波乱の半生
あらっ。。。ケイトーって見かけによらずに女性に対して、かなり積極的なのねぇ~?
それは、もう20年以上も前の話ですよ。
今はもう積極的ではないのォ?
ブログを書くのが忙しくってねぇ~。
マジで。。。?
そうですよ。。。だから、こうして図書館に毎日のようにやって来て記事を書くようになったのですよ。
自分の家のパソコンでは書かないの?
ボッコわれてしまったのですよ。
あらっ。。。そうだったの? なるほどォ~。。。それでねぇ~。。。納得したわァ~。。。
何を納得したのですか?
あのねぇ~。。。実は、私はあなたと会うのは初めてではないのよ。
ん。。。? 初めてではない。。。?
そうなのよ。。。私はあなたと何度も会っているのよ。
まさか。。。?
いえ。。。マジで。。。
でもねぇ、シルヴィー。。。僕は今日あなたと面と向かって初めて話をしたのですよ。
ええ、そうだわ。。。でも、私はあなたと何度も会ってるのォ。
冗談でしょう!?
マジよ。。。あなたが気づかなかっただけなのよ。 私の話を聞けばあなただって納得するわ。 その前に、私、ちょっと。。。おトイレにいってくるから。。。ここでじっとして待っててね。 じゃあねぇ。 うふふふふふ。。。
『図書館deロマンス』より
(2011年4月27日)
シルヴィー,...ずいぶん長かったねぇ~。。。
あらっ。。。そうかしら?。。。30分ぐらい、どうってことないでしょう? ちょっと気に入った本を見つけたから1章だけ読んでいたのよ。 ケイトーだってぇ、他に何もすることがなかったのでしょう?
待っててねぇ、とあなたが言ったじゃないですかァ!。。。僕はシルヴィーの話を早く聞きたいと思っていたから、1時間ぐらい待っていたような気がしますよ。
それってぇ、ちょっとオーバーよ。
とにかく僕は今日シルヴィーに会ったのが初めてなんですよ。
でも、私はケイトーにマジで何度も会ってるのよ。
だけど僕には記憶が全く無いよ。
そうかもねぇ。。。あなたはいつだってパソコンとにらめっこしていたからよ。 私はウェストエンドの分館で、あなたが記事を書いていたのをちょくちょく見かけていたのよ。
ウェストエンドの分館で。。。?
そうよ。。。あなたはいつもDianeの隣で記事を書いていたじゃない!
あれっ。。。シルヴィーはダイアンを知ってるの?
知ってるわよ。。。Dianeとは、ずいぶん前からの友達なのよ。 あの人ときたらケイトーと同じで、英国系カナダ人には珍しく勤勉なタチなのよ。。。日曜日は教会へ行くからパソコンに向かわないけれど、月曜日から土曜日まで毎日決まった時間にパソコンに向かい合うでしょう。 Dianeだけかと思っていたら、今年の1月頃からケイトーが加わったじゃない。 しかも、決まってDianeの隣に座って、澄ました顔して記事を書いていたじゃないの。。。それも不思議に決まった時間にDianeと隣り合わせでキーボードに向かって打ち込んでるじゃない。。。いったい、どういう事なのかと初めの頃はとっても興味深かったわよ。。。うふふふふふ。。。
知らなかったなあああァ~。。。ネットをやる場合、ウェストエンドの分館ではパソコンは1時間だけしか使えないんだよ。 1時間では、とっても足りないんだよ。。。それで中央図書館にも足を運ぶようになった。 ここでは2時間使えるからね。 でも、1日3時間でもまだ時間が足りない。 それで僕はダイアンともほとんど話をしないで、わき目も振らずに記事を書いていたと言う訳なんだよ。。。だから、近くにマリリンモンローがビキニ姿で座っていたとしても、じっくりと眺めている暇が無いほど僕は集中していたんですよ。
そうよねぇ~、だから、私も、もし停電しなかったとしたら、あなたに声をかける気にならなかったと思うわ。
なるほどォ~。。。
何がなるほどなのよ?
停電で他に何もすることがないからシルヴィーが話しかけてきたとは思うけれど。。。それでも、急に畳み掛けるようにして話してきたから、ずいぶんと社交的な女性だと思って僕は内心ではビックリしていたんですよ。
あらっ。。。私、ちょっと積極的過ぎたかしら。。。?
いや。。。ダイアンと友達だったと聞いて僕も納得しましたよ。。。で、シルヴィーはバンクーバーで生まれて育ったの?
そう見える?。。。でも、違うのよ。
。。。つうことわァ~。。。もしかして移住者?
そうなのよ。。。ケイトーは私がどこの生まれだと思う?
まあ。。。そうだねぇ~。。。シルヴィーの表情から察して、多分英国系だと思うけれど。。。イングランドか? スコットランドか? アイルランドか? ウェールズか?。。。恐らくその内のどれかだと思うよ。
まったく違うわ。。。。実は、私はインドネシアで生まれたのよ。
マジで。。。? インドネシアは太平洋戦争前にはオランダの植民地だったから。。。もしかしてシルヴィーの両親はオランダ人?
そうなのよ。。。私の父はオランダ人。 母はオランダ人と華僑のハーフだったのよ。 つまり、私には4分の1の中国人の血が流れているのよ。
なるほどォ~。。。よく見るとシルヴィーの表情には、どこかに東洋系の特徴があるよ。。。 まず、髪の色が黒っぽい。 鼻があまり高くない。 丸顔がなんとなく東洋系の女を思わせる。。。で、インドネシアからカナダに移住してきたの?
違うのよ。。。実は、私がまだ小さかった頃。。。、1965年にインドネシアには動乱があったのよ。 私は大きくなってから父に聞かされたのだけれど、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオをイギリスから譲り受けてマレーシアが建国されると、スカルノ大統領はこれをイギリスによる新植民地主義のあらわれであると非難して「対決政策」を宣言したのよ。
1965年の動乱(9月30日事件)
インドネシアはボルネオ島全域の領有を主張して、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。
これは1964年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどで、現状維持で落ち着いた。
この対決政策によって、インドネシアはアメリカとIMFからの経済援助を停止され、国際社会から孤立していった。
スカルノ大統領は急速に中国に接近し、そして1965年1月7日、国連を脱退した。
さらに1965年の独立記念日(8月17日)には、世界銀行とIMFからも脱退した。
そのようにして対外政策がすすんでいるあいだにも、インドネシア国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を苦しめた。
こうした状況に国軍主流派や一部の政党政治家、経済テクノクラートらは危機感を強め、スカルノ大統領と共産党に対する不満が高まっていった。
このように緊張した政治環境の中で発生したのが9月30日事件だった。
この事件は、1965年9月30日深夜から翌未明にかけて、共産党シンパの国軍部隊と、共産党傘下の組織が国軍幹部の6将軍を殺害したことに端を発する。
陸軍戦略予備軍司令官だったスハルトがこれをすぐに鎮圧したため、左派勢力による政権奪取は失敗し、クーデター未遂事件として終わった。
共産党に肩入れしていたスカルノ大統領は苦しい立場に追い込まれ、事態を回復するための一切の権限をスハルトにあたえることになった。
これを受けてスハルトは共産党員およびそのシンパを殺害、拘束し、国内の左派勢力を物理的に解体した。
東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことは、国内政治のみならず、冷戦期におけるこの地域の勢力図を一変させた。
その後、スカルノ大統領は事件への関与を疑われるきびしい立場に追い込まれ、国軍が煽動する反スカルノの民衆運動によって辞任への圧力をうけた。
1967年3月、スカルノは終身大統領の地位を剥奪され、1968年3月、スハルトが第2代大統領として選任された。
また、1966年9月にインドネシアは国連に復帰した。
この動乱がシルヴィーと関係あるの?
もちろんよ。。。スカルノ大統領は、国民をオランダの植民地支配から解放したということでインドネシア建国の父と呼ばれていたの。 国民的英雄だったわ。 でも、その一方で、植民地時代の遺産の完全否定を宣言して経済的には疲弊をもたらしたのよ。 大統領は、外国企業の資産を接収し、新たな外資の導入も禁止したのよ。 それに、植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華僑を差別したわ。 私の家族の場合には2重に風当たりが強かったのよ。 なぜなら、父がオランダ人。 昔の植民地主義者だと思われ、しかも、母の実家が華僑でしょう。
つまり、スカルノ大統領から目の敵(かたき)にされたわけだ。。。
そうなのよ。。。スカルノ大統領が共産主義に近づいていったのよ。 当然のことながら、それまでインドネシアの独立を支持していたアメリカもスカルノ大統領に対して不快感を強めていったのよ。 そう言う訳で、今ではスカルノ政権の転覆を図るためにアメリカのCIAが9月30日事件を策謀したという説も出ているのよ。 スハルト将軍は、政治的野心がないと思われていて、スカルノ大統領から信頼されていたのよね。 大統領は共産党寄りになっていたので、事件と関係があると疑われて厳しい立場に追い込まれたわけ。。。
それで大統領に代わってスハルト将軍が治安回復に乗り出したというわけ?
そうなのよ。 大統領がスハルト将軍に権限を委譲したのよ。 この後、スハルト将軍はアメリカ寄りの態度をとったわけ。。。それで、クーデター首謀者や共産主義者や、その仲間と関係したと疑われた一般の人々の集団虐殺が広がっていったのよ。 20世紀最大の虐殺の一つとも言われたものよ。
何人ぐらいが虐殺されたわけ?
50万人ぐらいと言われたけれど、歴史家の中には、最大推計では300万人とも言われているのよ。 今でも正確には把握されていなわ。 私の家族はジャワに住んでいたのだけれど、残虐に巻き込まれそうになったので父の親戚を頼ってオランダに逃げたのよ。
なるほどねぇ~。。。それからオランダで暮らしたというわけだ。
そうなのよ。 アムステルダムに着いたのよ。 私はまだ小さかったけれど、ホッとしたわ。 子供心に、あの動乱の殺伐とした雰囲気を肌身に感じていたから天国にやって来たと思ったわ。
話には聞いていたけれど、アムステルダム(Amsterdam)って、とってもきれいな街なのよね。 なんだかおとぎ話の国に来たような気持ちだったわ。
ほおおおォ~。。。おとぎ話の国ねぇ~。。。 僕は“飾り窓の女”を思い出すけれど。。。
ケイトー!。。。あなたは、そういう事しか興味を持たないのォ~?
いや。。。、あのォ~、もちろん、オランダは江戸時代には日本と深いつながりがあったから、“飾り窓の女”以外にも、ずいぶんとオランダのことを勉強しましたよ。。。それで、どうしてカナダへやって来たの?
やっぱりねぇ~、なかなか思うように暮らしが立たず、インドネシアから戻ってきたと言うと、なんとなく肩身が狭いのよね。 当時カナダに移住することが話題になっていて、いっそのこと新規まき直しでカナダに行こうということに家族で決めたのよ。
それでバンクーバーにやって来たわけ。。。?
違うのよ。。。モントリオールへ家族とともに移住したのよ。
モントリオール!?。。。でも、まもなくモントリオールでは 1970年の動乱ですよ。
そうなのよ。。。皮肉といえば皮肉よね。 まさかモントリオールで1970年に動乱があるなんて考えもしなかったでしょう。 だから1967年の春に船でカナダに渡ったのよ。 今のように飛行機がポピュラーだったら直接バンクーバーへやって来ていたかもしれないわ。
それで、モントリオールの動乱に巻き込まれてしまったの?
そうなのよ。
オクトーバー・クライシス
オクトーバー・クライシス(October Crisis)は、1970年10月にカナダのケベック州で発生した、ケベック解放戦線(FLQ)のテロリストによる2件の政府要人拉致事件の呼称。
当時のカナダ首相ピエール・トルドーが、(短期間ではあるが)戦時措置法を発動し、ケベック州とオタワにカナダ軍が展開された。
ケベック州首相のロバート・ブラッサ(Robert Bourassa)と、モントリオール市長のジャン・ドラポー(Jean Drapeau)が、カナダ政府に対して戦時措置法の発動を求めた。
カナダ首相トルドーは1970年10月に戦時措置法を発動。
強い力を与えられた警察は、分離主義者と判断した者すべてを保釈なしで留置した。
この時カナダ政府は、FLQのメンバーと他の過激な分離主義者、民主主義的な手法で独立を勝ち取ろうと啓蒙活動をしているケベック党(Parti Québécois)党員などを区別することを拒否した。
本危機が終結した後、特に1973年にケベック党の党員リストを手に入れるためにRCMP職員が不法に突入した事件などに対して、トルドー首相の指導によるRCMPに関する疑惑(Scandals surrounding the RCMP)が捜査された。
背景
1963年以降、ケベック州独立を唱えるケベック解放戦線(FLQ)によって仕掛けられた爆弾テロによって6名が死亡した。
特にこの爆弾の標的となったのは、裕福なアングロフォン(Anglophone、英語を話すケベック住民)が多く住むケベック州ウェストマウント(Westmount)の郵便箱であった。
1969年2月13日、モントリオール証券取引所で最大の爆発があり、これは負傷者27名という大規模な被害が出た。
FLQのメンバーは、軍事施設や産業施設から盗み出した数トンのダイナマイトを保有しており、自らの広報機関「La Cognée」を通じて更なるテロ攻撃の予告を行い、人々に脅威を与えた。
1970年までに、23名のFLQメンバーが逮捕・収監され、その内4名が殺人罪で有罪判決を受けた。
1970年2月26日、パネルトラックに乗った2人組がモントリオールで逮捕された。このとき彼らは、ソードオフ・ショットガン(銃身や銃床を短く切り詰めた散弾銃)と「イスラエル領事を誘拐する」という内容のコミュニケ(声明文)を持っていた。逮捕された一人はジャック・ランクト(Jacques Lanctôt)だった。
1970年6月、モントリオールから車で40分ほど北にあるローレンシャン高原の小さな町プレヴォスト(Prévost)で、警察が民家を急襲し、火器と弾薬、136kgものダイナマイトとその雷管、「アメリカ領事を誘拐する」というランサム・ノート(ransom note)を発見した。
戦時措置法の発効
トルドー首相の「まあ見ていろ」発言から3日後の10月16日、彼はケベック州知事ロバート・ブラッサとモントリオール市長ジャン・ドラポーの要請により、戦時措置法を発効した。
午前4時ちょうどにこの法律は執行され、何百人ものFLQメンバーとその共鳴者たちと疑われた人々が睡眠中のベッドから追い出され、そのまま拘束された。
ケベック州およびカナダの他地域で行われた世論調査では、戦時措置法に対する圧倒的な支持が示された。
後のケベック党党首ルネ・レベックは、当時はそれが必要な事態であったため執行に同意した、と書き残している。
しかしそれ以降、平時における戦時措置法の施行は、それが警察に逮捕と捜査に関する大きな力を与えることになるため、カナダ国内において激しい議論の対象となった。
ケベックの外(主にオタワ地域)で連邦政府は、連邦オフィスとその従業員を守るためとして、自らの権限の下に軍を配備した。
戦時措置法によって増大する逮捕権と(ケベック州政府によって要求され制御されているものの)軍隊の配備という組合せは、どこから見ても戒厳令の施行を連想させるものであった。
重大な違いは、軍が行政当局(この場合はケベック当局)に対するサポート役のままであり続け、司法的な機能を演じることがなかったことである。
にもかかわらず、連邦議会の芝生に駐車された戦車という光景は、多くのカナダ人を当惑させるものであった。
さらに、警察官僚が権力を濫用し、著名なアーティストや知識人を証拠無しで拘留したとの説もある。
1971年2月3日、法務大臣ジョン・ターナー(John Turner)は、戦時措置法により497人が逮捕され、うち435人が既に釈放されていることを報告した。
その他の62人は拘留され、うち32人は重罪犯としてケベック州高等裁判所から保釈を拒否された。
結果とその余波
オクトーバー・クライシスは、現代カナダにおける最も深刻なテロ事件とされ、そして、連邦政府および地方政府による対応については、現在も激しい論争の種となっている。
しかし当時の世論が、ケベック州の戦時措置法施行を圧倒的に支持していたのは確かである。
新民主党のトミー・ダグラスら幾人かの批評家は、トルドー首相が市民の自由を停止するために戦時措置法を施行するのは行き過ぎであった、そして、このことが先例となること自体が危険であると考えた。
この時カナダ政府がとった強硬な手段に肯定的な者は、政府の積極的な対応があったおかげで、1970年以降には同様なテロ事件が発生していないとの主張を続けている。
その一方でより一般的な見解として、ケベック州市民の間でこういったテロリズムは不愉快かつ不必要なものと理解されたからといわれている。
これによってカナダからの独立を求める人々は、充分に民主的なプロセスで独立が達成されるべきであり、またそうでなければならないと意識するようになった。
ケベック分離主義者に対する支持は一時低下したものの、後には再び十分な支持を得るようになった。
分離政策を掲げるケベック党も1976年にケベック州与党となった。1982年にカナダは新憲法を採択するが、ケベック州はこれを拒み、1987年にはケベック州の地位を認めたミーチ・レーク合意が得られたが、これも各州の足並みがそろわず実施されなかった。
ケベック州はカナダの一州であるが、その政治的地位は微妙な状態のままにある。
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この時ケイトーは、バンクーバーに居たの?
いや、まだ僕は日本でのんびりと暮らしていましたよ。 でも、この動乱は日本でもテレビニュースで伝えられました。 僕はカナダに行こうと思っていたので、この時の動乱があったから、モントリオールではなくトロントに行こうと決めたのですよ。
じゃあ、ケイトーは初めにトロントへ行ったの?
そうですよ。 4年ほど暮らして、それから北極圏に近いイエローナイフの政府でコンピューターの仕事に就いたのですよ。。。で、シルヴィーは1970年に家族と共にモントリオールからも逃げ出したと言う訳?
そうなのよ。。。当時、ケベック州は独立するかもしれない、というウワサが飛び交って、そうなれば独立戦争になるかもしれないと思って家族で決断したのよ。
それでバンクーバーにやって来たわけだ。
違うのよ。。。私以外はバンクーバーにやって来たけれど、私の姉が結婚してラトビアのリガ市に住み始めたので姉の所に厄介になろうと思って出かけたのよ。
マジで。。。? ラトビアのリガ市に行ったの?
そうよ。。。どうしてケイトーはそれほどビックリした顔をするの?
あのねぇ~、実は、僕はラトビアのリガ市からやって来た女性と知り合いになったのですよ。 その事は記事にも書いたよ。
ラトビアからやって来た
イングナさん
イングナさんは、安子さんが経営していた英語学校の生徒の一人だったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。僕は英語学校の仕事を手伝っていた関係から、イングナさんとも知り合いになったのですよう。
イングナさんがきれいだったのでデンマンさんは、ちょっかいを出したのでござ~♪~ますわね?
やだなあああァ~。。。人聞きの悪い事を言わないでくださいよう。イングナさんのお母さんがブティックを始めたのだけれど、税務が分からないからと言うので安子さんが僕を紹介したのですよう。
それで、イングナさんとは特に親しくしたのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。ソ連崩壊のことには興味があったから、僕は当時の事をずいぶんとイングナさんに尋ねたものですよう。
それで。。。?
一つだけ不思議な事をイングナさんが言ったのですよう。
どのような事を。。。?
手をつなぎあってエストニアから、ラトビア、リトアニアのバルト三国を結んだと言うのですよう。
手をつなぎあって三国を結ぶなんて冗談ならともかく、マジで考えるような事ではないのですよう。不可能ですよう。イングナさんは、まだ英語が充分に話せないので言い間違えたと僕は思ったのですよう。
それで。。。?
「手をつないでデモ行進したと言うのでしょう?」。。。僕は、そ~聞き返したのですよう。でも、手をつないでデモ行進したのではない!3つの国を手をつないで結んだんだと言い張るのですよう。
。。。んで、デンマンさんは納得したのですか?
もちろん、納得できませんよう。「あのねぇ~、3つの国を結ぶって、距離にしてどれくらいあるのォ~?」
イングナさんは、なんと答えたのでござ~♪~ますか?
約600キロメートルあるわ。。。と言うのですよう。。。600キロと言ったら、東京から大阪を越えて神戸を越えて明石の方までですよう。人間が手をつないで東京から明石まで並べるはずがないじゃないかア~!何を寝ぼけた事を言ってるのォ~!
そうしたら。。。?
イングナさんが学校のインターネット・コーナーのところまで僕を連れて行って英語版のウィキペディアを開いて見せたのですよう。
人間の鎖 (Baltic Way)
人間の鎖は別名「バルトの道」といわれ、1989年8月23日当時ソビエト連邦支配下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立運動の一環として行われたデモンストレーション。
およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600キロ以上の人間の鎖を形成した。
このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めたモロトフ・リッベントロップ(独ソ不可侵条約)秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。
背景
旧ソ連ではゴルバチョフ政権のもとでペレストロイカ、グラスノスチが進められ、街頭デモが急増し、市民の支持も集めていた。
1986年、3国のそれぞれの首都で、一握りの人々が集まり抗議行動を行ったが、直ちに警察により解散させられた。
1987年には大規模集会が3国の首都で行われたが、当局者に非難され、逮捕者が出て終わった。
一年後、大規模抗議行動が初めて当局の認可を得て、平和裏に行われた。
この「人間の鎖」の一週間前にはソ連政府も秘密議定書の存在を認めたが、バルト3国が自主的にソビエト連邦に加盟したという点については譲らなかった。
集会の数日前、リトアニアの独立運動組織サユディスの委員会の170人のメンバーが、「ソビエト連邦の政治的、文化的、行政的支配を受けない」独立のリトアニア国家をめざすことを議決した。
抗議
「人間の鎖」は地元の共産党当局によって認可され、鎖が切れないよう、周到に計画された。
例えば、各都市や町には担当の場所が割り当てられ、他の交通手段を持たない参加者には無料バスを提供するよう指示された。
参加者は、現地時間午後7時から15分間手をつないだ。
この集会を調整するため、特別のラジオ放送も行われた。
人間の鎖にどれだけの人が参加したかは報道によって異なる。
翌日のロイター通信によれば、エストニア人70万人、ラトビア人50万人、リトアニア人100万人が参加したと報じている。
ラトビアの首都・リガの旧市街
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いやァ~~。。。驚きましたよう。僕はマジで知らなかった。
あたくしも知りませんでしたわ。
僕は、これを読んでソ連の崩壊がバルト三国から始まったと言うのも分かるような気がしましたよう。やっぱり、民衆の力ってすごいよう。日本人も見習うべきだよね。
『小百合さんとワーグナー』より
(2009年7月4日)
あらっ。。。偶然ねぇ。。。私も「人間の鎖」に参加したのよ。 当時、私は小学校の先生をしていたの。
マジで。。。? じゃあ、ラトビア語も話せるんだ。
一生懸命勉強したわよ。
ロシア語に似ている?
ロシア文字じゃなくてアルファベットに近い文字を使っているから、ロシア語を覚えるのよりも簡単だと思うわ。
。。。で、ソ連が崩壊する前にバンクーバーへやって来たわけ?
そうよ。。。1986年から独立運動が表面化するようになって、また動乱でも起こるのじゃないかと思って、私は兄弟が残っているバンクーバーへやって来たと言う訳なのよ。 もう動乱なんてこりごりだったから。。。
。。。で、また小学校の先生をしたの?
いいえ。。。大学に行き直すのが面倒だったからエアカナダのフライトアテンダントになったのよ。
すごいねぇ~。。。シルヴィーの半生は波乱の連続だよね。 つまらない小説を読むよりもシルヴィーの話を聞いている方がよっぽど面白いよ。
あらっ。。。パソコンが使えるらしいわよ。。。司書の人たちが電源を入れ始めているわよ。
やっとかァ。。。でも、シルヴィーの話をもっと聞きたいなあああァ~。。。
また、あとでねぇ。。。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
想い返せば、あたくしの半生は京都だけに閉じ込められていたようなものでござ~♪~ますわ。
命の危険だけには晒された事がありませんけれど、
なんだか、あまりにも平凡な半生を歩んできたようで、
シルヴィーさんがうらやましいですわ。
“キャ~ 素敵ィ~♪~”
日本も含めて世界中にビートルズの熱狂的な嵐が吹き荒れたのは、あたくしが生まれる以前のことでしたわ。
あたくしの生まれるのも遅すぎてしまって
上の女の子たちのように我を忘れてビートルズに熱狂することができなかったのですわよ。
本当に悲しい半生でござ~♪~ましたわ。
でも、何度も何度もビートルズの夢を見るのですわ。
軽井沢の万平ホテルに行くと
ジョンレノンとあたくしがカフェテラスで会うのでござ~♪~ますう。
滞在中のジョン・レノンは朝9時半ごろ、
このカフェテラスに下りてきたのですよ。
わたしたちに「おはようございます」と
日本語であいさつしたものですわ。
いつも庭に面した一番奥の席にすわって、
他のお客様には背を向けるような格好で
腰掛けていました。
ジョン・レノンのお気に入りは
ローヤルミルクティーでしたわ。
『幸福の谷』より
(2008年4月6日)
あたくしは万平ホテルのカフェテラスでマジでジョン・レノンとローヤルミルクティーをいただいている記憶が鮮明に甦ることがあるのでござ~♪~ますわ。
あなたは信じられないでしょう?
あたくしだって信じられないのですから。。。おほほほほほ。。。
われわれの記憶が、
真実と作りものによって
構成されていることに似ている。
記憶というのは時間とともに
どんどん変化していく。
横尾忠則さんがこのようにおっしゃったのですわ。
とにかく次回も面白くなりそうです。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
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■『アナクロニズム(2011年3月27日)』
こんにちは。ジューンです。
ラトビアからやって来たイングナさんの愛犬は
とっても大きなニューファンドランド犬でした。
わたしの愛犬のチワワは
デンマンちゃんという名前です。
もちろんカナダのバンクーバーですから、
“デンマンちゃん”とは呼びません。
デンマン、デンマン、。。。と
呼びすてにするんです。
でも、カナダ人が名前を呼び合うように、
それで充分愛着がこめられていますよ。
そうすると、デンマンさんが
返事をすることがあるんですよね。
全く笑ってしまいます。
「ジューンさん、まぎらわしいから、
チワワの名前を変えたら?」
「デンマンさんこそ、ハンドル名を変えてくださいよ」
「そういうわけにもゆかないよ」
「バークレーを使えばいいじゃないですか?
ロブソンでもいいですよ。
わたしが知っているだけでも、
デンマンさんは4つハンドル名を
持っているのですから、
デンマンを使う必要はないでしょう?」
「たとえ、使わなくしても僕は長いこと
デンマンを使っているから、
ジューンさんに呼ばれれば、
つい返事をしてしまうよ」
というようなわけで、いまだにデンマンさんが
返事をすることがあります。
「もし生まれ変われることができるなら、
今度はジューンさんに可愛がられる
チワワのデンマンに生まれてきたいよ」
今でも、よくふざけてデンマンさんはそう言うんですよ。
でもね、そうなったら、チワワじゃなくて
猫を飼うかもしれません。(笑い)
ところで、小百合さんが面白い記事をまとめて
小百合物語を作りました。
もし、小百合さんの記事をまとめて読みたいならば、
次のリンクをクリックしてくださいね。
■ 『最近の小百合物語 特集』
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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