ケイトー、。。。上の写真は日本の風景ではなさそうね?
あれっ。。。日本に行ったこともないシルヴィーにどうして判るの?
船が香港の昔の絵葉書によくあるジャンクのようじゃない!?
なるほどォ~。。。確かに日本では上の写真にあるような船は使わない。 でも、香港でも中国でもない。
じゃあ、いったいどこの国なの?
韓国ですよ。 朝鮮半島の南端にある晋州市の昔のお城があったところですよ。
どうして晋州市のお城の跡などを持ち出してきたの?
あのねぇ~、去年の11月26日に次の記事を書いたのですよ。
■『ありがとうさん』
(2011年11月26日)
上の記事の中で晋州市の昔のお城について書いたの?
そうです。 豊臣秀吉が16世紀の末に朝鮮を攻めたことがあった。 正確には文禄元年(1592年)10月4日から10日までの第一次晋州城攻防戦では朝鮮軍が勇敢に戦って城を守った。 日本軍は諦めずに翌年(1593年)6月21日から29日までの第二次晋州城攻防戦を戦い晋州城を落城させた。 朝鮮は日清戦争でも戦場になったし、日露戦争でも日本の第一軍(黒木軍)が朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った。 考えてみれば、朝鮮も中国も日露戦争ではえらい迷惑だったでしょうね。 言ってみれば赤の他人が裏庭に入ってきて大喧嘩を始めたのに、出てゆけとも言えずに手をこまねいて見ている他になかったのだから。
そうね。。。それで現在、晋州市の城跡の坂の上に平和が訪れたというので「坂の上の平和」というタイトルにしたの?
違うのですよ。 実はバンクーバー図書館から『坂の上の雲』という小説を借りて今、読んでいるところなんですよ。
カナダで初めて読んだの?
いや、15年ほど前に一度読んだことがある。
それなのに、どうしてまた読む気になったの?
あのねぇ~、去年の9月に日本のふるさとに帰省した時にNHK総合テレビで『坂の上の雲』を観たのですよ。 4回ぐらいに分けて放映した内の2回目か3回目だったと思うのです。 その時、ロシアの首都・ペテルブルグで広瀬武夫とロシア美人・アリアズナのロマンスを放映していたのです。
広瀬武夫
明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し、同28年(1895年)には大尉に昇進。
明治30年(1897年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。
旅順港などの軍事施設も見学する。
その後ロシア駐在武官となり、明治33年(1900年)に少佐昇進。
明治35年(1902年)に帰国する。
明治37年(1904年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。
第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。
撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。
享年36。即日中佐に昇進した。
流れ着いた遺体はロシア軍により埋葬された。
日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には昭和10年に広瀬を祀る広瀬神社が創建された。
また文部省唱歌の題材にもなる。
直撃を受けたさい、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。
ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会であり、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。
武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。
エピソード
•海軍兵学校時代、大運動会のマラソンで左足を骨膜炎に冒されながら完走する。一時は左足切断を宣告されたが、最終的には安静にすることで完治した。ただし、その後も時折左足の痛みには悩まされていたらしい。
•日清戦争後、捕獲艦鎮遠の清掃活動で「一番汚い箇所からやるものだ」と便所掃除へ向かう。躊躇する部下を尻目に、広瀬は爪で汚れを擦り落として部下に模範を示した。
•見習い士官だった頃、駿州の清水港に上陸する機会があった。この時、広瀬を含む50名程度の海軍軍人が名代の侠客清水次郎長を訪ねた。次郎長は座中一同を見渡し「いや、こう見たところで男らしい男は一匹もいねぇな」と言い放ったため、座中の中から広瀬が現れ「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやるから、びっくりするな」と言って、いきなり鉄拳を固めて自分のみぞおちを50、60発続けざまに殴った。これには次郎長も「なるほど、お前は男らしい」と感心し、お互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されている。
•講道館紅白戦で柔道の5人抜き(6人目で引き分け)により、二段に昇段する。旅順閉塞戦で戦死すると、嘉納治五郎から忠勇を称えられ四段から六段へ昇段した。講道館殿堂入りもしている。
•生涯独身であり、女性関係はあったものの極めて真面目で、遊郭に出入りすることも社交界で交際することも皆無だった。唯一の女性との関係はアリアズナとの文通であったという。また女性とデートしても、部下への体面があるとして手を出さなかったという手紙が残っており、その手紙を石原慎太郎が所有している。
•長い間、アリアズナの父親はロシア海軍のコヴァレフスキー少将とされてきたが、平成22年(2010年)になって日露の研究者により、実際の父親は別の人物であったことが明らかとなった。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そのロマンスがケイトーにとって印象的だったの?
そうですよ。 丸5年ほどロシアに駐在し帰国命令を受けて広瀬は日本へ帰る。 その送別会でアリアズナが荒城の月を演奏するのだけれど、それを聴いていたロシアの紳士淑女が「その曲は日本人の作曲したものではありえない」と、日本人を馬鹿にしている。 ロシアでは皇帝のニコラス2世までが日本人を「猿(マカーキ)」と呼んでいたので、当然、社交界の紳士淑女も日本人を馬鹿にしていた。
つまり、ケイトーは、それでムカついたのね?
いや。。。当時の日本人が欧米でどのように見られていたのかという事を僕は知っていたから、別にムカつきませんでしたよ。 僕が感銘を受けたのは、そういう社会的風潮の中にあって、そのようなロシアの社交界に出入りしていたアリアズナが広瀬武夫に好意を寄せたということですよ。
広瀬武夫の人物に人種を超えた「素晴らしさ」のようなものをアリアズナが見出したという事にケイトーは感銘を受けたのォ~?
その通りですよ。 僕の経験から言って5年ぐらい海外で暮らしたからといって、異国の女性にそれほどの好意をもたれるなんてちょっと考えられない。 しかも、広瀬少佐の戦死を聞いて喪に服したという。
広瀬少佐の写真を見ると、決して女性にもてるようなハンサムではない。 やさしいというよりも、むしろ怖い印象を与えるのですよ。 要するに、広瀬武夫には、それだけ女性を魅了する性格的な何かを持っていたのですよ。
その性格的な何かってぇ、どのようなものなの。。。?
あのねぇ~、当時の帝政ロシアは、言ってみれば熟れた柿が腐りかけて木から落ちる寸前だった。 やがて革命が起きて皇帝のニコラス2世は惨殺される運命にある。 でも、そういう事を予感する人が少数いたけれど、大多数の社交界の人たちは、熟して腐りかけた社交界にあって、旨(うま)みのある話を求め、甘い汁を吸いたいという考えの人ばかりが居た。 我が身を捨てて国家のために働こうとか、誠心誠実に任務を遂行しようという真摯な考え方を持っている人などほとんど見当たらない。
つまり、アリアズナは広瀬武夫という人物の中に「熟して腐りかけた社交界」には居ないタイプの誠実で男らしい姿を見ていた。 ケイトーはそう言いたいの?
多分、そう言う事だと思うのですよ。 とにかく、雪に覆われたペテルブルグでのアリアズナと広瀬武夫の別れのシーンがなんともロマンチックでしたよ。
。。。つまり、そのシーンを見て『坂の上の雲』をまた読む気になったの?
そうです。 そのようなシーンが『坂の上の雲』にはなかったのですよ。 少なくとも僕の記憶からスルリと抜けていた。 そのようなシーンならば、絶対に読み飛ばすはずがないのに、どういうわけか僕の記憶にないのですよ。
それで、確かめるためにもバンクーバー図書館から本を借りたの?
そうですよ。
ケイトーも物好きね?
シルヴィーだって、僕の立場にあったら、そうしたと思うよ。
。。。で、『坂の上の雲』を読んで、そのシーンがあったことを確かめたの?
確かめましたよ。 だけど、アリアズナと広瀬武夫が登場するのは次の箇所だけでした。
これより少し前、海軍少佐広瀬武夫は、ロシア駐在武官の任務を解かれて、日本に帰ってきた。
この時期、秋山真之は、海軍大学校教官をつとめている。
... 広瀬のロシア駐在はながかった。足かけ六年におよび、その間、おおぜいのロシアの海軍武官につきあってきたが、広瀬はかれらのあいだでもっとも人気のある外国武官だった。
海軍士官のあいだだけでなく、宮廷の婦人たちのあいだですら、広瀬は人気があり、そのなかで、当時ペテルブルグの貴族の娘のなかできっての美人といわれたアリアズナ・コヴァレフスカヤという娘に熱烈な求愛をうけたりした。 が、独身主義者の広瀬は、ついにそれをうけることなく、帰任命令とともに露都を離れた。
それやこれやのペテルブルグでの生活が、広瀬の感じをすこし変えていたのかもしれない。
110-111ページ 『坂の上の雲(三)』
著者: 司馬遼太郎
2009年11月20日 第29刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
やっぱり、テレビで見た別れのシーンは無かったのですよ。 おそらくテレビでドラマ化するに当たって、視覚的なロマンスが無いというのもイマイチなので、おそらく島田謹二さんが書いた『ロシヤにおける広瀬武夫』という本からロマンスの部分を抜き出して脚色したのだと思うのですよ。
つまり、その事が言いたかったために、この記事を書き始めたの?
もちろん違いますよ。 『坂の上の雲(七)』に次のような箇所があった。
小村寿太郎
日本は、外相小村寿太郎を指揮者としてうごいている正規の外交機関のほかに、元老の伊藤博文の手もとから派遣した陰の舞台演出家ももっていた。
米国へは金子堅太郎がゆき、英国へは末松謙澄(けんちょう)が行っていた。
金子はこの戦争中、ほとんどワシントンに居っきりであった。 ... かれはルーズヴェルト大統領とはハーヴァード大学でのクラスメートで、その後も親交が深かった。 伊藤は金子を同大統領に接触させることによって、米国に講和への口火を切る役をつとめてもらおうとしたのである。
ルーズヴェルト大統領
金子堅太郎
この金子堅太郎の派遣と活動は成功した。
ただし、英国へ行った末松謙澄の場合は、成功といえるような結果はえられなかったといっていい。
末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」の著者として知られている。
明治型のはばのひろい教養人で、文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。
末松謙澄
かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海外に紹介したことでも知られ、さらには新聞記者時代に多くの名文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその娘むこになり、つづいて衆議院に出、のち逓信大臣や内務大臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎることであった。
さらにこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英国の指導層や大衆にあたえた。 末松は、
「昇る旭日(きょくじつ)」
といったふうの日本宣伝をぶってまわった。 不幸なことに英国人は日本が「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。 末松はその講演速記を本にして刊行した。 無邪気で楽天的な明治男子の文章であり、元来、日本国家が末松が説くほど栄光にみちた過去をもち、またいかに将来への希望にみちた国であろうとも、英国人には関係のないことであった。 英国人はかれの無邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
(写真はデンマン・ライブラリーより
赤字はデンマンが強調)
202-204ページ 『坂の上の雲(七)』
著者: 司馬遼太郎
2009年11月20日 第29刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
僕は司馬遼太郎さんの考え方には賛成できることが多いのだけれど、司馬さんの人の容姿に対する印象は僕とはだいぶ違うのですよ。
どのように。。。?
末松謙澄さんの写真を見てくださいよ。 司馬さんは外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎることであったと書いているけれど、僕の目には容姿が貧相とは見えない。 シルヴィーにはどう見える?
他の日本人とあまり変わりがないように見えるわ。 ケイトーと比べても、それほど変わってないわよ。 うふふふふ。。。
そうでしょう。。。正直言って、僕にも末松謙澄さんは他の日本人と大して変わりがないように見える。 つまり、司馬さんは日本人というのは欧米人に比べて容姿が貧相に見えるという固定観念を持っていたのかもしれない。
つまり、司馬さん自身も自分の容姿に対しても劣等感を持っていたのかしら?
司馬さんも末松謙澄さんも日本人としてそれほど変わりがないように僕には見えますよ。
つまり、ケイトーはその事が言いたかったの?
もちろん、違いますよ。 容姿のことは付けたしですよ。
。。。で、何が言いたいのよ。
あのねぇ~、末松謙澄さんは人間としてすごい人だと僕は思うのですよ。 文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。 しかも、日本の元勲でもある伊藤博文は末松さんの人物を評価して自分の娘の婿にさえしている。 つまり、末松さんは才能でも人格の上でも相当な人物のはずですよ。 それにもかかわらず、英国人に日露戦争の講和をしてもらうことに成功していない。 結果として成功したのは金子堅太郎の方だった。
ロシアはすでにそうと察し、開戦後ほどなく、駐米ロシア大使カシニーに対し、アメリカにおいて同情世論を形成せよ、と命じた。
カシニーの世論形成法は、いかにもロシア風であった。 米国における新聞という新聞を片っぱしから買収してかかったのである。
たとえば、ロシアに買収されたワールド紙などは露骨な反日論を掲載した。日本人のことを、
「Yellow little monkey」
とよび、日本人がいかに卑劣で、とるにたりない国力しかもっていないかということを書き、日本人はわれわれキリスト教徒の敵である、といったふうの、かつての十字軍時代の布告文をおもわせるような論説まで書いた。
金子がサンフランシスコに上陸したのが、あたかもルーズヴェルト大統領の局外中立の宣言が出たときであった。 金子はもともとこの根まわしに自信がなかったため、上陸早々この宣言を読んで失望し、
「とうてい任務を全うできない」
とおもった。
かれは日本としては精一杯の機密費をもってきたが、しかしロシアのように全米の新聞を買収しようというほどの金ではなく、もっとも有力な日本宣伝の武器としてかれが携えてきたのは、二冊の書物だけであった。 新渡戸稲造が英文で書いた「武士道」とイーストレーキの「勇敢な日本」であり、このたった二冊の本で全米に親日世論をまきおこさねばならないかと思うと、勇気よりもむしろ自分のみすぼらしさがさき立って、気おくれがした。
(赤字はデンマンが強調)
213-214ページ 『坂の上の雲(七)』
著者: 司馬遼太郎
2009年11月20日 第29刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
日露戦争概略
日露戦争物語
僕の目には末松さんよりも金子さんの方が怖そうに見える。 末松さんの写真の方が親しみ易く感じられるのですよ。 それにもかかわらず、末松さんは英国で目的を成し遂げられなかった。 堅物(かたぶつ)でとっつきにくそうな印象を与える金子さんの方がアメリカで成功している。 なぜか・・・?
アメリカ人よりも英国人の方が表面的にはどうであれ、内心では日本人を馬鹿にしていたからじゃない?
でも、この時、英国と日本は日英同盟を結んでいたのですよ。
それはロシアが巨大になるのを恐れて英国と日本が手を組んだだけでしょう!? 要するにお互いの利益が共通していたからよ。 でも、だからと言って英国人が日本人を尊敬していたわけではないわ。
つまり、アメリカ人の方が日本人に対して親密感を抱いていたとシルヴィーは思うの?
そう思うわ。 だから、ルーズヴェルト大統領は金子さんの申し出に応じたのよ。
それはないと思うな。 上の引用の中でも日本人を Yellow little monkey と書いたアメリカ人が居たのですよ。 ロシアの皇帝ニコラス2世と変わりがないのですよ。 しかも、やがてアメリカでも排日運動が盛んになるのですよ。
じゃあ、才能もあり人格的にもすぐれている末松さんが英国で失敗したのに、相手に対して怖そうな印象を与える金子さんがアメリカで成功した要因は何だとケイトーは言うの?
あのねぇ~、これまでの顔写真を見て一番怖そうな印象を与えるのは広瀬さんなのですよ。 僕にはそう見える。 それにもかかわらず、当時ペテルブルグの貴族の娘のなかで、きっての美人といわれたアリアズナ・コヴァレフスカヤが広瀬さんに熱烈な好意を抱いた。 なぜか。。。?
広瀬さんが我が身を捨てて国家のために働こうとか、誠心誠実に任務を遂行しようという真摯な考え方を持っていたからでしょう!? それに当時のロシアの腐りかけている貴族の男と比べて勇敢で誠実なサムライに見えたのよ。
僕もそうだと思うのですよ。
でも、だから、どうして金子さんがアメリカで成功したと言うのよ?
つまりねぇ、ルーズヴェルト大統領と金子堅太郎はハーヴァード大学のクラスメートだった。 要するに、学生時代にルーズヴェルトは金子堅太郎の人物の中に「勇敢で誠実なサムライ」を見ていたに違いない。 つまり、二人の間に友情が芽生えた。 そうでもなければ、ルーズヴェルト大統領が金子さんの申し出を素直に受け入れる理由がない。 日英同盟を結んでいた英国でも末松謙澄さんの申し出はむしろ反発を受けるほどだった。
要するに、末松さんの場合には英国人の中に真の友人が居なかったのね?
その通りですよ。 でも、ルーズヴェルト大統領と金子堅太郎の友情だけではなかった。
他にどのような理由があるの?
あのねぇ~、こちらの理由の方が大きいのだけれど、時間がないので別の機会に話をしますよ。
仕方がないわねぇ~。。。 それまで待ってあげるわ。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
もう一つの理由って何でござ~♪~ましょうか?
あなたに想像がつきますか?
でも、なんとなく判る気もしますわ。
新渡戸稲造が英文で書いた「武士道」が出てきたのですもの、きっとこの本に関係しているのですわ。
とにかく、あなたも楽しみにして待っててね。
ところで、シルヴィーさんのことをもっと知りたかったら次の記事を読んでくださいね。
■『シルヴィー物語(2011年4月27日)』
■『波乱の半生(2011年4月29日)』
■『シルヴィーとネット革命(2011年5月6日)』
■『シルヴィーとデヴィ夫人(2011年5月30日)』
■『シルヴィーとケネディ夫人(2011年6月15日)』
■『バンクーバー暴動と平和(2011年6月25日)』
■『ビルマからの手紙(2011年7月3日)』
■『ブッシュの戦争(2011年7月7日)』
■『国際的愚か者(2011年7月11日)』
■『あばたもえくぼ(2011年7月14日)』
■『あなたも国際市民(2011年7月18日)』
■『リビエラ夫人のハンバーグ(2011年7月22日)』
■『芸術とブルックリン(2011年7月26日)』
■『思い出のパリ(2011年7月30日)』
■『海外志向とおばさんパンツ(2011年8月5日)』
■『地球の平和(2011年8月9日)』
■『愚かな写真狩り(2011年8月13日)』
■『死の写真狩り(2011年8月17日)』
■『キモい写真狩り(2011年8月21日)』
■『生パンツと床上手(2011年8月25日)』
■『ヌードと写真狩り(2011年8月29日)』
■『あなたの平和と幸福(2011年9月2日)』
■『あなたの平和な日々(2011年9月7日)』
■『奈良の鹿と憲法9条(2011年9月11日)』
■『文は人なり(2011年9月15日)』
■『キモい戦争(2011年9月19日)』
■『バカの歴史(2011年9月23日)』
■『ムカつく検査(2011年11月1日)』
■『アッシジからの平和(2011年11月5日)』
■『中国からの怪電話(2011年11月9日)』
■『気になる英単語(2011年11月18日)』
■『戦争を知らないの?(2011年11月23日)』
■『熟女ヌードとデンマン(2011年11月29日)』
■『山形とバンクーバー(2011年12月8日)』
■『ねえ、ねえ、ねえ見て(2011年12月10日)』
■『URL スパマー(2011年12月20日)』
とにかく次回も面白くなりそうですわ。
あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあ、また。。。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
ためになる関連記事
■ 『きれいになったと感じさせる
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』
■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』
■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』
■ 『今すぐに役立つホットな情報』
■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』
■『夢とロマンの横浜散歩』
■『愛とロマンの小包』
■『下つきだねって言われて…』
■『銀幕の愛』
■『パリの空の下で』
■『夢の中華パン』
■『愛の進化論』
■『漫画家と平和(2011年3月6日)』
■『漫画家の壁(2011年3月10日)』
■『漫画家と奴隷(2011年3月12日)』
■『畳の上の水練(2011年3月15日)』
■『パール判事とゴーマン(2011年3月18日)』
■『軍隊のない国(2011年3月21日)』
■『士風と「葉隠」(2011年3月23日)』
こんにちは。ジューンです。
本の紹介ページ: 『英訳源氏物語』
『源氏物語』は、1882年に
末松謙澄さんが英訳して
ロンドンで刊行されました。
デンマンさんもこの事で
次の記事を書いています。
■『ヴィクトリア女王と源氏物語』
ヴィクトリア女王は
「源氏物語」を読んだでしょうか?
ヴィクトリア女王が亡くなったのは
1901年です。
だから、読んだかもしれません。
ただ、「源氏物語」を読まないとしても、
紫式部の名前を知っていたかもしれません。
ええっ。。。どうしてかって。。。?
ヴィクトリア女王は「紫」が好きだったそうです。
うふふふふ。。。
人類が最初に発明した合成染料は
紫色だったのです。
1856年にイギリスの化学生パーキンが
解熱剤を合成する実験中に
偶然発見したそうですよう。
その薄い紫はモーヴと名付けられたのです。
モーヴ(mauve)とはフランス語で
葵(アオイ)の意味です。
ヴィクトリア女王は、その紫色が好きだったのです。
1862年に開かれたロンドンの万国博に
ヴィクトリア女王がこの合成染料モーヴで染めた
ドレスを着て現れたのです。
【合成染料モーヴで染めた
ヴィクトリア朝のドレスを着た女性】
そのような訳でモーヴはヴィクトリア朝の
流行色となりました。
ところで、愛とロマンに満ちた
レンゲさんのお話をまとめて
『レンゲ物語』を作りました。
もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、
次のリンクをクリックしてくださいね。
■ 『愛とロマンのレンゲ物語』
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
0 件のコメント:
コメントを投稿