2015年2月5日木曜日

丸墓山は誰の墓?

 

丸墓山は誰の墓?

 


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丸墓山

丸墓山古墳は、埼玉県行田市にある古墳。
埼玉(さきたま)古墳群の一基で、円墳。

日本最大規模の円墳で、埼玉古墳群の大型古墳で登ることができるのは、稲荷山古墳と丸墓山古墳のみ。

概要

直径105メートル、高さ18.9メートル。

遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類やが出土しており、これらの出土遺物の形式から築造年代は6世紀の前半と考えられている。

1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて墳頂部と墳丘東側を中心に整備が行われた。
また、周濠の一部が復元されている。

歴史

1590年(天正18年)、小田原征伐に際して、忍城攻略の命を受けた石田三成が丸墓山古墳の頂上に陣を張った。
三成は忍城を水攻めするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を28kmほど作る。
丸墓山から南に真っ直ぐ伸びている道路は、この堤の名残である。

そのほか『新編武蔵風土記稿』に麿墓山(まろはかやま)として記載があるほか、様々な書物に多くの伝説を残している。



出典: 「丸墓山古墳」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




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デンマンさん。。。 どうして丸墓山を取り上げるのですか?


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小百合さんと丸墓山に登ったことがあるのですよ。 覚えてますか?

ええ。。。 覚えてますわ。。。 確か、その事でデンマンさんが記事を書いてましたよね。

うん、うん、うん。。。 そうです。。。 書いたことがありました。

愛のポテトチップサンド

 


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デンマンさん。。。 ロマンチックで食欲が湧くタイトルですわねぇ~。。。



いけませんかァ~?

いけないことはありませんけれど、デンマンさんの常連さんたちは白けると思いますわァ~。。。

どうして僕のブログの常連さんたちが白けてしまうのですかァ~?

だってぇ~、デンマンさんは、また得意げに「さきたま古墳公園」でのピクニックの事を書くのでしょう?

あのねぇ~、白ける人は居ないと思いますよ。

どうしてですか?

どうしてってぇ~、上の写真を見ただけでも「さきたま古墳公園」ってぇ言うのは、日本離れした。。。ちょっと狭い日本では考えられないくらいの広々とした公園なのですよ。 初めてこの記事を読む人は、上の写真を見て「いったい ここはどこの公園だろうか?」。。。 とても日本の公園ではないだろうと思うのですよ。

そうでしょうか?

もう一度じっくりと写真を見てください。


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アメリカやカナダにある公園だと言われても納得できるくらいの広々とした公園なのですよ。



確かに、言われてみると 狭い日本には広すぎるほどの印象を与えますわねぇ~。。。

。。。でしょう!? だから、白けるどころか、上の写真を見ただけでも 何も知らない人は興味が湧きますよ。

そうでしうか?

しかも小百合さんの魅力的な写真が出てくる。


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この上の写真を見た人は、「どうして こんな格好をしているのだろうか?」。。。と、ますます興味が湧いてくるのですよ。



そうでしょか?

しかも、広い公園に小百合さんだけしか見当たらない。 「いったい、ここはどこなの?」。。。「マジで、こんな公園があるのォ~?」。。。と不思議な気持ちで読み続けるのですよ。

そうでしょうか?

そうですよ。。。 ところで、小百合さん。。。こんな広々とした公園なのに ピクニックをしている人が どういうわけで僕と小百合さんだけなのですか?

デンマンさんは知らないでしょけれど、最近、日本の公園では、火を使ってはいけないのです。 だから、バーベキューなど、公園内で してはダメなのですわ。 それで、ピクニックをする人も少ないのだと思いますわ。

でもねぇ~、昨日(10月16日)は、関東地方は素晴らしい秋晴れだったのですよ。 それなのに、バーベキューをしながらピクニックを楽しんでいるのは僕と小百合さんだけでしたからねぇ。。。 うへへへへへ・・・・ 僕は不思議な気分でしたよう。 でもねぇ、小百合さんと公園を自分の裏庭のように独り占めしている気分になって 実に楽しかったですよう。

私は公園の管理人さんが見回りに来て、「火を使うのなら出て行け!」と言われるのじゃないかと。。。気が気ではありませんでしたわ。



『愛のポテトチップサンド』より
(2014年10月17日)



この時に丸墓山に登りましたかしら?



小百合さんはピクニックに気を取られて忘れてしまったのでしょう。。。登ったのですよ。

それで、その丸墓山が誰を葬った墓なのか?をわざわざ調べたのですかァ~?

いけませんかァ~?

でも、それは公園内にある「さきたま史跡の博物館」に行けば書いてあるのであはありませんか?

いや。。。 確かに定説と言われている事は書いてあるのですよ。 でもねぇ~、僕は定説には あまり面白味を感じないのです。

つまり、デンマンさんが独自に調査したのですか?

いや。。。 独自に調査したと言うほどではありません。 たまたま夕べ 本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。

埼玉古墳群


(maruhak2.jpg)

今から1600年前(3世紀末)から、1200年前(7世紀初)までの、たった400年の間を、古墳時代という、土を盛り、大きな塚を墳墓とした形式の時代があり、奈良時代初期で全く終わってしまっている。
不思議な現象である。

それは前方後円墳の形の分類上からいえることであるが、文献上からは『和名抄』に“埼玉郡、前玉郡佐吉多方、佐伊太末”とあり、武蔵国造(くにのみやつこ)笠原直使主(あたいおみ)の事が出ており、『日本書紀』安閑天皇の頃の甲寅(きのえとら: 534年)に、武蔵国造の笠原直使主と同属の小杵(おき)が国造(今でいう地方長官)の位を競い、上毛野君(かみつけぬのきみ:今の群馬県の君主)の小熊(おぐま)に助けを求め、笠原の使主(おみ)を殺そうと計画した。
朝廷に訴え、天皇は小杵を殺し使主を国造に任命したと出ているので、埼玉古墳群はこの国造一族の古墳ではないかというのが定説となっている。

というのは古墳は、地方長官以上の勢力を持つものでなくては作ることができないので、『和名抄』や『日本書紀』から国造の笠原の直使主(あたいおみ)の古墳ではないかといわれる様になった。
しかし、行田市内には八幡山、白山、真観寺等の古墳が散在しており須加、中条、斎条に小さな円墳が多いので、これをどう解釈してよいのだろう古墳はやはり不可解なナゾを含んでいる。

埼玉古墳群を案内すると、きまって、誰の墓でしょうかと尋ねられる。
文字の無い1400,1500年前の事なので判らないのが当然なのに、判らないというと大した学者ではないと馬鹿にした様な顔をする人が多い。
だから、一応は笠原直使主の『日本書紀』の説明をするが、伝説にある聖徳太子ゆかりの話を(西行寺縁起)することにしている。
丸墓山の南に西行寺という寺があって、その縁起には、聖徳太子のなくなった後の大和朝の内乱の末の大化改新の折、649年、蘇我石川麻呂の一族がこの地に逃げてきた。
麻呂の墓だから、麻呂墓山であるという。

先の笠原の使主の話から110年ほど後の事で、古墳中、後期にあたり話としては蘇我石川麻呂一族の逃げてきた話の方が面白いし、時代的に合うような気がしてならない。


(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)



243-245ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社



『ウィキペディア』にも「『新編武蔵風土記稿』に麿墓山(まろはかやま)として記載がある」と書いてあるでしょう!



つまり、蘇我石川麻呂の墓だと言うのですか?

そうですよ。。。 その話の方が面白いと思いませんか?

私にしてみれば丸墓山に葬られている人が笠原直使主(あたいおみ)であろうと、蘇我石川麻呂であろうと、それほど大きな問題とは思えませんけれど。。。

誰の墓か?と言うのは歴史的な事実としてやっぱり重要なことですよ。

だったら、むしろ武蔵国造(くにのみやつこ)という地方長官の地位にあった笠原直使主(あたいおみ)が葬られているとした方が可能性があるのではありませんか?

確かに、小百合さんの言う事には一理あります。 当時、“さきたま”を勢力圏に治めていた人ですからね。 でもねぇ~、真実はどこかに隠されているものですよ。

その真実が『新編武蔵風土記稿』に麿墓山(まろはかやま)として記載があるということですか?

そうです。。。 当時の朝廷をはばかって“麿墓山”という呼び方を変えて“丸墓山”と呼んだのですよ。

“当時の朝廷をはばかって”とは、どういう意味ですか?

あのねぇ~、当時の朝廷の権力を握っていたのは、後に“天智天皇”と呼ばれるようになる中大兄皇子だった。 蘇我石川麻呂は、この中大兄皇子の計略にはめられて自殺に追い込まれたのですよ。


 女帝誕生

 

讚良(さらら)皇女が

 

皇位を継ぐ。


 

殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

(mhead2.gif)

 



僕が当時生きていて、しかも日本新聞の編集長だったら、このような新聞を出していたかもしれません。

これは歴史家が誰も言っていないことですが、
僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はありません。

讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんを亡くしたのです。
しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺したのです。
このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに経験したのです。
この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、
境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたはずです。

成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも知るようになります。
この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史でした。
その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがいました。

蘇我蝦夷
蘇我入鹿
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
有間皇子
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
。。。

満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に大海人皇子に嫁ぎます。
もちろん、政略結婚です。
中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子でした。
何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。
言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものです。
それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとした。

しかし、その甲斐もなくやがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されます。
目には目を歯には歯を!
この当時の必然でした。



『愛と怨念』より
(2006年7月5日)



だから、丸墓山の南にある西行寺の縁起に、聖徳太子のなくなった後の大和朝の内乱の末の大化改新の折、649年、蘇我石川麻呂の一族がこの地に逃げてきたということは充分に信憑性があるのですよ。



。。。で、聖徳太子と蘇我石川麻呂は何か関係があるのですか?

もちろんですよ。 聖徳太子も蘇我石川麻呂も次の系図が示すように蘇我一族ですからねぇ~。。。


(sogatree.png)

『拡大する』



なんと、蘇我石川麻呂を自殺に追い込んだ天智天皇の妻の一人は、石川麻呂の娘なのですよ。



でも、蘇我石川麻呂の一族が“さきたま”に逃げてきたというのは、単なる伝説に過ぎないのではありませんか?

それが、単なる伝説ではないのですよ。 事実、行田市近辺には石川麻呂の一族の子孫が住んでいるのです。

その証拠でもあるのですか?

ちょっと次の小文を読んでください。

聖徳太子


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国宝の聖徳太子像が荒木の天洲寺にある事は大方の人が知っている。
何故、そんないい御像が荒木にあるのですかと尋ねられる。
今回はその縁起を、2月22日の大祭にちなんで書いておこうと思う。

本像は141センチの桧寄木造、漆塗彩色、玉眼水晶の立派なもので、法橋(ほっきょう、というその道の位、今でいえば帝室芸術院会員の様な位)の慶禅という人が、寛元5年1月13日(1247年)に造ったと、胎内銘として墨書してある。

しかも、鎌倉幕府の評定衆の大江広元の四男、毛利四郎季光が、父母と兄二人と三代執権、北条泰時の冥福を祈って造らせたと墨書してある。
又別の所に「御所(三代将軍源実朝)ぼだいのために」と書いてある。
実朝は聖徳太子信仰が厚かったという。
そんな由緒正しい御像が、どうして荒木にあるのであろうか。

荒木出身の武蔵武士に安藤総守隆光という文武に秀でた武将が居り、康安元年(1361年)34歳の折、親鸞上人の弟子となり源海上人という立派な方となり、生国荒木に満福寺という寺を作ったという。
その折、御像が荒木に運ばれたのではあるまいか。

忍城築城した成田氏の分限帳に、その譜代侍に“永八十貫、荒木越前”という名がある。
荒木を領有した荒木長善で、今も長善沼という名を残している。

約370年前、平田山清善寺の五世、天洲全堯和尚を開山とし、荒木長善が開基となって、聖徳山天洲寺を創建したという。
多分、源海上人の満福寺にあったこの聖徳太子像は、天洲寺に祀られる様になったのであろう。


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『拡大する』

聖徳太子の命日、2月22日が大祭で、東京より沢山な太子講の方がお参りに来て御開帳される。
関東では名作の一つといわれる鎌倉時代の木像であるから、市民の方、ぜひ御参拝して頂きたいと思う。
太子は日本建築工芸の創始者としてあがめられている。
日本一の太子像が行田にあるのだから、その方面の方々の御参拝をおすすめしたいと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)



233-235ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社



なぜ、国宝の聖徳太子像が荒木の天洲寺にあるのか? その答えは、蘇我石川麻呂の一族が“さきたま”に逃げてきて、その一族の子孫が、行田市近辺に住んでいるからですよ。



つまり、荒木長善は、石川麻呂の一族の子孫なのですか?

そうですよ。。。 そうであるならば、まぜ国宝の聖徳太子像が荒木の天洲寺にあるのか? 丸墓山が石川麻呂を葬った墓である必要があるのか? すべてが うまく説明がつくのですよ。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは、上のデンマンさんの見解を支持することができますかァ~?

“信じる者は救われる”と申しますが、あなたは、どう思いますか?

ところで、今日の記事には“振袖火事”の火元になった“お菊さん”が出てきませんでしたけれど、その子孫である菊ちゃんにデンマンさんはエロい事をしようとしたのですわよゥ。
どこかに、その記事があるだろうと思って探してみたら、見つかったのでござ~♪~ますう。
うふふふふふふ。。。

あなたも、もし関心があったら読んでみてくださいまし。


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『菊ちゃんと八ツ橋』

ちなみに、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)

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