菊ちゃんと阿部忠秋

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デンマンさん。。。 どういうわけで菊ちゃんと江戸時代の忍藩主というか。。。、江戸城で老中も務(つと)めた阿部忠秋がタイトルに並ぶのですか?

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もちろん、時代が違いますからねぇ。 昭和時代の菊ちゃんと江戸時代の阿部忠秋には直接の関係はありません。
じゃあ、間接的に関係があるのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。 小百合さんも次の記事を読んだでしょう?

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■『毘沙門堂と菊ちゃん』

ええ。。。 上の記事は読みましたわ。

阿部忠秋は、忍藩主だった寛文7年(1667年)に、念珠仏・毘沙門天を江戸屋敷より移し、立派なお堂を建てて菩提寺の大長寺に寄進したのですよ。
大露仏と毘沙門堂

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行田で唯一つの露坐の大仏で、「丈六の仏」といわれていたが、昭和19年、鉄の供出を強調され、大仏と半跏(片足だけくみ、片足は下におろす)の地蔵と金鐘とを戦争の為に、供出してしまった。
せめて、この大仏だけは、行田町の文化財として出したくはなかった。
『忍名所図会』には座像高さ“1丈2尺余”と書いてある。
今もその台石は残っているが、その上に1丈2尺の大仏であるから、子供心にすごく大きいものだと思った。
この大仏の由来について、何らの手がかりがないので、大長寺に何か記録がないかと探して貰ったが、住職が替わったばかりで、なんらの引き継ぎもなかった由である。
不思議なことには『忍名所図会』『北武八志』その他にも、何ら建立由来がない。
大仏に後背銘があったように覚えているが、今では致し方ない。
せめて拓本しておいて貰いたかった。
『忍名所図会』に「浄土宗沙門信阿和奉納す」とある。
大仏の後方、東に、西方を向いて、彫刻の沢山あった毘沙門堂があった。
昭和40年代、国道拡張の折、移築を余儀なくされた。
しかし、そのまま移転することもできないほどの荒廃で、戦中、戦後、乞食の棲家になって、失火しなかったのがせめてもの幸せという位、所々がこげていて、廃屋そのものであった。
教育委員会と交渉し、ついに取り壊し以外ない事になり、その彫刻をいかし、浅草の古物商(百万弗)に売却し、今は、奥日光の金精峠に、そのおもかげを留めている。
そもそもこの毘沙門堂は、藩主阿部豊後守忠秋が、念珠仏毘沙門天を江戸屋敷より移し、立派なお堂を菩提寺大長寺に建立寄進した。
像高37糎の毘沙門天である。
(中略)
この毘沙門堂は寛文7年(1667年)の建立なので、京都出雲寺の最澄の作った毘沙門天を江戸に移し、寛文年代、法親王が住持となり、毘沙門堂門跡というようになったという事が記録にあるから、筆頭老中が阿部忠秋であるから、時代が合うので、その故事にゆかりある毘沙門の分身ではなかろうか。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
20-22ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社

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行田で唯一つの露坐の大仏で、「丈六の仏」といわれていたが、昭和19年、鉄の供出を強調され、大仏と半跏(片足だけくみ、片足は下におろす)の地蔵と金鐘とを戦争の為に、供出してしまった。
せめて、この大仏だけは、行田町の文化財として出したくはなかった。
『忍名所図会』には座像高さ“1丈2尺余”と書いてある。
今もその台石は残っているが、その上に1丈2尺の大仏であるから、子供心にすごく大きいものだと思った。
この大仏の由来について、何らの手がかりがないので、大長寺に何か記録がないかと探して貰ったが、住職が替わったばかりで、なんらの引き継ぎもなかった由である。
不思議なことには『忍名所図会』『北武八志』その他にも、何ら建立由来がない。
大仏に後背銘があったように覚えているが、今では致し方ない。
せめて拓本しておいて貰いたかった。
『忍名所図会』に「浄土宗沙門信阿和奉納す」とある。
大仏の後方、東に、西方を向いて、彫刻の沢山あった毘沙門堂があった。
昭和40年代、国道拡張の折、移築を余儀なくされた。
しかし、そのまま移転することもできないほどの荒廃で、戦中、戦後、乞食の棲家になって、失火しなかったのがせめてもの幸せという位、所々がこげていて、廃屋そのものであった。
教育委員会と交渉し、ついに取り壊し以外ない事になり、その彫刻をいかし、浅草の古物商(百万弗)に売却し、今は、奥日光の金精峠に、そのおもかげを留めている。
そもそもこの毘沙門堂は、藩主阿部豊後守忠秋が、念珠仏毘沙門天を江戸屋敷より移し、立派なお堂を菩提寺大長寺に建立寄進した。
像高37糎の毘沙門天である。
(中略)
この毘沙門堂は寛文7年(1667年)の建立なので、京都出雲寺の最澄の作った毘沙門天を江戸に移し、寛文年代、法親王が住持となり、毘沙門堂門跡というようになったという事が記録にあるから、筆頭老中が阿部忠秋であるから、時代が合うので、その故事にゆかりある毘沙門の分身ではなかろうか。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
20-22ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社

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大仏さんの前で小百合さんとツーショットの写真を撮ったけれど、この大仏さんは2代目なのです。

ええ、ええ。。。 その事はデンマンさんから聞いたことがありますわァ。
菊ちゃんが生きていた当時は、この2代目の大仏さんは まだなかった。 でも、取り壊し前の毘沙門堂はあったのですよ。

それで、どうしてこの毘沙門堂と菊ちゃんが関わりがあるのですか?

実はねぇ~、僕が小学生の頃、菊ちゃんは僕のお袋になついて、よく遊びに来たのですよ。
その頃から菊ちゃんはデンマンさんのお嫁さんになりたかったのですか?
当時の菊ちゃんは20歳を出ているか出ていないか。。。とにかく子供の僕の目には、もう大人でしたよ。
でも、精神年齢は7つぐらいだったのですか?
そうなんですよ。 でもねぇ、いくらなんでも、まだ小学生の小さな僕を見て僕のお嫁さんになろうとは思わなかったでしょうね。 菊ちゃんが僕のお嫁さんになりたくて、お母さんに頼みに帰ったのは僕が中学生の時のエピソードですよ。
それで、デンマンさんが小学生の頃、どのようなエピソードがあったのでござ~♪~ますか?
時々、僕の家に興奮して駆け込んで来たのですよ。
一体何があったのですか?
大事件が持ち上がった訳ではないのですよ。 実は、菊ちゃんは言葉がはっきりと話せないのですよ。 確か“お嫁さん”のことを“いーやん”と言っていたように思うのですよ。 毘沙門堂の方を指差して、息を切らせながら“いーやんがきたぁ~。。。いーやんがきたのよゥ”。。。そう言いながら、アイドル歌手がやって来たように、うれしそうにはしゃぎ回ったのですよ。
それで、お嫁さんが毘沙門堂にやって来たのでござ~♪~ますか?
そうなんです。 “お宮参り”なんでしょうね。 上の説明にある通り、毘沙門天は七福神の一つですからね、縁起のいい神様ですよね。 それで、大長寺の檀家の娘さんが末永く婚家で幸せで居られるようにと願(がん)をかけるために毘沙門天にお参りにやって来るのだと思いますよ。

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上の写真には男が写っているけれど、やって来るのは決まってお嫁さんだけなんですよ。 花婿が一緒に来たのを見たことがありませんでしたね。 ほぼ間違いなく付き添いの中年婦人と一緒に二人でやってくるのですよ。 多分その中年婦人は仲人さんだと思うのですよ。
それで、菊ちゃんは必ずデンマンさんの家まで知らせに飛んでゆくのですか?
そうなんです。 お袋だって忙しい時がありますからね。 菊ちゃんが来るたびに一緒に見に行けませんよ。 だから、お袋が忙しい時には、せっかく知らせに来たのだから僕に一緒に見に行くようにと言うのですよ。
それで、デンマンさんは菊ちゃんと一緒に見に行ったのでござ~♪~ますか?
小学生で暇をもてあましている事が多いからねぇ、付き合いましたよ。うへへへへ。。。1年に4,5回そう言うことがありました。 菊ちゃんは、もう、アイドル歌手がやって来たように嬉しそうにはしゃぐのですよ。“ちれいねぇ~、ちれいねぇ~” 感に耐えないような声を上げながら、うらやましそうにはしゃぎ回るのですよ。 よっぽど白無垢の衣装が素晴しいものに見えたのでしょうね。 だから、お嫁さんになる事がいつの間にか菊ちゃんの夢と言うかロマンになったのですよ。 いつか、自分もあのような白無垢の衣装を着て毘沙門堂にお参りしよう! そう思っていたのでしょうね。
そう言う“お宮参り”の風習が行田にはあるのですか?
実は、この記事を書くまで僕は良く知らなかったのですよ。 それで、ちょっと調べてみました。 つまり、“仏壇参り”の延長ですよ。 この毘沙門堂は大長寺にありますからね。 ご先祖様のお墓にお参りするついでに毘沙門天に願いをかけるのでしょう。

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でも、菊ちゃんは白無垢の衣装を着ることもなく あの世の人になってしまったのでござ~♪~ますか?

そうなんですよ。 可哀想だけれど。。。奇病にかかってねぇ、40代で亡くなってしまったのですよ。 でもねぇ、エピソードはそれだけで終わりじゃないのですよ。“馬鹿の一つ覚え”という言葉があるでしょう?
ええ。。。よく聞きますわ。うふふふふ。。。
この菊ちゃんは、同じ事を切りもなく話すのですよゥ。お嫁さんがやって来てから1週間ばかりは、その話を飽きること無く繰り返すのですよ。“いーやんがちれいなおべべを着てきたにィ~”。。。で始まって、お宮参りの様子を何べんも何べんも話すのですよ。もちろん僕だけに話すのではなく、顔見知りの人には誰にでも話すのですよ。僕はお袋から「7才のバカ」 じゃなく、「7才の女性」として付き合うのですよ、と言われているから、よほどの事が無い限り、適当に相槌を打って、うん、うん、うん。。。そうだったねぇ~。。。と聞き役になるのですよ。
子供の頃からデンマンさんは話を聞くのが好きだったのでござ~♪~ますわね?
聞き上手になったのは菊ちゃんと付き合うことが多かったからでしょうね。うしししし。。。でもねぇ、他の子供は正直ですよゥ。きりもなく同じ事を繰り返すから。。。“バカァ~!同じ事を何度も何度も言うなア!あっちへ行ってろォ~!” たいていの子供や中学生ぐらいまでは、このように怒鳴りつけますよ。大人は無視して歩き去りますよ。そうすると最後には僕のところにやってくるのですよ。
デンマンさんは、菊ちゃんの話を聞いてあげるのですか?
もちろん、内心では“んも~~ またかよウ!?”。。。と思いますよゥ。でもねぇ、菊ちゃんが怒鳴り散らされたのを知っていますからねぇ~、なんとなく可哀想じゃないですかァ~。。。だから、半分上の空(うわのそら)で相槌打ってやるのですよ。
つまり、そう言う訳で菊ちゃんに好かれるようになった訳でござ~♪~ますわね?
多分、そうだと思うのですよ。まともに相手になってあげるのはお袋を除くと僕ぐらいでしたからね。。。
納得しましたわ。 それで菊ちゃんはデンマンさんのお嫁さんになりたかったのですわね?

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おそらくそうでしょう。。。

でも、小百合さんのお話にどうして菊ちゃんのことを持ち出したのでござ~♪~ますか?
実は、大仏の前で小百合さんと会った時に白い椅子に座りながら、この話をしようと思ったのですよ。
。。。んで、お話になったのでござ~♪~ますか?
いや、途中で気が変わりましたよ。
どうしてでござ~♪~ますか?
毘沙門堂は日光に移築されて影も形も残っていないのですよ。今では、そのあたりは更地(さらち)になって駐車場になっていますよ。
それで、どうしたのでござ~♪~ますか?
上の毘沙門堂の写真をよく見てください。
上の写真がどうだとおっしゃるのですか?
よく見ると毘沙門堂の向かって左側に小さなお堂があって、その中に石像が見えるでしょう?

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ええ、ええ。。。見えますわ。。。

これはお地蔵さんなんですよ。“塩なめ地蔵”と言うのですよ。このお地蔵さんが白い椅子のすぐそばに移されたのですよ。だからねぇ、僕はそこへ小百合さんを連れて行って、“僕が小学生の頃は、このお地蔵さんがアソコにあったのですよ。” そう言って毘沙門堂がある辺りを指差したものですよ。
それで。。。?
なんだか菊ちゃんの姿が思い出されてきましてねぇ~。。。それ以上話すのがつらくなって、話題を変えましたよ。
小百合さんはデンマンさんのその時の微妙な気持ちが分かったでしょうか?
菊ちゃんの事は一言も話しませんでしたからねぇ、小百合さんは何も分からなかったでしょうね。僕は、ただ、全く関係ない話を長々と続けましたから。。。
いつものようにでござ~♪~ますか。。。?
そうですよ。。。。でもね、おそらく、この記事を小百合さんが読めば、“塩なめ地蔵”の事をなつかしく思い出すと思うのですよ。
『毘沙門堂と菊ちゃん』より
(2008年1月7日)

つまり、江戸時代に阿部忠秋が建てて大長寺に寄進した毘沙門堂に 昭和になってから お参りにやって来る花嫁さんを菊ちゃんが毎回見に行ったということが 菊ちゃんと阿部忠秋のささやかな関係なのですか?

いや。。。 実は、それだけではないのですよ。
あらっ。。。 まだ他にも菊ちゃんと阿部忠秋のつながりがあるのですか?
あるのですよ。 小百合さんは“振袖(ふりそで)火事”ってぇ聞いたことがあるでしょう!?
あの江戸時代に起こった最大の火事ですか? 確か江戸城の天守閣が焼けてしまって、それ以来 江戸城には天守閣が再建されなかったのですよねぇ~。。。
あれっ。。。小百合さんは、結構 歴史に詳しいのですねぇ~。。。
いいえ。。。 デンマンさんからの聞きかじりですわァ。 うふふふふふふ。。。
明暦の大火 (振袖火事)
この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。
死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。
江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。
日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。
御三家の屋敷が江戸城外へ転出。
それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。
防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。
防災への取り組みも行われた。
火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。
現在でも上野広小路などの地名が残っている。
幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。
振袖火事とも呼ばれるゆえんは以下のような伝承があるためである。

(oshichi2.jpg)
お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(16才)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。
ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり赤面して下を向く。
梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくし寝込んでしまう。
名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。
だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。
両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。
この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16才)のものとなる。
ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。
寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16才)の手に渡る。
ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。
住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。
たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
出典: 「明暦の大火」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。
死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。
江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。
日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。
御三家の屋敷が江戸城外へ転出。
それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。
防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。
防災への取り組みも行われた。
火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。
現在でも上野広小路などの地名が残っている。
幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。
振袖火事とも呼ばれるゆえんは以下のような伝承があるためである。

(oshichi2.jpg)
お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(16才)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。
ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり赤面して下を向く。
梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくし寝込んでしまう。
名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。
だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。
両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。
この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16才)のものとなる。
ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。
寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16才)の手に渡る。
ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。
住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。
たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
出典: 「明暦の大火」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この振袖火事が菊ちゃんと阿部忠秋にも関係あるのですか?

それが不思議にも関係あるのですよ。
どのように。。。?
あのねぇ~、確かに“明暦の大火”と呼ばれる大火事は実際にあった。 でもねぇ~、それにまつわる“振袖火事”の話は作り話なのです。
まさかァ~。。。、だってぇ~。。。、だってぇ~。。。、歴史の時間に、先生は“振袖火事”のことを史実として話しましたわァ。
そうなんですよ。 最近まで、“振袖火事”の話は事実だと信じられていた。 実際、去年の秋、僕が行田市に帰省した時にも NHKの木曜時代ドラマで“振袖火事”の事をやってましたよ。
でも、その話は作り話なのですか?
そうです。。。
どうして、その話が本当だと信じられてしまうほどに江戸時代に広まったのですか?
あのねぇ~、火元が本妙寺だと信じられていたのだけれど、本当の火元は、誰あろう 阿部忠秋の屋敷だったのですよ。
あらっ。。。 マジで。。。? でも、どうして本妙寺が火元だということになったのですかァ~?
だから、民衆に、そのように信じ込ませるように幕府の首脳陣が“振袖火事”の伝説を広めたのです。
だけど、どうして、そのような事までして嘘の話を広めたのですか?
あのねぇ~、幕府は火事の火元に対しては、当時、厳罰主義で臨んでいたのです。 それなのに幕府の老中の屋敷が火元とあっては、幕府の権威が失墜してしまうのですよ。
それで、火元を本妙寺ということにしたのですか?
そうですよ。 本妙寺は、たまたま阿部忠秋の屋敷の隣にあった。
でも、本妙寺の住職が それでは気持ちが納まらないでしょう?!
だから、その嘘の話を広めるために、住職を説得したのです。
。。。で、住職さんも幕府の言うことを聞き入れたのですか?
聞き入れたのです。 それが証拠に、火事の後で、阿部家からは供養代として、毎年 本妙寺に相当額の寄付が送られたのです。 それが、実に 1923年の関東大震災まで毎年続いたのですよ!
それってぇ、マジですかァ~?
ちゃんと記録にも残っているのです。
。。。で、阿部忠秋の屋敷に住んでいる誰が火をつけたのですか?
いや。。。 放火したわけではないのです。 たまたまその家に“お菊さん”という女中が住んでいたのです。

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あらっ。。。 この人ですか? なんだか菊ちゃんに似ているじゃありませんか?

そうですよ。。。 そのことについては、この後で話しますよ。
。。。で、この“お菊さん”が火事の原因を作ったのですか?
そうなのです。。。 “お菊さん”はネズミが大嫌いなのですよ。 たまたま阿部忠秋の部屋の行灯(あんどん)に火をともしに行った時にネズミがチョロチョロと“お菊さん”の目の前を横切ったのです。 それでビックリしてロウソクの火を畳の上に落としてしまったのですよ。

(kiku95.jpg)

あらっ。。。で、その“お菊さん”をかばう意味もあって、阿部忠秋は火元を本妙寺に肩代わりさせたと言うわけですか?

そうなのですよ。 阿部忠秋という人は、自己保身のために罪を他に押しつけるような卑劣な人物ではない。 それに、人望の厚い人格者であったらしい。 というのは、阿部忠秋は捨て子を拾って養育していたのです。 次のようなエピソードが伝わっていますよ。
阿部忠秋は毎年数十人の捨て子を養育していた。
このことはたちまち江戸中に知れ渡り、阿部忠秋の屋敷前や通勤経路には、捨て子をする人が増えた。
捨て子を見つけるとすぐに抱き上げる忠秋に、家臣が言いました。
「殿、際限がございませぬ」
「捨てたくて子を捨てる親はいないのだから、捨て子がいるということは、われらの政治がいたらなかったということ。 だからこそ、子を育てることで穴埋めをしたい」
「しかし、金が掛かります」
「わしは 遊興を控えて浮かせた金で養育しておる。 そなたらに迷惑をかけてはおらん」
成長した子は、男の子は家臣とし、女の子は嫁ぎ先を見つけてやった。

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このことはたちまち江戸中に知れ渡り、阿部忠秋の屋敷前や通勤経路には、捨て子をする人が増えた。
捨て子を見つけるとすぐに抱き上げる忠秋に、家臣が言いました。
「殿、際限がございませぬ」
「捨てたくて子を捨てる親はいないのだから、捨て子がいるということは、われらの政治がいたらなかったということ。 だからこそ、子を育てることで穴埋めをしたい」
「しかし、金が掛かります」
「わしは 遊興を控えて浮かせた金で養育しておる。 そなたらに迷惑をかけてはおらん」
成長した子は、男の子は家臣とし、女の子は嫁ぎ先を見つけてやった。

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もしや、“お菊さん”はこの捨て子のうちの一人だったのですか?

そうなのですよ。。。 この“お菊さん”は、菊ちゃんのように ちょっと知恵が遅れていた。 それで阿部忠秋も 失火の罪で死罪にするには忍びなかったのです。
。。。で、もしかして。。。、もしかして。。。、“お菊さん”の子孫が菊ちゃんなんですかァ~?
実は、そうなんです。。。 もし、“お菊さん”が失火の罪で死罪になっていたら、菊ちゃんはこの世に存在していなかったのですよ。

(laugh16.gif)
【卑弥子の独り言】

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ですってぇ~。。。
あなたは、このデンマンさんのお話を信じることができますかァ~?
“信じる者は救われる”と申しますが、あなたは、どう思いますか?
実は、デンマンさんが“お菊さん”の子孫である菊ちゃんにエロい事をしようとしたのですわよゥ。
どこかに、その記事があるだろうと思って探してみたら、見つかったのでござ~♪~ますう。
うふふふふふふ。。。
あなたも、もし関心があったら読んでみてくださいまし。

(kiku008.jpg)
■『菊ちゃんと八ツ橋』
ところで、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。

(suikyu9.jpg)
それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。

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(himiko22.gif)
ですってぇ~。。。
あなたは、このデンマンさんのお話を信じることができますかァ~?
“信じる者は救われる”と申しますが、あなたは、どう思いますか?
実は、デンマンさんが“お菊さん”の子孫である菊ちゃんにエロい事をしようとしたのですわよゥ。
どこかに、その記事があるだろうと思って探してみたら、見つかったのでござ~♪~ますう。
うふふふふふふ。。。
あなたも、もし関心があったら読んでみてくださいまし。

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■『菊ちゃんと八ツ橋』
ところで、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。

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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。

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■ 『駅前のヌード』
■ 『3月のバレンタイン』
■ 『ベーグルフィーバー』
■ 『別れの朝あなたは…』
■ 『バレンタインの唄声』
■ 『古代蓮と軽井沢タリアセン夫人』
■ 『宮沢りえと軽井沢タリアセン夫人』
■ 『5月のバレンタイン』
■ 『バレンタインラーメン』
■ 『カレーライス@パリ』
■ 『カフェオレ@バレンタイン』

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■ 『月夜のベリー@バレンタイン』
■ 『日本の真ん中』
■ 『カフェオレと床上手な女』
■ 『ピーチ味のロマン』
■ 『カナダのマルサの女』
■ 『思い出を食べる@麻布』
■ 『バレンタイン焼きそば』
■ 『串カツと黒豚』
■ 『阿蘇山@栃木県』
■ 『焼きそばソース@バレンタイン』
■ 『鶏肉ダメなの?』
■ 『ばァ~の思い出』
■ 『泰国酸辣醤のロマン』
■ 『豆腐がチーズに?』
■ 『猫と柚子とロマン』
■ 『トリュフと軽井沢タリアセン夫人』
■ 『ロマンの香り愛のスパイス』
■ 『愛と人生のスパイス』
■ 『愛と人生の陰で』
■ 『愛と魔法の豆腐』
■ 『愛のポテトチップサンド』
■ 『インドカレー@熊谷』
■ 『スープカレー@行田』
■ 『軽井沢タリアセン夫人@Bike』
■ 『かねつき堂と亀姫』
■ 『甲斐姫と軽井沢タリアセン夫人』
■ 『蕎麦屋と軽井沢タリアセン夫人』
■ 『おしまいでございます』
■ 『軽井沢タリアセン夫人 愛の写真』

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