良寛さんの顔
(ryokan3.jpg)
長岡市隆泉寺の良寛像
デンマンさん!。。。どうして「良寛さんの顔」を取り上げたのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、夕べ本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
ボサツ顔とラカン顔
良寛は菩薩だったのか、それとも羅漢だったのか。
そんな問いが、いつごろからか明滅するようになった。
菩薩のようでもあり、羅漢のようでもある、いや、そのどちらでもなうようにも思える。
安田靫彦(ゆきひこ)の良寛さんをみていて、つくづくそう思う。
(ryokan2.jpg)
安田靫彦画 良寛和尚像
いや、そう思い惑っている。
現実の良寛も、おそらくそんな風だったのではないか。
良寛の面白いところ、近づき難いところである。
(デンマン注: 読み易くするために改行を加えています)
194ページ
『日本人の情感はどこからくるのか』
2003年5月9日 第1刷発行
著者: 山折哲雄
発行所: 株式会社 草思社
良寛は菩薩だったのか、それとも羅漢だったのか。
そんな問いが、いつごろからか明滅するようになった。
菩薩のようでもあり、羅漢のようでもある、いや、そのどちらでもなうようにも思える。
安田靫彦(ゆきひこ)の良寛さんをみていて、つくづくそう思う。
(ryokan2.jpg)
安田靫彦画 良寛和尚像
いや、そう思い惑っている。
現実の良寛も、おそらくそんな風だったのではないか。
良寛の面白いところ、近づき難いところである。
(デンマン注: 読み易くするために改行を加えています)
194ページ
『日本人の情感はどこからくるのか』
2003年5月9日 第1刷発行
著者: 山折哲雄
発行所: 株式会社 草思社
良寛さんは菩薩顔だったのか? それとも羅漢顔だったのか? 本の著者は、どちらでもないようにも思える、と言っているのでござ~♪~ますわね。 ところで菩薩と羅漢とはどういう人なのですか?
あれっ。。。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授が菩薩と羅漢の意味を知らないのですか?
違いますわよう。 この記事を読んでいらっしゃる日本語が解る世界のネット市民の皆様の中にも、菩薩と羅漢を知らない人が居ると思ったので、気を利かせて尋ねてみただけですわ。 おほほほほほ。。。
解りました。 僕の国語辞典から簡単に書き出しますよ。
菩薩
1) 仏陀(ブッダ)の次の位
2) 昔、朝廷から高僧に賜った号。
3) 仏になぞらえて用いた、神の尊号
羅漢
煩悩を殺す意の梵語(ぼんご)の音訳。
完全に悟りを開いた、小乗仏教の修行者。
三省堂『新明解国語辞典』より
1) 仏陀(ブッダ)の次の位
2) 昔、朝廷から高僧に賜った号。
3) 仏になぞらえて用いた、神の尊号
羅漢
煩悩を殺す意の梵語(ぼんご)の音訳。
完全に悟りを開いた、小乗仏教の修行者。
三省堂『新明解国語辞典』より
国語辞典にはこのように書いてあるのですよ。 でもねぇ、本の中で使われている意味は「菩薩」は「すぐにでも救いの手を差し伸べてくれるような優しい人」、「羅漢」は「厳しい修行を耐え抜いて気迫に満ちた人」ということなのですよ。
。。。で、良寛さんは「すぐにでも救いの手を差し伸べてくれるような優しい人」のようでもあり、「厳しい修行を耐え抜いて気迫に満ちた人」のようでもある。 そのどちらでもないようにも思えると、言っているのでざ~ますわね?
そうなのです。
では、良寛さんの顔は結局、判らないままではござ~ませんか!
いや。。。読んでゆくと安田靫彦(ゆきひこ)が描いた良寛像の表情を良寛さんもきっと持っていただろうと言っているのですよ。
良寛さんの表情について書いてある文献はないのでござ~ますか?
なさそうです。 試しに「良寛」を入れて画像検索してみたのですよ。 その結果を見てください。
(gog21108.gif)
あらっ。。。どの画像もどことなく安田靫彦(ゆきひこ)が描いた良寛像のようでござ~ますわね?
そうなのです。 どことなく痩(や)せて生気のない表情を浮かべているのですよ。
でも、どこかに良寛さんの表情について書いた文献があるのではありませんか?
もしそうならば上の本の中にもその事が書いてあるはずですよ。 『ウィキペディア』には次のように書いてあります。
良寛
1758年11月2日 - 1831年2月18日
良寛は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。
俗名、山本栄蔵または文孝。
号は大愚。
良寛は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。
四男三女の長子。
父、山本左門泰雄はこの地区の名主・橘屋であり、石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった。
異説では越後国新津(現・新潟県新潟市秋葉区)の大庄屋・桂誉章の子。
名主見習いだった良寛は18歳のとき出家したが、この時期には妻(山本家家譜によると死後法名は釋尼妙歓)が居たとする説が最近出ている。
この妻は出家前に離縁。
出家後、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。
その頃義提尼より和歌の影響を受ける。
48歳のとき、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、61歳のとき、乙子神社境内の草庵、70歳のとき島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。
無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。
良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。
その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。
最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めた。
良寛は他に漢詩、狂歌、俳句、俗謡に巧みで、書の達人でもあった。
故に後世の贋作が多い。
新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠る。
良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。
良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだという。
懐には常に手毬を入れていたという。
名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた。
現在でもその凧は残っている。
ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。
しかし、日が暮れて暗くなり、子供達は、良寛だけを探し出せないまま、家に帰ってしまった。
翌朝早くに、ある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので、驚いて問い質すと、良寛は、「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。
このような類いの話が伝えられ、子供向けの童話などとして紹介されることで、良寛に対する親しみ深い印象が、現在にまで伝えられている。
また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わした。
また弟子の貞心尼に対してほのかな恋心を抱いていたといわれている。
今日生家跡には「良寛堂」が建っている。
裏手には良寛の坐像がありその視線の先には日本海が広がっている。
沖に見える島影は、良寛の母のふるさと佐渡島である。
出典: 「良寛」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1758年11月2日 - 1831年2月18日
良寛は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。
俗名、山本栄蔵または文孝。
号は大愚。
良寛は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。
四男三女の長子。
父、山本左門泰雄はこの地区の名主・橘屋であり、石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった。
異説では越後国新津(現・新潟県新潟市秋葉区)の大庄屋・桂誉章の子。
名主見習いだった良寛は18歳のとき出家したが、この時期には妻(山本家家譜によると死後法名は釋尼妙歓)が居たとする説が最近出ている。
この妻は出家前に離縁。
出家後、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。
その頃義提尼より和歌の影響を受ける。
48歳のとき、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、61歳のとき、乙子神社境内の草庵、70歳のとき島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。
無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。
良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。
その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。
最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めた。
良寛は他に漢詩、狂歌、俳句、俗謡に巧みで、書の達人でもあった。
故に後世の贋作が多い。
新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠る。
良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。
良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだという。
懐には常に手毬を入れていたという。
名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた。
現在でもその凧は残っている。
ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。
しかし、日が暮れて暗くなり、子供達は、良寛だけを探し出せないまま、家に帰ってしまった。
翌朝早くに、ある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので、驚いて問い質すと、良寛は、「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。
このような類いの話が伝えられ、子供向けの童話などとして紹介されることで、良寛に対する親しみ深い印象が、現在にまで伝えられている。
また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わした。
また弟子の貞心尼に対してほのかな恋心を抱いていたといわれている。
今日生家跡には「良寛堂」が建っている。
裏手には良寛の坐像がありその視線の先には日本海が広がっている。
沖に見える島影は、良寛の母のふるさと佐渡島である。
出典: 「良寛」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やっぱり、良寛さんの表情については書いてありませんわね。
。。。でしょう? ところで、本の中には次のようにも書いてあった。
究極の菩薩の姿
よく菩薩の中の菩薩といわれるのに、「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」というボサツがいる。
『法華経』に登場して有名になったボサツである。
「常不軽品」という章の名称にまでなっている。
どんな人間に会っても、辞を低くして礼拝したというボサツである。
「常不軽」というのは、どんなときでも出会う相手を「軽んじない」という意味だ。
なぜなら人間は誰でもやがて仏になる存在だからである、という。
しかし、つねに相手を軽んずることなく礼拝をくり返している人間(菩薩)は、それゆえに人々から軽んじられるであろう。
たえず軽蔑され、馬鹿にされ、そして差別の眼差しを全身にうける。
その逆境的な運命を甘受するところに「常不軽菩薩」の存在理由があるのだと思う。
誰にでもなれる境地ではない。
ふつうの菩薩でも、このボサツにななかなか手がとどかないであろう。
自立、自立……と咆哮するラカンたちからは、もっとも遠い存在かもしれない。
「常不軽菩薩」が菩薩、究極の菩薩の姿、といわれるゆえんである。
その常不軽菩薩のことが、良寛さんも好きだったようだ。
理想の菩薩だったのではないだろうか。
後世の良寛神話が、そうした良寛さんの心情を純化して、良寛さんのイメージをこの常不軽菩薩と重ね合わせるようになった。
(中略)
良寛さんもその常不軽菩薩のように生きようとひそかに決意していたにちがいない。
実際、良寛さんの日常生活をうかがうと、そのような生き方を心がけていたことがよくわかる。
その自然体の優しさの中に常不軽菩薩を実践している良寛さんのイメージが蘇る。
安田靫彦の良寛像にもそのような気配がただよっているといっていいだろう。
(ryokan2.jpg)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
197-199ページ
『日本人の情感はどこからくるのか』
2003年5月9日 第1刷発行
著者: 山折哲雄
発行所: 株式会社 草思社
よく菩薩の中の菩薩といわれるのに、「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」というボサツがいる。
『法華経』に登場して有名になったボサツである。
「常不軽品」という章の名称にまでなっている。
どんな人間に会っても、辞を低くして礼拝したというボサツである。
「常不軽」というのは、どんなときでも出会う相手を「軽んじない」という意味だ。
なぜなら人間は誰でもやがて仏になる存在だからである、という。
しかし、つねに相手を軽んずることなく礼拝をくり返している人間(菩薩)は、それゆえに人々から軽んじられるであろう。
たえず軽蔑され、馬鹿にされ、そして差別の眼差しを全身にうける。
その逆境的な運命を甘受するところに「常不軽菩薩」の存在理由があるのだと思う。
誰にでもなれる境地ではない。
ふつうの菩薩でも、このボサツにななかなか手がとどかないであろう。
自立、自立……と咆哮するラカンたちからは、もっとも遠い存在かもしれない。
「常不軽菩薩」が菩薩、究極の菩薩の姿、といわれるゆえんである。
その常不軽菩薩のことが、良寛さんも好きだったようだ。
理想の菩薩だったのではないだろうか。
後世の良寛神話が、そうした良寛さんの心情を純化して、良寛さんのイメージをこの常不軽菩薩と重ね合わせるようになった。
(中略)
良寛さんもその常不軽菩薩のように生きようとひそかに決意していたにちがいない。
実際、良寛さんの日常生活をうかがうと、そのような生き方を心がけていたことがよくわかる。
その自然体の優しさの中に常不軽菩薩を実践している良寛さんのイメージが蘇る。
安田靫彦の良寛像にもそのような気配がただよっているといっていいだろう。
(ryokan2.jpg)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
197-199ページ
『日本人の情感はどこからくるのか』
2003年5月9日 第1刷発行
著者: 山折哲雄
発行所: 株式会社 草思社
この箇所がデンマンさんには興味深く感じられたのでござ~♪~ますか?
そうなのです。 「常不軽菩薩」で思い出したことがあるのですよ。 僕は以前、良寛さんの本を読んで強烈なエピソードに出くわしたことがある。
そのエピソードって一体どのようなものでござ~ますか?
良寛さんが40代の頃の話というから、たぶん、越後国蒲原郡国上村(現燕市)の国上寺にある五合庵で暮らしていた頃のエピソードだと思いますよ。 ある日、村の女の子のことで騒ぎが持ち上がった。
どのような。。。?
その女の子は15歳か16歳で、小さな頃、子供仲間と一緒に良寛さんとよく遊んだことがあった。 その子のおなかが見るからに膨(ふく)らみ始めた。
妊娠したということでござ~ますか?
そうです。 まだ嫁に行く前の娘だから村中の噂にのぼった。 当然、誰が孕(はら)ませたのか? 村中で詮索が始まった。 その娘に尋ねても全く答えようとしない。 そのうち立派な赤ちゃんが生まれた。 しかし誰が父親なのか判らない限りその赤ちゃんの始末に困ってしまう。 両親は仕方なく村の名主(なぬし)さんのところに相談に行った。
それで。。。?
名主さんが娘を呼んで優しく問いただしたのですよ。
。。。んで、女の子は誰が父親だか名主さんに話したのですか?
それがなかなか話さない。 でも、名主さんは根気よく娘にいろいろと世間話をしながら、なんとか聞き出した。
その子はなんと答えたのでござ~ますか?
良寛さんだと答えたのですよ。 もちろん、名主さんは信じることができなかった。 でも、女の子がそう言うものだから、仕方なく名主さんは良寛さんのところへ相談に行った。
そしたら。。。?
良寛さんは薄笑いを浮かべながら答えて言うのですよ。 「その女の子がそう言うのなら私が孕ませたんじゃろう」 それで良寛さんがその赤ちゃんを引き取って育てたという話です。
このエピソードが「常不軽菩薩」と関係あるのでござ~ますか?
あのねぇ~、誰もが亡くなったら仏になるのだから、たとえ15歳の女子であろうとも軽んじてはいけない。 それで良寛さんは、その子の悩みを汲(く)んであげたのですよ。 そのような気持ちが良寛さんに働いたのだと思います。 だからこそ、ウィキペディアの説明にも書いてあるとおり、良寛さんは子供の純真な心こそが誠の仏の心と解釈して、子供達と遊ぶことを好んだのですよ。
つまり、だから子供にも好かれたと言うのですか?
そうです。 しかし、そのことを考えて安田靫彦の良寛和尚像を見ると子供が好きそうな表情には見えない。
子供と一緒に遊びそうな人物には見えないということでござ~ますか?
僕にはそう思えるのですよ。
。。。で、デンマンさんの目には良寛さんはどのような表情をしていたと思うのですか?
次のような表情をしていたと思うのですよ。
(ryokany.gif)
つまり、誰にでも優しく救いの手を差し伸べてくれる菩薩のような表情をしていたと僕には思えるのですよ。
そうですわね。 上の絵の良寛さんならば子供が好んで集まるかもしれませんわね。
【ジューンの独り言】
ですってぇ~。。。
良寛和尚像を描いた安田靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに、焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わりました。
良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計しました。
安田靫彦は1884年、東京日本橋の料亭の四男として生まれました。
日本絵画協会絵画共進会で横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品を見て感動し、画業を決意したということです。
1898年より小堀鞆音に師事しました。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進みましたが中退しています。
後に岡倉天心に認められ、1907年に日本美術院に招かれ、院展の初回より作品を出品しています。
肺病に悩まされながらも晩年まで制作を続け、1978年神奈川県大磯町にて没しています。
墓所は大磯の大運寺です。
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■『プロメテウスの第2の火』
■『うむうむ、ふむふむ人間』
■『コギャルと甘え』
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■『日本を良い国に…』
■『エロい熟女』
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とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。
ですってぇ~。。。
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後に岡倉天心に認められ、1907年に日本美術院に招かれ、院展の初回より作品を出品しています。
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