2011年8月16日火曜日

イタリア夫人


  
イタリア夫人
  




[491] Re:小百合さんのために作った
『夢とロマンの軽井沢』のサイトに、
たくさん記事を書いて、
もっと読み応えのあるサイトにしますからね。
 \(^_^)/キャハハハ。。。

Name: さゆり E-MAIL
Date: 2009/01/20 22:54
(バンクーバー時間: 1月20日 午前5時54分)



デンマンさん!

そこに 座っていたら ダメです。

もっと外を歩いて下さい。

どこかの なんとか老人に

なってしまいますよ。





『軽井沢タリアセン夫人』より
 (2011年8月12日)




デンマンさん、今日はイタリア夫人のお話ですか?



そうです。

でも、イタリア夫人って一体誰のことですの?

小百合さんは判っているでしょう?

私がすでに知っている人ですか?

もちろんですよ。 小百合さんの用事で TD 銀行に歩いて行っかなかったら、おそらく「イタリア夫人」について書くこともなかったでしょう。

あらっ。。。マジで。。。?

TD 銀行で用事を済ませてから僕はバンクーバー図書館に行ったのですよ。







そこで日本語の本を10冊借りてきたのです。





つまり須賀敦子さんがイタリア夫人なのですか?



いや。。。須賀敦子さんだけではないのですよ。

でも、どうして須賀敦子さんの本を読もうと思ったのですか?

日本語図書の本棚で、まず目に付いたのが青枠で囲んだ「須賀敦子のミラノ」だったのですよう。 小百合さんの見えない手が僕の肩をぐいと押して、その本の前に立たせたとしか言いようがないのです。





実は、須賀さんの本と言えば赤枠で囲んだ「トリエステの坂道」しか僕は知らなかった。 「須賀敦子のミラノ」という本は読んだことが無い。 須賀さんが書いたのだと思ったら大竹昭子さんと言う人が書いている。



それで興味を持って借りる事にしたのですか?

そうです。 写真がたくさん貼ってある。 久しぶりに「トリエステの坂道」も読もうと思って、それも借りた。 そうしたら、須賀さんが共著で書いた「ヴェネツィア案内」という本も目に付いたので、それも借りてきたのです。

「トリエステの坂道」は何度も読んだのですか?

初めて僕がこの本を読んだのは2003年でした。 それから3度か4度読んだでしょうか。。。2008年1月に短い書評を書きました。

『「トリエステの坂道」 読後感』

 (2008年1月11日)






この写真の中の人物は須賀さんとイタリア人の夫・ぺッピ-ノさんですよう。 1967(昭和42)年に御主人は41歳で亡くなりました。



まだ若いのに。。。須賀さんは力を落としたことでしょうね?

そうですよう。 その時、須賀さんは、まだ38歳でした。 僕が日本で暮らしていた時には、もちろん、須賀さんを知りませんでした。 須賀さんが日本語で書いた自分の本を出版したのは1990(平成2)年です。 『ミラノ 霧の風景』と言う本でした。 その年、須賀さんは61歳でした。

デンマンさんは、当時、須賀さんが生きていると信じていたのですか?

そうなのですよう。 「須賀敦子のミラノ」の本に略年譜があって、それを読んで須賀さんが1998年3月20日に心不全で亡くなっていた事を知ったのです。 69歳でした。 つまり、2003年に僕が初めて須賀さんの『トリエステの坂道』を読んだ時には、須賀さんはすでにあの世の人だったのですよう。 生きていると思い込んでいた人が、すでに長い間あの世の人だった、と言う事実を知るのは奇妙なものです。 小百合さんの用事が無かったら、今でも僕は須賀さんが生きていると思い込んでいたでしょう。

それで、須賀さんの冥福を祈るようにして『トリエステの坂道』を再度読んでみたのですか?

そうです。 しみじみと読み直しましたよ。 それまで、それ程印象が強くなかった章が、衝撃的な意味を持って僕の目の前に現れたのです。

それが、このページの冒頭に引用した「ふるえる手」というエッセーなのですか?

そうです。 あっ。。。これだ! 僕は、そう思いましたね。 須賀さんは次のように書いている。


ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。



著者の須賀さんにとっては、メチャすっご~い感動だったのですよ。

でも、私にはそれ程の感動が伝わってきませんわ。

あのねぇ~、須賀さんが味わった感動を理解するには、実は、次の部分も読む必要があるのですよ。 同じエッセーの後半部です。


おなじ年の十一月、私は、もういちど、ローマに行く機会にめぐまれた。
一年に二度、ローマを見られるのはなんとも幸運なことだった。
とはいってもなにもかもうまく行ったわけではない。
もういちど、私は雨になやまされた。

 (中略)

雨のなかを、私は、もういちど、カラヴァッジョを見に行くことにした。
あの絵が、萎えた気持ちをなぐさめてくれるかもしれない。
四月の雨の日に訪れて以来、とうとう、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会を再訪する機会はなかった。
あの日、どうしてあの絵をもっとゆっくり見ておかなかったのかと、心残りでもあった。
あの翌日の午後も、そのつぎの日にも、扉はかたく閉まっていた。

まだ早い時間のせいか教会のなかには旅行者のすがたもなく、がらんとした薄闇だけが沈黙につつまれていた。
用意したコインをつぎつぎと箱に入れて、こんどこそおもいのままに時間がすごせるはずだった。



右手の戸口から入ってきたキリストが、しなやかに手をのばして収税人のマッテオを指さしている。
イエスの顔はほとんど闇のなかにあって、それが彼とわかるのは、糸のように細い光の輪が頭上に描かれているからにすぎない。
収税人マッテオは、私が最初、勘ちがいしたように、光を顔に受けた少年ではなくて、その横に、え、あなたは私に話しかけているのですか、というふうに、自分の胸を指さしている中年の男だ。
マッテオは、「人に好かれなかった」と聖書にあるのだが、それにしては、かなり「ちゃんとした」平凡な人物に描かれていた。

レンブラントやラトゥールに先立って、光ではなく、影で絵を描くことを考え付いたとされるカラヴァッジョの絵を見ていて、私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。
男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。
どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿とさせるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、闇に閉ざされている。

カラヴァッジョだ。
とっさに私は思った。
ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。
画家が自分を描いているのだ、そう私は思った。
伝承によると、この画家は一種の性格破綻者というのか、ときにひどく乱暴な行為に出た人であったらしく、作品の高い芸術性はみなに認めながらも、仲間にうとまれ、そのためにしばしば仕事をもらえないで、ついには、人を傷つけたのだったか、殺してしまったのか、まるで即興詩人やスタンダールの物語の登場人物さながら、北イタリアからローマに追放されたのだという。
そのあとも、さらにナポリに、はてはマルタ島からシチリアへと逃げたことが、方々に残された作品から推理されている。
でも、異様に変形した手がすべてのような男を、カラヴァッジョが安易に性格的な自画像としてえがいたはずがないようにも、私には思えた。
もしかしたら、顔に光を集めたような少年も、おなじふうに自画像なのではないか。
二人の人物の間に横たわる奈落の深さを知っているのは、画家自身だけだ。

左端にえがかれた人物は闇にとざされていながら、ふしぎなことに、変形した、醜悪なふたつの手だけが、光のなかに置かれている。
変形はしていても、醜くても、絵をかく手だけが画家に光をもたらすものであることを、カラヴァッジョは痛いほど知っていたにちがいない。

あいかわらず、二百リラ分の照明が切れるたびに、あわただしくつぎのコインを入れなければならない。
ちょうど照明が継目にかかったとき、ぴたぴたとにぎやかな小さい足音がして、小学生の一群が若い男の教師に引率されてはいってきた。
まだ画学生のように見える若い教師が絵の説明をするのを、子供たちは神妙に聴いている。
そのうちに、私は妙なことに気づいた。
照明が消えると、教師は、そっぽを向いたままで、私がコインを入れるのを待っているのだ。
そして照明がもどると、また子供たちに説明をはじめる。
なにやら鼻白んだ気持ちで、私はその場を離れることにした。
すると、もうひとつ、奇妙なことが起こった。
私の近くにいた何人かの子供が、おばさん、ありがとう、と小声でいったのだ。
知らんぷりをしつづける教師と、ていねいにお礼をいう子供たち。
そのとき、とつぜん、直線のヴィア・ジュリアと曲がりくねった中世の道が、それぞれの光につつまれて、記憶のなかでゆらめいた。
どちらもが、人間には必要だし、私たちは、たぶん、いつも両方を求めている。
白い光をまともに受けた少年と、みにくい手の男との両方を見捨てられないように。



教会の外は、あいかわらず雨だった。
雨のなかを歩きながら、私はもうすこし、絵のなかの男について考えてみたかった。
犯した罪の意識と仕事に侵蝕され、変形したあの手は、やはりカラヴァッジョ自身の手にちがいない。
なんともあてずっぽうな推測だったが、私は確実になぐさめられていた。
醜い自分の手を、ミケランジェロの天地創造の手を意識において描いたといわれるキリストの美しい手の対極に置いて描きおおせたとき、彼は、ついに、自己の芸術の極点に立つことができたのではなかったか。

ふと、寒さにこごえたようなカラヴァッジョの手のむこうに、四月、それが最後になった訪問のときにコーヒーを注いでくれたナタリア・ギンズブルグの、疲れたよわよわしい手を見たように思った。
鍋つかみのかわりにした黒いセーターの袖のなかで、老いた彼女の手はどうしようもなくふるえていて、こぼれたコーヒーが、敷き皿にゆっくりとあふれていった。




(pp.215-219)
『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子 みすず書房
1996年5月20日 第4刷発行




じっくりと読んでみましたけれど、お恥ずかしい事に、私には須賀さんが味わったと言う「深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動」が感じ取れませんわ。



うん?。。。感じ取れない?

そうです。。。感じ取れませんわ。

う~ん。。。よくある事ですよう。 悲観しないでくださいよう。 上の須賀さんのエッセーを読んだほとんどの人が漠然とした感動を受けるだけで、須賀さんが受けた感動を100%実感する事は不可能です。

どうして?

須賀さんと同じ体験を持つことができないからですよう。 また、仮に須賀さんと同じような教養と経験を持っているとしても100%の感動を味わう事は不可能です。

なぜ?

司馬遼太郎さんがかつて次のように言ってました。



“作品は作者だけのものと

違うんやでぇ~。。。

作者が50%で読者が50%。。。

そうして出来上がるモンが

作品なんやでぇ~”




つまり、名作と言われるものは常に名作とは限らない。 読む人が教養もなく人生経験も乏しかったら、どんな名作も“猫に小判”ですよう。



要するに、私には須賀敦子さんの感動を共感するだけの美術的な教養が欠乏しているとデンマンさんはおっしゃるのですか?

いや、小百合さんには美術的な教養があると思いますよう。

それなのに、どうして私には須賀さんの感動が感じ取れないのですか?

あのねぇ~、上のエッセーを理解しようとすれば、どうしてもナタリア・ギンズブルグさんと須賀さんの心温まる人間関係を知らなければならないのですよう。 でも、長くなるから僕はその部分を削除してしまったのです。(中略)と書いてあるのがその部分です。 実は極めて重要な部分です。

それなのに、どうして削除してしまったのですか?

カラヴァッジョの絵とは直接関係無いからです。 でも、エッセーを理解するにはナタリア・ギンズブルグさんを語らない訳にはゆかないのですよう。

どうして。。。?

エッセーのタイトル「ふるえる手」というのは、ナタリア・ギンズブルグさんのふるえる手のことです。 一口で言ってしまえば、ナタリア・ギンズブルグさんという人は、あの有名な『アンネの日記』の著者(アンネ・フランク)が生きていれば、こうなるだろうな?というような人です。





須賀さんが、もしナタリア・ギンズブルグさんの作品を読んでいなければ、本を書くことはなかっただろう、と言うほど須賀さんが強い影響を受けた人です。



そのナタリアさんのふるえる手がそれ程重要なのですか?

重要なのですよう。 ナタリアさんと須賀さんの心温まる人間関係がその「ふるえる手」に象徴されているのです。

どう言うこと。。。?

あのねぇ~、須賀さんは、上のエッセーの中で「醜くゆがんだ心」と対比して「良心」を謳(うた)いあげたかったのだと僕は思うのですよう。


どちらもが、人間には必要だし、
私たちは、たぶん、いつも両方を求めている。
白い光をまともに受けた少年と、
みにくい手の男との両方を見捨てられないように。

。。。

知らんぷりをしつづける教師と、
ていねいにお礼をいう子供たち。


「醜くゆがんだ心」とは、みにくい手の男であり、知らんぷりをしつづける教師です。「良心」とは、白い光をまともに受けた少年と、ていねいにお礼をいう子供たちで象徴されている。

それで。。。「ふるえる手」とは。。。?

ナタリア・ギンズブルグさんは須賀さんにコーヒーを入れてあげるとき、本当は安静にしていなければならないような状態だった。 でも、心から須賀さんをおもてなししたかった。 ナタリアさんが亡くなったことを知り、須賀さんはハッと思い当たった。

もう死ぬかもしれないほど体が弱っていたのに、ナタリアさんは心から須賀さんをおもてなしした。 その事を須賀さんは知ったのですか?

そうです。 その事が須賀さんに上のエッセーを書かせたのですよう。 僕には、そう思えるのです。

分かりましたわ。 「ふるえる手」とは、ナタリアさんの心のぬくもりであり、ナタリアさんの「良心」だったのですわねぇ。。。それで。。。、それで、デンマンさんも、その事に感動したのですか?

ん。。。? その事。。。? いや。。。僕が感動したのは違うところですよう。

違うところってぇ。。。いったい、どこですか?

実は、僕にも須賀さんの感動が理解できました。 それは次の部分です。


私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。


でも、この感動を僕の言葉に置き換えると次のようになるのですよう。

僕は、たったいま、深いところで

たましいを揺りうごかすような女性に

出会ってきたという、

まれな感動にひたっている

自分に気づいた。

しばらく忘れていた、

自分が探し求めていた

女性に接したときの、

あの確かな感触だった。


つまり。。。つまり。。。この女性は。。。?

そうですよう。 うしししし。。。 小百合さんなのですよ。 軽井沢タリアセン夫人なのですよう。。。

つまり、この事が言いたいために、わざわざ「イタリア夫人」を持ち出したのですか?

いや、違いますよ。 僕はたまたま次の記事を読んだのですよ。


叩かれる塩野七生

塩野七生が文学の方面からも歴史学の方面からも叩かれる存在らしい、ということは薄々知らなくはなかったが、実態はかなり酷かったのだなと思う。塩野自身はずっとイタリアにいたからわれ関せず、という風情だったようだが、日本にいたら相当きつかっただろうと思う。いくら叩かれても全然めげないから叩く側はよけい憎悪を募らせていたんだろうけど。なんかこういうところは日本人の本当につまらない情けない部分だなと思う。

塩野によると、デビュー当時は哲学なら田中美知太郎、歴史学なら林健太郎、会田雄次といった大先生方に認められていて彼らがいる間は大丈夫だったのだが、80年代から90年代にかけて、その下の世代が学会に主流になったら大変だったのだという。『マキャベッリ全集』を出すので月報を書いてほしいと依頼が来て、OKを出したら訳者の学者たちが塩野が書くなら我々は書かないと言い出して、結局塩野が降りたのだという。

またNHKでウフィッツィを取り上げるときに案内役をしてくれと頼まれてこれも引き受けたら、ルネサンス関係の学者たちが塩野が案内役なら自分たちは以後協力しないと言い出したのだそうだ。あまりのケツの穴の小ささに腹を抱えて笑い飛ばしたくなる。(卑語失礼)

 (中略)

マルクス主義が影響力を持つ時代が終わってしまって、学者としてのアイデンティティが研究方法の次元で問われる時代に突入した。
結局、そのアイデンティティは研究のディテールに認めるほかなくなってしまった。だから、研究対象をなるべく細分化して、他の領域には手を出さないという、一言で言ってしまえば、タコツボ型がはびこったということだと思います。

これは、ルネサンスとかローマ史とか、つまり学者自身のイデオロギーがほとんど問われない分野においては全くその通りだと思う。
近現代史ではまだまだマルクス主義とは言わないまでもイデオロギー的な部分が幅を利かせているが、それ以前の歴史学では趣味オタクの世界に近づきつつある一面は否定できない。そうなるとオタクの特性であるディテールへの異常なこだわり、異分子への排他性などが悪い形で噴出し、実社会においてもてはやされる塩野七生など最も叩きごろの存在になるだろう。

もう一つ三浦の指摘で面白いと思ったのは、塩野が小林秀雄の影響を受けているといっていることだ。塩野自身は「?」という感じだが、小林が「歴史は神話である」、と言っているのを受けて塩野が「歴史は娯楽である」と言っている、と三浦は解釈しているわけだ。

 (中略)

塩野は確かにそういうふうに歴史と言うものを書いているから、逆に学者からすれば自分たちのやっていることの存在意義を脅かされるような、馬鹿にされているような感じがしてしまうのも分らなくはない。

しかし、その違いを制度としての学問にこだわるか、人間存在そのものを問うために学問を使うと言う立場に立つかの違いだとするならば、私はやはり後者の立場に立ちたい。その方が生きてて面白いと思うんだけどなあ。




出典: 『塩野七生が叩かれる理由』
    (2008年4月4日)




つまり、塩野七生さんも「イタリア夫人」の一人だと。。。?



その通りですよ。 僕は人生の半分以上を海外で暮らしているけれど、塩野七生さんは人生の半分以上をイタリアで暮らしている。 だから、「イタリア夫人」と呼んでも決して間違いではないと思うのです。

それで、デンマンさんは塩野七生さんが日本で叩かれていた事を知らなかったのですか?

知らなかったのですよ。 むしろ人気作家の一人だと思っていたのですよ。 実は、僕は記事の中で塩野さんの文章を引用したことがある。


二度と負け戦はしない



憲法では戦争をしないと宣言しています、なんてことも言って欲しくない。
一方的に宣言したくらいで実現するほど、世界は甘くないのである。
多くの国が集まって宣言しても実現にほど遠いのは、国連の実態を見ればわかる。 ここはもう、自国のことは自国で解決する、で行くしかない。 
また、多くの国が自国のことは自国で解決する気になれば、かえって国連の調整力もより良く発揮されるようになるだろう。

二度と負け戦はしない、という考えを実現に向かって進めるのは、思うほどは容易ではない。
もっとも容易なのは、戦争すると負けるかもしれないから初めからしない、という考え方だが、これもこちらがそう思っているだけで相手も同意してくれるとはかぎらないから有効度も低い。

また、自分で自分を守ろうとしないものを誰が助ける気になるか、という五百年昔のマキアヴェッリの言葉を思い出すまでもなく、日米安保条約に頼りきるのも不安である。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより)




221 - 222ページ
『日本人へ (国家と歴史篇)』
著者: 塩野七生
2010年6月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋

『地球の平和』に掲載
(2011年8月9日)




私も『地球の平和』を読みましたわ。



おおォ~。。。小百合さんも読んでくれたのですか?

ええ。。。読んだ感じでは、デンマンさんは塩野さんをかなり批判的な目で見ていると思ったのですが。。。

そうなのですよ。。。僕は個人的には塩野さんに恨みだとか憎しみの感情は持っていないのですよ。 むしろ、彼女の出世作とも言える『ルネッサンスの女たち』はマジで楽しく読んだ記憶があります。

それなのに、どうして急に批判的な目で見るようになったのですか?

あのねぇ~、多分感性の違いだと思うのですよ。 こればかりは十人十色だからどうしようもない。

。。。で、デンマンさんの感性とは。。。?

次の小文を読んでみてください。


終戦時の悲話



アメリカの空襲を受けて、東京をはじめ都市部はどこも焼け野原。
おまけに政府は戦争を続けるために国債を大量に乱発していたので、敗戦直後はものすごいインフレになった。
物価は数十倍になって、戦前に貯めていた貯金や財産は無に等しくなった。
おまけに空襲で家をなくし、人びとは食糧不足で苦しんだ。



1945年3月の東京大空襲で

焼け野原になった江東区。


「約310万人が死んだ」とか簡単にいうけれど、一人の人間が死ぬことは、遺族や縁者に、大きな傷を残すことだった。
作家の夢野久作の長男だった杉山龍丸という人は、敗戦直後に復員事務の仕事に就いていたときのことを回想して、こう述べている。

「私達は、毎日毎日訪ねてくる留守家族の人々に、貴方の息子さんは、御主人は亡くなった、死んだ、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた」。
「留守家族の多くの人は、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった」。
杉山はある日、小学校二年生の少女が、食糧難で病気になった祖父母の代理として、父親の消息を尋ねにきた場面に出会った経験を、こう書いている。


私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島(フィリピン)のルソンのバギオで、戦死になっていた。
「あなたのお父さんは---」
といいかけて、私は少女の顔を見た。 やせた、真っ黒な顔。
伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるをみつめていた。
私は少女に答えねばならぬ。
答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。
「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです。」
といって、声がつづかなくなった。
瞬間 少女は、一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。



…しかし、少女は、
「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。 おとうちゃまが、戦死していたら、係りのおじちゃまに、おとうちゃまが戦死したところと、戦死した、ぢょうきょう(状況)、ぢょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの。」

私はだまって、うなずいて……やっと、書き終わって、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。
涙一滴、落さず、一声も声をあげなかった。
肩に手をやって、何か言おうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血が出るようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。
私は、声を呑んで、しばらくして、
「おひとりで、帰れるの。」と聞いた。

少女は、私の顔をみつめて、
「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。 だから、行けるね、となんども、なんども、いわれたの。」
…と、あらためて、じぶんにいいきかせるように、こっくりと、私にうなずいてみせた。
私は、体中が熱くなってしまった。 帰る途中で私に話した。

「あたし、いもうとが二人いるのよ。 おかあさんも、しんだの。 だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。 あたしは、泣いてはいけないんだって。」
…と、小さな手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。
どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、何が出来るのか?


(注: 写真とイラストはデンマンライブラリーから貼り付けました)




84 - 88ページ 『日本という国』
著者: 小熊英二
2006年3月3日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 理論社




『漫画家の壁』に掲載
(2011年3月10日)




この文章を読んだら「二度と負け戦はしない」じゃなくて「二度と戦争はしない」という気持ちになると思うのですよ。 しかも、塩野さんは 1937年生まれだから、ちょうど上の文章の中の女の子と同じ世代なのですよ。 



つまり、塩野さんの感性が太平洋戦争を経験して「二度と負け戦はしない」という受け止め方に表れているとデンマンさんは思うのですか?

そうですよ。 一方、塩野さんと同じ世代であり、イタリアで長年暮らしたことのある須賀敦子さんの感性は?

塩野さんとは全く異なっていると、デンマンさんは思うのですか?

そうですよ。 僕の感性は須賀敦子さんの感性に共鳴するのですよ。 少なくとも須賀さんのエッセーを読むと、なんだか僕の心に素直に伝わってくるものがある。


私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。


つまり、このような感じですか?

そうですよ。 日本で「塩野七生さんが文学の方面からも歴史学の方面からも叩かれる存在らしい」のは、むしろ彼女の感性が同世代の人たちの感性からかけ離れているからではないだろうか?! 僕には、そう思えるのですよ。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
そうですよね。 確かに塩野七生さんの感性はユニークなのかもしれませんわ。
でも、感性は十人十色です。
違っていて当たり前だと思うのでござ~♪~ますわ。

ただし、日本に住んでいるとユニークな感性を持ち続けることはとても難しいと思いますわ。

「長いものには巻かれろ」

「出る釘は打たれる」


このような諺もござ~♪~ますわ。

どうしても、周(まわ)りの見方考え方が気になるのですわ。
そのような雰囲気の中で塩野さんがユニークな感性で文章を書けば、当然、文学の方面からも歴史学の方面からも叩かれるかもしれません。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、次回も、ますます面白くなりそうですわ。
あなたも、どうか、また読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。



 


ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

なんだかデンマンさんが小百合さんに

“殺し文句”を聞かせようとしました。

ところで“殺し文句”を英語で

何と言うのでしょうか?

telling phrase と言います。

macking phrase と言うこともできます。

女性を口説くって、どう言うと思いますか?

次のように言います。

Jim chats up Mary in his apartment.

ジムは彼のアパートでメアリーを口説く。

Jonny makes a move on Sandra.

ジョニーはサンドラを口説く。



ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





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