2011年4月4日月曜日

星空の記憶(PART 1)



星空の記憶(PART 1)














(須田剋太画伯は)2歳のころ、母君に抱かれて隣村の祭礼に行き、帰路が夜になった。



満天の星が、金の鋲(びょう)のように大きかったということを、70歳前にモンゴル高原に行って、包(パオ)のなかで夜になったとき、突如、画家はきのうのことのように思いだした。



噴きあがるような感情とともに、この人は星の下でそのことを夢中で私に話した。








(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)



108ページ

『別冊 太陽 日本のこころ - 130

司馬遼太郎』

2004年8月20日 初版第1刷発行

編集人: 湯原公浩

発行所: 株式会社 平凡社








デンマンさん。。。「夜空の記憶」って須田剋太(こくた)画伯が2歳の頃に見た星空の記憶ですか?







うん。。。まあ、そう言う事なのだけれど、僕は「2歳のころ見た星空が、突如、思いだ」されたというところにハッとしたのですよ。



どうしてですか?



2歳というのは、須田さんの年頃の人が言うのだから、多分、数え年だと思うのですよ。 そうであるならば、満1歳ですよ。



満1歳が重要なのですか?



あのねぇ、「三つ子の魂百までも」と言うでしょう!? 三歳未満の子供には記憶がないんだ、というようなことを僕はしばしば耳にしたことがある。



デンマンさんには1歳のころの記憶があるのですか?



あるのですよ。。。その事について以前に記事を書いたことがあるのですよ。 小百合さんも読んでみてください。








あのねぇ~、僕が覚えている最も古い記憶というか。。。思い出が、母親の背におんぶされて観た映画なのですよう。







つまり、一才に満たないで観た映画をデンマンさんは未だに覚えているのでござ~♪~ますか?



そうなのですよう。



でも、一才までの記憶は思い出に残らないと言いますわ。



僕も、そのような事を聞いたことがありますよう。でもねぇ、なぜか鮮明に覚えているのですよう。間違いなく母親の背中におんぶされて見た映像でした。



どの映画館で見たのかも覚えているのでござ~♪~ますか?



覚えていますよう。「大正座」という映画館でした。おそらく、名前から判断して大正時代にできたのだと思いますよう。当時、行田市には映画館が3つあったと思うのです。現在の行田市駅の前に「中央映画館」があった。 また、中央小学校から歩いて10分ぐらいのところに「忍館(しのぶかん)」という映画館がありました。 僕が中学生になる前に、どの映画館も廃業して取り壊されたと思うのですよう。



どうしてですか?



テレビが普及したので映画館に映画を見に行く人が激減したので、もう商売にならなかったのですよう。 僕の家では、僕が小学校3年生のときにテレビを買いました。 だから、その後映画館に行ったことがなかった。



中学生のときには、全く映画館に行かなかったのでござ~♪~ますか?



一度だけ熊谷市の熊女(熊谷女子高校)のすぐそばにあった「文映」にジェームズボンドの「ゴールドフィンガー」を見に行ったと思うのですよう。



その時だけですか?



そうですよう。 高校の時には映画館に行った記憶がなくて、大学になってからですよう。 洋画を映画館で見るようになったのは。。。



高校3年生の恵子さんとデートした時に観た映画が「ベンハー」だったのでござ~♪~ますか?



そうですよう。次の記事で書いたとおりです。



■ 『杜の都の映画 (2009年3月8日)』



■ 『杜の都のデート (2009年3月10日)』




デンマンさんのお母様はデンマンさんをおんぶしながら一人で観に行ったのですか?



もちろん、その当時、母親が一人で映画を見に行くなんて、できませんでした。



どうして。。。?



まだ1ドルが360円の時代でした。 自由化前の、日本がまだ貧しかった時代ですよう。 経済大国を目指して、日本中のお父さんやお母さんが一生懸命働いていた時代です。 僕が赤ん坊の頃には、核家族は多くはなかった。 おばあさん、おじいさんが、たいていの家に居たものですよう。



つまり、嫁と姑の問題などがあった時代なのですね?



そうですよう。 だから、嫁が一人で映画を観て遊んでいる事なんて、中流階級以下の家庭ではまずできなかった。



。。。で、デンマンさんのお母様はどなたと映画を見に行かれたのですか?



だから、僕の祖母ですよう。。。今から思い出すと、羽生市に住んでいた僕の伯母(僕の父親の姉)が、遊びにやって来た時だったと思うのですよう。



つまり、お母様はデンマンさんを背負いながら、おばあ様と伯母様と一緒に映画を観に出かけたのですか?



そうですよう。僕の母親が映画館に行った事なんて、その時が初めで最後だったと思うのですよう。



。。。んで、その時観た映画って、いったいどのようなものだったのでござ~♪~ますか?



『愛染かつら』ですよう。



その題名まで覚えていたのですか?



もちろん、その時には、覚えていませんよう。 第一、1才未満じゃ字が読めませんからね。うしししし。。。



どうして題名を覚えていたのでござ~♪~ますか?



白樺林の中を白衣を着た医師と看護婦がなにやら悲しそうに向き合っている。。。そのシーンだけが一才に満たない僕のオツムのスクリーンに焼きついたのですよう。



それで、そのシーンから、大人になって題名を推測したのですか?



そうなのですよう。 白樺林と白衣を着た男女。。。その映像が、なぜか僕の記憶に焼きついたのですよう。 しかも、『愛染かつら』という映画は太平洋戦争前に空前のヒットを飛ばした映画だったのですよう。



あのォ~。。。デンマンさんは戦前生まれでござ~♪~ますか?



やだなあああぁ~。。。僕は戦後生まれですよう。 終戦後、何の娯楽もなくて、ようやく食糧難も収まって、娯楽が何もなかった町に映画館が復興し始めた。 それで、戦前のヒットした映画を見せ始めたのだろうと思うのですよう。



『愛染かつら』という映画は、それ程ヒットしたのでござ~♪~ますか?



もちろん、戦前の事は、僕は生まれてないのだから知る由もないけれど、大学生になって記憶を確かめようと思って映画史を見たら『愛染かつら』が出ていた。 あらすじを読んだら、すぐに白樺林の中を白衣を着た医師と看護婦が向き合っていたシーンが、ありありと僕の記憶に蘇(よみがえ)ってきましたよう。




『愛染かつら』







上原謙(加山雄三の父親)、田中絹代主演で一世を風靡した松竹製作のヒット映画。

1938(昭和13)年に作られた。



【あらすじ】



津村病院に勤務する美人の高石かつ枝は、よく働き仲間からも好かれ看護婦の仕事に励んでいた。

病院長の長男である若い医師・津村浩三は彼女の人柄と美しさに強くひかれる。

かつ枝には若いころ死別した夫との間に6歳になる女の子がいた。

しかし、かつ枝は浩三にも仲間たちにも秘密にして、姉夫婦に預け自活の道を歩んでいた。



休日のある日、公園で親子の姿を仲間の看護婦に見られ、子供があることがばれてしまう。

そのことが職場の仲間たちの噂になり、かつ枝は子持ち勤務のことでののしられ、その誤解を解くために看護婦仲間の前で自分の身の上を説明する。



かつ枝は早くから親同士のゆるした許婚(いいなずけ)があった。

かつ枝が18の時、父がある事業に失敗すると、それがもとで婚約もそのまま解消しなければならないことになった。

その時、婚約者は一家の反対を押し切ってかつ枝を連れて東京へ出てゆく。

でもその結婚生活は決して幸せではなかった。

結婚して一年経った19の春、夫はその頃はやった悪い風邪におかされ、たった4,5日床について亡くなってしまう。

その時かつ枝は妊娠8ヶ月の身体だった。

子供が生まれると姉夫婦に預けて、かつ枝は看護婦募集に応募する。

幸いにも合格して、津村病院に勤務することになったのだった。



かつ枝の身の上話を聞くと同僚の看護婦たちは、それまで彼女をののしったことを後悔し、かえって同情するようになる。



ある日、津村病院院長の息子・津村浩三の博士号授与祝賀会が開かれる。

アトラクションの席上で、高石かつ枝は独唱することになった。

かつ枝は無伴奏で歌う予定だったけれど、突然、浩三がピアノの伴奏を申し出る。

こうして、かつ枝は浩三のピアノ伴奏で「ドリゴのセレナーデ」を独唱した。



そんなある日、車での往診の帰りにかつ枝は浩三に誘われて外に出た。

月光の美しい夜だった。

浩三の菩提寺は谷中の墓地を抜ける途中にあった。

浩三にさそわれ、かつ枝は菩提寺へむかった。

その菩提寺には本尊よりも名高い「かつらの木」があった。

その気のそばに愛染堂があった。

本尊は愛染明王。

昔から「愛染カツラ」と言われて、その木につかまりながら恋人同志が誓いをたてると、一時は思い通りにならなくても将来は必ず結ばれるという言い伝えがあった。

浩三にうながされ、二人はこの愛染かつらの樹に手を添えて永遠の愛を誓うのだった。



しかし、しょせんは病院の後継者と看護婦。

その当時のことだから二人はそう簡単に結ばれない。

母から反対された浩三は、二人で新しい生活に踏み切るべく家を出て京都で結婚することを決意する。

だが、京都に向かおうとした丁度その夜、娘の敏子がハシカで高熱を出し新橋駅での待ち合わせ時間に遅れてしまう。

新橋駅の階段を駆け上がる彼女の目の前を、浩三を乗せた列車は発ち去ってゆく。

ここで霧島昇、ミス・コロンビアが歌う、あの有名な主題歌「旅の夜風」の前奏が始まり、哀しいすれ違いのうちに前編が終わる。




「旅の夜風」



作詞: 西條八十

作曲: 万城目正

唄: 霧島昇、ミス・コロンビア



1 花も嵐も 踏み越えて

  行くが男の 生きる途(みち)

  泣いてくれるな ほろほろ鳥よ

  月の比叡(ひえい)を 独(ひと)り行く



2 優しかの君 ただ独り

  発(た)たせまつりし 旅の空

  可愛い子供は 女の生命(いのち)

  なぜに淋しい 子守唄



3 加茂の河原に 秋長(た)けて

  肌に夜風が 沁みわたる

  男柳が なに泣くものか

  風に揺れるは 影ばかり



4 愛の山河(やまかわ) 雲幾重(くもいくえ)

  心ごころを 隔てても

  待てば来る来る 愛染かつら

  やがて芽をふく 春が来る









デンマンさんは上のあらすじを読んで、幼児の時、お母様の背中におんぶされて観た映画が『愛染かつら』だと分かったのでござ~♪~ますか?







そうなのですよう。それ程有名な映画だったからこそ、お袋も見に行ったのでしょうね。とにかく、僕が記憶する限り、お袋が映画館に行ったのはその時が最初で最後ですよ。もちろん、お袋と映画館へ行ったのも、その時一度だけです。



でも、本当にそのような事があるのでしょうか?



僕だって信じられないほどですよう。でもねぇ~、背中におんぶされて観たということだけは、はっきりと覚えている。背中におんぶされるくらいだから、まず一歳未満ですよね。



そうでしょうね。



。。。んで、白樺林の中を白衣を着た医師と看護婦がなにやら悲しそうに向き合っているシーンだけしか覚えていないのですか?



そうなのですよう。それ以外のシーンは全く覚えてないのですよう。











あららあああぁ~。。。この上の写真はデンマンさんと小百合さんでござ~♪~ますわ。







僕の記憶にあるイメージをコラージュして作ってみたのですよう。ちょうどこんな感じなんですよう。若先生の津村浩三と看護婦の高石かつ枝が、このようにして病院の裏の白樺林で、人目を盗んで会って話をしている場面なのですよう。



。。。んで、この映画は誰の小説を基にして脚本が書かれているのでござ~♪~ますか?



第一回の直木賞を受賞した川口松太郎が書いた「愛染かつら」を基にしているのですよう。



映画のストーリーは小説の内容と同じですか?



僕は原作を読んだことはないけれど、ほとんど変わらないようです。








『おんぶされて観た映画』より

(2009年4月29日)








つまり、1歳のころの記憶も残るものだということを須田剋太(こくた)画伯のお話から改めてデンマンさんは確信したのですか?







そうなのですよ。



ただ、そのことを言うためにこの記事を書き始めたのですか?



もちろん、それだけではありません。



他にどのような理由があるのですか?



あのねぇ、須田画伯は僕の高校の先輩なのですよ。 もちろん、須田画伯が在学した当時は旧制の熊谷中学だった。




須田剋太(こくた)







(1906年5月1日 - 1990年7月14日)



当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。

力強い奔放なタッチが特徴。

司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を担当、また取材旅行にも同行した。

道元禅の世界を愛した。



略歴



•1906年
埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。

本名 勝三郎。



•1927年
埼玉県立熊谷中学校(旧制、現・埼玉県立熊谷高等学校)卒業。

その後浦和市(現:さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。

東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するもいずれも失敗。

独学で絵を学ぶ。



•1936年

文展で初入選。



•1939年

文展で「読書する男」が特選。



•1949年

抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。



•1950年

森田子龍編集の「書の美」に論文を発表する。以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。



•1955年

第3回日本抽象美術展に出品。



•1957年

第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。



•1960年

第1回個展(大阪フォルム画廊)。



•1961年

現代日本絵画展に出品。カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品。



•1962年

西宮市民文化賞を受賞



•1971年

司馬遼太郎に同行しながら、「街道をゆく」の挿絵を描き始める。







•1983年

「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。



•1990年

7月14日午後5時28分、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で死去。



•1990年

油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点の作品を大阪府に寄贈。







(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)



出典:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








デンマンさんは須田画伯の絵にハマっているのですか?







いや。。。正直言うと須田さんの絵は僕の好みの絵じゃないのですよ。 だから、須田さんのどの絵を見ても特に感動したことはない。 ただ、須田さんの人間としての魅力を知るにつけ、須田さんの絵を改めて味わいのある絵だと思うようになりましたよ。 東京美術学校(現東京芸大)を4度受験して、いずれも失敗したのが分かります。 多くの人に認められるような絵じゃないと僕は思いますよ。



それなのに司馬遼太郎さんが「街道をゆく」の挿絵画家として15年も須田さんと仕事をしたというのはどうしてですか?



須田さんの人間としての魅力に司馬さんが惹かれたのだと僕は思います。



どういうところが。。。?



次の須田さんの小文を読むと分かりますよ。




司馬さんと旅して



須田剋太







「街道をゆく」の連載が「週刊朝日」で始まってもう14年、ずっと絵のほうを受け持ってきましたので、ずいぶん司馬さんとは取材旅行を御一緒しました。 司馬さんは最初から、事々しいことはよして、ありのままにぶつかりましょう、須田さん、トボトボ歩きましょう、とおっしゃって、この方針は一貫してつらぬかれてきたんじゃないでしょうか。

名のある人に会うわけではなく、タクシーの運転手さんやその辺のオバちゃんに話しを聞いたりして。。。



 (中略)



九州へ行ったときのことでしたか、飛行機の中でスチュワーデスがおもちゃの飛行機を子供たちに配った。 私、それが欲しくて頼んだんですけれど、大人はいけません、といってスチュワーデスはツンツンしている。 これはお書きになってますね。 でも続きがあるんです。 司馬さんはそれを見てましてね、内緒で掛け合ってくれて、あとで、ハイッ、須田さん、ておもちゃを渡してくれたんです。 断られたときのあの須田さんの絶望的な顔! そして今のうれしそうな顔! って笑うんですけれど、いつもこういうやさしい心遣いをしてくれる人なんです。



大分私の方が年上なんですが、非常識なところがあって、助けられてばかりいるんです。 宇和島へ行ったときでしたかね。 司馬さんの友人のKさんが一緒だったんですが、私、Kさんがカメラを持ってらしたんで、あとで絵を描くために、あそこを撮ってくれ、こっちも撮って欲しいって、頼んでいたんです。

そのあと司馬さんにうんとたしなめられましてね。 Kさんはあなたの写真を撮るために来たんじゃないんですよ、須田さん、私はあなたのことをよく知っているからそうは思わないけれど、他の人にはずいぶんえらそうな人だと誤解されますよ、と。。。

私、どうもこういうことに気がつかなくて、親でも言ってくれないことを言ってくれて、本当にありがたいことだと感謝しました。

あの人は権力風をふかす人が身震いするほど大嫌いなんです。 人を愛すること、これだけですべてが成就する、と考えている人なんです。



 (中略)



司馬さんと出会えたということは、私は本当にめぐまれていると思う。

道元に同事ヲ知ルトキ自他一如ナリ、という言葉がありますけれど、いっしょに仕事をしておりますと、心が深いところで響きあって、自他の区別がなくなる、そういう瞬間を、おこがましいけれど司馬さんにある時ふっと感じるんです。

司馬さんも、私がとにかく一所懸命に絵を描いていることだけは認めてくれているんだと思います。 そうでなくてはこんなに長く続かなかった、と考えているのですけれども。







(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)



110ページ

『別冊 太陽 日本のこころ - 130

司馬遼太郎』

2004年8月20日 初版第1刷発行

編集人: 湯原公浩

発行所: 株式会社 平凡社








なるほど。。。「断琴の交わり」なのですわね。







あれっ。。。小百合さんは粋(いき)な言葉を知ってますね。



デンマンさんがどこかで書いていましたわ。



そうです。 次の記事の中で書いたのですよ。



 (すぐ下のページへ続く)

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