2012年11月24日土曜日

呉越の謎

 
  
呉越の謎






(goetsu2.jpg)



デンマンさん。。。「呉越の謎」って“呉越同舟”の呉の国と越の国のことでござ~♪~ますか?



あれっ。。。卑弥子さんは古代史に詳しいのですね。

こう見えても『新しい古代日本史』のマスコットギャルをやらせてもらっているのでござ~ますわ。 おほほほほほ。。。



『新しい古代日本史』



“呉越同舟”の意味を卑弥子さんは知っているのですか?



あ~らァ、いやだわあああァ~。。。こう見えても京都の女子大学で日本の未来を背負って立つ腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義してういる教職の身にあるものでざ~ますわァ。 “呉越同舟”の意味ぐらい知っておりますわよう。 うふふふふふ。。。

マジで。。。?

いやだわあああァ~。。。デンマンさんは、あたくしが知らないとでも妄想しているのでござ~ますか?

余計な事は言わずに知っているのならすぐに答えてくださいよ。 それでなくとも僕の記事は長くなるのだから。。。

デンマンさんはあたくしを小馬鹿にしているのですわね。 んもお~~!

オラ、オラ、オラ~。。。ムカつかないで知っているのならすぐに答えることですよ。

“呉越同舟”と言うのは日本の諺で言うならば「船頭多くして船山に登る」と言うことですわ。 英語で申し上げるならば"Too many cooks spoil the broth."と言うことでざ~ますう。

あれっ。。。卑弥子さんは英語の諺まで知っているのですか?

当然ですわ! 馬鹿にしないでくださいましなァ! これでも京都の女子大学で日本の未来を背負って立つ腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義してういる教職の身にあるものでざ~ますう。

いや、いや、いや。。。 おみそれしました。 京都の腐女子に「日本文化と源氏物語」を教えているのに、英語の諺まで口に出せるとはマジですっご~♪~いですね。。。 で、"Too many cooks spoil the broth."の意味は。。。。?

あらっ。。。まだ、あたくしを小馬鹿にするのですわね。 あたくしが英語の意味を知らないとでも思っているのですか? 「コックが多すぎてスープが出来損なってしまう」という意味ですわよ。

ほおォ~。。。卑弥子さんは英語の素養もあるのですねぇ~。。。おみそれいたしました。

そんなことよりも、「呉越の謎」ってぇ、一体どのようなことでござ~♪~ますか?

そう。。。そのことですよ。 卑弥子さんも知っているように11月20日に僕は次の記事を書いたのですよ。


(gagaku04.gif)
  呉公


(gagaku05.gif)
  呉女

『伎楽は呉の音楽?』

(2012年11月20日)




もちろん知っておりますわ。 あたくしがデンマンさんのお相手をしていたのですから。。。



こうして伎楽を通して呉の国で暮らしていた人の姿が伎楽で使われている「お面」として古代の日本に伝わっていたのですよ。 つまり、呉の国と日本は古代に強い絆(きずな)で結ばれていた。

マジで。。。?

ジューンさんも次のように書いていましたよ。

【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。

呉の国と言えば、すぐに思い出すのが呉服ですよね。
呉服屋さんというのもよく耳にする日本語です。

では、呉服神社(くれはじんじゃ)というのがあるのを知ってますか?
大阪府池田市室町にある神社です。
呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・呉服媛(くれはとりのひめ)と、仁徳天皇を祀っています。


(gofuku09.jpg)

呉服神社(くれはじんじゃ)

応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された猪名津彦命が、呉の国の王様に乞い4人の姉妹を連れ帰ってきました。
その4人の姉妹の名は、呉服媛(くれはとりのひめ)、穴織媛(あやはとりのひめ)、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)といいました。
この4姉妹のうち、池田の地に迎えられたのが呉服媛だったのです。
それで呉服媛(くれはとりのひめ)を祀っているのです。

なぜ呉服媛(くれはとりのひめ)なの?

呉(ご)の国の呉は「くれ」とも読まれます。 
機織(はたおり)が「はとり」と変化し、「くれはとり」となったとされ、それで「くれはとりのひめ」と呼ばれるようになったと言われています。



『伎楽は呉の音楽?』より
(2012年11月20日)



なるほどォ~。。。応神天皇は確か第15代天皇でしたよね。



さすがに「源氏物語」を教えているだけあって天皇に詳しいのですね。

。。。つうことは応神天皇が玉座にあった270年から310年に呉の国の王様が4人の姉妹を日本へ派遣したのでござ~ますわね。

そういうことですよ。

それが不思議なのでござ~ますか?

いや。。。、その事が不思議なのではありませんよ。

では、一体何が不思議なのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕は以前に次のようなことを記事に書いたことがあるのですよ。

呉人が日本へ呉服をもたらした西暦200年代というのは、気の遠くなるような古い時代です。





しかし、呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。



隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?



サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。



『あなたは日本人ではない』より
(2007年3月23日)



実際、日本の文化史には呉の国の影響がマジで強く残っている。 こうして卑弥子さんと話している日本語の中にも呉の国の影響は消しがたいほどに強く残っているのですよ。



あらっ。。。マジで。。。?

「あらっ。。。マジで。。。」と言っている場合じゃないのですよ。

次の文章を読んでみてください。

呉音
 


呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。
奈良時代に遣隋使や留学僧が長安から漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。
漢音同様、中国語の中古音の特徴を伝えている。

一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に多く使われ、漢音にくらべるとやや古めかしい感じのする傾向がある、とされる。
が、そうとばかりは言えない面もある。
慣用的に呉音ばかり使う字("音"【オン】,"領"【リャウ】等)、漢音ばかり使う字("健"【ケン】,"軽"【ケイ】等)も少なくなく、両者は日常的に混用されているものである。

呉音は雑多なものを含んでいると考えられ、漢音ほどの整った体系を備えていない。

歴史

5, 6世紀に導入され、一般的に中国の南北朝時代、南朝の発音が直接、あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝わったと言われるが、これは「呉」音という名称や倭の五王が南朝の宋に朝貢したことや朝鮮半島から儒教や仏教など多くの文物を輸入したという歴史的経緯が根拠となるのであろう。
しかし、呉音が本当に南方系統の発音かどうかについて、それを実証できるような史料はない。

対馬音や百済音といった別名が示すように古代の日本人は呉音は朝鮮半島からきたと考えていた。

呉音は仏教用語や律令用語でよく使われ、漢音導入後も駆逐されず、現在にいたるまで漢音と併用して使われている。
なお『古事記』の万葉仮名には呉音が使われている。

呼称について

呉音しか読音がない時代には名称などなく、後に漢音が導入されて以降につけられた名称である。
かなり定着していたことから古くは和音(やまとごえ・わおん)と呼ばれ、平安時代中期以降、呉音と呼ばれるようになったが、これらの語は漢音の普及を推進する側からの蔑称であったらしい。
中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、それ以外の地域の音、特に長江以南の音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。
帰国した留学生たちが、これにもとづいて長安の音を正統とし、日本に以前から定着していた音を呉音と呼んだものと考えられる。

また対馬音(つしまごえ・つしまおん)・百済音(くだらごえ・くだらおん)という名称もあるが、欽明天皇の時、百済の尼僧、法明が対馬に来て呉音で維摩経を読んで仏教を伝えたという伝承によるものである。

音のあいまいさについて

常用字でない漢字音について、漢音はその認定が中国の韻書などの反切資料を中心に行われるのに対して、呉音は日本に古くから伝わる仏典資料や律令などの歴史的史料が中心になるため、その認定が難しい部分があり、各漢和字典ごとに異なっている場合が多い。



出典: 「呉音」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



卑弥子さんが毎日、何気(なにげ)なくしゃべっている日本語の中にも呉の国の影響が無意識に発音の中に表れているのですよ。



そうですわよねぇ~。。。考えてみたら、すっご~♪~いことでござ~ますわ。

そうでしょう? 。。。で、ここまでしゃべってきたけれど、卑弥子さんには僕が言おうとしている「呉越の謎」がなんとなく解(わか)ってきたでしょう?

えっ。。。「呉越の謎」でござ~ますか?

そうですよ。。。 ポカ~♪~ンとしてないで、味噌汁で顔を洗って目覚めてくださいよォ~。 んもおォ~。。。

いえ。。。解りませんわ。 何が「呉越の謎」なのでござ~ますか?

やだなあああァ~。。。んもおォ~。。。ここまで説明してきたのに卑弥子さんは、まだ解らないのですかァ~? もう一度地図を見てくださいよ。


(goetsu2.jpg)



呉の国も越の国も同じ時期に生まれて、ほぼ同じようにして歴史から消えてしまった国ですよ。 それなのに呉の国の人々はたくさんの人たちが難民として日本へやって来た。 もちろん国が滅びる前にも呉服媛(くれはとりのひめ)のように当時の大和朝廷に請(こ)われて日本へやって来た人たちも居た。 だから、日本文化には呉の国の影響が未だに強く残っている。



そうですわね。

「そうですわね」じゃありませんよ! それなら越の国の人たちはどうなってしまったのか? 卑弥子さんは不思議に思いませんか?

どうなってしまったのですか?

だから、それが「呉越の謎」ですよ。

。。。で、その謎をデンマンさんは解決したのですか?

解決したのですよ。 うへへへへへへ。。。

下品に笑っている場合ではござ~♪~ませんわ。 解決したのならば、もったいぶらないで教えてくださいな。

あのねぇ~、僕はすでに無意識のうちに解決していたのですよ。

あらっ。。。無意識のうちに解決していたってぇ。。。 一体どういうことでござ~ますか?

次の記事を読んでみてください。



それでは、なぜ、男大迹(ヲホト)王は万世一系を持ち出す必要があったのか?
武烈天皇には嫡子がありませんでした。
そのため、後継問題が起こったのです。
そこで、越前の男大迹(ヲホト)王を、権臣の大伴金村らが天皇に迎えたものとされています。
その理由は、男大迹(ヲホト)王が応神天皇6代目の子孫であったということです。
ところが、「迎えられた」 にしては大和に落ち着くまでに20年近くかかっています。
その間、なかなか大和に入れずに、河内や山城を転々としているのです。
どう考えても、すんなりと迎えられたとは考えられません。 

むしろ、継体天皇はそれまでの天皇一族とは縁もゆかりもない人物だと考えたほうが、話はスッキリするのです。
後継者が無いまま武烈天皇が亡くなった時に、越(こし)の国王であったヲホトが絶好のチャンスと見て大和侵攻を試みたわけです。
豪族たちの抵抗が予想以上に強い為に20年近くを要したというのが真相だったでしょう。武力制圧が成功したのか、大和豪族との間に和睦が成ったのかはよく解りません。

日本書紀によると、男大迹(ヲホト)王の父は近江の豪族彦主人(ひこうし)王、母は越前の豪族の娘、振姫(ふるひめ)、ということになっています。
越前における天皇の事跡は明らかではありませんが、多くの伝説を残しています。
中でも越前平野の治水伝説と、笏谷石の採掘伝説はよく知られています。
1884年(明治17年)足羽山三段広場頂上に建立された天皇の石像は、笏谷石採掘にたずさわる人々により、天皇の遺徳を讚えるために造られたものです。



継体天皇の石像

像は笏谷石製で、治水伝説にゆかりの九頭竜川河口を向いて建てられています。

しかし、この継体天皇は、さまざまな謎に包まれた人物で、生まれた年がはっきりわかりません。
亡くなった年齢も諸説があります。
天皇になる前、どこで生まれどこで育ったかについても諸説があります。
はっきりしていることは、現在の皇室が系図を正確にさかのぼることができる最古の天皇だということです。
この辺に作為の跡が見られるわけです。
他のことが、よくわからないのに、なぜ、現在の皇室が系図を正確にさかのぼることができる最古の天皇なのか?
これは、非常に素朴な質問だと思うのです。
しかし、突き詰めて考えたとき、本当に、どうしてそうなの?
そう、疑問を投げかけざるをえないでしょう。

日本書紀によると継体天皇は近江で生まれ、福井平野で育ったと書かれています。
しかし、以前は、これを疑問視する見方がつよかったのです。
最近の考古学と文献学の成果から、福井の強力な勢力を背景に育ち、成長し、北陸、近江、尾張などの豪族の力をバックに、中央に進出した人物だということがほぼ分かってきました。
といってもどんな人だったのか、なぜ急に越前から天皇になるような人物が出現したのか、どんな力が背景にあったのか。
男大迹(ヲホト)王と 既存の中央の勢力との力関係がどうだったのか。
まだ不明なことが、たくさんあります。

しかし男大迹(ヲホト)王の母が、越前の豪族の娘、振姫(ふるひめ)、であり、福井の強力な勢力を背景に育ち、成長したというのは、重要なポイントです。
すでに、「古代、裏日本と表日本は逆だった」 のページで述べましたが、下の地図で示すように、男大迹(ヲホト)王が生まれた450年頃にも、大陸から難民になって多くの古代韓国人が日本へやってきました。



上の地図は、隋時代(589-618)のものですが、男大迹(ヲホト)王が生まれた450年頃というと、中国では、南北朝時代になりますから、この時代よりも、戦乱が多く、大陸、及び、朝鮮半島から、戦乱を逃れてやってくると難民は、もっと多かったはずです。
そういう難民の中には、戦乱に敗れた将兵も多数含まれて居たでしょう。
優れた、武器と戦略を身に着けた将兵を取り込むことによって振姫(ふるひめ)の所属する越前の豪族が次第に強力になっていったわけです。

そもそも、この振姫(ふるひめ)自身が、半島から戦乱を逃れてやってきた、新羅の貴族の娘だった可能性さえあります。
生まれた年が不明だというのは、どうも、ヲホト王が振姫(ふるひめ)の連れ子くさい。
もし、それが事実とすれば男大迹(ヲホト)王には、日本人の血が一滴も混じっていないことになります。
いずれにしても、この豪族の中に多数の帰化人が居たことは、まず間違いありません。
日本海側に圧倒的に強力な王国ができていたということが、最近の、考古学上の遺跡発掘でわかっているように、この当時の先端技術は、鉄器や、武器も含めて、半島からやってきた人々によってもたらされたものです。



『皇室は、本当に万世一系か?』より
(継体天皇の謎に迫る) 2003年7月12日



つまり、「中国の越」の国の人たちが難民になって日本へやって来て、「日本の越」を興(おこ)したとデンマンさんは言うつもりなのですか?



だってぇ、そうでしょう! 今までの話を総合的に考えてみたら、そう結論を下すのがもっとも自然だと思いませんか!?

【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。
ところで、ずっと昔から日本に住んでいたアイヌ人が使っていた言葉も日本語にその言葉の名残(なごり)を残しています。
例えば、トナカイはアイヌ語のtunakay(トゥナカイ)から派生した言葉です。
ラッコはアイヌ語のrakkoから生まれた言葉です。
オットセイはアイヌ語onnep(オンネプ)が中国語を経由、オットに変化した後、漢方薬としての陰茎の婉曲表現の臍がつきオットセイとなって入ったものであると言われています。

魚介類ではシシャモがアイヌ語のsusam(スサム)を語源とし、susu-ham「柳の葉」とされています。
ホッキ貝はpok(sey)(ポク・セイ)から生まれた言葉です。

面白いところでは、「ノンノ」というファッション雑誌の名称はアイヌ語の nonno つまり、「花」から名づけられました。

ところで、アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉です。
もともとは自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称の「カムイ」に対する概念としての「人間」という意味であったとされています。

7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれましたが、これは当時の日本人が自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説があります。

アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われました。
丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言ったそうです。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされています。
理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされています。
当時の内地人の耳には「アイヌ」と聞こえたようです。
なぜかというと、アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるためです。
「アイヌ」という呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。

ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


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『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。





ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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