2011年7月25日月曜日

悔恨の気おくれ

  
悔恨の気おくれ







Subj:グルメの小百合さんが

ウハウハ喜んで読めるような

グルメな記事を書きましたよう。

\(*^_^*)/ キャハハハ。。。




Date: 25/08/2009 9:34:01 PM
Pacific Daylight Saving Time
(日本時間:8月26日 水曜日 午後1時34分)
From: green@infoseek.jp
To: domini@yahoo.co.jp
CC: barclay1720@aol.com




“デンマンさんも秋ですね。”



そうです。。。そうです。。。
バンクーバーは小百合さんが言うようにめっきり秋の気配に包まれていますよう。
もう夏は終わりました!

今日、8月25日の最高気温は21度です。
ラーメンが食べたくなるような涼しさです。



ところで、小百合さんの「麦わら帽子」から『人間の証明』のことでたくさん記事を書きました。
小百合さんからインスピレーションをたくさんもらいました。
ありがとね。



『人間の証明 (2009年8月19日)』

『女の証明 (2009年8月21日)』

『母の証明 (2009年8月25日)』


森村誠一さんの経歴から熊谷生まれだと知り、
さらに、12歳のときに熊谷空襲を体験したということから。。。
僕の母校・熊谷高校をウィキペディアで調べることになったのでした。

旧制熊谷中学時代に19年間も教えた弘中又一先生が、なんと、『坊っちゃん』のモデルだったと知り、僕の興味も『人間の証明』から『坊っちゃん』に移って行ったのでした。

松山中学の生徒の間で歌われていたものに「教師数え歌」があるのです。
「一つ弘中シッポクさん」で始まっており、7番目に「七つ夏目の鬼がわら」とあるのですよう。
このシッポクとは、シッポクうどんのこと。



グルメの小百合さんのために、調べましたよう。
9月2日の記事の中で書きました、
題して『坊っちゃん再訪』

『坊っちゃん再訪 (2009年9月2日)』

熊谷時代の弘中先生の好物がどじょう。
それで「柳川鍋」も調べました。

小百合さんは、多分、泥鰌(どじょう)が嫌いでしょうね?





でもねぇ~、「柳川鍋」はうまそうだよう。
うまそうな写真を載せてあるから、ぜひ読んでみてね。

子供の頃、お袋が「柳川鍋」風どじょうドンブリを作って食べさせてくれたけれど、
“うまい!”と思って食べたことはついに一度もありませんでした!

\(^▽^;)/ きゃはははは。。。
 
じゃあ、ゆっくりと読んでみてね。
小百合さんも、きっと、よだれが出てくると思うよう。

(\__/)
(+'.'+)
(")_(")


じゃあねぇ~






『弘中先生と熊谷 (2009年9月6日)』に掲載




デンマンさん。。。ずいぶん古いメールを持ち出してきましたわね。



以前の記事を読んでいたら急に懐かしいメールに出くわしたので、ここに書き出したのですよ。

その記事というのはどのような内容でしたの?

あのねぇ~、僕が熊谷高校に入学してまもなく、行田地区の生徒が理科の実験室に集まって、新入生歓迎の談話会を催(もよお)したという話なのですよ。

面白そうですわね。

当時、高校三年生の春田少年が、大人も顔負けの話をしたのですよ。 僕も含めて新入生は春田さんの話にすっかり感心したものですよう。

それで、20年以上経っているのにデンマンさんはお話の内容をほとんどすべて覚えていたのでますか?

そうですよう。 僕はねぇ~、大学に入ってから集まりがあって、何か話せと言われたら春田さんがしたような話を内容を少し変えて話そうと、そう考えて記憶にとどめていたのですよう。

。。。んで、お話しする機会があったのですか?

松下産業の新入社員研修で、その機会があったのですよう。 でも、どう言う訳か、その時はすっかり忘れていたのです。

それで、お話しする機会が無いままに、20年以上経って思い出した時に次の記事を書いたのですか?

『はなし (2005年4月7日)』

そうなのですよう。。。結局、今まで人前で話したことは一度も無かった。

それで今日は、デンマンさんが在学中に感銘を受けたユニークな先生のお話をしてくださるのですか?

うん、うん、うん。。。そうですよう。 実は、夏目漱石の『坊ちゃん』のモデルになった弘中先生が旧制熊谷中学で19年間も教えたのです。 松山中学では滞在期間が1年にも満たなかったのだけれど。。。

デンマンさんが在学当時でも、そのお話は有名だったのですか?

いや。。。聞いた覚えはあるのだけれど、それほど在校生が話題にする話でもなかった。

。。。で、当時の熊谷高校にも名物先生がいらしたのですか?

いましたよ。。。旧制熊谷中学・新制熊谷高校には、先生が長く留(とど)まるよう、そんな自由な雰囲気があったのですよ。 僕は“坊っちゃん”があこがれるような自由な雰囲気を在学中にマジで感じたものでした。

その自由な雰囲気とは。。。?

『坊っちゃん』の次の「あらすじ」を読めば見当がつきますよう。


あらすじ



旧制松山中学に赴任した

21才頃の弘中先生

(坊っちゃんのモデル)


人を小馬鹿にしたような赤シャツを着ている教頭「赤シャツ」、たくましい面構えの同僚教師「山嵐」、調子のいい芸人のような画学教師「野だいこ」など、個性豊かな教師たちと生意気な生徒たちに囲まれて始まった坊っちゃんの教師生活。
でも、わずか1ヵ月あまりで終わりを迎えます。
教頭の赤シャツと同僚の山嵐との争いに巻き込まれたのです。
出世ばかりを気にして教師に責任をなすりつける。うらでこそこそする。そんな赤シャツの振る舞いに怒った山嵐と坊っちゃんは、ついに、赤シャツと赤シャツに従う教師たちに立ち向かう決意をします。

赤シャツたちを待ち伏せした坊っちゃんと山嵐。
坊っちゃんは袂(たもと)から取り出した生玉子を野だいこの顔をめがけてたたきつけ、山嵐は赤シャツをさんざんになぐりつけました。
その夜、二人は学校を辞め、松山を離れます。
松山を離れていく船上で、晴れ晴れとした気分に浸る坊っちゃん。
生まれ育った東京に戻り、「漸(ようや)く娑婆(しゃば)へ出たような気がした」と、やっと煩わしさから解放された自由な気分に浸ったのです




『坊っちゃん再訪 (2009年9月2日)』より




つまり、弘中先生も自由な気分に浸りたかったのでしょうか?



そうだと思います。 「坊っちゃん」にとっても、弘中先生にとっても、町の雰囲気や学校の雰囲気に、窮屈で煩わしく、息苦しいものを感じて松山の教師生活を終わらせたのですよう。

。。。つうことわ、熊谷での生活は自由な雰囲気にあふれていたと言うことですか?

そう言う事です。 モデルになった弘中先生は、事実、19年間も熊谷中学で教えたのですからね。 弘中先生の愛した自由な雰囲気があったのに間違いないのですよう。

デンマンさんには、どうして分かるのですか?

だから、僕の経験した自由な雰囲気を書き出してみますよう。 まず手始めに英文法の先生と漢文の先生の話をします。


自由で開放的な

授業の雰囲気




英文法の先生で、とてもユニークな先生が居ましたよ。ユニークと言っても、このエピソードがあったから、僕はこの先生がユニークだと思うようになったのですよう。寺田先生と呼ぶ事にします。僕は名前を忘れてしまったのですよ。思い出せません。まだ入学して日の浅い頃でした。春から夏になる頃の話です。



その寺田先生は女性でござ~♪~ますか?

もちろん、男の先生ですよ。女性の先生は一人も居ませんでした。当時、埼玉県の有名校は別学だったのですよ。熊校(県立熊谷高校)は男子校でした。

その先生は、どのような感じの先生でござ~♪~ますか?

山岳部の顧問をしている先生でした。また、油絵を描くのが趣味でしたよ。どちらかと言えば寺田先生は、あまりパッとしない先生なのですよ。40代だったでしょうか。。。山岳部の顧問と言う響きから山男か?というと、そういう印象でもない。がさつな感じでもない。そうかと言って繊細で洗練されている印象でもない。ざっくばらんで自然体、と言う感じでしたね。

。。。んで、どのような事があったのでござ~♪~ますか?

いつものように、とりわけ変わった事もなく授業は進んでいったのですよ。僕は、寺田先生の教え方がうまいと思った事もなく、とりわけ魅力的な授業をする先生だ、と思ったこともない。いわば、いつもどおりにマンネリ化した、興味のあまり感じられない授業を進めていましたよ。

それで。。。?

ふと、先生は窓の外に眼をやったのですよ。当時の校舎は木造で、僕のクラスは学校で最も古い昭和の初期に建てられた木造平屋の教室だったのですよ。寺田先生は、しばらく黙って外を見ていた。生徒の幾人かは、オヤっと思って先生の目線の行き着くところを見定めるような風でした。でも、ほとんどの生徒は無関心に教科書を見たりノートに落書きをしているようでした。僕は先生が何を見ているのだろか?と思って窓の外を見たのだけれど、僕の座席からでは窓の外の風景は垣根と空だけしか見えない。

それで。。。?

先生は、感極まったように言ったものですよ。

“う~~ん。。。いい尻をしているなあぁ~”

つまり、先生は窓の外を通る女性を眺めていたのですか?

そうですよ。生垣(いけがき)の向こうは砂利道になっていて、そこを女性が歩いてゆくのが見えたのでしょうね。僕の座席からでは人が通る様子は全く見えないのですよ。先生は窓辺に立っていたから見えたのでしょう。

それで。。。?

“オイ、いいケツだとよォ~” クスクスっと笑って、僕の後ろに居た原島君などは、ポルノ雑誌を見たようなエロい笑いをもらしながら、僕の背中を小突(こづ)いたものですよ。教室の、そこここで、くすくす笑いが起こりました。先生も皆に聞こえるような声を出した事に初めて気づいたかのようにニヤニヤしながら、教壇の方に歩いてゆきました。

デンマンさんは、どう思ったのでござ~♪~ますか?

女性の尻を見て、その素晴しさに感極まるような感嘆を漏らす人が僕以外にもやっぱり居るものだ、と僕は半ば同志に巡り会ったような気持ちでしたよ。

つまり、高校1年生のデンマンさんは、すでに女性のお尻を見て“う~~ん。。。いい尻をしているなあぁ~。。。”と、感嘆したことがあったのでござ~♪~ますか?

ありましたよ。声には出さなかったけれど、まさに声に出てしまうほど感嘆したことが何度もありましたよ。

。。。んで、そのように感嘆してしまう素晴しいお尻って、一体、どのようなお尻なのでござ~♪~ますか?

これは個人、個人によってだいぶ違うと思うのですよゥ。美意識の問題ですからねぇ。でも、卑弥子さんが僕にマジで尋ねるのならば、僕はシャロンさんの次の写真を見せる他に思い浮かびませんよう。





うふふふふ。。。このようなお尻が素晴しいのでござ~♪~ますか?



卑弥子さんは、同性として何か感じるものはないのですか?

確かにシャロンさんは、きれいな方だとは思いますわ。でも、特にお尻に魅力を感じる事はござ~♪~ませんわ。

そうですかぁ~。。。でも、着こなしがセクシーだとか。。。そのように思うことはありませんか?

う~♪~ん。。。確かに、着こなしが洗練されていると思いますわ。でも、芸能人の写真を見るようで、身近な美しさを感じませんわ。

なるほどねぇ~。。。そういうものですかぁ~。。。確かに人体の一部に感じる魅力は人によって違うのでしょうね。寺田先生も、クスクス笑う生徒を見て次のように言ったものですよ。

“まだ、君らには分からないかもしれないなぁ~”

「いえ、先生、僕には分かりますよ」 僕は手を上げて寺田先生に、そう言いたい衝動に駆られたものですよう。

そのようなエピソードがあったので、デンマンさんは寺田先生がユニークだと思うようになったのでござ~♪~ますか?

そうですよ。思っていても、なかなか生徒の前で口に出せるものではないですよ。それを自然体で感嘆し、自然に口に出す。凡人には、なかなかできない事だと僕はその時に思ったものですよ。考えてみたら、寺田先生は油絵をやりましたからね、当然デッサンなどで女性のヌードを描いていたと思うのですよ。

つまり、生垣の外を歩く女性を、寺田先生はヌードをデッサンするような目で眺めていたと。。。デンマンさんは、そう思うのでござ~♪~ますか?





そうですよ、常日頃から美術的に女性の美しさを見出そうとしているような習慣ができていない限り、授業中に窓から見えた女性の尻の美しさに感嘆できる人はまず居ないですよ。しかも、生徒の前で、自然に感嘆の言葉を漏らすのですからね。



その事がデンマンさんには、とっても感動的だったのでござ~♪~ますか?

そうですよ。ちょうど女性の美しさの話題が出たので、僕はもう一つ心に残るエピソードを思い出しましたよ。

また、女性のお尻でござ~♪~ますか?

いや、今度のエピソードは女性の体の一部ではありませんよ。歴史的に超有名な美人の話ですよ。

クレオパトラでござ~♪~ますか?

いや、中国の楊貴妃ですよ。このエピソードは、高校1年生の時の漢文の先生のことです。名前がどうしても思い出せません。仮に大島先生としましょう。当時50才を越していたと思うのですよ。校長先生にしても可笑しくないような貫禄のある先生でした。小柄な先生でしたが、威厳があって、どこと無く近寄りがたいオーラを感じたものですよ。

つまり、あまり親しみを感じるようなお人柄ではなかったのでござ~♪~ますわね?

そうです。見た目は怖い感じでしたよ。でも、大島先生は教え方が実にうまかった。これほど情熱を込めて教える先生を僕は見たことがありませんでしたよ。

デンマンさんは、何をそれほどまでに感動したのでござ~♪~ますか?

大島先生の『長恨歌』の授業ですよ。今でも一週間前の出来事のように鮮明に思い浮かべる事ができますよ。

どう言う所がそれ程素晴しかったのでござ~♪~ますか?

この先生自身が、若い頃『長恨歌』の授業に感銘を受けて漢文の先生になろうと決めた、と言うのですよ。だから、とりわけ『長恨歌』には思い入れがあったのでしょうね。実際、素晴しい授業でしたよ。僕も引き込まれるように、この先生の熱のこもった説明に魅了されたものでした。まるで人間国宝級の講談師が講釈をしているような熱の入れ方なのですよ。卑弥子さんも『長恨歌』を知っているでしょう?

もちろん、名前だけは知っておりますわ。でも、あたくしの専門は平安時代の源氏物語でござ~♪~ますから、中国文学はイマイチでござ~♪~ますわ。おほほほほ。。。


長恨歌(ちょうごんか)



華清池は秦の時代(前221~前207年)から続く温泉地で、唐代(618~907年)中期には玄宗皇帝がここに華清宮を建てた。
華清池の中には華清池という池があるわけではなく、この楊貴妃の像は九龍湖の中に立っていた。
(この時、2006年3月、池は改修中で楊貴妃像は引っ越して陸に上がり、花壇の真ん中に立っていた)

九龍湖は規模としては湖と言うより池である。
上の写真の奥には、九龍橋や龍石舫がある。
背後の驪山にはロープウエイが山頂に向かって伸びている。

中国の四大美人(西施,王昭君,貂蝉,楊貴妃)の1人として名高い楊貴妃が華清池で温泉に入り、皇帝の寵愛を受けたことで知られる。
1986年には2人が使用したと思われる浴槽が発掘された。
現在残っている建物は、清朝末期に西太后が築いたもの。

華清池があるのは西安市。
日本語読みでは「せいあん」
中国語では「しーあん」と呼ばれる。
中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。

【解説】

長恨歌は中国・唐の時代、白居易(白楽天)によって作られた長編の漢詩である。
唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌い、平安時代以降の日本文学にも多大な影響を与えた。
806年(元和元年)、白居易(白楽天)が盩厔県(陝西省周至県)尉であった時の作。
七言古詩(120句)。

【あらすじ】

漢の王は長年美女を求めてきたが、どの女性にも満ち足りないものを感じていた。
ところが、ついに探し求めていた美女に出会った。楊家の娘だった。
それ以来、王は彼女にのめりこんで政治を忘れたばかりでなく、その縁者を次々と高位に取り上げる。

その有様に反乱(安史の乱)が起き、王は宮殿を逃げ出す。
しかし楊貴妃をよく思わない兵は動かず、とうとう王は兵をなだめるために楊貴妃殺害を許可する羽目になる。
結局、楊貴妃は殺されてしまった。

反乱が治まると王は都に戻ったが、楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しまない。
道士が術を使って楊貴妃の魂を捜し求め、苦労の末、ようやく仙界にて、今は太真と名乗る彼女を見つけ出す。

太真は道士に、王との思い出の品とメッセージをことづける。
それは「天にあっては比翼の鳥のように」「地にあっては連理の枝のように」
かつて永遠の愛を誓い合った思い出の言葉だった。

【史実との相違】

時代が唐代から漢代に変えられている。
長恨歌が発表されたのは安禄山の蜂起に始まった安史の乱が終結して間もなくのことであり、現政権に遠慮してのことであろう。
楊貴妃は、そもそもは玄宗皇帝の子息の一人の妃であった。
さすがに息子から妻を奪うのをはばかり、いったん道士となった後で玄宗の後宮に迎え入れられている。
太真は楊貴妃の道士時代の名。

【楊貴妃の美】

■ 「温泉水滑洗凝脂」「雪膚」

温泉の湯水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりとした白い肌の持ち主だった。 



■ 「雲鬢花顏」「花貌」「芙蓉如面柳如眉」

ふんわりとした髪の生え際、芙蓉の花のような顔だち、柳のようなほっそりとした眉、など顔のパーツも重要であったようだ。

■ 「侍兒扶起嬌無力」「金歩搖」

侍女に助け起こされてもぐったり、歩くに連れてかんざしがしゃらしゃらと揺れる、といった感じで、北宋ごろから流行しだした纏足(てんそく)という習慣にも見られるように、いかにもなよなよとした頼りなげな様子が女性らしいしぐさとして愛されたらしい。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




「漢詩」と言うのは、日本の若者の間では「浪花節」とか「浪曲」ぐらい人気が無くなっていると思うのですよね。卑弥子さんも『長恨歌』と言う名前は知っていても、内容までは良く知らない。。。そうでしょう?



デンマンさんは、大島先生の授業で聞いたお話を未だに感銘深く覚えていたのでござ~♪~ますか?

そうですよ。だから僕は中国に行ったら、ぜひとも古代中国の長安の都で楊貴妃に会いたいものだと思っていたのですよ。

それで、ついにその思いをかなえた訳なのでござ~♪~ますか?

そうなのですよ。ついに楊貴妃の像にお目にかかりましたよ。ちょうど小百合さんが中学生の頃『エマニエル夫人』を見て、その時の感動が忘れられずに、パリではなく、バンコクに行ったようなものですよ。





つまり、デンマンさんにとっては、エマニエル夫人よりも『長恨歌』の中の楊貴妃に、すっご~♪~く惹かれたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよ。卑弥子さんだって知らずに、この『長恨歌』の影響を受けているのですよう。




『あっちかち (2008年3月25日)』より




面白いユニークな先生がいたのですわね。 うふふふふ。。。でも、タイトルには「悔恨の気おくれ」と書いてありますけれど、いったい何が「悔恨の気おくれ」なのですか?



あのねぇ~、実は熊谷高校に在学している時に、ほろ苦(にが)いような、後悔が未だに心の片隅に残っている思い出があるのですよ。

もしかして。。。デンマンさんも教室から外を眺めている時に素敵なお尻に目が留まったのですか?

まさか!。。。素敵な尻とは関係ないのです。 確か1年生の時だと思いました。 このページの冒頭に現在の熊谷高校の正面玄関の写真を貼り出したけれど、僕が1年生の時にはまだ古い2階建ての校舎だったのですよ。 1年生時代の教室は大正時代に建てられたようなマジで古い校舎で、1階建てだったのです。 本館とは離れていて僕の居たホームルームの教室は一番西側にあった。 そこから本館の一番東側の脇玄関が見えたのです。

玄関が重要な意味があるのですか?

そうなのですよ。 休み時間だと思ったけれど、僕はぶらりと教室から出て本館の脇玄関が見えるところで日向(ひなた)ぼっこをしていた。

一人でですか?

他にクラスメートが居たという記憶がない。

それで。。。?

一人のお母さんが脇玄関の前で入ろうかどうしようかと迷っているのが目に入った。

その日は、父兄参観日でしたの?

いや。。。違いますよ。 なぜなら他に父兄は誰も居ないのですよ。 そのお母さん一人でした。 どうやら子供のことで先生に何か相談があるというような風情なのですよ。

でもどうして、そのお母さんの事が気になったのですか?

あのねぇ~、かなり上品な和服を着ていた。 しかも、その姿には気品があった。 ちょうど原節子さんが和服を着ているような姿ですよ。





あらっ。。。。この上の写真は左が原節子さんで右が、その娘役の司葉子さんですわね?



あれっ。。。小百合さんは良くわかりましたね?

確か、この映画を見た覚えがありますわ。 。。。で、そのお母さんという人は、この写真の原節子さんのようなイメージの人だったのですか?

そうなのですよ。 ちょっと近寄りがたいような上品な人だったのです。

。。。で、その夫人が脇玄関の前で何か迷っていたのですか?

あのねぇ~、当時は月に1回ぐらいの割合で廊下に油を塗る習慣があった。 その日はその掃除のあった翌日なのですよ。 だから、廊下は油でギタギタ光り輝いていて、スリッパを履かずに歩いたら白足袋は、ぐっしょり油を吸い込んで、その後、洗濯しても使い物にならないほど油で汚れてしまうのですよ。

。。。で、そのお母さんは、なぜ迷っていたのですか?

脇玄関にはスリッパがない。 そこは学生用の玄関ですよ。 正面玄関に行けば来客用のスリッパがあるのですよ。

その上品な夫人は、なぜ正面玄関へ行かなかったのですか?

あのねぇ~、小百合さんにも経験があると思うけれど、学校の正面玄関というのは生徒にとって入りにくいのですよ。 そのような習慣が身についているから、そのお母さんにとっても正面玄関は入りにくい。

つまり、その夫人はスリッパか何かを探しているような風情だったのですか?

そうなのですよ。 そのお母さんが正面玄関に行かない理由が僕にもなんとなく分かった。 だから、この場合、僕が正面玄関へ行ってスリッパを取ってきて、そのお母さんに差し出すべきだと思ったのですよ。

そうすれば良かったではありませんか?

ところが、その夫人のいでたちは僕にとってまぶしいような、とっても上品過ぎて、近寄りがたいオーラが滲み出ているのですよ。。。あたかも、そこに原節子さんが立っているような、そのような眩(まぶ)しさを感じたものです。

それで、デンマンさんはどうなさったのですか?

僕は、思い切ってお母さんのところに走って行って、「スリッパを正面玄関からとってきますから、ここでお待ちください」と言おうと思いましたよ。

それで、デンマンさんは、そのようになさったのですか?

ところが、その勇気かでない。 どうしようか。。。? どうしようか。。。? 授業時間は刻々と迫っている。。。 思い切ってその夫人のところに走ってゆこうか。。。? 

走ってゆけばいいではありませんか!

そうなのですよ。 そうすべきだったのですよ! ところが、迷っているうちに、そのお母さんは思いを決めたように草履(ぞうり)を脱いで白足袋のまま廊下を職員室の方へ歩いていったのですよ。 あああ~~~。。。廊下に塗られた、あの汚い油のことを想うと、僕の胃袋は締め付けられたような痛みを感じましたよ。 「ああ~~、どうして勇気を出して、あのお母さんのところに走って行けなかったのだろうか!?」 僕は授業を受けながらも、先生の声は一向に耳に入ってこない。 後悔の念だけが僕の胸を締め付けたのですよ。。。そう言う訳で、未だにその事を、高校時代の事を思い出す時に、ふいに思い出すことがあるのですよ。

どうして走って夫人の所に行けなかったのですか?

だから、それが「悔恨の気おくれ」なのですよ。。。。で、たまたま本を読んでいたら同じような状況に出くわした人の文章に出くわしました。


志集



2008年12月のある晩、東京にある別のターミナル駅前で中年女性を見かけたのだが、慌しい人ごみの中、女性は歩道橋下の柱の前に静かに立ち、「私の志集を買ってください」と書いた、汚れた広告板を手にして、詩集を1冊300円で売っていた。

彼女を見てびっくりしたのは、東京でも路上で詩集を売る人が珍しいからではない。 四半世紀前に、私がその駅を使って日本語学校に通っていた時に、同じ女性が同じ広告板を持って同じ落ち着いた顔つきで詩集を売っていたからである。 当時、彼女の詩集を何回も買おうと思ったが、勇気は出なかった。

しかし、年をとるメリットの一つは、知らない人に話しかけようとすると怖じ気づく気持ちが減っていくことである。 今回は躊躇なく彼女の「志集」を買った。 謄写版のような簡易印刷で刷られ、手作業によりホッチキスで止めたようなその小冊子は、もう第40号に達していた。

その晩は帰りの電車で、また次の日以降は大学の研究室で何回も詩集を読み返して、その詩人のことを思い返した。 この25年間、その駅の周辺は再開発と再々開発ですっかり様子が変わったのに、彼女がそこで自分の言葉を都会人に提供し続けていることは感慨無量である。

(注: 写真はデンマン・ライブラリーより
赤字はデンマンが強調)




150ページ 『英語のあや』
著者: トム・ガリー(Tom Gally)
2010年10月25日 初版発行
発行所: 株式会社 研究社

『共感脳の話(2011年6月3日)』に掲載




そうなのですよ。 現在の僕ならば、ガリーさんが「志集」を買ったように、迷わずに、あの上品な夫人のところへ歩み寄って、「お待ちください、スリッパを持ってきてあげますから。。。」と言えるのですよ。



そうでしょうか? 。。。その根拠でもありますの?

ありますよ。 思い立った事をその場ですぐに実行できなくて悔やんだ僕は、2度と、そのような後悔をしてはならないと、その後は心に決めたことは実行するようになったのですよ。 それで一度も口をきいたこともない恵美子さんに僕のピアノの演奏を聞いてもらったのですよ。



『ん? クラシック興味ある?』

(2006年6月13日)




上の記事が、その時のエピソードですか?



そうなのですよ。 (微笑)


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
それにしても、脇玄関前の上品な夫人と恵美子さんのことは、あまり関連性がないと思うのでござ~♪~ます。
あなたは、どう思いましたか?

とにかく、次回も興味深い話題が続くと思います。
あなたも、また戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。 うふふふふふ。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

後で後悔するような思い出も、

思い出すと、ついつい浮き浮きしてしまうような思いでも、

思い出って、いろいろとありますよね。

わたしの楽しい思い出といえば、

デンマンさんが久しぶりに

ご馳走してくれた時のことですわ。。。

イングリッシュベイを散歩しながら

シルビアホテルの近くの

イタリア・フランス料理専門レストランへ行きました。









デンマンさんが、何が食べたいの?ときくので、

ちょっとおねだりして仔牛と

フォアグラのローストをリクエストしました。



う~♪~ん。 期待していた通りですう。

仔牛は、フランス語で「ヴォー」veau、

英語では「ヴィール」vealですよね。

まだ脂肪が少なくて赤い色も薄い感じです。

特徴は香りやクセがなく、

とても柔らかいのですわ。

その分、バターなどコクのある食材と

あわせる場面が多いようです。

今回は春キャベツで包んだ乳飲仔牛と

フォアグラのローストです。

マルサラ酒とリコッタチーズのソースが

とっても合っていました。

2色のアスパラガスが添えてあって、

落ち着いた感じを与えています。

フレッシュでクセの無い乳飲仔牛に合わせるのは

贅沢にも濃厚なフォアグラですう。

やわらかな春キャベツと季節のアスパラは、

お肉とぴったりと相性が合っていましたよ。

ソースはしっかり目に全体をまとめていました。

普段、口にする機会がないヴィールと

フォアグラなので、とっても期待していました。

デンマンさんが特別に注文してくれた

カクテル「楊貴妃」が、まず出てきました。



わたしが首を長くして待っている間

デンマンさんは楊貴妃の大理石像を見るために

わざわざ中国の西安に行ったときの事を、

いろいろと話してくれました。



料理が出てくるのを待ちながら、

わたしは「楊貴妃」をチビリチビリお口に運びました。

いつものようにデンマンさんは、

かなり詳しい歴史のお話をしてくれましたが、

わたしは半分、上の空で聞いていました。

うふふふふ。。。



次に出てきたのはイタリア料理の

バヴェッティーネでした。

焼穴子、あさりと松茸に、たっぷりの

芽葱(ネギのスプラウト)があしらってありました。

食べた瞬間、京都の老舗(しにせ)で味わうような

上質の和食を連想させる優しい味わいでした。



そして、デザートにはクレームエペスでした。

クレームエペスと言うのは、

フランス・ノルマンディー地方の

生クリームの一種です。

乳酸発酵させた爽やかな

酸味と芳醇なコクが特徴です。

クリーミーなヨーグルトといった感じの味わいですわ。

エペス(epaisse)とはフランス語で

「厚い」「濃い」という意味の形容詞で、

その味わいを表現しています。

なぜか、どこか懐かしいキュートなテイストでしたわ。

フレッシュな巨峰との相性が抜群でした。

お酒を絶対に口にしないデンマンさんが、

その場の雰囲気にすっかり酔ってしまったように、

わたしにちょっとベタベタした一幕もありましたわ。



「ジューンさん、ボーイフレンドと別れてから、

寂しくない?」

「あらっ。。。、どうして別れたことを

ご存知なのですか?」

「僕は地獄耳を持っているからね、

うへへへへ。。。ちょっと、このあと、

僕のマンションに寄らない。。。?」

「ええ。。。そうしたいのですけれど。。。

わたし、明日は仕事で朝が早いのですわ」

「僕が起こしてあげるから。。。うしししし。。。」

「でも、デンマンさんのところには

目覚ましがないから、

わたし、やっぱり自分のマンションに

まっすぐに帰りますわぁ」

デンマンさんはガッカリしていましたわ。

でも、思慮分別のある心の広い方ですから、

キレることもなく、ムカつく事もなく、

私のマンションまでエスコートしてくださいました。

ただし、お休みのキスは、

かな~♪~りディープになって長かったのですわ。

あまり長くなるとちょっと問題ですので、

「もうやめて」と言うつもりで、

舌を咬ませてもらいましたわ。

うふふふふ。。。



ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

楽しいですから、ぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』



では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。




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