苦悩するトルストイ

(bikkuri14.gif)


(bikkuri12.gif)


(bikkuri13.gif)


(bikkuri17.gif)


(bikkuri15.gif)


(bikkuri18.gif)


(bikkuri16.gif)


(bikkuri11.gif)


(june901w.gif)
(tolstoybg.jpg+heartx.gif)
(june001.gif)
デンマンさん。。。、 今日は苦悩するトルストイ のお話ですかァ〜?

(kato3.gif)
そうです。。。ジューンさんはつまらなそうですねぇ〜。。。
そんな事はありませんわァ。。。どんなふうに悩んでいたのか?…興味がありますわァ。。。
トルストイは世界的に有名なのに、悩んでいるなんて不思議だと思いませんかァ〜?
誰だって悩みを持っていると思いますわァ〜。。。だから、トルストイがどんな悩みを持っていたのか?…興味がありますわァ〜。。。でも、どういうわけでトルストイを取り上げるのですか?
実は、つい最近、次の動画を観たのですよ。。。

(tolstoy20.jpg)
レフ・トルストイ
レフ・トルストイ(Lev Tolstoy)は、1828年9月9日〔ユリウス暦8月28日〕にトゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれる。
代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。
祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、1830年、2歳のとき母親を亡くす。
1837年1月、9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都であるモスクワへと転居するが、同年6月に父親を亡くし、祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザンに住む叔母に引き取られ、1841年にはカザンへと転居した。
1844年にカザン大学東洋学科に入学するが、舞踏会などの社交や遊興に耽って成績は振るわず、1845年には法学部に転部するもののここでも成績は伸び悩み、1847年にカザン大学を中退した。
このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。
1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、すぐに挫折した。
その後、ヤースナヤ・ポリャーナで暮らしたりモスクワとサンクトペテルブルクで放蕩生活を送るが、この時期は様々な事柄に手を出しているものの全てものにならなかった。
その中で、1850年に初めて小説の執筆を始めている。
1851年にコーカサスの砲兵旅団に志願して編入される(コーカサス戦争)。
この時の体験は後年『コサック』や『ハジ・ムラート』や『コーカサスの虜』などに反映された。
1852年、24歳でコーカサスにて執筆した『幼年時代』がネクラーソフの編集する雑誌『同時代人』に発表され、新進作家として注目を集める。
1853年のクリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリで激戦の中に身を置く。
セヴァストポリ包囲戦での体験は『セヴァストポリ物語』(1855年)などに結実し、のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。
退役後、イワン・ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に関心を持つと1857年にヨーロッパ視察旅行を行なった。
ヴァイマルを訪れた際の逸話がトーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(1923年)に記されている。
パリ滞在中には公開処刑を目撃し、衝撃を受けている。
帰国後、アレクサンドル2世による1861年の農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みるが、十分には成功しなかった。
1859年には領地に学校を設立し、農民の子弟の教育にもあたる。
強制を排し、自主性を重んずるのが教育方針であった。
翌1860年から1861年に、教育問題解決のため再び西欧に旅立った。
この時、ヴィクトル・ユーゴーを訪問し、新作『レ・ミゼラブル』を激賞している。
他にもチャールズ・ディケンズやツルゲーネフを訪問した。
1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職する。
同年、活動を危険視した官憲の妨害により学校は閉鎖のやむなきに至ったが、教育への情熱は生涯変わらなかった。
同年34歳で18歳の女性ソフィアと結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定めることになる。
夫婦の間には9男3女が生まれた。
幸福な結婚生活の中で世界文学史上に残る傑作が書かれた。
トルストイはこれらの小説作品で、自らの生きた社会を現実感をもって描写するという、ギュスターヴ・クールベによって宣言された写実主義の手法を用いている。
『コサック』(1863年)では、ロシア貴族とコサックの娘の恋愛を描きながら、コサックの生活を写実主義の手法によって描写した。
1863年7月18日にヴァルーエフ指令が公布されてウクライナ語での言論活動が禁じられた為、コサックが母語で文筆活動を行なえない皮肉な状況になった。
『戦争と平和』(1864年 - 1869年)はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物が写実主義の手法によってみな鮮やかに描き出されている。
『戦争と平和』の主人公ピエール・ベズーホフにもトルストイ自身の思索が反映している。
『戦争と平和』で、トルストイはロシアの貴族社会のパノラマを描き出した。
『アンナ・カレーニナ』(1873年 - 1877年)は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、『戦争と平和』に比べより調和に富み、構成も緊密である。
『アンナ・カレーニナ』では、社会慣習の罠に陥った女性と哲学を好む富裕な地主の話を並行して描くが、地主の描写には農奴とともに農場で働き、その生活の改善を図ったトルストイ自体の体験が反映している。
小説の主人公アンナのモデルはアレクサンドル・プーシキンの長女マリアで、トルストイは1868年に出会っている。
パンジーの花飾りや真珠のネックレスを描いた彼女を描写する一節は、トルストイ博物館に収蔵される肖像画と全く同じである。
トルストイはまた社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。
世界的名声を得たトルストイだったが、1870年代から徐々に精神的な危機が進行しており、『アンナ・カレーニナ』を書き終えたのちの1878年頃から人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなる。
精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方に惹かれ、山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、以後作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった。
その活動において、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産、搾取を否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。
当時大きな権威をもっていたロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。
また信条に基づいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。
そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた。
この危機は1885年頃に終了する。
またこの間、1881年にはモスクワに転居し、1901年まで夏期はヤースナヤ・ポリャーナで、冬季はモスクワで過ごす生活を続けた。
上記の「回心」後は、『イワンのばか』(1885年)のような大衆にも分かりやすい民話風の作品が書かれた。
戯曲『闇の力』(1886年)は、専制政治強化を主導していたコンスタンチン・ポベドノスツェフの圧力によって1902年まで公的な上演が禁止されていた。
しかし、実際には地下活動によって数回、非公式の形で上演された。
そういった圧力が強まる中で『人生論』(1887年)など、道徳に関する論文が多くなる。
小説も教訓的な傾向の作品が書かれるようになる。
『イワン・イリイチの死』(1886年)、『クロイツェル・ソナタ』(1889年)などがそれにあたる。
『イワン・イリイチの死』では、死を前にした自身の恐怖を描き出している。
1891年から1892年にかけてのロシア飢饉では、救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられたが、政府側はトルストイを危険人物視し、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなった。
『神の国は汝らのうちにあり』(1893年)など、宗教に関する論文が多くなる。
『芸術とは何か』(1898年)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のためのものだとして、その意義を否定した。
その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』(1899年)であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。
またこの作品の著作権料によって試みは成功し、カナダへとドゥホボル教徒は移住した。
ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。
『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。
社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招いたが、現在もトルストイの破門は取り消されていない。
一方で、存命当時より聖人との呼び声があったクロンシュタットのイオアン(のち列聖される)は正教会の司祭でありながらトルストイとの交流を維持しつつ、ロシア正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めたことで知られる。
またトルストイと交流していた日本人・瀬沼恪三郎は日本人正教徒であった。
瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もある。
作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった。
1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判し、特に日本による大韓帝国の保護国化を「日本の政治家は朝鮮を併呑しようと躍起になり、根拠のないことをする狂人だ」と非難した。
1909年と翌1910年にはガンディーと文通している。
その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ、夫人との長年の不和に悩んでいた。
1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、家出3日後に小駅アスターポヴォで下車した。
1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。
葬儀には1万人を超える参列者があった。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904年)、戯曲『生ける屍』(1900年)などがある。
妻ソフィア・トルスタヤは悪妻として知られ、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェとともに「世界三大悪妻」に数える向きもある。
映画『終着駅 トルストイ最後の旅』では、トルストイを深く愛しながらも、彼と対立していくソフィアの報われない愛が描かれている。
出典: 「トルストイ」Wikipedia
でも、上の説明を読む限り苦悩しているようには見えませんわァ。。。

確かに、上の説明だけでは苦悩しているようには見えないけれど、動画を観ると苦悩しているのが解りますよ。。。
いったい、どのような悩みをトルストイは抱えていたのですかァ〜?
その点についていくつかの悩みが思い浮かんだので ChatGPT に尋ねてみました。

上のトルストイのドキュメンタリー動画を観ました。
非常に興味深い内容でしたが、観た後で次のような疑問が頭をもたげました。
① レフ・トルストイは、幼い時にさまざまな死に直面している。その点、エドガー・アラン・ポ=に似ている。 むしろポーよりも多く死に直面している。それなのに、作風は、ポーよりも普通の作家の作風に近い。つまり、死にこだわっていないように見える。これは、どういうわけか?
② これだけ死に直面しているのであれば、戦場に行くのは、恐怖するのではないか? それにもかかわらず、戦場に行くということは、心の奥底に、死んで死者に会いたいという宗教的な願望があったからか?
③ 伯爵家の裕福な生活になぜ馴染めなかったのか? 農民の貧しい生活に共感したのはどういうわけか?
④ 非暴力主義者となったのは、セヴァストポリ包囲戦での体験からか? それともパリ滞在中に目撃したは公開処刑のためか?
⑤ 農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、すぐに挫折した。なぜ?
⑥ 印税や地代を拒否しようとして、家族と対立した。なぜ印税や地代を拒否しようとしたのか?
⑦ 『アンナ・カレーニナ』のモデルはアレクサンドル・プーシキンの長女マリアで、トルストイは1868年に出会っている。ところで、妻ソフィア・トルスタヤは悪妻として知られ、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェとともに「世界三大悪妻」に数える向きもある。…ということは、トルストイは、妻にも不貞なものを疑っていたのではないか? トルストイはこれらの小説作品で、自らの生きた社会を現実感をもって描写するという、ギュスターヴ・クールベによって宣言された写実主義の手法を用いている。そうであるならば、マリアよりも身近なソフィアを観察して書くのが自然だと思われる。 あれだけ幸せな家庭生活を送っていたのに、いつしか二人は精神的にも感情的にも離れ離れになってゆく。知られざる不倫があったのではないか?
⑧ 『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けた。その致命的な原因とは?
⑨ 『復活』の著作権料によって試みは成功し、カナダへとドゥホボル教徒は移住した。ドゥホボル教徒とは、どのような人たちなのか?
⑩ 現在もトルストイの破門は取り消されていない。旧ロシア帝国も亡くなり、ソ連も亡くなったと言うのに…、しかも、瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もある。それなのに、なぜ破門が取り消されないのか?
⑪ トルストイの非暴力主義は、ガンディーに影響を与え、ガンディーの非暴力主義はマーチン・ルター・キングに影響を与えている。キングは、ノーベル平和賞まで受賞している。そうであるならば、トルストイが列聖されても不思議ではないのに、なぜ破門が取り消されないのか?

大変興味深い11の質問です。しかも、単なる伝記上の疑問ではなく、「幼少期の死の体験 → 貴族生活への違和感 → 農民への接近 → 戦争体験 → 宗教的回心 → 非暴力主義 → ソフィアとの葛藤 → 正教会との断絶」という、トルストイの人生全体を一本の線でつなごうとされています。
結論から言うと、トルストイは「死に取り憑かれた作家」だったというより、死を出発点として「では、人間はどう生きるべきなのか」という問題へ向かった作家だった、と考えると非常に分かりやすくなります。
また、いくつか重要な点で、動画の説明には補足・修正した方がよいところがあります。
① 幼少期にこれほど死に
遭遇したのに、なぜポーのような
「死の文学」にならなかったのか?
ここは非常に面白い比較です。
確かに、トルストイ → 母、父、祖母、後見人などを相次いで失う。
ポー → 母、養母、兄、妻など、人生を通じて死と喪失に遭遇という共通点があります。
しかし、死に対する二人の心理的な方向が違うのだと思います。
ポーの場合、死はしばしば、「愛する人が死ぬ」

「死によって愛する人を失う」

「死そのものが恐怖・美・謎になる」という方向へ向かいます。
だから『アッシャー家の崩壊』『黒猫』『モルグ街の殺人』『アナベル・リー』などでは、死そのものが文学的対象になります。
一方、トルストイは、「人は死ぬ」

「では、人間は何のために生きるのか?」

「どう生きれば死を恐れずに済むのか?」という方向に進みました。
つまり、エドガー・アラン・ポーは死を文学化する作家、トルストイは死を人生哲学へ変換する作家と考えると非常に分かりやすいでしょう。
これは後年の『イワン・イリイチの死』になると、非常にはっきりします。
イワン・イリイチは死そのものより、
「自分はこれまで、本当に生きていたのだろうか?」
という問題に直面します。
ここにはトルストイ自身の精神的危機が強く反映されています。
ですから、トルストイは死を無視したのではありません。むしろ死を徹底的に考えた結果、「死」から「生」の問題へ移ったのです。
② 死に何度も直面したのに、
なぜ戦場へ行けたのか?
これは「死んで死者に会いたかった」という宗教的願望だった、とするのは、少し飛躍があると思います。
むしろ若いトルストイは、現在の我々が考えるような「反戦思想家」ではありません。
彼はかなり典型的な19世紀ロシア貴族の青年でした。
軍隊に入ることも、冒険も、名誉も、男性的な自己証明も、彼の若い時代の人生の一部でした。
しかもコーカサスやクリミアで実際に戦争を見ると、そこで経験したのは英雄的な戦争ではありませんでした。
兵士が、
恐怖する
傷つく
血を流す
死ぬ
命令によって人を殺す
という現実です。
ここが重要です。
若いトルストイは戦争を経験するために戦場へ行き、成熟したトルストイは戦争を経験したからこそ戦争を否定するようになった。
これはかなり大きな転換です。
③ なぜ伯爵家の生活に馴染めず、
農民に共感したのか?
これもトルストイを理解する核心です。
彼は貴族階級を嫌っていたわけではありません。
自分自身が貴族だったからこそ、その階級の空虚さが見えてしまったのです。
若いトルストイは、
酒
女性
賭博
社交
名誉
金銭
出世
などを経験しています。
つまり、貴族社会を外から批判したのではなく、中に入って十分に経験したうえで、「これは何なのだろう」と疑問を持った。
一方、農民の生活には、
労働
家族
食べること
生きること
死ぬこと
共同体
信仰
という、非常に基本的な人間の営みがありました。
だからトルストイには、農民の生活のほうが**「生きる」ということに直接つながっている**ように見えた。
これは後の『アンナ・カレーニナ』のリョーヴィンにも明瞭に出てきます。
リョーヴィンは農民と一緒に働くことで、「人生とは何なのか」を探します。
つまりリョーヴィンは、かなり明確にトルストイ自身の分身です。
④ 非暴力主義はセヴァストポリか、
パリの公開処刑か?
これは両方でしょう。
ただし、性質が違います。
セヴァストポリの戦場では、「戦争とは実際にはこういうものなのか」という現実を経験しました。
『セヴァストポリ物語』では、英雄的戦争というより、戦争の醜さ、恐怖、偶然性が描かれます。
パリの公開処刑はもっと直接的です。
国家が、「法律に従って、一人の人間を殺す」という現場を見た。
トルストイにはこれが非常に衝撃的でした。
そして後年、国家による暴力も、個人による暴力も、暴力であることには変わらないという方向へ進んでいきます。
ですから、セヴァストポリ=戦争への疑問、パリの処刑=国家暴力への疑問と整理するとよいでしょう。
そして最終的に、それが「非暴力」という思想に統合されます。
⑤ 農地経営・農民改革が
なぜ失敗したのか?
ここも非常に面白いところです。
1847年、19歳のトルストイはヤースナヤ・ポリャーナを相続すると、「農民の生活を改善してあげよう」と考えました。
ところが農民側からすると、「若い伯爵が突然やってきて、俺たちの生活を改善してやると言っている」わけです。
これは現在でも同じですが、善意 ≠ 相手が望んでいることです。
ヤースナヤ・ポリャーナ博物館の資料でも、最初の試みはことごとく期待通りにならず、農民たちは若い地主の改革案を信用しなかったとされています。
つまりトルストイの問題は、
農民を愛していなかったことではなく、農民を理解していなかったこと
だった。
ここが重要です。
彼は最初、
「私が農民を救ってあげる」
という発想でした。
ところが後になると、
「むしろ私たち貴族のほうが、農民から生き方を学ぶべきなのではないか」
へと変わっていきます。
これは非常に大きな思想的転換です。
⑥ なぜ印税や地代まで拒否したのか?
ここからトルストイの思想がかなり極端になっていきます。
彼は次第に、「人間が働かずに他人の労働から利益を得ることは正しいのか?」という問題を考えるようになります。
自分は伯爵であり、
広大な土地を持っている
農民が働いている
地代が入ってくる
自分は文学を書くだけで巨額の印税を得る
という生活をしている。
ところが彼の宗教思想では、人間は自分で働き、他人を搾取せず、必要以上の財産を持つべきではない、という方向に進んでいきます。
だから、「自分は貧しい人に質素に生きろと言いながら、自分だけ金持ちでいるのは偽善ではないか?」という自己矛盾が生じます。
ところがここで最大の問題が発生します。
家族がいる。
妻ソフィアは、
子供たちを養わなければならない
家を維持しなければならない
出版事業を管理しなければならない
財産を管理しなければならない
という現実を背負っています。
だから、トルストイにとっては「財産を捨てること」が倫理問題だった。
ソフィアにとっては「家族を守ること」が倫理問題だった。
この二つが衝突します。
ここから夫婦の悲劇が始まります。
⑦ ソフィアの不倫が
『アンナ・カレーニナ』の
モデルだったのでは?
ここは非常に慎重に考える必要があります。
結論から言うと、ソフィアの不倫を疑わせる確かな史料はありません。
むしろ興味深いのは逆です。
トルストイはソフィアを女性人物のモデルとして使っています。
ソフィア研究では、『アンナ・カレーニナ』のキティや、『戦争と平和』のナターシャなどにソフィアの性格・外見・生活が反映されていることが指摘されています。
つまり、ソフィア=アンナではありません。
むしろ、ソフィア=キティ+ナターシャ+その他の女性人物の一部という方が近い。
さらに重要なのは、トルストイが結婚直前にソフィアへ自分の日記を渡したことです。
そこには彼の結婚前の女性関係や、農奴女性との関係まで記されていました。
これはソフィアにとって、かなり過酷な「結婚前の告白」です。
ですから、夫婦関係の問題を考える場合、「ソフィアが不倫したのでは?」よりも、「ソフィアは、若い頃から女性関係を持っていたトルストイをどう見ていたのか?」のほうが重要です。
さらに晩年には、トルストイが宗教的理想を追求する一方、ソフィアは、「私はあなたの思想のために生きているのではない。子供たちと家庭を守らなければならない」という立場になります。
これは非常に悲しい対立です。
そして近年の研究では、ソフィアを単純に「悪妻」とする従来像そのものが大きく見直されています。
彼女は『戦争と平和』を何度も筆写し、家計・出版・財産管理を担った重要な協力者でした。
夫婦の約48年間にわたる大量の書簡を読むと、関係は単純な「悪妻対天才」ではありません。
したがって、「知られざる不倫が夫婦を引き裂いた」という説より、「トルストイの宗教的・倫理的急進化が、夫婦の価値観そのものを引き裂いた」と見るほうが、史料に合っています。
⑧ 『復活』が破門の致命的原因に
なったのか?
ここは動画の説明に少し注意が必要です。
『復活』だけが原因ではありません。
トルストイは長年にわたって、
三位一体
キリストの神性
復活
聖餐
教会の秘跡
聖職者制度
国家と教会の結合
など、正教会の根本教義を批判していました。
そして1901年、ロシア正教会の聖務会院は、トルストイが正教会の教義を否定し、キリストの神性や復活、秘跡などを拒否していることを理由として、彼が教会から離脱したことを公式に宣言しました。
ただし、『復活』は最後の引き金になりました。
特に問題になったのが、作中における聖体礼儀・聖餐への批判的描写でした。
トルストイ自身も、「私はキリストに反対したから教会を離れたのではない。むしろキリストに従いたかったからだ」という趣旨の反論をしています。
ここがトルストイの面白いところです。
彼は、「私はキリスト教を捨てた」と思っていなかった。
むしろ、「私は教会を捨てて、キリストの教えそのものに戻った」と思っていたのです。
⑨ ドゥホボル教徒とは?
これはカナダ史との関係でも非常に重要です。
ドゥホボル教徒(Doukhobors)は、17世紀ごろからロシアに存在した非正統派のキリスト教徒です。
特徴は、
正教会の聖職者を必要としない
教会制度を重視しない
神は人間の内部に存在する
形式的な儀式を重視しない
平等主義
農業共同体
非暴力
徴兵拒否
などです。
カナダ政府の資料でも、彼らはロシアから国家迫害を受け、1899~1914年にカナダへ移住し、宗教的平和主義・共同生活・農業を特徴とする集団だったとされています。
特に重要なのが、徴兵拒否です。
1895年、コーカサス地方のドゥホボル教徒が武器を焼却し、徴兵に抵抗しました。
その結果、ロシア政府から激しい弾圧を受けました。
トルストイは彼らを見て、「自分が考えているキリスト教を、彼らは実際に生きている」と感じたのでしょう。
そして彼らをカナダへ移住させるために、『復活』の著作権収入などを使いました。『復活』の収益から約3万ルーブルが移住支援に充てられたとされています。
これは非常に象徴的です。
『復活』は小説であると同時に、トルストイにとって実際の社会運動の資金源だった。
⑩ なぜロシア正教会は現在も
破門を取り消さないのか?
ここは重要なポイントです。
実は、「現在のロシア正教会がトルストイを積極的に永久追放している」と単純に考えるのは正確ではありません。
1901年の文書そのものが、トルストイを「教会から離れた」と公式に宣言したものです。
そしてトルストイ本人も、教会の教義を受け入れるつもりがありませんでした。
彼はシノドの決定に対して、「私は正教会と呼ばれる教会から離れた」こと自体は認めています。
つまり、「破門されたけれど、本当は正教会に戻りたかった」という状況ではありません。
むしろ双方が、正教会は「あなたは我々の教義を否定している」に対して、トルストイ「その教義こそキリストの教えから外れている」という状態だった。
したがって、後世になって単純に「破門を撤回します」という性格の問題ではありません。
⑪ では、ガンディー、キングにも
影響した偉大な思想家なのに、
なぜ列聖されないのか?
ここが一番重要なところです。
「社会的に偉大な人物」と「正教会の聖人」は、まったく別の基準だからです。
トルストイは、
非暴力
貧困者への援助
国家権力への批判
戦争反対
人間の平等
良心に従って生きること
という点では、後世に巨大な影響を与えました。
実際、ガンディーとの交流も非常に重要です。
しかし正教会の列聖で決定的なのは、「社会的に偉大か」ではなく、「正教会の信仰を受け入れ、その聖性を示した人物か」という問題です。
そしてトルストイの場合、ここが完全に逆なのです。
彼は、
三位一体を正教会の意味では受け入れない。
キリストの神性を正教会の意味では受け入れない。
復活を正教会の教義として受け入れない。
秘跡を否定する。
教会制度を否定する。
という思想に到達していました。1901年のシノド文書も、まさにこれを列挙しています。
したがって、正教会から見ると、「非暴力を説いた偉大な思想家」であることと、「正教会の聖人」であることは別問題なのです。

そして、トルストイを理解するうえで最も面白い矛盾があります。
ここまで11問を通して見ると、トルストイの人生には非常に大きな逆説があります。
彼は、
貴族だったから貴族社会を批判した。
戦争を経験したから戦争を否定した。
金持ちだったから財産を否定した。
有名作家だったから芸術そのものを批判した。
正教徒だったから正教会を批判した。
家庭を持ったから家庭制度の矛盾に苦しんだ。
そして、死を何度も経験したから、死ではなく「どう生きるか」を考え続けた。
これがポーとの最大の違いだと思います。
ポーは、「死によって失われたもの」を文学にした。
トルストイは、「死を前にして、それでもどう生きるべきか」を文学と思想にした。
だから『戦争と平和』から『アンナ・カレーニナ』、そして『イワン・イリイチの死』『復活』まで追っていくと、単なる「小説家の生涯」ではなく、
一人の人間が、若い頃の欲望・戦争・富・名声・家庭・宗教・死を一つずつ経験し、それらを全部疑いながら、最後に「人間はどう生きるべきなのか」という一点へ向かっていった人生
に見えてきます。
そして皮肉なのは、その理想を最も近くで支えたソフィアとの関係だけは、最後まで解決できなかったことです。
ソフィアは「悪妻」という一言では到底説明できません。彼女は13人の子供を産み、トルストイの原稿を何度も筆写し、家計・出版・財産管理を担いました。現在の研究では、むしろ彼女を「トルストイの成功を支えた不可欠な協力者」と見る傾向が強くなっています。
だからこそ、晩年の二人の対立は悲劇的です。
トルストイは「全人類を救おう」とした。
しかし、最も身近な一人の女性との幸福を維持することには失敗した。
私はここに、トルストイという人物の最大の人間的魅力と、同時に最大の矛盾があると思います。
なお、今回のご質問の中では特に ⑦のソフィア問題 が面白いです。『アンナ・カレーニナ』、トルストイの日記、ソフィアの日記、『クロイツェル・ソナタ』まで並べると、「トルストイは女性をどう見ていたのか」「なぜ妻を深く愛しながら、最後にはあれほど対立したのか」という、もう一つのトルストイ像が浮かび上がります。

解説ありがとうございました。トルストイの人間性はかなり複雑ですね。
私にとって一番理解しがたい人間です。そこまで私には悩むことが出来ません。

まさにそうだと思います。トルストイは、「頭で考えすぎる人間」というより、極端に言えば、生きることそのものを一つの巨大な倫理問題にしてしまった人なのだと思います。
若い頃は放蕩して、「こんな生き方でいいのか?」と悩む。
戦場に行けば、「人間はなぜ人間を殺すのか?」と悩む。
大金持ちになれば、「自分だけ豊かでいていいのか?」と悩む。
小説を書けば、「芸術とは何のためにあるのか?」と悩む。
宗教を信じれば、「教会の教えているキリスト教は本当にキリストの教えなのか?」と悩む。
結婚して子供をたくさん持てば、「家族を守るために財産を持つことと、財産を否定することのどちらが正しいのか?」と悩む。
そして最後には、「このままヤースナヤ・ポリャーナで暮らして死ぬのか、それともすべてを捨てて理想の生き方をするのか?」と悩んで、82歳で家出してしまう。
これはもう、普通の人間の「悩み」のスケールを超えています。(笑)
しかも面白いのは、トルストイ自身も若い頃から何度も「決心」するのに、結局その決心を完全には実行できないことです。
財産を捨てたい。
でも家族がいる。
農民のように働きたい。
でも伯爵である。
芸術を否定したい。
でも『復活』を書く。
家族を愛している。
でも家族との生活が苦しい。
教会を否定する。
でもキリストの教えは生涯追求する。
つまり、思想では極端なところまで行くのに、人間としてはその思想から完全には自由になれない。
そこがトルストイの非常に人間的なところだと思います。
そして、最後の家出も象徴的です。
82歳になって、「もう全部捨てて、自分の信じる生き方をしよう」と家を出た。
ところが途中で肺炎になり、アスターポヴォ駅で倒れて、そのまま亡くなる。
まるでトルストイ自身が最後まで、「人間はどう生きるべきなのか?」という問いを解決できないまま人生を終えたようにも見えます。
だから私は、トルストイを「偉大な思想家」としてだけ見るより、「あまりにも真面目に人生を考えてしまった、非常に不器用な人」として見ると、少し理解しやすくなると思います。
そして「そこまで私には悩むことが出来ません」というお気持ちは、むしろ普通だと思います。
たいていの人は、「まあ、人生ってそんなものだろう」と、どこかで折り合いをつけて生きていきます。
トルストイは、その「まあ、そんなものだろう」では済ませられなかった。
そこが彼の天才性でもあり、同時に彼自身と家族を苦しめた原因でもあったのでしょう。
ですから、私ならトルストイを、「答えを見つけた人」ではなく、「最後まで答えを探し続けてしまった人」と表現したいです。
その意味では、ものすごく偉大であると同時に、ものすごく生きづらい人だったのではないでしょうか。

これほど悩む人間は珍しいですね。
そうですわねぇ〜。。。ここまで悩みたくありませんわァ〜。。。
やっぱり、せっかくこの世に生まれたのだから 悩むよりも 楽しく、幸せに生きたいですよね。
そうですわァ。。。ティッシュペーパーがいらない人生を送りたいものです。

(laugh16.gif)

(june902.jpg)
【卑弥子の独り言】
(himiko22.gif)
ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いましたか?
トルストイのように悩み多い人生でしたか?
悩むのもいいですけれど、せっかくこの世に生まれたのだから 悩むよりも 楽しく、幸せに生きたいですよね。
ええっ。。。「そんな事は、どうでもぃいから、他にもっと面白い話をしろ!」
あなたは、そのような命令口調で あたくしにご命令なさるのでござ〜ますかァ〜?
いけすかないお方ァ〜。。。
わかりましたわァ。。。それでは、デンマンさんのインスタを紹介しますわァ〜。。。

(instahome26-05-15c.jpg)
写真をクリックしてボサノヴァやサンバの曲に合わせて踊る、きれいで可愛い女の子をじっくりとご覧くださいませぇ〜。。。
もし、ボサノヴァやサンバの曲が聞こえてこなかったら、動画の右下の「無音」のマークをクリックすれば、解除することができ、ボサノヴァやサンバの曲を聴くことができます。
ええっ。。。 「そんな踊りは、そうでもいいから、他にもっと楽しい話をしろ!」
あなたは、更に そのような命令口調で あたくしに強要するのでござ~ますわねぇ~。。。
分かりましたわぁ。。。 では、ちょっと次のクリップを見てくださいなァ。。。
思わず笑ってしまいますわ。。。

(dog807.jpg)
ええっ。。。? 「犬や猫のことは どうでもいいから他のもっと面白い話をしろ!」
あなたは、更に あたくしに そのような強い口調でご命令なさるのでござ~ますかァ~?
分かりましたわァ~。。。
あなたが、そうおっしゃるのならば、あたくしの個人的なお話しをいたしますわァ。
実は、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”が殿方の注目を集めているのでござァ~ますわよう。
うふふふふふふふ。。。
ええっ。。。 信じられないのでござ~ますかァ?
じゃあ、ちょっと次の検索結果を見てくださいまし。。。
(gog60409a.png)
「卑弥子 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。
つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。
うふふふふふふ。。。
あなたも、ビックリするでしょう?
ジムで汗を流して “ヴィーナスのえくぼ”をゲットいたしました。。。
(buttdimp5.jpg)
スタイルもよくなったのでござ~ますわァ~。。。
(curtain5.jpg)
いかがでござ~ますか?
でも。。。、でも。。。、“天は二物を与えず”と申します。。。
これほどスタイルが良くなったというのに、あたくしは未だに独身でござ~ますのォ。。。
世の中は、なかなか思うようにゆかないものですわァ~。。。
ところで、あなたは『万夜一夜物語』を読んだことがござ~ますかァ~?
“千夜一夜物語”ではなくてぇ、“万夜一夜物語”ですわ。
(manya02.jpg)
デンマンさんが書いたのでござ~ますわよう。
ええっ。。。 10,001の話が書かれているのかってぇ~。。。?
とにかく、上のリンクをクリックして読んでみてくださいませぇ~。。。
あなたも、絶対にビックリするようなお話が出てきますわァ。
『万夜一夜物語』だけでは、物足りないのでしたら、
ジューンさんが登場する面白いお話もたくさんあります。
興味のある方は、どうか次のリンクをクリックして読んでくださいましねぇ~。。。
(roten101.jpg+cleoani.gif)
■『慫慂』

(bikinigal15.gif)
(malata019c.jpg)
(sylvie122.jpg)
とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。

(hand.gif)
(chiwawa5.gif)
こんにちは。ジューンです。
スパムメールが相変わらず多いですわよね。
あなたのメールボックスにも、
ジャンクメールがいっぱい入っているでしょう!?
スパムメールを飛ばしているのは
いったい、どういう人たちなのでしょうか?
出会い系サイトのオーナーたちが多いそうですわ。
彼らは会員を集めるためにスパムメールをばら撒きます。
そのためにメールアドレスのリストを購入しています。
では、そのようなリストを販売している人は
どうやってメールアドレスを集めているのでしょうか?
ロボット(自動巡回プログラム)によって
自動収集させているのです。
ところで、サーチエンジンの自動巡回ロボットは
毎日世界中のサイトを訪問し、
その内容をデータベースに書き込んでいます。
同じように、このメールアドレス収集巡回ロボットも、
HTMLソースを分析し、
メールアドレスらしきものをどんどん記録してゆきます。
でも、使っていないメールアドレスが
たくさんあるのですよね。
あなたの使っているメールアドレスのことを
考えてください。
あなたはメールアドレスをいくつ持っていますか?
一つだけではないでしょう?
10以上持っているのではありませんか?
多分、ほとんどのメールアドレスは使ってないでしょう?
そのために、現在実際に使っている
メールアドレスを集めるために、
怪しい人物が使用度の高いメールアドレスを
集めているのですわよ。
だから、あなたもむやみに信用できない人に対して
返信しないようにしてくださいね。
(himiko92.jpg)

(juneswim.jpg)

(byebye.gif)

0 件のコメント:
コメントを投稿