甲斐姫と軽井沢タリアセン夫人
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デンマンさん。。。 先日は「亀姫」を取り上げましたわねぇ~。。。
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■『かねつき堂と亀姫』
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あれっ。。。 小百合さんは覚えていましたか!?
だってぇ、上の記事をデンマンさんが投稿したのは 11月25日のことですわ。。。 まだ1ヶ月と経ってないのですもの。。。で、今日はどうして「甲斐姫」なのですか?
小百合さんは行田にやって来ると、いつも“かねつき堂”でゼリーフライを買って食べますよね。
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何も、“かねつき堂”の写真まで貼り出すことはないではありませんか。。。 デンマンさんは、お小遣いをもらって“かねつき堂”の宣伝をしているのですか?
僕は、そのような“こすい”ことはしてません。
じゃあ、どうして“かねつき堂”を持ち出してきたのですか?
そもそも、先日「亀姫」を取り上げたのは、上の“かねつき堂”にあるはずの“鐘”と「亀姫」が関係あるからですよ。
じゃあ、「甲斐姫」と“かねつき堂”も関係あるのですか?
関係があるのですよ。
でも、そのような事は一度も聞いたことがありませんわ。
そうでしょうね。。。 まだ誰も「甲斐姫」と“かねつき堂”が関係あるなんてぇ、言った人は居ないと思いますよ。
つまり、デンマンさんが世界で初めて「甲斐姫」と“かねつき堂”の関係を明らかにするのですか?
うへへへへへ。。。 でも、それほど だいそれたことではありませんよう。 この事が世界に知られても、ノーベル文学賞がもらえるほどの大発見ではありませんからね。。。 (笑い)
つまり、「甲斐姫」と“かねつき堂”は、どちらも行田市と関係がある。。。 その程度の関係ですか?
いや。。。 そう言ってしまっては身も蓋もありません。。。 あのねぇ~、小百合さんは行田市で生まれ育ってないので、当然のことだけれど、行田市の地理に明るくない。
そうですわ。。。 私が知っているのは大長寺近辺と水城公園、さきたま古墳公園、それに県道ルート66号と国道17号バイパスの近辺だけですから。。。 “かねつき堂”のあたりは、歩いたこともないくらいですわ。 松本清張さんではありませんが、ほんの“点と線”しか行田のことは知りません。
うん、うん、うん。。。 それだけ知っていれば、外部の人間とすれば充分ですよ。
それで、「甲斐姫」と“かねつき堂”に、どのような関係あるのですか?
上の記事の中にも貼り出したのだけれど、“かねつき堂”が行田市のどの辺にあるのか? 初めて、このブログを読む人もいるだろうから、次の地図を見てください。
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■『拡大する』
見れば解るように、“かねつき堂”は江戸時代の忍藩の中心付近に位置しているのですよ。 つまり、忍城のすぐそばなのです。
要するに、甲斐姫が現在、生きていれば、“かねつき堂”にやって来てゼリーフライを毎日でも食べると、デンマンさんは言いたいのですか?
その通りですよ。。。 でもねぇ、それが「甲斐姫」と“かねつき堂”との切っても切れない関係だ!。。。などと言うつもりはありません。
じゃあ、どのような関係があるのですか?
それを説明する前に“かねつき堂”の近所を拡大した地図を見てください。
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■『拡大する』
“かねつき堂”のすぐ近くに“縁切橋” と “涙橋”という知る人ぞ知る 涙をそそる有名な橋があったのですよ。
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その二つの橋が「甲斐姫」と関係あるのですか?
そうなのですよ。 次のエピソードを読んでみてください。
“縁切橋” と “涙橋”
栗原医院の所にあった二重櫓の西に門と橋があり、今の城西1丁目1番地の間の道を西に出ると門と橋があった。
その橋を“縁切橋”といった。
今の1番地 2番地、4番地の地内が上荒井曲輪で囲まれていた。
その西側、今の矢場1丁目5番地は“片矢場”といい、今の西側小川に沿ってやはり曲輪に囲まれていた。
矢場2丁目4番、5番の南に川があって、ここにも門と橋があって“涙橋”といった。
今は川がなくなってしまったので、古老以外は知らないと思うが、大正初期頃までは橋の名が悪いので、若い男女は二人でこの橋二つを渡るものではないとされていた。
橋名の因縁は天正元年(1573年)の四百年も前の事である。
館林城主の長尾但馬守入道景朴は古河公方の旗下となり、足利義輝将軍の御供衆になって娘を近隣の大家忍城成田氏長にやり、北関東に覇をとなえようとした。
しかし意の如くならず、政略結婚の常として氏長に破談をせまった。
そこで氏長は妻女を大裏門から送り出し、この橋で別れを惜しんだ。
即ち“縁切橋”の名となったという。
別れを惜しんだ妻は次の橋で振り返り、涙を流して皿尾門から出て行ったといわれる。
即ち“涙橋”といい後世までの語り草となった。
その時、忍城に残された一粒種の甲斐姫は2歳であった。
それから16年後の天承18年(1590年)石田三成の2万の大軍が忍城を攻め、有名な“忍の水攻め”となった。
芳紀正に18歳の長刀の名手の美少女甲斐姫が、大手門外や大宮口御門に大奮戦して城兵を鼓舞し、忍城を不落の城として守り通した話は『成田記』にくわしい。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
182-183ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
栗原医院の所にあった二重櫓の西に門と橋があり、今の城西1丁目1番地の間の道を西に出ると門と橋があった。
その橋を“縁切橋”といった。
今の1番地 2番地、4番地の地内が上荒井曲輪で囲まれていた。
その西側、今の矢場1丁目5番地は“片矢場”といい、今の西側小川に沿ってやはり曲輪に囲まれていた。
矢場2丁目4番、5番の南に川があって、ここにも門と橋があって“涙橋”といった。
今は川がなくなってしまったので、古老以外は知らないと思うが、大正初期頃までは橋の名が悪いので、若い男女は二人でこの橋二つを渡るものではないとされていた。
橋名の因縁は天正元年(1573年)の四百年も前の事である。
館林城主の長尾但馬守入道景朴は古河公方の旗下となり、足利義輝将軍の御供衆になって娘を近隣の大家忍城成田氏長にやり、北関東に覇をとなえようとした。
しかし意の如くならず、政略結婚の常として氏長に破談をせまった。
そこで氏長は妻女を大裏門から送り出し、この橋で別れを惜しんだ。
即ち“縁切橋”の名となったという。
別れを惜しんだ妻は次の橋で振り返り、涙を流して皿尾門から出て行ったといわれる。
即ち“涙橋”といい後世までの語り草となった。
その時、忍城に残された一粒種の甲斐姫は2歳であった。
それから16年後の天承18年(1590年)石田三成の2万の大軍が忍城を攻め、有名な“忍の水攻め”となった。
芳紀正に18歳の長刀の名手の美少女甲斐姫が、大手門外や大宮口御門に大奮戦して城兵を鼓舞し、忍城を不落の城として守り通した話は『成田記』にくわしい。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
182-183ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
僕が子供の頃には、“縁切橋” と “涙橋”のエピソードは聞いたことがなかった。 でもねぇ~、四百年も前の悲話が明治時代まで語り継がれてきたというのは すごいと思いますよ。 しかも「甲斐姫」は未だに人気がある。
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だから、行田で催し物が開かれると「甲斐姫」が今でも たびたび出てくるのですよ。 上のイベントもあの「古代蓮の里」で開かれたものですよ。
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それに行田を訪れる観光客にも「甲斐姫」を知っている人が多いから、“忍城おもてなし甲冑隊”の中にも「甲斐姫」が居て、重要な役割を務めているのですよ。
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しかも、それだけじゃなく、ゲームの世界でも「甲斐姫」は人気があるのです。
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どうですか、小百合さん。。。 上のゲームに参加してみませんか?
私は、こういうゲームには関心がないのですわ。
小百合さんは、つまらなさそうですね。。。
タイトルを見たら、私と「甲斐姫」との間に、もっと不思議な関係があるのかなァ~?と、ちょっと期待したのですけれど、期待はずれでしたわ。
あのねぇ~、それほどガッカリすることはありません。 小百合さんと「甲斐姫」の間にも、ちょっとした関係があるのですよ。
まさかァ~。。。?
まさかじゃありませんよ。。。 マジで小百合さんと「甲斐姫」の間にも、知られざる関係があるのです。
そんな事を言っても、これを読んでいるネット市民の皆様は、どうせデンマンさんが取ってつけたような冗談を言うものと思って本気にしませんわァ。
あのねぇ~、小百合さんは館林で生まれ育ったのですよ。 だから、「館林 軽井沢タリアセン夫人」と入れて検索すると 5、410件もヒットするのですよ。
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■『現時点での検索結果』
でも、こうして検索結果まで持ち出してきても、私と「甲斐姫」は関係ないじゃありませんかァ。
あのねぇ~、もう一度次の箇所を読んでみてください。
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橋名の因縁は天正元年(1573年)の四百年も前の事である。
館林城主の長尾但馬守入道景朴は古河公方の旗下となり、足利義輝将軍の御供衆になって娘を近隣の大家忍城成田氏長にやり、北関東に覇をとなえようとした。
しかし意の如くならず、政略結婚の常として氏長に破談をせまった。
そもそも“縁切橋” と “涙橋”にまつわる悲話を生んだのは、館林城主の長尾景朴が「甲斐姫」の父親である成田氏長に破談をせまったからなのですよ。
つまり、私が たまたま館林で生まれ育ったために、破談の責任をデンマンさんは私に擦(なす)り付けるのですか?
もちろん、違いますよ。。。 すでに400年も前の話ですからねぇ~。。。 たとえ、そうだとしても、もう時効が成立しています。 小百合さんに罪はありません。 (笑い)
つまり、たったこれだけのことで、私が「甲斐姫」と関係があると言うのですか?
いや。。。 たったこれだけじゃないでしょう! 小百合さんは、館林で生まれ育った、それなのに、どういうわけか行田にやって来ると必ず決まって“縁切橋” と “涙橋”のすぐ近くの「かねつき堂」までやって来て“ゼリーフライ”を買って食べる。 それも必ずですよ。 だから、これまでにも僕は、その事で記事を書いた。 その結果、「ゼリーフライ 軽井沢タリアセン夫人」と入れて検索すると、4,730件もヒットする。
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■『現時点での検索結果』
でも、こうして検索結果を持ち出してきても、私と「甲斐姫」が関係あることにはならないでしょう!
あのねぇ~、どうして僕が検索結果を持ち出してくるかというと、小百合さんと“館林”、それに、小百合さんと“ゼリーフライ”の関係が、とって付けたような冗談でなしに、これまでにも、たびたび僕は記事で書いているのですよ。 これだけでも、不思議だとは思いませんか?
別に不思議だとは思いませんわァ。。。 それに、私が「甲斐姫」と関係があると言うことは、今回、初めてデンマンさんが取り上げたのですわ。
そうです。。。 でも、これだけ検索結果を見せ付けられると、これを読んでいるネット市民の皆様も うすうす気づくのではないかと思うのですよ。
何を うすうす気づくのですかァ~?
だから、館林城主の長尾景朴の血が小百合さんにも流れていると。。。 つまり、小百合さんの祖先は 長尾一族と深い関係があったのですよ。
まさかァ~。。。?
つまりねぇ~。。。 歴史的事実として、館林城主の長尾景朴は成田氏長に破談をせまったのです。 言葉を変えて言えば、「甲斐姫」から生みの母親を取り上げてしまったのですよ。
だから。。。?
だから、館林城主の長尾景朴は、あとで当時2歳の「甲斐姫」の存在を知って不憫(ふびん)に思ったのです。 それで、いづれ機会があったら 生みの母親に謝りたいという気持ちが 年をとるたびに募(つの)ってきた。 その気持ちが世代を重ねるうちに小百合さんにも伝わったのです。
それで、私が無意識のうちに“縁切橋” と “涙橋”のすぐ近くの「かねつき堂」までやって来て“ゼリーフライ”を買って食べて、「甲斐姫」の生みの母親の供養(くよう)をしているとデンマンさんは言うのですか?
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その通りですよ。 館林城主の長尾景朴はマジで当時2歳の「甲斐姫」の存在を知って不憫(ふびん)に思ったのです。 だから、心から生みの母親に謝りたかった。 でも、それは実現しなかったので、その気持ちが世代を重ねるうちに子孫に伝わったのです。
。。。で、私が その気持ちを受け継いだと。。。?
その通りですよ。
でも。。。、でも。。。、それは、何が何でも、デンマンさんの考えすぎですわ。。。 これを読んでいるネット市民の民様は絶対に信じないと思いますわァ~。。。
でもねぇ~、なかには信じる人も居ると思いますよ。。。 だってぇ~、僕は真剣な気持ちで、検索結果まで持ち出して、こうして長々と説明してきたのだから。。。
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【卑弥子の独り言】
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ですってぇ~。。。
あなたは上のデンマンさんのお話を信じることができますかァ?
やっぱり、眉唾物(まゆつばもの)でござ~ますわよねぇ~。。。
ところで、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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ですってぇ~。。。
あなたは上のデンマンさんのお話を信じることができますかァ?
やっぱり、眉唾物(まゆつばもの)でござ~ますわよねぇ~。。。
ところで、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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