2012年10月21日日曜日

聖徳太子のママ

 
聖徳太子のママ


(persian02.gif)

聖徳太子の母親は

ペルシャ人だった?



案内役の卑弥子でーす。

あたくし今度はこんな格好で出てきてしまいました。
これは、もうずいぶんと時代が下るんですよ。
Ghajar王朝(1779-1921)の皇女の服装なんです。
これしかないーつんですよ。
あたくし、これじゃあイヤーだあー、って言ったんですけど、とにかくペルシャのプリンセスの格好だから、格調高いんだと言われて、その気になってしまったんです。
どうですか?似合っているでしょうか?

上の絵だって、ペルシャには違いないんですけど、女の人すっかり顔を隠しているでしょう?
これはイスラムですよね?
だから、これも時代錯誤だと思うんですけど。
聖徳太子の時代はまだイスラム化されていないはずなんです。
640年にアラブ人がやって来て、それからペルシャ(今のイラン)はイスラム化が始まったんですから。

あたくしが、もうちょっとこの時代に合ったものをページに載せたほうがいいんじゃないんですか?と言ったら、これでいいんだ、って言うんです。
なぜですか?と尋ねたら、普通、日本人がペルシャ人に対して持つイメージって上の絵のように顔を隠しているんだと、言うんです。
これじゃないと、どこの国の人だか見当がつかないからだ、って言うんですよ。

このページを見るくらいの人は教養が高くて、そのぐらいの事は分かっていますよ、って言ったら、あたくしが、案内役なんだから、適当に説明しておけーつんです。
そんなわけで、こうして今、弁解がましくゴタクを並べているわけです。
まあ、そういうわけですので、あまり堅苦しいことは抜きにして、わたくしと一緒に見てゆきましょう。

渡来人

聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。
昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。
しかし、「日本」古代史の「日本」って一体何なのか?
については、あまり考えてみません。

そんなことは決まってるじゃないか、昔の日本の歴史だよ!
地図を開いてごらんよ。
その地図の日本の中で、昔起こったことが、つまり日本の古代史さ。

と、多分、上のような答えが返ってくるでしょう。
でも、ここで下の地図を見てみましょう。



上の地図には書き込んでありませんが、中国沿岸からも、またもっと遠く、ベトナムの方からも線が引かれているものと考えてください。
「ベトナムはちょっと遠すぎるんじゃないの?」と言われそうですが、決して遠くありません。
そのことについては、このページ (今、日本に住んでいる人は日本人でないの?) で説明しています。
クリックすると新しいページが開きます。読んでください。

要するに、この当時の国際関係を一言で言ってしまえば、渡来人が日本人であって、日本人が渡来人であった、というような時代です。
この頃は、原日本人、つまり、そのメイン・メンバーであるアイヌ人の人たちは、東北地方へ押しやられた形で生活しています。
794年に桓武天皇が、都を京都に移してから、本格的に、蝦夷征伐を始めますが、それまでは原日本人は日本史に登場していません。
古事記と日本書紀には神話時代の話に、「熊襲」などと呼ばれて登場している程度です。

古事記と日本書紀を編纂した人たちが、「これが新しい日本史だ」と言うのを、当時のアイヌ人が耳にしたとしたら、きっとこう言ったでしょう。



あんたがたよそ者が勝手にこの土地へやってきて、争いばかりしくさって、そのあげく日本史を作ったと?いいかげんにせんかい!
わしら、あんたらが来る何千年も前から、この土地に住んでおるんじゃ。
迷惑ばかりかけおって。。。
何が日本史だい。わしらが日本史じゃわい!

「アメリカ人」という言葉を聞くとき、私たちはすぐにマリリン・モンローだとか、ボブ・ホープ、クラーク・ゲーブル、エジソン、リンカーン、あるいは、ケネディー、ロックフェラー、マイケル・ジャクソン、マドンナ、などというような人の名前がすぐに口をついて出てきます。
それでは、聖徳太子が生きていた当時のアメリカ人は?と言われると、「アメリカ人はその頃いなかったんだ」と言いたくなります。
しかし、もちろん、アメリカ大陸にも我われと同じ人類が生活していました。
現在のアメリカ・インディアンの祖先の人たちです。
従って、聖徳太子が生きていた当時も、間違いなくアメリカ・インディアンの人たちがちゃんと生活していたのです。

それとちょうど同じことが「日本」についても言えます。
現在では、日本人と原日本人との区別がほとんどつきません。
おそらく日本人の95から99パーセントの血は渡来人から受け継いでいるだろうと思われます。
アイヌ人の事についてはこのページ (平和を愛したアイヌ人) で書いています。
興味のある方は読んでください。

今このページで問題にしようとする聖徳太子の時代と言うのは、アメリカ史にたとえれば、イギリスから清教徒の一団がメーフラワー号でアメリカ大陸に移住してから、やがて13州が独立宣言をして、一人立ちしてゆくという時代に当ると思います。
そのうち、押し寄せてくる移民が、西部へ西部へと進んでゆきます。
それと共に騎兵隊がインディアンたちを、もっと西へと追いやります。
これが、日本史では、平安遷都のあとの蝦夷討伐に当たりそうです。

渡来人が来るのは分かるが、

ペルシャは遠すぎるンじゃない?

確かにペルシャは日本から遠い国で、聖徳太子が生きていた時代に、彼らが、日本に住んでいたとは思えないかもしれません。
しかし、「遠い」と言うとき、私たちは、現在のイランと日本の距離を考えてしまいます。
そう考えると、確かにペルシャと日本は距離的にずいぶんと離れています。

しかし、ペルシャ人は何も、インド洋を越え、マラッカ海峡を通り、東シナ海を経て、はるばる日本へやってくる必要はなかったのです。
もちろん、飛行機でやってくる、なんて言うつもりはありません。
つまり、中国人や、半島人と同じルートで日本へやってきました。
その当時すでに、お隣の中国や、朝鮮半島にたくさんのペルシャ人が住んでいました。

少し時代が下りますが李白(701ー762)の詩に「少年行」があります。

少年行
 
 

 
 
五陵の年少、金市の東

銀鞍白馬、春風を渡(わた)る

落花(らっか)踏み尽くして、

何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ

笑って入る、

胡姫酒肆(こきしゅし)の中

盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。
見るからに金持ちの貴公子です。
花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。
酒肆というのは酒場のことです。
この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。
 
胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。
中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。
これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。
「胡姫」というのは胡の姫、つまりペルシャ人の女の子です。
だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっています。
エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーです。
ここで卑弥子さんに再び登場してもらいますが、この酒場にいた女の子は、こんな感じの踊り子だったかもしれません。



卑弥子でーす。

今度はこんな格好を

させられてしまいました。

とても恥ずかしいんですけど、

無理して笑っています。

ではペルシャのお姉さんに

踊ってもらいます。




ペルシャ人は一体

いつ中国へやって来たの?

もちろん、唐の時代になってからペルシャ人が中国にやって来たというわけではありません。
すでに秦の始皇帝の時代に中国に多数のペルシャ人がいたと言う記録が残されています。
秦の始皇帝は、最初に中国を統一した人物です。
彼が始めた群県制という国家制度はそれまでの封建制にかわる新たな制度、
つまり中央集権のシステムでした。

この群県制は、ペルシャのアケメネス朝で採られた制度に非常によく似ていると言われています。
各地の豪族をその地の王として認めていく封建制と全く違って、群県制では地方を治めるのは中央から派遣された官僚です。
これは同様の中央集権制度を秦以前に確立していたアケメネス朝の制度に酷似しています。
このことなどから秦朝を外来民族による政権とする説は意外にも中国の研究者の間に多いのです。
そのためでしょうか、どの歴史の教科書も、秦を漢民族の国家とは断定していません。語族分類表でも、
シナ・チベット語族からはずされています.

これだけペルシャのアケメネス朝の影響を受けているわけですから、もしかすると、始皇帝にはペルシャ人の血が混じっているかもしれません。
そう考える理由はまだ他にもあります。
始皇帝は赤い髪に青い眼、つまりコーカソイド(白人種)の特徴を備えていたと伝えられるからです。
肖像画に描かれている彼がいつもベールのような冠をかぶっているのは、この異相を隠すためだったと言う歴史研究家もいます。

事実、中国の史書のなかには、始皇帝が秦王室の血を正しく受け継いでいないということを述べているものもあります。
しかも秦は戦国の諸国家の中で、最も西にあった国です。
そういうわけで、チベットやペルシャなどの西域諸民族の血が流入しやすいことも確かです。
また中国ではローマ帝国のことを大秦国といいますが、これも秦が西方系であることを示しているとも考えられます。

始皇帝時代のペルシャといえば、ヘレニズム時代に、アルサケス朝パルティアが成立した時期です。
この国は中国の史書には安息国として登場します。
活発な交易活動により東方の国々にもその存在を良く知られていました.

当時のペルシャは、ソグド人やユダヤ人を多く抱える商業的な国家であり、その文化は商人となって活躍する彼らと共に、遠く東の国々へ伝わりました。
また秦の建国自体がアケメネス朝の滅亡時期と重なっており、秦それ自体が西方系国家だったとすれば、この混乱の時期に大挙して亡命してきたペルシャ人がその基盤となったことも十分に考えられるわけです。

また、秦は実利主義に徹していましたから、有能ならば外国人であろうとその国籍を問わずにどんどん重用しました。
事実、財務関係の官職にはたくさんのペルシャ人が就いて秦の財政に携わっていました。

このような秦の歴史を見れば、始皇帝がペルシャ人の血を受け継いでいないとしても、ペルシャ人が彼の回りに多数居て、政治、経済、通商、財政の面で手助けしていたと考えても先ず間違いありません。



『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』より
(2003年8月3日)





デンマンさん。。。どうして、あたくしが案内役をやっている古代史サイトの記事などを持ち出したのでござざ~♪~ますか?



この上の記事にコメントをもらったのですよ。

どのような。。。?

ちょっと読んでみてください。

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Comments :

楽しく読ませていただきました。
ペルシャのことを波斯国と中国で呼ばれたことですが、同じ国名が「うつぼ物語」のなかにでてきますが聖徳太子の母の名が「穴穂」が冠されていますので、穴穂で「うつほ」と著者の源順は充てていると考えています。

これを、引継いで紫式部が源氏物語を書いたと思います。
うつほ物語の中では波斯国の琴が中心に書かれていて「仏教」に掛けられています。
ここを抑えて読まなければ、聖徳太子のことや、うつほ物語、源氏物語も正しい翻訳さえ怪しいものとなってしまいます。

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デンマンさんは「うつほ物語」をご存知でござ~♪~ましたの?



名前だけ知っていましたよ。 でも、一度も読んだことはありません。 どのような内容なのですか?

ここで説明するのは面倒なのでウィキペディアの説明を読んでくださいな。

うつほ物語

『うつほ物語』(『宇津保物語』と表記されることもある)は、日本の平安時代中期に成立した長編物語。
全二十巻、著者は不明だが源順説などがある。
『竹取物語』にみられた伝奇的性格を受け継ぎ、日本文学史上最古の長編物語である。

写実的な描写などは『源氏物語』の成立へ影響を与えたと言われている。
当時の貴族にとって、その演奏が教養でもあった楽器のひとつ「琴(きん)」の音楽をめぐって物語が展開していく。
当時の年中行事を記した日記的な記述が多くみられる点も特徴のひとつである。
『枕草子』に源涼と藤原仲忠の優劣論争が記され、『源氏物語』の「絵合」巻に「『うつほ』の俊蔭の物語絵」が見えている。

あらすじ

遣唐使清原俊蔭(としかげ)は渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着する。
天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は、23年を経て日本へ帰着した。
俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。
俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞 - うつほで子(藤原仲忠)を育てながら秘琴の技を教えた。
兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った。〔俊陰〕

そのころ、源正頼娘の貴宮(あて宮)が大変な評判で求婚者が絶えなかった。
求婚者には春宮(皇太子)、仲忠、源涼、源実忠、源仲純、上野宮、三春高基らがいたが続々と脱落し、互いにライバルと認める仲忠と涼が宮中で見事な秘琴の勝負を繰りひろげたものの、結局、あて宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになった。〔藤原の君〜あて宮〕

仲忠は女一宮と結婚し、その間に娘の犬宮(いぬ宮)が生まれた。
俊蔭娘は帝に見いだされ尚侍となる。
仲忠は大納言へ昇進し、春宮は新帝に、藤壺腹の皇子が春宮になった。〔蔵開・上〜国譲・下〕

仲忠は母にいぬ宮へ秘琴を伝えるようお願いし、いぬ宮は琴の秘技を身につける。いぬ宮は2人の上皇、嵯峨院と朱雀院を邸宅に招いて秘琴を披露し、一同に深い感動を与えるシーンで物語は終わる。〔楼上・上〜下〕



出典: 「うつほ物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



なるほど。。。日本文学史上最古の長編物語で、写実的な描写などは『源氏物語』の成立へ影響を与えたと言われているのですね。



そのとおりですわ。 京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している源氏物語研究者として、あたくしは「うつほ物語」をずいぶんと読んだものでござ~♪~ますわ。

齋藤さんは次のように書いているけれど、卑弥子さんはどう思いますか?

うつほ物語の中では波斯国の琴が中心に書かれていて「仏教」に掛けられています。

ここを抑えて読まなければ、聖徳太子のことや、うつほ物語、源氏物語も正しい翻訳さえ怪しいものとなってしまいます。

波斯国の琴が中心に書かれていて「仏教」に掛けられています」と書いてありますけれど、仏教について書こうと思ったことが作者の動機ではないと、あたくしは思いますわ。

。。。というと?

『竹取物語』に見られる伝奇的性格を受け継ぎながらも、もっと現実性を強調して写実性を取り入れたのですわ。 その写実的な描写が『源氏物語』へと受け継がれてゆくのでござ~♪~ますわ。 つまり、『うつほ物語』は『竹取物語』と『源氏物語』のいわば“中継物語”なのですわ。

なるほど。。。文学史的にはそのような意味があるのですか。。。

あたくしは、そのように解釈しているのですわ。 ところで齋藤さんは、聖徳太子の母の名が「穴穂」が冠されていますので、穴穂で「うつほ」と著者の源順は充てていると考えています、と書いていますわね。 でも、上の記事には“穴穂”は出てきませんけれど、どのページに出てくるのでござ~♪~ますか?

上のページの次のページなのですよ。 その部分を書き出しますから卑弥子さんも読んでください。

聖徳太子のママの謎

当時ペルシャ人をハシ人と呼び、波斯人と書きました。
太子の個人教授の一人である覚袈(かくか)がペルシャ系の人ではないかという推測は、太子の母が穴穂部間人(あなほべのはしひと)と書かれている事と、大いに関係があります。
間人(はしひと)とは波斯人(はしひと)でペルシャ人のことではないか!と、いうわけです。
太子が赤い髪の毛をしていたという伝承があります。この伝承に真実が隠されているのではないか?
もしそうだとするなら、太子の母親がペルシャ人であるということも決して荒唐無稽な事ではありません。

Family tree of Prince Shotoku (shotoku03.gif--366x617)

聖徳太子の父は用明天皇、母は蘇我稲目の孫娘です。
この稲目の父は高麗(こま)で、高句麗からやってきたのですが、実は
この人がペルシャのサカ族の出身だと言う研究家も居ます。
しかし、そんな遠いところにペルシャ人を持ってゆかなくてもよいのです。
私はその説よりも、むしろ穴穂部間人の母親、つまり小姉君(おあねぎみ)がペルシャ人の血を受け継いでいるのではないか、とみています。

もし当時、ペルシャ人が日本へやってきて、どの一族を頼りにするかといえば、当然、飛ぶ鳥を落とす勢いの蘇我氏の元を訪れたことでしょう。
その頃、渡来人を掌握していたのが蘇我氏だからです。
ペルシャ人の中には、蘇我氏との絆を確固なものにするために、蘇我稲目に娘を側室として差し出す親も現れたでしょう。
そのようにして穴穂部間人が生まれた、と考えるわけです。

小姉君の父はたしかに稲目なのですが、母親の出自について日本書紀は沈黙しています。
なぜ沈黙する必要があるのか?
その答えを出すには誰が日本書紀を書いたかが分かれば簡単です。
天武天皇の息子の舎人親王が編集長だったと言うように書かれていますが、彼はむしろ発行人であり、実際に編集に当たっていたのは藤原不比等です。
藤原氏は、元、中臣氏ということで、日本古来の氏族となっていますが、不比等のおじいさんの御食子(みけこ)は百済からやって来ました。
従って、自分たちが「よそ者」であるということを書きたくなっかたように、穴穂部間人の出自についても沈黙していたのです。

では、なぜ、不比等は自分の名前を編集長として書紀に書かなかったのか?
それには、これまた事情があります。
そのことについてはこのページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で説明しています。

しかし、この説を採ると、飛び越えねばならないハードルがあります。
どういうことかというと、実は、小姉君の母親が物部氏出身と思える節があるのです。

というのは、当時の皇子・皇女は一定の年齢まで母方の実家で養育されるのが普通でした。
そして育った土地の名前をつける慣習がありました。
飛鳥で育った大王の娘なら飛鳥皇女と呼ばれるわけです。
すると穴穂部間人皇女の穴穂も地名に由来することになります。
大和周辺に穴穂の地名は河内と奈良の石上にあります。
皇女がどちらで育ったか分りませんが、どちらも物部氏の領地なのです。

つまり小姉君は蘇我稲目の娘であると同時に、物部氏の娘でもあったのです。
しかも穴穂部間人皇女は物部の土地で成長しました。
しかし、ご存知のように、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立し、それまでの史上最大の戦闘を繰り広げました。
したがって、このようなことがあり得るだろうかと、あなたは疑問に思うかもしれません。

ところが、それ以前、朝廷で権力を握っていた大伴氏を退けるため、蘇我氏と物部氏は手を握り合ったことがあります。
どういうことかというと、小姉君は、蘇我氏と物部氏が宮中で勢力を伸ばす方策として、互いに婚姻関係を結んでいた当時の産物ということになります。
「友情の証」として、蘇我稲目かあるいは彼の父親の高麗が自分の側室の中から美しいペルシャ人の娘を物部の氏の長者に与えたのでしょう。
このようなことは、この当時よくあることでした。
軽皇子(後の孝徳天皇)が小足姫(おたらしひめ)を中臣鎌足(藤原鎌足)に与えたのもこのような例です。
このことについては、このページ (藤原鎌足と軽皇子) で述べています。

そのお返しに、今度は、物部氏がペルシャ人の女性から生まれた娘を蘇我稲目の側室として与えたわけです。
その娘から生まれたのが小姉君だというわけです。
したがって、小姉君の体内にはペルシャ人の血が4分の1流れていたわけです。
彼女の娘が穴穂部間人皇女です。
確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになります。
太子が赤い髪の毛をしていたという伝承は、このことによって説明がつきます。

また、後に推古天皇を生む堅塩媛(きたしひめ)と小姉君の間の確執も、このことによっていっそう良く理解することができます。
つまり、この腹違いの姉妹は共に欽明天皇の後宮に入ります。
ところが、若くてきれいな小姉君へと天皇の愛は傾いてゆきます。
それも分かるような気がします。
エキゾチックなペルシャ人の血を引いている小姉君は、天皇の目には、さぞかし魅惑的に映ったことでしょう。

しかし、堅塩媛(きたしひめ)にしてみれば我慢のならないことです。
このようなことを身近に見て来た娘の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)も、当然、この混血児の叔母のことを良く思うはずがありません。
母親からずいぶんとグチをきかされたことでしょう。
この豊御食炊屋姫が推古帝です。

推古天皇は、後年、この小姉君の血を引き継いでいる皇子(聖徳太子も含めて)が天皇になることを極力避けようとしています。
推古帝の身になってみると、2重の意味でこのような皇子を排除したかったでしょう。
先ず「よそ者」の血が流れているということ。
しかも、この混血児の叔母のために、自分の母親がつらい目にあってきたということ。
このように考えてゆくと、つまり小姉君にペルシャ人の血が流れているとすれば、このあたりの事情が非常にすっきりと説明できます。

しかし、これだけに止まりません。
なぜ、聖徳太子は厩戸王子と呼ばれたのか?
母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本書紀などに見られます。
これはキリストの生誕を彷佛とさせます。
しかし、納得ゆくような説明が見当たりません。

ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居たことを考えると、このことも、非常にうまく説明がつきます。
では、次のページでもっと詳しくこのことを見て行こうと思います。



『聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた』より
(2003年8月3日)



なるほど。。。デンマンさんの説では聖徳太子のお母様のお名前の“穴穂”は地名から取ったと言うのですわね。



そうです。。。当時、そのように皇子や皇女は一定の年齢まで母方の実家で養育されるのが普通だった。 そして育った土地の名前をつける慣習があったのですよ。

つうことは。。。“穴穂(あなほ)”を“うつほ”という齋藤さんの説は、こじつけだとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか? 

いや。。。こじつけだと言うつもりはありません。 そのような考え方も面白いと思いますよ。 

俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞 - うつほで子(藤原仲忠)を育てながら秘琴の技を教えた。

空洞 - うつほ と“穴穂(あなほ)”の「穴」は「中が空っぽ」という意味で共通しますからね。 だから、“穴穂”を「うつほ」と読ませても不思議ではない。

じゃあ、『うつほ物語』の作者も、そう考えたのでござ~♪~ますか?

いや。。。『うつほ物語』がマジで聖徳太子のお母さんと関係ある話であれば『宇津保物語』としないで『穴穂物語』としたでしょうね。 でも、実際には『うつほ物語』と聖徳太子のお母さんは関係ありません。

つまり、齋藤さんのコメントは見当違いだとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

いや。。。全くの見当違いでもありません。 遣唐使清原俊蔭(としかげ)は渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着するのですよ。 唐でもなく、琉球でもなく、お隣の高麗でもなく、ましてや呂宋(ルソン)や越南(ベトナム)でもない。

作者は、どうして波斯国(ペルシア)をえらんだのでござ~♪~ましょうか?

要するに、当時でも遣唐使清原俊蔭(としかげ)が渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着したとしても荒唐無稽な話ではない程にペルシャ人がけっこうたくさん京都に住んでいたという証拠ですよ。

つまり、波斯国(ペルシア)は遠い国かもしれないけれど、ペルシャ人は身近にも居たということでござ~♪~ますか?

その通りですよ。 『竹取物語』には伝奇的性格が強い。 それと比べれば、『うつほ物語』は当時の“世話物語(現実的物語)”ですよ。 そのような現実的な話の中にペルシャが出てくるということ自体、ペルシャ人が当時、身近に居たという証拠だと僕は思いますね。 だから、聖徳太子のお母さんにペルシャ人の血が流れていたとしても不思議なことではないのですよ。

 (初出: 2012年3月8日)

【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
あたくしはすでにデンマンさんの説に洗脳されてしまっていますけれど、あなたは、どう思いますか?
当時の京の都に、マジでペルシャ人が歩いていたと思いますか?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。







ィ~ハァ~♪~!

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増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

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次のような形を使って表現することが多いです。

Could you ...?

Would you ...?

May I ...?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。



『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

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