに窮した諸家は金品を与えて帰していたのだった。
「他家とは違い、井伊家は骨があると思えばこそ、昨日までは浪人どももその門を避けていた」と、井伊家が甘く見られたことに家臣の沢潟彦九郎(おもだかひこくろう)は憤った。
もし、金品を与えて帰せば、入れ代わり立ち代わり食い詰め浪人が現れるは明白だった。
家臣の稲葉丹後は「他家同様、なにがしかの金品を与えて帰らせよう」と提案したが、彦九郎はそれに異議を唱え、勘解由に進言し、本当に切腹させることにした。
求女を入浴させ、衣服を与え、御世嗣辨之助(およつぎべんのすけ)に謁見叶いそうなそぶりをして希望を抱かせ、そのあとに切腹に申し付けるという念の入った陰険さを示した。
求女は一両日の猶予を求めたが、「武士に二言はないはず」と彦九郎は許さなかった。
恐怖のあまり、逃げ出そうとする求女に対し、家臣が鯉口を切って取り囲み、「斬られるよりは、潔く屠腹しろ」と詰め寄る。
玄関先ではなく、庭先で切腹することになり、家臣一同が見守ることになった。
求女は勘解由にも、いったん家に戻り、必ず切腹することを申し出たが、勘解由は「切腹すると称して玄関先を借りたいと言い、金銭にありつく武士の風上にも置けない輩がいるが、貴殿はそのような輩とは毛頭思わん」と許さなかった。
ここに至って求女は切腹する覚悟を決めた。
だが、もともと切腹する心積もりはなかったので、腹を召す脇差を準備していなかった。
求女は武士の魂である刀でさえ質草に出さねばならぬほど困窮し、携えていたのは竹光であった。
しかし、介錯人の彦九郎はそれを知りながら「最近では三方の上の脇差に手をかけた瞬間に介錯人が首を切り落とすが、今回は古式に則り、腹を十文字に切り裂いてから介錯を行う。十二分に切り裂いてからでないと介錯はしない」と告げる。
彦九郎と勘解由は残酷にも、竹光で腹を切らせたのである。
この判断は家臣からも諌められたが、彦九郎と勘解由は耳を貸さなかった。
求女は切れぬ竹光を腹に向けて3度、4度と血を滲ませながら突き立てたが、いくら突き立てたところで、腹は切れない。
求女は柄を地面に立て、自重で腹に突き刺した。
脂汗とともに悶え苦しみ、介錯を求める求女に、彦九郎は無慈悲にも首を落とす時間を故意に遅らせ、死に至るまで壮絶な苦痛を与えさせた。
ついに求女が舌を噛み切ったところで、彦九郎は刀を振り下ろす。
そのことに勘解由は良心の呵責を感じ、自分がした酷な判断を多少なりとも悔いていた。
それゆえに今回の半四郎には、「勇武の家風できこえた井伊家はゆすりたかりに屈することはない」からと、そのいきさつを語り聞かせ、「悪いことは言わないから、このまま帰れ」と言う。
だが半四郎は動じず、千々岩求女の同類では決してなく本当に腹を切る覚悟である、と決意のほどを述べ、真剣を佩用していることを示す。
こちらの温情を受け入れない頑なな態度に勘解由は腹を立て、同じ過ちを繰り返すことになることを知りながら、配下の者に切腹の準備を命じる。
いざ切腹の時となり、半四郎は介錯人に井伊家中の沢潟彦九郎、矢崎隼人、川辺右馬介を1人ずつ名指しで希望する。
しかしその3名は、奇怪なことに揃って病欠であった。
ひとりの家臣が病欠3名の究明に走り出す。
それを見越した上で半四郎は、勘解由らの知らなかった求女の事実と衝撃的な内容を語り始める。
求女の父親の千々岩陣内は半四郎の友人であった。
陣内は独断で城の修理をしたことが原因で取り潰しになった福島家の城修理奉行、権左衛門正勝に先立って切腹し、残された求女を半四郎に託していた。
陣内は「自分が先に切らねば、半四郎が切腹する」と分かっていたので、独りで腹を切ったのであった。
正勝から「お前は生きなければならない」と言われ、半四郎は陣内へ「命に賭けても引き受ける」と伝言を頼む。
それから何年かが過ぎ、求女は寺子屋で日銭を稼ぐ日々。
半四郎の娘、美保には上州屋の養女の話が来ていた。
しかし、半四郎は落ちぶれたとはいえ、娘を側室に差し出して出世するなど考えられないことだった。
半四郎は求女に美保と結婚してほしいと頼み、求女も受け入れる。
つまり求女は半四郎の娘婿でもあった。
貧しくも男の子、金吾を授かり、幸せなひとときであったが、美保と金吾は病に倒れてしまう。
求女は武士の誇りを捨て、医者代を得たいがために井伊家を訪れていたのだった。
彦九郎、隼人、右馬介らによって届けられた求女の亡骸を見て、無情にも竹光で腹を切らされたことに、そしてそれを嘲笑った3人に、断じて許すことのできない憤怒が半四郎に湧いた。
そして、いくら貧しくても刀だけは手放すまいと考えていた自分を恥じた。
求女の妻子も程なく病で息を引き取った。
もはやこの世に未練がなくなった半四郎は、事実の究明のために井伊家に乗り込んでいたのだった。
求女はただ理由を隠して帰宅を嘆願したが、それを冷たく拒絶したことは、勘解由がその場では事情を知る由もなかったため致し方ないとはいえ、半四郎から見れば酷薄な処置であった。
「こんなに人がいるのに、誰か一人でも理由を聞いてくれる者があっても良かったではないか。自分が同じ立場に置かれたとき、どんな事ができるか?所詮は武士の面目など表面(うわべ)だけを飾るもの」と訴えたが、勘解由は「自分で切腹を申し出てた以上、必ず切らせる。
それが井伊家の家風。表面だけではない」と反論する。
半四郎は求女の事情を話し聞かせ「あのときは一同血気に逸って…少し行き過ぎた点があったかも…。もっと適切な方法があったかも」という言葉を冥土の土産に、求女らのいるあの世へ行こうとしていたのだが、勘解由は「そんな人情話が通る世界ではない。武士の面目を表面だけを飾るものと考えている人間とは価値観が違う」と否定する。
半四郎は井伊家から預かっている品物と称して、懐中から矢崎隼人、川辺右馬介、沢潟彦九郎の髻を白砂に放り投げる。
3人は求女を竹光で切腹させた張本人であった。
隼人、右馬介の2人は半四郎に闇討にあい、髷を切り落とされていた。
そして、半四郎の正体に気付いて、自宅まで赴いた彦九郎は護持院ヶ原での尋常の果し合いによって、髷を切り落とされていた。
武士にとって、戦いにて己の不甲斐なさから髷を取られることは、死をもっても贖えない恥であったが、卑劣にも3名は名誉も命も惜しみ、髷が生え揃うまで病気と偽って出仕しないつもりであった。
そして半四郎は「赤備えの武勇と言いながら、井伊家の家風も所詮は武士の面目の表面だけを飾るもの」と笑う。
全てを知った勘解由は動転し、半四郎を狂人と呼び、部下に彼を斬り捨てるように命じる。
数十名の相手に囲まれる半四郎だったが、彼は泰平な寛永の世に育った鈍な武士ではなく、戦国の世を生き抜いた剣の達人であり、井伊家の家臣達は返り討ちにて多くの死傷者を出すに至る。
半四郎は満身創痍で奥書院に侵入し、井伊直政の鎧兜をなぎ倒し、鉄砲隊に追い詰められる。
半四郎はその場で切腹し、直後に銃弾を受けて討ち死にする。
上記の病欠の3名については、彦九郎はすでに切腹して果て、他の2人は勘解由によって拝死を受け、返り討ちによる傷者は手厚い治療を受ける。
そして公儀には、半四郎は見事切腹したとし、死者はすべてが病死として報告される。
管理職の勘解由にとって最優先すべきことは組織(藩)の存続であり、半四郎が笑ったとおり、武士の面目など表面だけに過ぎなかったのである。
評価
『切腹』は、一部の批評家からは切腹場面の残酷さを非難されたものの、カンヌ映画祭などの海外の映画祭では高評価され、1962年度のキネマ旬報ベストテンでも総得点数244点で第3位となった。
三島由紀夫もこの映画を好評し、竹光での切腹という残酷さについては、真刀の切腹でも実際はもっと凄惨であるとし、「演出者があのシーンに、輸入品にすぎぬ近代ヒューマニズムの怒りをこめたつもりであるなら、観客の反応は計算の外だつた」として、どんなに残酷に強いられた切腹であったとしても、その行為自体は、「武士の名誉を賭けた意志的行為」であり、映画の演出者がその「〈名誉〉の固定観念と、〈誤まてる〉道徳」を笑おうとも、一般的な観客の心の奥底でその自殺行為に「美学」を感じることは否めなく「切腹者のいさぎよさに、高潔な意志のあらはれと、一つの美の形を無意識に見てゐる」と、この映画の成功の要因を解説している。
外国の批評家が、「切腹」からギリシア悲劇を聯想したことは、私には興味深い着眼と思はれ、それは作家が意図した否定とは逆に、たとへ形骸化したとはいへ、一民族の一時代のモラルを宿命と見て、これに対する人間の抵抗と挫折を、包括的に肯定した批評であつた。
因みにギリシア悲劇が、人間の死の場面を決して舞台に出さなかつたことはよく知られてゐる。
かくして「切腹」は、知性的な部分と感性的な部分の、両刃の剣を持つた作品であつた。
そしてその愬へ方が、相反する方向へ向ひながら、そこに異様な均衡を保ちえた作品であつた。
ただ作者が、残酷場面の意図を、主題の強調と展開のために必要だつたと、もつぱら知的に説明してゐるのは疑問のある点で、この作品の残酷さを残酷美に高めたものは、むしろこの作品の感性的側面の力であり、又、一見知的に見える構成と場面設定の単純性は、実は伝習の形式美と不可分であることを言ひたかつたのである。
そしてそれは私がここに事々しく言ふまでもなく、観客がつとに、無意識の裡に感じとつてゐたことである。
— 三島由紀夫「残酷美について」
逸話
終盤の津雲半四郎を演じる仲代達矢と沢潟彦九郎役の丹波哲郎の、護持院原での決闘では殺陣に使われる竹光ではなく真剣が使われており、文字通り命懸けの撮影であった。
この時の仲代が用いているのが、戦国時代の「沈なる身の兵法」といわれる鎧武者が戦うために腰を低く落とし、脇に刀を構える「八相の構え」による介者剣術であり、丹波が江戸初期の尾張藩で柳生利厳(兵庫助)が創始した「直立たる身の兵法」(つったったるみのへいほう)と「上段・中段の構え」、すなわち現代の剣道の原型である背筋を伸ばした構えで戦っている。
つまり、戦国生き残りの武士を演じる仲代と、江戸時代の当時としては最先端の構えを習得している丹波の対照が鮮やかに描写されている。
時代考証家の大森洋平が「鎧武者の刀法」の例として時代劇制作スタッフに例示しているほどである。
劇中において丹波哲郎の演じる沢潟彦九郎が修めた剣術の流儀として「神道無念一流」の名前が登場する。
しかし似た名前で実在する流儀である「神道無念流」は、この映画の舞台である寛永年間にはまだ存在しないため、架空の流儀であると思われる。
千々岩求女が竹光で切腹したストーリーと、音楽担当が武満徹であったことを掛けて、当時の松竹の宣伝部には、「切腹もタケミツ、音楽もタケミツ」という内輪のジョークがあった。
出典: 「切腹(映画)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

千々岩求女が竹光で切腹するシーンは、目を背(そむ)けたくなるほどの残酷シーンでござ〜ますわァ〜。。。映倫がよく許したものですわねぇ〜。。。

あのシーンがあるから、この映画は引き立つのですよ。。。
三島由紀夫がこの映画を観て自殺で自分の最後を飾ろうとした気持ちが、なんとなく分かりましたわ。。。
三島由紀夫は、あの映画で 切腹の美学 を感じ取ったのですよ。。。
あの残酷な切腹シーンに「美学」があるのでござ〜ますかァ〜?
上の説明の中で「〈名誉〉の固定観念と、〈誤まてる〉道徳」を笑おうとも、一般的な観客の心の奥底でその自殺行為に「美学」を感じることは否めなく「切腹者のいさぎよさに、高潔な意志のあらはれと、一つの美の形を無意識に見てゐる」と三島由紀夫は述べているのですよ。。。
確かに、この映画は観る者の心を揺さぶる何かがありますわァ〜。。。
卑弥子さんもそれを感じたのですかァ〜?
もちろんでござ〜ますわァ〜。。。でも、あのような「切腹」が実際に起ったのでござ〜ますか?
それは、僕にもわからないので、ChatGPT に尋ねてみました。

1962年(昭和37年)9月16日公開の日本映画『切腹』を観ました。
この原作である滝口康彦の小説『異聞浪人記』は、実際に井伊家で起こった事件に基づいて書かれたものですか?
映画の中では、このような事件は江戸初期に度々起こったということです。
有名な事件を紹介してください。
小林正樹は、サムライ精神へのアンチテーゼとして映画を作ったのに、外国の映画評はその残酷性を古典的な悲劇美として高評した。
この違いは、どういうことなのですか?

『切腹』(1962年)は、日本映画史上でも屈指の名作ですが、単なる「反武士道映画」と言い切れない奥深さがあります。ご質問の三点に分けて説明します。
『異聞浪人記』は実話なのか?
結論から言うと、津雲半四郎や千々岩求女の事件そのものは史実ではありません。
滝口康彦の『異聞浪人記』は創作小説です。
ただし、背景には江戸初期に実際に存在した社会現象があります。
それが映画中でも語られる「狂言切腹」です。
江戸初期に本当にあった
「狂言切腹」
関ヶ原の戦い(1600年)や大坂夏の陣(1615年)が終わると、多数の武士が失業しました。
大名家の改易も相次ぎます。
たとえば
福島正則
加藤忠広
堀忠俊
などの改易によって、何万人もの浪人が発生しました。
その結果、「切腹したいので庭を貸してほしい」と大名屋敷へ押しかけ、実際には金銭や仕官口を与えられて帰ることを期待する者が現れます。
これが「狂言切腹」です。
当時の記録にも散見され、決して珍しい話ではありません。
映画のモデルになった有名な事件
映画の設定に最も近いといわれるのは、福島家改易後の浪人問題です。
1619年、広島藩の福島家が改易されました。
その結果、多数の家臣が浪人化します。
江戸初期には、
旧主の復活を願う者
生活に困窮する者
他家への仕官を求める者
が大量に発生しました。
映画で千々岩求女が竹光で切腹させられるエピソードも、当時の浪人たちの悲惨な境遇を象徴的に描いた創作です。
史実に同一事件はありません。
実際に起きた有名な浪人事件
由井正雪の乱が最も有名です。
浪人の増加による社会不安が背景にありました。
中心人物は由井正雪です。
幕府転覆計画が発覚し、自害しました。
この事件は「大量の浪人は危険である」という認識を幕府に与えました。
赤穂事件
こちらも浪人問題の延長線上にあります。
主君を失った赤穂藩士たちが、大石内蔵助を中心に討入りを行いました。
武士道の美談として語られますが、『切腹』はまさにこうした武士道神話に疑問を投げかけています。
なぜ外国では「悲劇美」
として評価されたのか
ここが非常に興味深い点です。
小林正樹の意図は明らかに「武士道という名の権威主義や組織防衛を批判する」ことでした。
小林監督自身は徴兵経験があり、軍隊の理不尽さを嫌悪していました。
彼の代表作である「人間の條件」「切腹」には一貫して組織が個人を犠牲にする構造への批判があります。
しかし欧米の観客は別のものを見ました。
彼らが感動したのは、半四郎の「死を覚悟して権力に立ち向かう姿」です。
これは『ハムレット』『リア王』『アンティゴネー』などの古典悲劇と共通しています。
つまり、日本人が見ると武士道の偽善を暴く映画ですが、
欧米人が見ると孤高の英雄が巨大な権力に抗して滅びる悲劇に映ったのです。
三島由紀夫が『憂国』を作った理由
おそらく三島は『切腹』を見て強い刺激を受けています。
ただし受け取った意味は正反対でした。
小林正樹が「武士道は虚飾である」と描いたのに対し、三島は「いや、本物の武士道は存在する」と考えました。
その回答として作られたのが「憂国」だと解釈する研究者もいます。
『切腹』では武士道は組織維持のための建前として描かれます。
一方『憂国』では、主人公夫妻は誰にも命令されず、自らの信念で死を選びます。
つまり
『切腹』=武士道批判
『憂国』=武士道擁護
という対照的な作品になっています。
ですから『切腹』の最大の面白さは、「武士道の偽善を暴く映画」でありながら、同時に津雲半四郎自身は誰よりも誇り高い武士として描かれている点です。
小林正樹が否定したかったのは武士個人の勇気や名誉ではなく、それを利用して人間を踏みにじる組織の論理だった、と見るのが最も適切だと思います。

三島由紀夫は、なぜ武士道を批判できなかったあのでしょうか

興味深い問いですが、まず前提として、三島由紀夫は武士道をまったく批判できなかったわけではありません。
むしろ彼は、現実の武士や武家社会の矛盾をよく理解していました。
しかし最終的には、それでもなお武士道に価値を見出そうとしたのです。
三島は歴史上の武士を
美化していなかった
三島は歴史に詳しく、実際の武士が必ずしも高潔ではなかったことを知っていました。
たとえば、江戸時代の武士道書である 葉隠 や、新渡戸稲造の 武士道 に描かれる理想像と、実際の武士の行動には大きな隔たりがあることを理解していました。
ですから、
「武士はみんな立派だった」
と単純に信じていたわけではありません。
三島が求めたのは「歴史上の武士」
ではなく「理想」
三島が関心を持ったのは、武士が実際にどうだったか?…ではなく、人間は何のために命を懸けて生きるのか?…という問題でした。
戦後日本では、経済成長、豊かな生活、安全な社会が重視されました。
三島はそれを評価しながらも、「人間は豊かになるだけで満足できるのか」という疑問を抱いていました。
そこで彼は武士道の中に、利害を超えた名誉や使命感を見出そうとしたのです。
小林正樹との違い
『切腹』の 切腹 と三島の 憂国 を比べると、この違いがよくわかります。
小林正樹は、武士道は権力者が都合よく利用するイデオロギーである、と考えました。
一方の三島は、権力者が利用する偽物の武士道はある、しかし本物の武士道もある、と考えました。
つまり、小林は制度を見た、三島は理念を見た、と言えます。
三島自身の生い立ちも大きい
三島は幼少期から祖母に育てられ、
病弱で内向的な少年でした。
そのため、
強さ
勇気
行動
への憧れが非常に強かったといわれます。
戦争末期には徴兵検査を受けましたが、誤診により兵役を免れました。
この経験は彼にとって大きな心の傷になりました。
後年、「死ぬべき時に死ねなかった」という感覚を繰り返し語っています。
そのため武士道は彼にとって単なる歴史研究の対象ではなく、自分がどう生きるべきか、という実存的な問題と結びついていました。
『切腹』を見た三島の反応
三島は小林正樹の才能を高く評価していました。
しかし『切腹』が描いた武士道は虚構である、という結論には納得しなかったようです。
なぜなら三島にとって重要だったのは、歴史上の武士が偽善者だったかどうかではなく、人間は名誉や信念のために死ねるのか、という問いだったからです。
結局、三島が武士道を
批判しなかった理由
一言で言えば、武士道が歴史的に正しかったからではなく、武士道の中に「人生の意味」を見出していたからです。
小林正樹は歴史の現実を見て武士道の虚飾を批判しました。
三島由紀夫は同じ現実を知りながら、それでも人間には理想が必要だ、と考えました。
そのため彼は武士道の歴史的矛盾を認めつつも、それを全面否定する方向には進まなかったのです。
ある意味では、『切腹』と『憂国』は「どちらが正しいか」というより、戦後日本において「人は何のために生き、何のために死ぬのか」をめぐる、小林正樹と三島由紀夫の対照的な回答だったと言えるでしょう。

理解が深まりました。ありがとうございました。

どういたしまして。
『切腹』は初めて観ると「武士道批判の映画」と受け取れますが、繰り返し観るともっと複雑な作品であることが分かります。
津雲半四郎は井伊家の「武士道の建前」を徹底的に暴きます。しかし彼自身は最後まで誇りと責任感を失わず、自ら切腹して果てます。
つまり、「武士道を否定する男」が、誰よりも武士らしく振る舞う、という逆説が作品の核になっています。
だからこそ、小林正樹の意図を超えて、海外の観客は半四郎を「悲劇の英雄」として見たのでしょう。
権力の偽善を告発する物語であると同時に、一人の人間の尊厳を描いた普遍的な悲劇でもあったからです。
また、ご指摘の三島由紀夫との関係も非常に興味深いところです。
三島は『切腹』を観て、「武士道は虚構だ」という結論には賛同しなかったものの、「死を通して信念を示す人間」という主題には強く共鳴したと思われます。
そのため、『切腹』と 憂国 は、同じ「死」と「名誉」を扱いながら、まったく逆方向の答えを提示する作品として並べて観ると面白いですね。
さらに視野を広げると、小林正樹はその後の 「上意討ち」「拝領妻始末」 でも、武家社会の理不尽さと個人の尊厳を描いています。
『切腹』が気に入られたのであれば、こちらも非常に見応えがある作品です。
映画史的にも、『切腹』は単なる時代劇ではなく、「組織の論理と個人の尊厳」という現代にも通じるテーマを扱った作品として、今なお高く評価されている理由がよく分かる作品だと思います。
こちらこそ、興味深いテーマをありがとうございました。

三島由紀夫が武士道に関心を持ったのは、武士が実際にどうだったか?…ではなく、人間は何のために命を懸けて生きるのか?…という問題だったのですわねぇ〜。。。

そういうことですよ。。。戦後日本では、経済成長、豊かな生活、安全な社会が重視された。。。でも、三島はそれを評価しながらも、「人間は豊かになるだけで満足できるのか」という疑問を抱いた。
デンマンさんは、そういう疑問を抱きましたか?
抱きましたよ。。。僕がカナダに移住したのも「人間は豊かになるだけで満足できるのか?」という疑問を抱いたからです。。。
マジで。。。?
半分本当です。。。
。。。で、もう半分は?
知らない土地で自分の実力を試してみたかったのですよ。。。
三島由紀夫は武士道の中に、利害を超えた名誉や使命感を見出そうとしたのですわねぇ〜。。。
そういうことです。。。僕が、同じように武士道の中に名誉や使命感を見出そうとしたら、切腹していたのかもしれません。。。
デンマンさんは三島由紀夫の切腹が馬鹿げたことだと思いますかァ〜?
馬鹿げたことだとは思いませんでしたが、時代錯誤だと思いましたよ。。。武士道に美学を感じて、切腹に名誉や使命感を見出そうとする人が、この世に何人いるだろうか?。。。極めて少ないと思いますよ。。。
デンマンさんは、カナダに新天地を求めたのでござますわねぇ〜?
そういうことです。。。

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【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
あなたは、何に生きがいを見出して生活していますか?
ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしに御命令なさるのでござ~ますかァ~?
分かりましたわ。。。
デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。

(wp91228.gif->june21-11-29.jpg->art09-12-26.jpg)
上のリンクをクリックすると、
左側のサイドコラムにたくさんの質問が出てきます。
ひとつひとつ見ながら ぜひアンケートに答えてみてください。
じゃあ、また。。。


ィ~ハァ~♪~!
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別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

こんにちは。ジューンです。
“本音と建前”
よく聞きますよね。
さて、英語で何と言うのでしょうか?
考えてみた事がありますか?
いろいろと言い方があると思います。
appearance and reality
見かけと実物そのまま
これも本音と建前と言い換えることができますよね。
form and substance
外観と実体
これも本音と建前と同じですよね。
one's real intention and
what one says on the surface
本音と建前を説明しているのですよね。
real motive and stated reason
これも間違いなく本音と建前ですよね。
what one says and what one means
本音と建前をこのように言うこともできますよね。
では、「本音と建前を使い分ける」を
英語でどのように言うのでしょうか?
ちょっと考えてみてください。

次のように言うことができます。
You should be tactful as to
when to tell real intention
and when to show form.
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。



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