軽井沢タリアセン夫人
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デンマンさん...「軽井沢タリアセン夫人」の検索結果を持ち出してきて自慢したいのですか?
いや。。。別に自慢したいわけではないのですよ。
じゃあ、どうして検索結果などを持ち出してきたのですか?
あのねぇ~、自分が書いた記事がネットの上でどれだけ存在感があるのか?。。。たまには、ちょっと調べてみようという気になるのですよ。 こうして僕が書いた多くの記事がネット上に存在していると思うと、やっぱり小百合さんと話している事が無駄ではないという気になって、うれしくなるのですよ。
つまり、自己満足ですわね?
小百合さんは、かなり皮肉な事を言うのですね!?
。。。で、 24、300件の記事をすべてデンマンさんが書いたのですか?
もちろん僕がすべて書いたわけではありません。 でもねぇ~、トップページに書き出された記事はすべて僕が書いたものですよ。
つまり、その事を自慢したいのですか?
やだなあああァ~、だから。。。僕は自慢したいわけじゃないと言ったでしょう!
でも、わざわざ 24,300件を赤い枠で囲んでいるのは、それを強調して自慢したいように見えますわ。
まあ。。。、小百合さんがそう思いたいなら、それでもかまいませんよ。
。。。で、どうして『軽井沢タリアセン夫人』について 共通テーマ・ライブドアブログを赤枠で囲んだのですか?
小百合さんに注目して欲しいと思ったので囲んだのですよ。
やっぱり、デンマンさんは自慢したいのですわね?
あのねぇ~、自慢したいわけじゃないと言ったでしょう!
分かりましたわ。。。で、何が言いたいのですか?
だから、小百合さんにも『軽井沢タリアセン夫人』について 共通テーマ・ライブドアブログを見て欲しいのですよ。
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あらっ。。。デンマンさんはライブドアブログの「共通テーマ(軽井沢タリアセン夫人)」に私のことを411件も記事に書いたのですか?
軽井沢タリアセン夫人については僕がほとんど書いてますからね。 これからも、多分僕だけが書き続けると思うのですよ。
恥ずかしいわア。
なぜ小百合さんが恥ずかしがるのですか?
だってぇ、「共通テーマ」なのに書いているのはデンマンさんだけですもの。。。
いや。。。そのうちに他の人も書くと思うのですよ。
いえ。。。そのような事は考えられませんわ。
どうして。。。?
だってぇ、上のリンクをクリックして『軽井沢タリアセン夫人』について 共通テーマ・ライブドアブログを見るとデンマンさんだけがムキになて書いているのですものォ~。。。ずらずらと並んでいるデンマンさんのアイコンを見たら、ほとんどの人が呆れて無視しますわよ。
小百合さんは、そのように消極的にしか考えられないのですか? 少しは積極的に考えてくださいよ。 せっかく僕は小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」として尊敬しながら記事を書いているのだから。。。
でも、こうして『軽井沢タリアセン夫人』について 共通テーマ・ライブドアブログを見ると、デンマンさんが自己満足のために書いているとしか思えませんわ。
どうして、そう思うのですか?
だってぇ、「投稿者ランキング」のご自分のお名前を赤枠で囲んでいるでしょう! ランキングで一番になったのを自慢しているように見えますわ。
やだなあああァ~。。。あのねぇ~、そのような小さなことで僕は自慢しませんよ。
では、いったい何のために赤枠で囲んだのですか?
だから、そのような小さな事で自慢する事がいかに馬鹿げたことかをここで語るためですよ。
でも、デンマンさんは、そう言いながらも自慢しているではありませんか!?
小百合さんはくどいなあああァ~。。。僕は「自慢してない!」と言っているでしょう!
では、どうして自慢しているようにしか思えない検索結果などを持ち出してきたのですか?
あのねぇ~。。。なんだか急に小百合さんと過ごした軽井沢が懐かしくなったのですよ。
どうして。。。?
次のビデオクリップを見たからですよ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
あらっ。。。私も、なんだかマジで懐かしくなってしまいましたわ。 うふふふふふ。。。
そうでしょう!。。。だから、僕は小百合さんとの懐かしい思い出を共有するために、「軽井沢タリアセン夫人」で検索してみたのですよ。
つまり、バンクーバーに住んでいるデンマンさんが、ふと懐かしくなって軽井沢を思い出したのですか?
いや。。。実は、軽井沢が懐かしくなったのではないのですよ。 僕はたまたま塩野七生さんの書いた本を読んだのですよ。
女に冷たい女性作家
歴史を書いて40年になるが、昔から非難されてきたことが一つある。 それは、私という作家は同性に対して冷淡で、女の立場になって書かないというのだ。...女の作家ともなれば同性を書くほうが商業的に有利であるというのは、出版界の常識であるらしい。 実際、そう主張する編集者の意見を容れて書いた最初の作品は『ルネッサンスの女たち』だから、女が女を書くのが私のデビュー作ではあったわけだ。 だが、商業的には有利であろうと、その路線は第一作のみで捨てた。
なにしろ、中世のイタリアも古代のローマも、男たちの時代なのである。 男の世界での女は所詮は脇役で、歴史の脇役を書きつづけているといずれはゴシップに落ちる。 処女作だけは女たちを書く理由を、歴史の脇役を通して時代を書く、ということに見つけて自分を納得させたが、それで以後もつづけるにはやはり限界があった。
というわけで二作目からは男に乗り換えたのだが、その理由は、男の時代だから男たちを通してそれを書く、ということに加えてもう一つ、あまり自慢にならない本音もあったのである。
それは、女の胸のうちを巧みに書くという評判の男性作家がいるんだから、男の思いに迫る女性作家がいたっていいんじゃない、というものだ。
とはいえ所詮は女の世界に興味がもてないというにすぎなく、一億円出すといわれても、女たちの間で繰り広げられる嫉妬や羨望やその他もろもろの感情について書くことだけは、私には無縁でありつづけるだろう。
作家は絶対に、書く対象に影響される。 対象に乗り移るくらいの想いで対さないかぎり、それを書ききることはできない。 私の場合は、自分自身が女なのに、わざわざ他の女に乗り移るほどの情熱を感じないということなのかもしれない。 また、男たちは業績で評価している以上、女に対してもそれと同じ基準で評価したい、というのが私の考え方でもある。
というわけで私が下した評価が冷淡だったと非難された歴史上の女たちの中での典型が、クレオパトラだった。
(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより)
29 - 31ページ
『日本人へ (国家と歴史篇)』
著者: 塩野七生
2010年6月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
塩野七生さんが書いた本と軽井沢が関係あるのですか?
いや。。。直接の関係があるわけじゃない。 でもねぇ~、この塩野さんは主にイタリアで暮らしている。 つまり、人生の半分以上を海外で暮らしているという点で僕と似ている。 しかも歴史を書いて40年になると言う。 歴史馬鹿である点も僕と似ているのですよ。
。。。で、塩野さんも軽井沢に別荘を持っているのですか?
いや。。。僕が知る限り塩野さんは軽井沢に別荘を持ってません。
それなのに、どうして塩野さんを取り上げたのですか?
あのねぇ~、かつて僕はイタリアに長く住んでいる作家のことで「小百合物語」として記事を書いたことがある。 ところが、ど忘れして作家の名前が浮かんでこない。
それで、どうしたのですか?
だから、GOOGLEで検索してみたのですよ。 その結果を見てください。
でも、ちゃんと「須賀」と入れて検索しているではありませんか!?
もちろん苗字は、おぼろながら分かっていた。 でもその下の名前までは思い出せなかった。
。。。で検索した結果から「須賀敦子」さんだと判ったのですか?
その通りですよ。 それで僕は、さっそく赤枠で囲んだページへ飛んでいったのですよ。 小百合さんのために、そのページをソフトカメラで撮っておいたので見てください。
上のページをじっくりと眺めていたら、なんと『軽井沢タリアセン夫人』について 共通テーマ・ライブドアブログで書いた記事が表示されたではありませんか!
■『愛と動物(2011年7月17日)』
つまり、お馬さんのお話を書いたのですか?
確かに馬の写真が載せてあるけれど、実は「トリエステの坂道」を読んだ感想などを書いたのですよ。 それで急にイタリアの空が懐かしくなったと言う訳です。
【トリエステの思い出】
■『イタリアの空の下で』
(2009年1月25日)
つまり最終的に、この記事にゆきついたのですか?
その通りですよ。
「ふるえる手」から
(ローマの)ゴヴェルノ・ヴェッキオ街から、サンタ・マリア・デル・アニマ街に出る。
この道の突きあたりには魂のサンタ・マリアを意味する名の教会があるのだけれど、ここを通るたびに、私は、ちろちろと赤く燃える火の玉に出会いそうな気分になる。
色とりどりの提灯などを吊るしたディスコやアイスクリーム屋があったりして夜は若者たちで賑う。
そもそもどういう由来でこんな名の教会ができたのだったか。
そこからもう一本、路地をぬけると、二千年まえ、ローマ皇帝の競技場だったという高貴なナヴォーナ広場、それを横切って上院の建物がある広小路に出た。
左手を見るともなく見ると、これまでに何度か来ては、運わるく扉が閉まっていてそのまま通りすぎてしまった、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会の、正面のではない、わきの小さな扉から、旅行者らしいよそおいの人たちが三々五々出入りしている。
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会
(フランス人たちの聖者ルイ教会)
これもまた長い名の教会だが、フランス人たちの聖者ルイ、すなわち、十字軍をひきいて二度も地中海を渡ったあげく、とうとうチュニジアでペストにかかって死んだ十三世紀のフランス王にささげられている。
そういう名だからここでフランス人が集まるようになったのかどうかは知らないが、この教会はローマにいるフランス人カトリック信者たちの集会所にもなっていて、となりにはフランス語の書籍が買える店もある。
ローマで勉強していたころは、なんどか足を運んだことがあったが、この教会には一度も足を踏み入れたことがなかった。
教会の奥まった祭壇のひとつに、カラヴァッジョの『マッテオの召出し』という有名な絵があることを知ったのも、ごく最近のことだ。
キリストの十二人の使徒のひとりマッテオは、人にいやしまれる収税人だった。
その彼のところに、ある日、イエスがはいってきて、ついてこい、という。
彼はたちどころに「なにもかも」捨ててイエスに従ったと聖書にはある。
その呼びかけの場面をえがいた十六世紀の作品で、一見の価値がありと友人が教えてくれた。
カラヴァッジョという画家の作品をはじめて見たのは、ローマの学生時代から何年もあと、ミラノのアンブロジアーナ美術館で出会った彼の静物画だった。
横長の画布にシンメトリカルな構図で、こぼれるように籠にもられた果実が、黄色の勝った色調で描かれていた。
近代静物画の草分けといってよい作品なのだそうだが、歴史的、あるいは宗教的な画題しか描かれなかった時代に、果実という日常的なものを中央に据えた構図はたしかにめずらしかったのだろう。
でも、当時の私にはごく平凡な静物としか見えなかったし、それ以上の興味をさそわれる絵画というのでもなかった。
彼の本名がミケランジェロ・メリージだというのは、そのとき覚えたし、カラヴァッジョというのは、この画家が生まれた町の名で、ミラノの東、二、三十キロのところにあることも車で走っていてぐうぜん知った。
はてしなく広がるポー河の平野の、なんということはない小さな町だ。
もしもその日、教会の扉がこれまでとおなじように閉ざされていたのだったら、私はそのまま通りすぎていただろう。
二十人ほどの旅行者の群れが出てくるのを見て、気持ちがうごいた。
せっかく開いているのなら、カラヴァッジョを見て行こう、ぐらいの軽い気持ちだった。
入っていくと、『マッテオの召出し』がある左手の祭壇は、窓になっているはずの壁面も二幅の絵でふさがれているために、外光が完全にさえぎられて、まっ暗なものだから、壁にとりつけた鉄製の小箱に二百リラのコインを入れると、ぱっと照明がつく仕掛けになっている。
祭壇を幾重にもとりまいた見学者たちが神妙にガイドの説明に耳を傾けているので、私はうしろで待つことにした。
カラヴァッジョの絵は、祭壇をかこむようにして三点、どれも使徒マッテオの生涯の、とくに劇的な場面を描いたものだ。
三枚の絵をぐるりと見まわしたとき、まるで見えない手にぐいと肩を押されたみたいに、『マッテオの召出し』とよばれる絵だけが、私をひきつけた。
レンブラントを思わせる暗い画面の右手から一条の光が射していて、ほぼ中央にえがかれた少年の顔を照らしている。
一瞬、その少年がマッテオかと思ったほど、光に曝された顔の白さが印象的だった。
もっと近くから見たい。
そう思った途端、照明が消えた。
二百リラ分の観覧が終わったのだ。
観光客がざわめいて、だれかがもう一回コインを小箱に入れる音がした。
そういうことがなんどか繰り返されて、そのたびに、見物人がざわざわと入れかわった。
こんどこそ前に出ようと思うのだが、団体客の壁にはばまれて、私はいつもうしろにとりのこされる。
数回、そういう具合だったので、それ以上そこにとどまるのをあきらめた。
ホテルから遠くないのだから、と私は思った。
ローマを発つまでに、もういちど来ればいい。
できることなら、だれもいない時間に、ひとりで絵のまえに立ちたかった。
教会を出ると、雨はほとんどやんでいた。
ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。
(pp.205-208)
『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子(すが あつこ) みすず書房
1996年5月20日 第4刷発行
【デンマン注】
読み易いように改行をたくさん加えました。
また、小百合さんに注意を促すために赤字で強調した箇所があります。
しかし、文章自体には手を加えていません。
上の写真は本の中にはありません。僕が加えたものです。
須賀敦子さんのエッセーの一部ですわね?
そうですよう。
。。。で、上の文章の何がそれほどデンマンさんに強い印象を与えたのですか?
次の部分ですよ。
三枚の絵をぐるりと見まわしたとき、
まるで見えない手にぐいと
肩を押されたみたいに、
『マッテオの召出し』とよばれる絵だけが、
私をひきつけた。
僕が須賀敦子さんの本を読みたくなったのは、まさに「見えない手にぐいと肩を押された」からですよう。
その「見えない手」とは。。。?
だから、小百合さんの手ですよう。
[491] Re:小百合さんのために作った
『夢とロマンの軽井沢』のサイトに、
たくさん記事を書いて、
もっと読み応えのあるサイトにしますからね。
\(^_^)/キャハハハ。。。
Name: さゆり E-MAIL
Date: 2009/01/20 22:54
(バンクーバー時間: 1月20日 午前5時54分)
デンマンさん!
そこに 座っていたら ダメです。
もっと外を歩いて下さい。
どこかの なんとか老人に
なってしまいますよ。
『Re:「夢とロマンの軽井沢」のサイト』より
(2009年1月20日)
これは小百合さんが2009年の1月20日に書いたメールですよう。 僕は小百合さんの用事で2008年12月30日にTD銀行に歩いて行ったのです。
つまり、私がデンマンさんに、できるだけ歩くようにと言ったので歩いてゆかれたのですか?
そうですよう。 TD 銀行に歩いて行ったあとでバンクーバー市立図書館に、更に歩いて行きました。
そこで日本語の本を10冊借りてきたのですよ。
。。。で、どうして須賀敦子さんの本を読もうと思ったのですか?
日本語図書の本棚で、まず目に付いたのが青枠で囲んだ「須賀敦子のミラノ」だったのですよう。 小百合さんの見えない手が僕の肩をぐいと押して、その本の前に立たせたとしか言いようがないのです。
実は、須賀さんの本と言えば赤枠で囲んだ「トリエステの坂道」しか僕は知らなかった。 「須賀敦子のミラノ」という本は読んだことが無い。 須賀さんが書いたのだと思ったら大竹昭子さんと言う人が書いている。
それで興味を持って借りる事にしたのですか?
そうです。 写真がたくさん貼ってある。 久しぶりに「トリエステの坂道」も読もうと思って、それも借りた。 そうしたら、須賀さんが共著で書いた「ヴェネツィア案内」という本も目に付いたので、それも借りてきたのです。
「トリエステの坂道」は何度も読んだのですか?
初めて僕がこの本を読んだのは2003年でした。 それから3度か4度読んだでしょうか。。。2008年1月に短い書評を書きました。
■『「トリエステの坂道」 読後感』
(2008年1月11日)
この写真の中の人物は須賀さんとイタリア人の夫・ぺッピ-ノさんですよう。 1967(昭和42)年に御主人は41歳で亡くなりました。
まだ若いのに。。。須賀さんは力を落としたことでしょうね?
そうですよう。 その時、須賀さんは、まだ38歳でした。 僕が日本で暮らしていた時には、もちろん、須賀さんを知りませんでした。 須賀さんが日本語で書いた自分の本を出版したのは1990(平成2)年です。 『ミラノ 霧の風景』と言う本でした。 その年、須賀さんは61歳でした。
デンマンさんは、当時、須賀さんが生きていると信じていたのですか?
そうなのですよう。 「須賀敦子のミラノ」の本に略年譜があって、それを読んで須賀さんが1998年3月20日に心不全で亡くなっていた事を知ったのです。 69歳でした。 つまり、2003年に僕が初めて須賀さんの『トリエステの坂道』を読んだ時には、須賀さんはすでにあの世の人だったのですよう。 生きていると思い込んでいた人が、すでに長い間あの世の人だった、と言う事実を知るのは奇妙なものです。 小百合さんの用事が無かったら、今でも僕は須賀さんが生きていると思い込んでいたでしょう。
それで、須賀さんの冥福を祈るようにして『トリエステの坂道』を再度読んでみたのですか?
そうです。 しみじみと読み直しましたよ。 それまで、それ程印象が強くなかった章が、衝撃的な意味を持って僕の目の前に現れたのです。
それが、このページの冒頭に引用した「ふるえる手」というエッセーなのですか?
そうです。 あっ。。。これだ! 僕は、そう思いましたね。 須賀さんは次のように書いている。
ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。
著者の須賀さんにとっては、メチャすっご~い感動だったのですよ。
でも、私にはそれ程の感動が伝わってきませんわ。
あのねぇ~、須賀さんが味わった感動を理解するには、実は、次の部分も読む必要があるのですよ。 同じエッセーの後半部です。
おなじ年の十一月、私は、もういちど、ローマに行く機会にめぐまれた。
一年に二度、ローマを見られるのはなんとも幸運なことだった。
とはいってもなにもかもうまく行ったわけではない。
もういちど、私は雨になやまされた。
(中略)
雨のなかを、私は、もういちど、カラヴァッジョを見に行くことにした。
あの絵が、萎えた気持ちをなぐさめてくれるかもしれない。
四月の雨の日に訪れて以来、とうとう、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会を再訪する機会はなかった。
あの日、どうしてあの絵をもっとゆっくり見ておかなかったのかと、心残りでもあった。
あの翌日の午後も、そのつぎの日にも、扉はかたく閉まっていた。
まだ早い時間のせいか教会のなかには旅行者のすがたもなく、がらんとした薄闇だけが沈黙につつまれていた。
用意したコインをつぎつぎと箱に入れて、こんどこそおもいのままに時間がすごせるはずだった。
右手の戸口から入ってきたキリストが、しなやかに手をのばして収税人のマッテオを指さしている。
イエスの顔はほとんど闇のなかにあって、それが彼とわかるのは、糸のように細い光の輪が頭上に描かれているからにすぎない。
収税人マッテオは、私が最初、勘ちがいしたように、光を顔に受けた少年ではなくて、その横に、え、あなたは私に話しかけているのですか、というふうに、自分の胸を指さしている中年の男だ。
マッテオは、「人に好かれなかった」と聖書にあるのだが、それにしては、かなり「ちゃんとした」平凡な人物に描かれていた。
レンブラントやラトゥールに先立って、光ではなく、影で絵を描くことを考え付いたとされるカラヴァッジョの絵を見ていて、私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。
男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。
どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿とさせるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、闇に閉ざされている。
カラヴァッジョだ。
とっさに私は思った。
ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。
画家が自分を描いているのだ、そう私は思った。
伝承によると、この画家は一種の性格破綻者というのか、ときにひどく乱暴な行為に出た人であったらしく、作品の高い芸術性はみなに認めながらも、仲間にうとまれ、そのためにしばしば仕事をもらえないで、ついには、人を傷つけたのだったか、殺してしまったのか、まるで即興詩人やスタンダールの物語の登場人物さながら、北イタリアからローマに追放されたのだという。
そのあとも、さらにナポリに、はてはマルタ島からシチリアへと逃げたことが、方々に残された作品から推理されている。
でも、異様に変形した手がすべてのような男を、カラヴァッジョが安易に性格的な自画像としてえがいたはずがないようにも、私には思えた。
もしかしたら、顔に光を集めたような少年も、おなじふうに自画像なのではないか。
二人の人物の間に横たわる奈落の深さを知っているのは、画家自身だけだ。
左端にえがかれた人物は闇にとざされていながら、ふしぎなことに、変形した、醜悪なふたつの手だけが、光のなかに置かれている。
変形はしていても、醜くても、絵をかく手だけが画家に光をもたらすものであることを、カラヴァッジョは痛いほど知っていたにちがいない。
あいかわらず、二百リラ分の照明が切れるたびに、あわただしくつぎのコインを入れなければならない。
ちょうど照明が継目にかかったとき、ぴたぴたとにぎやかな小さい足音がして、小学生の一群が若い男の教師に引率されてはいってきた。
まだ画学生のように見える若い教師が絵の説明をするのを、子供たちは神妙に聴いている。
そのうちに、私は妙なことに気づいた。
照明が消えると、教師は、そっぽを向いたままで、私がコインを入れるのを待っているのだ。
そして照明がもどると、また子供たちに説明をはじめる。
なにやら鼻白んだ気持ちで、私はその場を離れることにした。
すると、もうひとつ、奇妙なことが起こった。
私の近くにいた何人かの子供が、おばさん、ありがとう、と小声でいったのだ。
知らんぷりをしつづける教師と、ていねいにお礼をいう子供たち。
そのとき、とつぜん、直線のヴィア・ジュリアと曲がりくねった中世の道が、それぞれの光につつまれて、記憶のなかでゆらめいた。
どちらもが、人間には必要だし、私たちは、たぶん、いつも両方を求めている。
白い光をまともに受けた少年と、みにくい手の男との両方を見捨てられないように。
教会の外は、あいかわらず雨だった。
雨のなかを歩きながら、私はもうすこし、絵のなかの男について考えてみたかった。
犯した罪の意識と仕事に侵蝕され、変形したあの手は、やはりカラヴァッジョ自身の手にちがいない。
なんともあてずっぽうな推測だったが、私は確実になぐさめられていた。
醜い自分の手を、ミケランジェロの天地創造の手を意識において描いたといわれるキリストの美しい手の対極に置いて描きおおせたとき、彼は、ついに、自己の芸術の極点に立つことができたのではなかったか。
ふと、寒さにこごえたようなカラヴァッジョの手のむこうに、四月、それが最後になった訪問のときにコーヒーを注いでくれたナタリア・ギンズブルグの、疲れたよわよわしい手を見たように思った。
鍋つかみのかわりにした黒いセーターの袖のなかで、老いた彼女の手はどうしようもなくふるえていて、こぼれたコーヒーが、敷き皿にゆっくりとあふれていった。
(pp.215-219)
『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子 みすず書房
1996年5月20日 第4刷発行
じっくりと読んでみましたけれど、お恥ずかしい事に、私には須賀さんが味わったと言う「深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動」が感じ取れませんわ。
うん?。。。感じ取れない?
そうです。。。感じ取れませんわ。
う~ん。。。よくある事ですよう。 悲観しないでくださいよう。 上の須賀さんのエッセーを読んだほとんどの人が漠然とした感動を受けるだけで、須賀さんが受けた感動を100%実感する事は不可能です。
どうして?
須賀さんと同じ体験を持つことができないからですよう。 また、仮に須賀さんと同じような教養と経験を持っているとしても100%の感動を味わう事は不可能です。
なぜ?
司馬遼太郎さんがかつて次のように言ってました。
“作品は作者だけのものと
違うんやでぇ~。。。
作者が50%で読者が50%。。。
そうして出来上がるモンが
作品なんやでぇ~”
つまり、名作と言われるものは常に名作とは限らない。 読む人が教養もなく人生経験も乏しかったら、どんな名作も“猫に小判”ですよう。
要するに、私には須賀敦子さんの感動を共感するだけの美術的な教養が欠乏しているとデンマンさんはおっしゃるのですか?
いや、小百合さんには美術的な教養があると思いますよう。
それなのに、どうして私には須賀さんの感動が感じ取れないのですか?
あのねぇ~、上のエッセーを理解しようとすれば、どうしてもナタリア・ギンズブルグさんと須賀さんの心温まる人間関係を知らなければならないのですよう。 でも、長くなるから僕はその部分を削除してしまったのです。(中略)と書いてあるのがその部分です。 実は極めて重要な部分です。
それなのに、どうして削除してしまったのですか?
カラヴァッジョの絵とは直接関係無いからです。 でも、エッセーを理解するにはナタリア・ギンズブルグさんを語らない訳にはゆかないのですよう。
どうして。。。?
エッセーのタイトル「ふるえる手」というのは、ナタリア・ギンズブルグさんのふるえる手のことです。 一口で言ってしまえば、ナタリア・ギンズブルグさんという人は、あの有名な『アンネの日記』の著者(アンネ・フランク)が生きていれば、こうなるだろうな?というような人です。
須賀さんが、もしナタリア・ギンズブルグさんの作品を読んでいなければ、本を書くことはなかっただろう、と言うほど須賀さんが強い影響を受けた人です。
そのナタリアさんのふるえる手がそれ程重要なのですか?
重要なのですよう。 ナタリアさんと須賀さんの心温まる人間関係がその「ふるえる手」に象徴されているのです。
どう言うこと。。。?
あのねぇ~、須賀さんは、上のエッセーの中で「醜くゆがんだ心」と対比して「良心」を謳(うた)いあげたかったのだと僕は思うのですよう。
どちらもが、人間には必要だし、
私たちは、たぶん、いつも両方を求めている。
白い光をまともに受けた少年と、
みにくい手の男との両方を見捨てられないように。
。。。
知らんぷりをしつづける教師と、
ていねいにお礼をいう子供たち。
「醜くゆがんだ心」とは、みにくい手の男であり、知らんぷりをしつづける教師です。「良心」とは、白い光をまともに受けた少年と、ていねいにお礼をいう子供たちで象徴されている。
それで。。。「ふるえる手」とは。。。?
ナタリア・ギンズブルグさんは須賀さんにコーヒーを入れてあげるとき、本当は安静にしていなければならないような状態だった。 でも、心から須賀さんをおもてなししたかった。 ナタリアさんが亡くなったことを知り、須賀さんはハッと思い当たった。
もう死ぬかもしれないほど体が弱っていたのに、ナタリアさんは心から須賀さんをおもてなしした。 その事を須賀さんは知ったのですか?
そうです。 その事が須賀さんに上のエッセーを書かせたのですよう。 僕には、そう思えるのです。
分かりましたわ。 「ふるえる手」とは、ナタリアさんの心のぬくもりであり、ナタリアさんの「良心」だったのですわねぇ。。。それで。。。、それで、デンマンさんも、その事に感動したのですか?
ん。。。? その事。。。? いや。。。僕が感動したのは違うところですよう。
違うところってぇ。。。いったい、どこですか?
実は、僕にも須賀さんの感動が理解できました。 それは次の部分です。
私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。
でも、この感動を僕の言葉に置き換えると次のようになるのですよう。
僕は、たったいま、深いところで
たましいを揺りうごかすような女性に
出会ってきたという、
まれな感動にひたっている
自分に気づいた。
しばらく忘れていた、
自分が探し求めていた
女性に接したときの、
あの確かな感触だった。
つまり。。。つまり。。。この女性は。。。?
そうですよう。 うしししし。。。 小百合さんなのですよ。 軽井沢タリアセン夫人なのですよう。。。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
ぬけぬけと言うじゃござ~♪~ませんかア!
あたくしは。。。あたくしは。。。全面的に太田将宏老人に賛同いたしますわ。
かつて、太田将宏老人はデンマンさんが自分史を書いているのを見て
いいきなもんだねぇ~
と嘲笑(あざわら)っていましたわ。
■ 『愛と風と共に…(2008年4月16日)』
デンマンさんのキザな文句を読むならば、
太田将宏老人は、きっと次のように言いますわ。
あきれたもんだねぇ~
でも、一度でいいからデンマンさんがヌケヌケと言い放った甘~♪~い文句を殿方の口から聞きたいものですわぁ~。
うふふふふ。。。
あなたは、どう思いますか?
とにかく、このお話は、ますます面白くなりますわよう。
あなたも、どうか、またあさって読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあね。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
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■『士風と「葉隠」(2011年3月23日)』
■『アナクロニズム(2011年3月27日)』
こんにちは。ジューンです。
なんだかデンマンさんが小百合さんに
“殺し文句”を聞かせようとしていますよね。
ところで“殺し文句”を英語で
何と言うのでしょうか?
telling phrase と言います。
macking phrase と言うこともできます。
女性を口説くって、どう言うと思いますか?
次のように言います。
Jim chats up Mary in his apartment.
ジムは彼のアパートでメアリーを口説く。
Jonny makes a move on Sandra.
ジョニーはサンドラを口説く。
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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