2012年11月14日水曜日

アルチンボルドと伊藤若冲

 
 
アルチンボルドと伊藤若冲
 
 


(kuni02.jpg)



美術に関心のある人ならば上の絵を見て、これがウィーンの宮廷画家のジュゼッペ・アルチンボルドが描いたものではないし、また伝説的な伊藤若冲(じゃくちゅう)が描いたものでもないと、すぐに分かるでしょう。
知っている人もいると思いますが上の絵は歌川国芳(1798ー1861)という江戸時代の浮世絵師が描いたものです。
「寄せ絵」とよばれるトリックアートの人物画です。

どうしてアルチンボルドと伊藤若冲に関係のない上の絵を初めに持ち出したのォ~?
あなたは、そう思うかもしれません。

実は関係が全く無いわけではないのです。
次の絵を見てください。


(arci02.jpg)

人の横顔だとすぐに見て取れます。
でも、よく見ると果物や野菜を使って人の横顔を構成しているのです。
頬には桃が使われていますし、
顎にはイチジクが使われ、
鼻はキュウリ、あるいはズキーニ(zucchini)が使われているようです。
もちろん、実物を使っているのではなく、あたかも実物を使っているように描いてあります。

これはウィーンに住んでいた宮廷画家のジュゼッペ・アルチンボルドが1573年に描いたものです。
この作品は「夏」と題されたもので 「冬」「春」「夏」「秋」、つまり、四季の連作の一枚です。


(arci02b.jpg)

衣服は小麦が使われており、よく見ると首に当たるところに自身の名前が書き込まれています。
Giuseppe Arcimboldo (ジュゼッペ・アルチンボルド)
また肩のところに制作した年(1573)が書き加えられています。

どうしてアルチンボルドを取り上げたのォ~?
あなたは、そう思うかもしれません。

実は、夕べ「美の巨人たち」という本を読んだのですよ。
149ページには次のように書いてありました。

「四季」の連作を完成させたアルチンボルドは、「大気」「火」「大地」「水」の四枚に着手しました。
「四大元素」と呼ばれる連作です。

その制作の途中で、フェルディナント一世は病のために亡くなってしまいます。
後を継いだのは、息子のマクシミリアン二世。
アルチンボルドは、マクシミリアン二世に「四季」と「四大元素」の連作を献上したのです。

彼は、なぜこのような作品を描いたのでしょう?

ウィーン美術館の絵画館長に解説をお願いしました。

「アルチンボルドは、『四季』と『四大元素』を何度か描いていますが、わが美術館の作品は、最初に書かれたもので、皇帝が自分のコレクションとして大切に所有していたものです。

なぜ、このような絵を描いたのか、アルチンボルドの同僚だったフォンテオの詩に基づいて、解説がなされてきました。
夏は、火のように暑く乾燥しており、冬は水のように寒く湿っているというように、『四季』と『四大元素』には、同じ性質を持つもの同士の対話があるのです。
また、森羅万象を描くことで、宇宙を含めたハプスブルク家の権威、世界観を暗示しているのです。

たとえば、「夏」。
顔に組み合わされた野菜や果物は、すべてハプスブルク帝国の領地で取れた作物が使われているといわれています。

 (中略)

アルチンボルドは、森羅万象に秘められた寓意を駆使し、世界を支配するハプスブルク家にふさわしい芸術を作り上げようと願ったのです。

(デンマン注: 読み易くするために改行を加えています。
赤字はデンマンが強調)


149-150ページ
『小林薫と訪れる「美の巨人たち」』
編者: テレビ東京
2005年1月28日 1版2刷発行
発行所: 日本経済新聞社



本に書いてあるように、果たしてアルチンボルドは、森羅万象に秘められた寓意を駆使し、世界を支配するハプスブルク家にふさわしい芸術を作り上げようとしたのか?
僕は、そのようには思わないのですよ。

なぜ?

なぜなら、もう一度歌川国芳(1798ー1861)の「寄せ絵」を見てください。


(kuni02.jpg)



見れば見るほどにユーモラスで面白い。
そう思いませんか?

ジュゼッペ・アルチンボルドの絵から影響されたのではないか!?
そのように言う美術史家もいますが、国芳以前から日本には「寄せ絵」の伝統はありました。
もし、国芳がアルチンボルドの絵を見ていたとするなら、多分同じように野菜や果物を使って「寄せ絵」を描いていたと思うのです。

国芳(1798ー1861)が暮らしていた江戸時代の後期には、身の回りの様々なものを組み合わせた作りものを公開する細工見世物が流行(はや)りました。
竹の篭目を編んで人物や動物を作り上げ、その大きさは時には高さ20メートルにも及んだという駕籠細工などの見世物が催されたのです。
国芳はこうした見世物からアイデアを思いついたとしても不思議ではありません。
おそらく、上の「寄せ絵」は国芳独自の発想だと思います。

実は、アルチンボルドの描いた絵の中にも次のようなものがあるのです。


(arci09.jpg)



この絵などは、かなりユーモラスで面白い人物画だと思いますよね。
まさに愉快で滑稽な「寄せ絵」だと僕には見えます。

結論を言えば、アルチンボルドは「夏」を含めた「四季」の連作で森羅万象に秘められた寓意を駆使し、世界を支配するハプスブルク家にふさわしい芸術を作り上げようとしたようには思えないのです。
では、どうして上のような絵を描いたのか?


(arci05.jpg)

ジュゼッペ・アルチンボルドはハプスブルク家に仕えた宮廷画家でした。
見るからに真面目そうで律儀そうな宮廷画家です。
なんと3代の皇帝に仕えたのでした。
儀式、儀礼だとか「仕来(しきた)り」だとか、とにかく堅苦しい息も詰まりそうな宮廷にあって、3代の皇帝に仕えていたら、もうノイローゼになるか過労死にもなってしまいそうです。
あなたも、そう思いませんか?

だから自分なりに「ガスぬき」をしていたのだと僕は思うのですよ。
それがアルチンボルドの野菜と果物を使った「寄せ絵」になったと思うのです。

もし、野菜と果物を使った「寄せ絵」ではなく、国芳が描いたような「寄せ絵」を皇帝に献上していたらアルチンボルドの首は飛んだかもしれません。
でも、野菜と果物を使った「寄せ絵」だったので皇帝もユーモアを感じて面白いと思ったのでしょう。

実は皇帝だって宮廷の暮らしに堅苦しさを覚えて飽き飽きしていたに違いないのです。
だからこそ、皇帝はアルチンボルドの描いた「寄せ絵」を自分のコレクションとして大切に保存しておいたのだと思います。
つまり、その面白い絵を見ることで、時には宮廷の堅苦しい儀式とか儀礼から離れて息抜きをしていたのでしょう。
僕はそう思うのですよ。

どの画家にも「ガス抜き」や「息抜き」が必要だったと思いますね。
精神を健康に保つためにも。。。

それは伊藤若冲にも言える事だと思うのです。
彼は次のような絵を描いています。


(ito002.jpg)



これは「野菜涅槃図」と呼ばれるものです。
「涅槃図」というのは、もともとお釈迦様が亡くなられる様子を書いたものなのです。


(nehan02.jpg)

この絵からも解るように決してユーモアやふざけた気持ちで描く絵ではありません。
それを敢(あ)えて野菜を使って伊藤若冲は「涅槃図」を描いています。

大根をお釈迦様に見立て、その大根が亡くなるのを見守るように他の野菜たちが大根を囲んでいる絵です。
「涅槃図」がどのようなものなのか?
それを知っていれば、「野菜涅槃図」はユーモラスで可笑し味のある絵です。

では、伊藤若冲はどうして「野菜涅槃図」を描いたのか?

「美の巨人たち」には次のように書いてあります。

若冲がある画題に愛情を覚え始めるのは、60を過ぎてからのことです。
それが野菜でした。
ちょっと不思議な絵を描いたのです。
「野菜涅槃図」という題がつけられています。
かつて青物問屋の主だった男は、野菜の中にいったい何を見つめていたのでしょうか?

涅槃図は釈迦の入滅の模様を描いた絵です。
悟りを開いた釈迦は、沙羅双樹の下で穏やかに体を横たえ、その生涯を終えました。
周囲には、釈迦の十大弟子や菩薩たちが、支えを失ったように悲しみに暮れています。
若冲は、その涅槃図を野菜で描きました。
その心は……、「野菜愛」。

豊作を祝う京都北野天満宮のずいき祭。
担ぐ神輿は野菜で作られています。
京都は独特の野菜文化を育んできた都です。
その中心に(若冲が生まれ育った)錦小路がありました。

江戸時代、京都周辺のみならず、遠くは中国から実にさまざまな野菜が集まってきました。
若冲は、その錦小路で生まれ育った人です。
商いは苦手でしたが、野菜には人一倍の愛着があったのかもしれません。

「野菜涅槃図」には、実に多くの野菜や果物が描かれています。
お釈迦様に見立てたのは大根です。
沙羅双樹の木は、トウモロコシの茎です。
ライチやランブータンという中国から輸入された珍しい果物もあります。
その数は66種類。
若冲は、この絵にどんな思いを込めたのでしょうか?

(デンマン注: 読み易くするために改行を加えています。
赤字はデンマンが強調)



58-59ページ
『小林薫と訪れる「美の巨人たち」』
編者: テレビ東京
2005年1月28日 1版2刷発行
発行所: 日本経済新聞社



伊藤若冲の生涯は『ウィキペディア』には次のように書いてあります。

伊藤若冲

正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。
問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。
桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという。
23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。

「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられたと推定される居士号であり、老子45章の「大盈若沖(冲は沖の俗字)」から採られた。
大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。
商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。

商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間、山師が枡源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残る。

齢40となった宝暦5年(1755年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宋巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する(当時、40歳は「初老」であった)。
宝暦8年(1758年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、明和元年(1764年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。
明和2年(1765年)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する。
このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約した。



出典: 「伊藤若冲」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。
でも、絵を描くことには夢中になった人なのです。
事実、商売熱心でない青物問屋「枡屋」の主人が書いたとは思えないような絵を描いた。


(ito009.jpg)



このような素晴らしい絵を描いた伊藤若冲が60歳を超えて「野菜涅槃図」にどんな思いを込めたのでしょうか?
死人に口無し!
今となって本人に聞き出すことはできないけれど、
それはジュゼッペ・アルチンボルドにも歌川国芳にも共通することだったと思うのですよ。
つまり、人生の「ガス抜き」「息抜き」。
僕はそう思いますね。

【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
そうでしょうか?
人生の「ガス抜き」「息抜き」でユーモアが感じられる絵を描いたのでしょうか?
あなたはどう思いますか?

考えてみると、誰にも「ガス抜き」「息抜き」が必要ですわ。

ええっ。。。あたくしですか?
もちろん、ときたま「ガス抜き」「息抜き」をしておるのでござ~♪~ます。
たとえば。。。



あたくしは、このような姿になって自分を鏡に映してみとれるのが「ガス抜き」「息抜き」なのでござ~ますわ。
うふふふふふふ。。。

とにかく、興味深い話題が続きますゥ。
どうか、あなたもまた読みに戻って来てくださいませ。
じゃあ、またねぇ。。。





ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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