2010年7月22日木曜日

愛のポケット

 

愛のポケット





デンマンさん。。。あんさんは、またコラージュしやはってぇ、けったいな写真を作りはりましたなァ。



うししししし。。。あきまへんか?

つまり、ジューンさんのスカートのポケットに入って、あんさんはルンルン気分でニヤケてはるのォ~?

うへへへへぇ~。。。あきまへんかァ~?

アッカ~~ン!と言うたところで、あんさんは聞く耳をもたへん。 何が何でも上の写真で今日の記事を始めるのやろう?

そうやねん。。。めれちゃんは不満かも知れへんけど、こらえて欲しいねん。

。。。で、ジューンさんのスカートのポケットが“愛のポケット”やと、あんさんは言わはるのォ~?

ちゃうねん。。。あまり真面目すぎると、せっかく覗きに来た人が他のサイトへ飛んでしまうさかいに、何か面白いものをと思って上の写真を貼り出したのやァ。笑えるやろう?

しょうもない事をしやはってぇ。。。あんさんの作りはった、けったいな写真を見て他のサイトへ飛んでしまう人の方が多いんとちゃうん?。。。で、今日は『第三の女』の続きとちゃうのォ~?



『第三の女 (2010年7月20日)』



そのつもりやでぇ~。



でも、ジューンさんが出てきましたやん。

そやから、落語で言うならば、ここまでがクスグリやがなァ~。。。これから本題に入るねん。

余計な話はええから、すぐに本題に入って欲しいわ。

じゃあ、まずシビルの略伝を読んで欲しいねん。


シビル・セリグマン略伝
 



シビルは1868年2月23日に生まれた。

彼女の父親は、商人のサミュエル・ベディントン。

ドイツ系ユダヤ人で莫大な財産を築いた。

シビルには4人の兄弟と3人の姉妹が居た。

シビルが生まれ育ったベディントン家はユダヤ人だった。

家はロンドンのハイドパークプレース21番地にあった。

現在では、その場所は20番地になっている。

サミュエルは、しばしは邸宅で舞踏会を開いた。

彼は、子供たちが汗水流して働く労働者になるようなことは考えても居なかったので、ブルジョワにふさわしい教育を施した。

ピアノ、歌のレッスン、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、ドイツ語などが教えられた。

シビルは、さらにイタリア語も学んだ。


サミュエル・ベディントンは、夕食の後にバイブルを読んで聞かせるような道徳的な人物だったけれど、彼の子供たちは、ほとんどすべて、人生を謳歌し、寛容と自由を愛するようになった。

話術が巧みで、また、知的なパートナーを好む傾向があった。


シビルの歌のレッスンは主に家で行われた。

1904年頃シビルの歌を録音したレコードのいくつかが、現在でもなお存在している。

2つの歌曲は著名な歌の先生であるトスティの作曲したものである。

ベディントン家の大きなタウンハウスはヴィクトリア時代中期の流行を感じさせる、ダークな色調ではあったが華やかな室内装飾がなされていた。

どっしりとしたオーク材の家具や淡いベージュ色の階段があり、床のタイルはダークレッドとブルーが基調だった。

朝食をとる部屋には重厚なレザーが貼られたアームチェアがあり、小さなグランドピアノが置かれていた。

その部屋に続いてダイニング・ルームがあり、壁には、主にベンジャミン・リーダーが描いた油絵の風景画が飾られてあった。



 ハイドパーク (Hyde Park)

2階には、広々とした応接室があった。

窓からはハイドパークが見渡せた。

そこには、シビルの母親のズィラーが愛用していたスタインウェー・グランドピアノが置いてあった。

それはパデルースキー(Paderewski)先生が彼女のために選んだものだった。

同じ部屋には大理石の暖炉があって、冬の夜長には、家族がその周りに集まったものだ。

絵画で飾られた長い廊下を行くとビリヤードルームがあり、3階には小さなシダの庭園があった。

そこには水が連続した滝のように流れる仕掛けがあった。

天井にはスカイライトがあって、色ガラスを通った光で昼間は照らされ、夜には星の光で照らし出された。

シビルの一番下の妹・バイオレット(Violet)には次のような話がある。

以前から彼女を知っている作曲家のアーサー・サリバン(Arthur Sullivan)は、バイオレットに結婚を申し込んだ。

でも、バイオレットは断った。

サリバンはかなり年上だったけれど、ユーモラスにも見える粘り強さでバイオレットを説得しようとした。

もし、バイオレットが結婚していたら、名家に嫁ぐという栄誉と、財産を手に入れることができただろう。

でも、年が離れているので未亡人になるのも早かったにちがいない。

バイオレットはマルセルプルースト(Marcel Proust)と付き合い、その後シドニー・シフ(Sydney Schiff)と結婚した。

シドニーはステファン・ハドソン(Stephen Hudson)というペンネームで小説を書いていた。

文字通りの成功者と言えば、シビルの義姉のエイダ(Ada)だろう。

旧姓はレバーソン(Leverson)という名前だった。

彼女の小説は現在でもドイツ語で出版されている。

エイダはオスカー・ワイルドの親密な友達だった。

エイダの事をオスカーワイルドは"スフィンクス"と呼んで才能をめでて、尊敬もしていた。

オスカーは、ホモセクシャル行為で裁判にかけられ、2年間服役することになったが、その裁判中は、もっぱらエイダの家で世話になっていたほどだった。それ程、エイダとは親しくしていた。

後日、シビルはオスカーワールドの戯曲(A Florentine Tragedy)をプッチーニのために翻訳した。

プッチーニはその戯曲を3部作の第一作目としてほぼ完成させようとしていた。でも、ついに完成させずに途中で断念してしまった。

三部作ではないけれど、その戯曲(the Florentine Tragedy)は、あとでアレクサンダー・ツェムリンスキー(Alexander v. Zemlinsky)によって取り上げられることになった。

1891年5月にシビルは、アメリカ人のデイヴィッド・セリグマンと結婚した。

社会的には釣り合いの取れた結婚だったがシビルの父親は恋愛結婚と言うのが気に喰わなかった。

デイヴィッド・セリグマンとの間にシビルは二人の息子をもうけた。

長男は1892年に生まれたエズモンド(Esmond)。

次男は1895年に生まれたヴィンセント(Vincent)。

夫のデイヴィッド・セリグマンは1864年ににサンフランシスコで生まれた。

セリグマン家はアメリカ合衆国では最も影響力のあるユダヤ人家族の一つだった。

デイヴィッドの父親のレオポルドはセリグマン銀行のロンドン支店長になるためにイギリスに渡った。

デイヴィッドの叔父の一人はユリシーズ・グラント政権の国務長官を務めた。

シビルは生活を楽しみ、ずいぶんと旅行した。

たいてい息子の一人か夫が同伴するのが普通だった。

冬は、ニッツァ(Nizza)、モンテカルロ、サンモリッツで過ごした。

経済的に困ることはなく、文化的にも知的にも洗練された生活だった。

夫と息子たちとともにシビルは何度かプッチーニをイタリアに訪ねた事がある。

でも、ロンドンに滞在していたプッチーニを訪ねる事の方が多かった。

ロンドンでは、プッチーニはサヴォイホテル(the Savoy)に滞在した。

プッチーニは糖尿病だったので、シビルは無糖ダイエットに詳しい料理人を雇うことを薦めたりした。

プッチーニとシビルは毎晩のように劇場に出かけた。

コヴェントガーデンでプッチーニと一緒にオペラを観ることはシビルにとって何よりの楽しみだった。



コヴェント・ガーデンにある

ローヤル・オペラハウス



音楽などにはほとんど関心が無かったデイヴィッドは、プッチーニに対して表面上は好意を抱いているように装っていたけれど、内心では好感を持ってなかった。

シビルがプッチーニと外出している時には、デイヴィッドは他の女性と情事を楽しんでいるのだった。

シビルは夫の情事に対しては、ほとんど気にかけていなかった。


そう言う訳で、20世紀の最初の10年間は、シビルにとってもデイヴィッドにとっても幸せだったと言えた。

しかし、運命は次第に翳り始めた。

まるでカラフルな家族写真にさまざまな陰りが加わるようだった。

第一次大戦中と1929年の株式市場の崩壊のために、ベディントン家は多くの財産を失うことになった。

シビルのお気に入りの弟・ジョージは21歳で肺結核のために他界した。

その悲しみはシビルの心に長い間トラウマとなって残ることになる。

シビルがその悲しみを乗り越えたとき、妹のエヴェリン(Evelyn)は1910年の5月に長い間苦しんだ挙句に亡くなった。

致命的な病気には違いなかったが、その病名はよく分からない。

ちなみに、エヴェリンの最初の夫は彼女が浮気した事がショックでピストル自殺していた。

1910年、シビルの長男・エズモンドがイートン校を卒業してまもなく癲癇の発作を起こした。

その後、エズモンドは癲癇の発作で苦しめられることになる。

エズモンドが1930年に亡くなるまで、シビルは献身的に看病を続けた。その後プッチーニと頻繁に会えなくなったのは、エズモンドの看病があるからだ。

エズモンドの病状を気にしていたことと、エズモンドが亡くなって喪に服していたことで、シビルは年齢以上に老け込んでしまった。

1924年11月にプッチーニが亡くなった時には悲しみのどん底に打ちひしがれて、その悲しみを克服しようも無かった。

それで、シビルは、薬物やアルコールに救いを求めた。

彼女の感覚は正常さを失い、次第に病的に沈んでゆく。


そう言う訳で、シビルが年老いてからの写真が無いと言うのは不思議ではない。

セリグマン家の人々は次第に社会的に孤立していった。

それでも、セリグマン家の人々は経済的には困っているわけではなかった。

しかし、かつての巨万の富は、次の2世代によって消費されてゆくことになる。

シビルは1936年1月9日に亡くなった。67歳だった。

死亡証明書には肺炎で亡くなったと書かれている。

フープレーン墓地(Hoop Lane Cemetery)の彼女の飾り気の無い記念碑は現在でも、両親や夫のものと一緒にそこに立っている。

シビルの息子ヴィンセントはシビルとプッチーニがやり取りした700通余りの手紙の中から公開できるものを選んで書簡集を出版した。それが"Puccini among Friends"と言う書簡集だ。不倫を疑わせるような文章は削除されたり書き直されたりしている。また当時生存していた人たちに迷惑となるようなうわさも削除されている。

シビルよりも10歳年下の妹のヴァイオレット(Violet)は、後日、真実を吐露している。それによれば、初め、プッチーニとシビルは性的な関係であったらしい。しかし、スキャンダルになって夫と別居することを恐れてプッチーニとの性的な関係を止める決心をしたとの事である。

一方、眉唾物のエピソードも書くような伝記作家のスタンレー・ジャクソン(Stanley Jackson)は、次のようなエピソードを書いている。

長男のエズモンドを出産する時に難産で、鉗子分娩で取り出したことがトラウマとなって、それ以降、シビルの性的欲求にブレーキがかかったと言うのだ。

ヴィンセントは、この話がまんざら嘘ではない事を信じていたようである。次のように言ったと伝えられている。

「僕のお袋は、聖母マリアがキリストを身ごもったように僕を身ごもったと思うんだ」



当時のコルセットの模造品。写真の人物はシビルではありません

ところで、次のような逸話が残っている。

シビルが老いてから、彼女の姪が次のように質問したと言うのだ。

「煩わしいコルセットを“あの時”には、どうしていたの?」

シビルは恥ずかしげも無く次のように答えたと言う。

「当時の女は、コルセットを訳も無く取り外すコツを知っていたものよ」

シビルの夫のデイヴィッドは1939年2月4日に亡くなった。

死亡証明書には、ベロナール(Veronal)を多量に飲んで自殺したと書いてある。

正常な心の状態ではなかったようだ。




参考資料: “Sybil's Story”





「愛のポケット」がどこにも出てきやへんでぇ~。



あのなァ~、それは、これから説明するねん。わてが、シビルセリグマンについてこれほど長たらしく書いたのは、エルヴィーラとの違いを強調するためなのやァ。

でも、エルヴィーラについては、ほとんど何も分かってえ~へんでぇ。

確かに、エルヴィーラとプッチーニが駆け落ちをするような激しい恋愛の末に結ばれたということ以外には、エルヴィーラについては詳しく書かれてないねん。そやけどなァ、次の箇所だけ記憶にとどめておけば充分なのや。


シビルに傾倒したプッチーニは、芸術上のことから私的な悩み事までシビルと分かち合った。

プッチーニが芸術上のことで、生涯にわたって正直に打ち明けたのは、台本作家としての仕事上の相談相手であったジャコーザとイッリカを除いては、ジュリオ・リコルディとシビル・セリグマンの二人だけである。

エルヴィーラもうわべではセリグマン夫婦との交友を楽しんでいるふうを装っていたものの、芸術的なことでは(プッチーニから)何ひとつ相談されることもなく、夫のもっとも精神的な部分に他の女性が強く関与しているのを見るのは、けっして心穏やかなものではなかっただろう。




『第三の女 (2010年7月20日)』より





これだけで充分やの?



そうやァ。上の箇所を読めば、エルヴィーラが音楽のことでも、文学のことでも、プッチーニが相談するに値するだけの知識を持っていなかったことがはっきりと分かるねん。

それで、「愛のポケット」はどうなってるん?

その事を説明しようとしたのやけれど、時間がなくなってしもうたのや。うししししし。。。

あんさんが、しょうもない写真をコラージュするのに時間をかけすぎてしもうたのですやん。

しょうもない写真ではあらへんでぇ~。。。でもなァ、確かに、ずいぶんと時間を取られてしもうたのや。そう言う訳で、続きは、またあさってということやァ。



【レンゲの独り言】



ですってぇ~。。。

次回は、マジで面白いお話が聞けそうですわ。

長い「シビル・セリグマン略伝」だけを読まされて、少々不満でしょうけれど、また、明後日、読みに戻ってきてくださいね。

では。。。




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『名物先生(2009年11月19日)』

『ぶんぶく茶釜(2009年11月21日)』




こんにちは。ジューンです。



この女性が身に着けているコルセットを見ると、

見ているだけで、おなかの辺りが

きゅ~と締め付けられるような

気がしてきますわ。 (*^_^*)

これほどまでに、ウェストを締め付けなくても

よいと思うのですけれど、

19世紀から20世紀の初めにかけて

このような細いウェストがはやったようです。

食事制限して太らないようにする時には

コルセットは役に立つかもしれませんよね。

胃袋が締め付けられるので

食べたくても食べられないように

なるのではないかしら?

\(^o^)/ うふふふふふ。。。

ところで、卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ



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