兄妹の恋のつづき
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デンマンさん。。。 今日は 再び“兄妹の恋”を語るのでござ~ますかァ~?
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そうですよう。。。 卑弥子さんもワクワクしてきたでしょう?
でも、上の画像を見ると下の絵は、なんだか血なまぐさいですわよねぇ~。。。
卑弥子さんは、ずっと以前に“兄妹の恋”を語った時のことを覚えてますか?
ずいぶんと前のことでござ~ますわよねぇ~。。。
それほど前でもありませんよ。 今年の2月13日でした。
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■『兄妹の恋と大乱』
思い出しましたわ。。。 “兄妹の恋”の裏に、血なまぐさい権力争いが隠されていたというお話でござ~ましたわァ。
そうです。。。そうです。。。
確か、その時の兄と妹は、あの有名な木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)でござ~ましたよねぇ~。。。
兄妹の恋
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木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)は、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子であり、皇太子でした。
母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかの おおなかつのひめのみこと)。
同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)がいました。
一番下の弟が大泊瀬稚武皇子(おおはつせの わかたけるのみこ) つまり、後の雄略(ゆうりゃく)天皇です。
『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年に立太子します。
しかし、同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されます。
(tokuko05.jpg)
その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われます。(衣通姫伝説)
『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたと言われています。
四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。
出典: 「木梨軽皇子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)は、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子であり、皇太子でした。
母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかの おおなかつのひめのみこと)。
同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)がいました。
一番下の弟が大泊瀬稚武皇子(おおはつせの わかたけるのみこ) つまり、後の雄略(ゆうりゃく)天皇です。
『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年に立太子します。
しかし、同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されます。
(tokuko05.jpg)
その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われます。(衣通姫伝説)
『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたと言われています。
四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。
出典: 「木梨軽皇子」
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それで、今日の“兄妹の恋”というのは、どなたと どなたでござ~ましょうか?
天智天皇になる中大兄皇子と同母の妹で、孝徳天皇の間人(はしひと)皇后になる間人皇女(はしひとのひめみこ)ですよ。
間人皇女
(hashihito9.jpg)
(生年不詳 - 665年3月16日)
飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。
天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。
乙巳の変(645年6月)により皇極天皇が譲位し、軽皇子(孝徳天皇)が即位する。
間人皇女はそれに伴い皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、大化の年号が採用された。
大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。
葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。
(koutokuzu.jpg)
白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。
天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の京都府乙訓郡)に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。
この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。
間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。
しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く吉永登のような見解もあり、直木孝次郎らによって支持されているが、これに対しては曾倉岑・荒井秀規らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。
出典: 「間人皇女」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(hashihito9.jpg)
(生年不詳 - 665年3月16日)
飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。
天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。
乙巳の変(645年6月)により皇極天皇が譲位し、軽皇子(孝徳天皇)が即位する。
間人皇女はそれに伴い皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、大化の年号が採用された。
大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。
葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。
(koutokuzu.jpg)
白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。
天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の京都府乙訓郡)に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。
この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。
金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず
吾が飼ふ駒を 人見つらむか
原文:
繫於金木 吾飼駒當無出兮
吾之駒至今何以為所獲
吾が飼ふ駒を 人見つらむか
原文:
繫於金木 吾飼駒當無出兮
吾之駒至今何以為所獲
間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。
しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く吉永登のような見解もあり、直木孝次郎らによって支持されているが、これに対しては曾倉岑・荒井秀規らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。
出典: 「間人皇女」
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でも。。。、でも。。。、デンマンさんは中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情はなかったと言っていたではござ~ませんかァ!
あれっ。。。 卑弥子さんは、そんな事まで覚えているのですか?
あたくしの記憶力は、デンマンさんが考えている以上に 相当なものでござ~ますわよう。 次のように書いていたのを覚えておりますわァ。
僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。
数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。
でも、中学校の歴史の時間は面白かった。
先生が歴史が好きな事が良く分かった。
その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。
ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。
そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。
これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。
分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。
しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。
大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。
大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。
しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。
その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。
間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。
僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。
■『定慧(じょうえ)出生の秘密』
要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。
でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。
何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。
この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。
『性と愛と批判』より
(万葉集の中の政治批判)
【2006年5月8日】
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。
数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。
でも、中学校の歴史の時間は面白かった。
先生が歴史が好きな事が良く分かった。
その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。
ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。
そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。
“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せず
わが飼ふ駒を人見つらむか”
わが飼ふ駒を人見つらむか”
これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。
分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。
しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。
大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。
大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。
しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。
その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。
確かに事情はよく分かる。
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。
間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。
僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。
■『定慧(じょうえ)出生の秘密』
要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。
でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。
何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。
この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。
『性と愛と批判』より
(万葉集の中の政治批判)
【2006年5月8日】
ここで、前言を翻(ひるがえ)して 中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情があったなどと言うつもりはないでしょうねぇ~!?
もちろん、そのような事を言うつもりはありません。
でも、タイトルには“兄妹の恋のつづき”と書いてござ~ますわァ。。。 つまり、デンマンさんは 中大兄皇子と実の妹の間人皇女の間に恋心があったと言おうとしたのに 間違いがないのですわァ。。。 でも、あたくしが古い記事を持ち出してきたので、デンマンさんは都合が悪くなったので、撤回したのです。 そうでしょう?
卑弥子さんは、なかなか鋭いことを言いますねぇ~。。。 実は、そうだと言いたいところです。。。 でも、違うのですよ。 上の引用の一番下に万葉集の中の政治批判と書いてあるでしょう。。。!?
それがどうしたと言うのでござ~ますか?
つまり、『古事記』や『日本書紀』の中にも政治批判が書き込まれてるのですよ。
それは初耳ですわ。。。 そのようなお話は聞いたことがござ~ませんわァ。
あのねぇ~、僕は次のように書いたことがある。
『日本書紀』に隠された真実の声
この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとの おおえのみこ)は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということで この事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。
「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。
(korea03.gif)
これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。
要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。
(fuhito02.jpg)
■『藤原氏の祖先は
朝鮮半島からやってきた』
『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。
この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。
執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。
(fuhito03.jpg)
「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
(yakunin8.jpg)
「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
「彼は韓からやって来たのかね?」
「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してください、ということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」
「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」
恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等と しらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。
(shotoku03.gif)
執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。
古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。
このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。
『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)
この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとの おおえのみこ)は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということで この事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。
「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。
(korea03.gif)
これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。
要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。
(fuhito02.jpg)
■『藤原氏の祖先は
朝鮮半島からやってきた』
『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。
この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。
執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。
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「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
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「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
「彼は韓からやって来たのかね?」
「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してください、ということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」
「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」
恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等と しらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。
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執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。
古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。
このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。
『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)
つまり、『古事記』や『日本書紀』の編集に携わった人の中には反骨精神が旺盛で、政治的批判をそれとなく書き込んだ人たちがいたと、デンマンさんは言いたいのでござ~ますか?
その通りですよ。
でも、その事と “兄妹の恋のつづき”は、どのように関係しているのでござ~ますか?
あのねぇ~、僕に言わせれば『古事記』も『日本書紀』も、藤原氏が当時の政権の正当性を反動派や当時の官僚や後世の官僚に訴えるために書いたものですよ。 でもねぇ~、執筆者の中には表面上は藤原氏に従っている振りをしながら、反発精神に燃えて人たちもいた。 その仮面をかぶった反動派の執筆者たちは、史書の各所で、後の世の人が読めば、天智政権・藤原政権の横暴が解るように書いている。
たとえば。。。?
だから、『日本書紀』の中でも 古人大兄皇子の言葉として「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言った、と書き込んで執筆者がいたのですよ。 表面には おくびにも出さないけれど、内心、藤原不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうとしたわけです。
“兄妹の恋”の中にも、そのように真実をどこかに書き残そうとした執筆者の苦心が見えるのでござ~ますか?
見えるのですよ。 だいたい、木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語などは、本来ならば、藤原氏は書かせたくはなかったでしょう。
どうして。。。?
『ウィキペディア』にも書いてあるけれど、「間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。 しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く」研究者もいるのですよ。 つまり、このような関係があることを匂わせるために、『古事記』の執筆者の中に 木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語をどうしても書かなければならないと思った人がいたのですよ。
実際、当時、政権に携わっている人たちや、反動派の人たちにも、間人皇女と中大兄皇子の関係を疑っていた人たちがいたのでござ~ますか?
いたのですよ。
その証拠でもあるのでござ~ますか?
あのねぇ~、もうずいぶん昔のことだから、二人が関係しているところを撮った写真があるわけではない。 でもねぇ、状況証拠がある。
その状況証拠とは、いったい どのようなものでござ~ますか?
中大兄皇子は、本来ならば、大化の改新を断行した時に、天皇になれるはずだったのですよ。 でもなれなかった。
どうして、その時に天皇になれなかったのでござ~ますか?
中大兄皇子は、次期天皇に目されていた異母兄の古人大兄皇子を殺している。 兄殺し! 更に、乙巳の変(645年6月)、つまり、大化の改新で、皇極天皇が譲位する。 この時にも、中大兄皇子は過去の悪行が災いして人望がなく、天皇になれず、皇極天皇の弟、つまり、中大兄皇子の叔父さんである軽皇子が孝徳天皇として即位する。
。。。で、この時に、中大兄皇子はスパイ兼監視役として妹の間人皇女を叔父さんのお嫁さんにすると画策したのでござ~ますか?
そうです。。。 翌年、大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。 実権を握っていたのは、大化の改新で活躍した中大兄皇子だった。 それで、叔父の天皇とは不仲だった。 白雉4年(653年)、よせばいいのに、中大兄皇子は叔父さんを一人残して、多くの官僚と共に、実の妹でもあり、叔父さんの妻でもある間人皇后を無理やり飛鳥に連れ去ってしまう。 当然のことながら、噂が立つのですよ。 中大兄皇子と妹の間人皇女は恋愛関係にあったと。。。 そして、それを裏付けるように そういう事が過去にもありましたよ、と『古事記』の執筆者は木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋物語を書き込んだわけですよ。
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【卑弥子の独り言】
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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?
中大兄皇子と実の妹である間人皇女の間に恋愛関係があったと思いますか?
ええ? もうずいぶんと昔の話だから、どうでもいいのでござ~ますかァ?
解りましたわ。
じゃあ、あたくしの個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますゥ。
信じられないってぇ~。。。?
じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくだしまし。。。
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■『卑弥子の源氏物語』
どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?
ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?
そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。
でも こう見えても あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。
ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。
この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。
ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。
“袖触れ合うも他生の縁”と申します。
あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。
(tora019.jpg)
ところで、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。
そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。
■天武天皇と天智天皇は
同腹の兄弟ではなかった。
■天智天皇は暗殺された
■定慧出生の秘密
■藤原鎌足と長男・定慧
■渡来人とアイヌ人の連合王国
■なぜ、蝦夷という名前なの?
■平和を愛したアイヌ人
■藤原鎌足と六韜
■古事記より古い書物が
どうして残っていないの?
■今、日本に住んでいる人は
日本人でないの?
■マキアベリもビックリ、
藤原氏のバイブルとは?
とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。
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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?
中大兄皇子と実の妹である間人皇女の間に恋愛関係があったと思いますか?
ええ? もうずいぶんと昔の話だから、どうでもいいのでござ~ますかァ?
解りましたわ。
じゃあ、あたくしの個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますゥ。
信じられないってぇ~。。。?
じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくだしまし。。。
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■『卑弥子の源氏物語』
どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?
ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?
そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。
でも こう見えても あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。
ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。
この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。
ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。
“袖触れ合うも他生の縁”と申します。
あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。
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ところで、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。
そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。
■天武天皇と天智天皇は
同腹の兄弟ではなかった。
■天智天皇は暗殺された
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■平和を愛したアイヌ人
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■古事記より古い書物が
どうして残っていないの?
■今、日本に住んでいる人は
日本人でないの?
■マキアベリもビックリ、
藤原氏のバイブルとは?
とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。
■『曲屁(きょくべ)』
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