藤原鎌足の長男
あなたも知らない日本の悲劇
こんにちは。。。
デンマンです。
ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、
これは、涙を流しているのですよ。
悲しんでいるのですよ。
念のため。。。
写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。
この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。
日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。
その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。
この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。
しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。
この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。
藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。
あなたはまず、聞いたことが無いと思います。
実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。
古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。
でも、日本史では知られていません。
なぜ?
ところで、どのような悲劇なの?
それを、これから僕がお話しようと言うわけです。
どうか、最後まで読んでくださいね。
定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
なんと!わずか11歳の時の事でした。
彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。
この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。
つまり、定慧は一人息子だったわけです。
どうして鎌足はこの一人息子を、
しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、
危険な船旅へ出したのでしょう。
ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。
遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。
ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。
しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。
しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。
なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。
要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。
表が出たら、めでたく命拾いをする。
裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。
実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。
念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。
僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。
しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。
しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。
しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。
絶対にしてはならないことです!
反省しています。
この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!
と呆れる人が出て来ると思います。
馬鹿は死ななきゃ治らない!
僕もそういう馬鹿だったんですよ。
でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!
うへへへへ。。。
とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。
仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。
今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。
当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。
もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。
それほど危険な船旅に、
なぜ定慧を出したのか?
ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。
もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?
一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。
長いのになると、30年帰ってこれない。
もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。
結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。
したがってどういうことが言えるでしょう?
初めて、この話に出くわした時の僕の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。
定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。
それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。
要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。
これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。
11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。
だから、出家させて、唐に追いやってしまう。
運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。
運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。
おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。
このように書くと、僕が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。
鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。
この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。
なぜか?
それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。
太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。
なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。
命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。
したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。
それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。
鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。
鎌足とは、一体どういう人なの?
鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。
彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。
しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあります。
その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。
鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。
問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。
たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。
詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。
端的に言うと、非常に頭のいい人でした。
視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。
おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。
このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。
朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。
しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。
もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。
しかし、その規模が違います。
『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。
要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。
はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。
つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。
それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。
したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。
古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。
しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。
しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。
したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。
そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。
『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。
現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。
しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。
つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。
しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。
藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。僕は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。
■『定慧の出生の秘密』
どうですか?
ここまで読んできたら、定慧の出生の秘密が知りたくなったでしょう?
上のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてください。
涙なくしては読んでゆけない悲劇は、更にその後に語られてゆきます。
残念ながら、このページですべて語りつくすことは出来ません。
定慧の出生の秘密を読んだ後で、更に引き続きその悲劇の内容を読んでみてください。
こんな事が実際に起こったのだろうか?
あなたも信じがたい思いに駆られるはずです。
『あなたも知らない日本の悲劇』より
(2007年4月2日)
デンマンさん。。。このお話は前にも読みましてん。
うん?。。。そうやろなァ。。。
どうして、またこのお話を持ち出してきやはったん?
次のコメントをもらったのやがなァ~。。。
Beaverland Net Form Processor
From: servicemail
(servicemail@bravenet.com)
To: barclay1720@aol.com
Date: Tue, Aug 16, 2011 12:40 pm.
MESSAGE SENT
THROUGH YOUR WEBSITE
This form was submitted:
Aug 16 2011 / 12:40:19
userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-joe01-superb
Your_Name = 国枝○○
Your_Email_Address = hk
読まれた記事:
『藤原鎌足と長男・定慧』
Comments :
とっても良いと思います。
。。。で、新しい古代日本史?
現在 そして これからの日本史は?
藤原不比等・・・↑
Thank you for using Bravenet Email Form Processing!
これってぇ、マジなコメントやのォ~?
宣伝のためのURLや、落書きのようなことを書いているわけではあらへん。 しかも、コメントを実際に書いてみれば分かるけど、英語のサイトに飛んでゆくねん。 英語に親しんでない人が書いたら、多分、きしょくわるうのうて、コメントを投稿するのを止めてしまうと思うのやァ。 そやから、わざわざ書いたということは、記事を読んでかなりのインパクトを受けたことは確かなことやねん。
どうして、そないな事が、あんさんに判りはるのォ~?
あのなァ~、『藤原鎌足と長男・定慧』という記事には、これまでにもコメントをもろうておるねん。 そやから、わての経験から判るねん。 IPアドレスを調べたら岐阜県に住んでいる人やと分かった。
IPアドレス: 221.30.1.xxx
ホスト名:
softbank221030001xxx.bbtec.net
IPアドレス割当国: 日本
接続回線: xDSL
都道府県: 岐阜県
つまり、上のけったいなコメントをもろうたので「藤原鎌足の長男」というタイトルにしやはったん?
ちゃうねん。。。実は、偶然とは言いながら不思議な事が起こったのやァ。
「藤原鎌足の長男」が、あんさんの見やはった悪夢にでも現れはったん?
そないなアホな事が起こるかいな! 実はなァ、コメントをもらった頃に『温泉維新』という本を読んでいたのやァ。 そいで、次のような箇所に出会(でお)うたのやないかいなァ。
西山温泉
JR身延線身延駅から“南アルプス街道”をバスに揺られること1時間半。 やはり遠い。 それだけに、三千メートル級の山々が屹立する南アルプスの沢水を集めた早川の渓谷が一段とせばまったころ、忽然と現れる建物にだれしも安堵のため息をつくに違いない。 と同時に、山峡の宿とは思えない土壁風のシックで気品すら感じられる外観に驚くのである。
深山幽谷にたたずむ西山温泉の老舗旅館「慶雲館」。
館内に入ると、総檜造りの日本建築の粋を結集した落ち着いた雰囲気に包まれる。
その白眉は、壁面にパノラマガラスがはめられたロビーだ。
眼下の早川と渓谷に迫った幾重にも重なり合う南アルプスの山々のダイナミックなこと。
これぞ本物の自然である。
(中略)
城崎温泉「千年の湯 古まん」(兵庫県豊岡市)、粟津温泉「法師」(石川県小松市)と共に、慶雲館の創業は奈良時代にまでさかのぼる。
慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見し、深澤さんで52代目とか。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
111 - 112ページ 『温泉維新』
著者: 松田忠徳
2010年4月22日 初版第1刷発行
発行所: 日本経済新聞出版社
あらっ。。。藤原鎌足の長男である定慧さんが西山温泉を発見しやはったん?
藤原鎌足の長男である藤原真人さんが坊さんになって“定慧”と名乗ったのやがなァ。 でもなァ、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたのや。
新百済派(旧百済朝廷遺臣)と
旧百済派(鎌足派)の対立
定慧から送られてくる情報によって、鎌足は、的確に当時の半島情勢を把握しています。しかし、新百済派に取り囲まれている天智天皇は、防衛網構築に躍起になっており、唐に対する外交政策を強力に推し進めようとする鎌足を煙たい存在に思い始めています。しかも、鎌足に敗戦の責任までなすりつけようとしています。
上の地図で見るように、かなりの数の山城を九州から近畿にかけて築き、また九州には大規模な水城を構築しています。 これらは、百済から逃げてきた技術者や、戦略家の指導の下に進められているもので、この頃には、実戦経験、実務経験の豊富な百済人がどしどし登用されて、鎌足を中心として活躍していた旧百済派は次第に影の薄い存在となりつつありました。 それでも、鎌足は天智帝に唐と仲良くしてゆく以外にないことを説きます。 しかしこのことは、新百済派の人たちにとっては、どうしても承諾できないことです。 「祖国を滅ぼした唐と日本が連合する?そんな馬鹿なことができるか!」
定慧が日本へ帰って来た665年という年は、まさに、天智朝廷では、このような議論が沸騰しているときでした。 そのようなときに、定慧が、唐からの書状を携えてやって来るということをキャッチした新百済派の連中は、急遽天智帝を交えての緊急会議です。 天智帝にしてみれば、まだ唐に敗れたという生々しい記憶が脳裏に焼きついています。 しかも、定慧は、憎き孝徳帝の息子です。 「何で唐の手先などになって帰ってくるのだ!」
それで決まりです。
藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。
しかし、これは、新百済派の刺客によって殺されたと書くべきでした。
しかも、天智帝はすべてを知っていたのです。
定慧は11歳のときに日本を離れてから12年間に及ぶ唐・百済の旅を終えて天智4年(665)年9月に、やっと故郷へ帰ってきます。
しかし彼を首を長くして待っていたのは鎌足だけではありませんでした。
懐かしいふるさとの風景に浸っていたのはわずかに3ヶ月でした。
定慧はスパイ活動をしていましたから、身の危険については十分に知っていたでしょう。
しかし、グループで襲われたなら防御のしようがありません。
12月23日に、23歳の若さで亡くなります。
数奇な運命の下に生まれて、異国で暮らさなければならなかった定慧が懐かしい日本へやっと帰り着いて、ほっとする暇もないうちに、まだこれからという人生の幕を閉じなければならなかったのです。
この事件によって、鎌足親子と天智帝の間には、修復が不可能なほどに亀裂がはいってしまいます。
この時不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することを決心したのでした。
『定慧の死の謎を解く』より
(2003年7月25日)
あんさんが読みはった本の中には慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見したと書いてありますやん。 可笑しいですやんかァ! 著者が日付を間違ったんとちゃうん?
そうかも知れへんと思って、わては調べてみたのや。
西山温泉の起源についての伝説
その昔、藤原真人がこの地方に流浪し「柳が島」に住んでいました。
真人は土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけました。
名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたといいます。
ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見したのです。
試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快今までの労れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜びました。
その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造るなどして、「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになりました。
文武天皇の慶雲二年(西暦七○五年)三月のことでありました。
これが、西山温泉の起源と伝えられています。
医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々は無理をおしても集まり、西山温泉に入浴する人の数は年ごとに増えるようになっていきました。
出典: 『山梨県 西山温泉 慶雲館』
旅館のホームページにも、こないに書いてあるねん。
やっぱり、705年と書いてますねんなァ。 そやけど、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたと、あんさんは断定しているやおまへんかァ!
そうやァ。。。
そうやァではおまへんがなァ! あんさんは出鱈目を書きはったん?
アホな事をいいないなア! 出鱈目など書くかいなァ!
そやけど、どちらかが出鱈目を書いてるということやんか。
そうや。。。そやから、わてはさらに調べてみたのやァ。
慶雲館
日本の甲斐国(現・山梨県)で西山温泉の宿として慶雲2年(703年)に開湯・創業。
2011年2月中旬、「世界で一番古いホテル・旅館」として、それまで認定されていた後述の「法師」に替わってギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)に認定された。
「創業者一族が経営を続ける現存企業」として世界最古ともされる(ギネス認定時の当主は、開湯・創業者である藤原真人から数えて52代目にあたる)。
もっとも、ここで言う藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であり、703年には開湯できない。
出典: 「世界最古の一覧」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『ウィキペディア(Wikipedia)』には、こないに書いてあるねん。
つまり、藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であると言うてますやん。
そうやろう! つまり、藤原鎌足の長男は665年か666年に亡くなっておるねん。 当時の状況から考えて暗殺されたという事が最も妥当やと、わてには思えるのやァ。
そやかて藤原真人が「慶雲館」の創業者とういことになってますやん。
あのなァ~、めれちゃんも知っていると思うけど。。。源義経は頼朝の手勢から逃れて東北の地で死んだのやァ。 そやけど、そう思わん人もたくさんおった。 その人たちは、義経はその後、中国大陸に渡って蒙古人を組織して、やがてジンギスカンになり、世界を制覇したという事を真面目に信じておるねん。 そやから、藤原鎌足の長男である定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されたのではなくて、実は、関東に移住して「慶雲館」の創業者になったと言う事を真面目に考えている人がいるのも決して可笑しなことではあらへん。
でも、歴史的事実を変えてしもうたら、アカンとわたしは思うねん。
でもなァ、伝説というものは歴史的な事実とは関わりなく人の心の中に残ってゆくねん。 源義経がジンギスカンになったというのもその例やがなァ。 義経の悲劇はあまりにも可哀想やったのやァ。 そやから、日本人の間に義経に同情する「判官びいき」が生まれる。 定慧さんも、あまりにも可哀想な事件に巻き込まれてしもうたのや。 そやから、定慧さんが「慶雲館」の創業者になって生き延びたというのも、わてには十分に分かるのや。
そやけど、歴史と判官びいきは区別せんとアカンと、わたしは思うわ。
ええねん。。。その伝説が人を殺したり不幸せにするものでない限り、「慶雲館」の温泉に浸かって癒されれば、それでええねん。
【レンゲの独り言】
ですってぇ~。。。
そうかもしれませんよね。
伝説は伝説として後世に伝えられてゆくのかもしれません。
定慧さんが「慶雲館」の創業者になったというのも、ロマンがあって良いことだと思いますわ。
あなたは、どう思いますか?
とにかく、興味深い話題がさらに続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
奈良時代から、たくさんの帰化人や大陸からの難民が
関東地方に移住してゆきました。
デンマンさんの祖先も百済からやって来て
奈良の都に行ったのでしたけれど、
なかなか思うような官職に就けずに
関東に移住することを決めたそうです。
歴史を紐解(ひもと)いてみると
奈良時代の初めから次のような移住が記録されています。
天智天皇5年(666年)
百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。 この集団の殆どは出家者とはならなかった。
天武天皇13年(684年)
百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。
持統天皇元年(687年)
投化した高麗五十六人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。 又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。 いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
持統天皇2年(688年)
百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
持統天皇3年(689年)
投化した新羅人を、下毛野に居住させる。
持統天皇4年(690年)
帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。 又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715年)
尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
霊亀2年(716年)
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。
天平5年(733年)
武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。
天平宝字2年(758年)
日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。
天平宝字4年(760年)
帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。
天平神護2年(766年)
上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。
延暦18年(799年)
百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。
弘仁5年(814年)
化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。
弘仁11年(820年)
遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)
天長元年(824年)
新羅人辛良金貴、賀良水白等54人を陸奥国に安置する。 法により復を給し、乗田を口分田に充てる。
貞観12年(870年)
新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。
これを見ると、ずいぶんたくさんの百済人や
新羅人が関東に下っていったのが分かります。
デンマンさんも小百合さんも
そのような百済人の子孫だそうです。
ところで、英語の面白いお話を集めてみました。
もし、時間があったら読んでみてくださいね。
■ 『あなたのための 楽しい英語』
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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