2010年7月29日木曜日

愛の手と狂気

 

愛の手と狂気









件名:小百合さん、おはよう!

日本の良さを見出して

楽しんでね。

きゃはははは。。。



Date: 02/07/2010 1:10:11 PM

Pacific Daylight Saving Time

日本時間:7月3日(土曜日)午前5時10分

From: denman@coolmail.jp

To: sayuri@hotmail.com

CC: barclay1720@aol.com





バンクーバーの空はほぼ快晴で雲がありません。

ノースバンクーバーの山の上に雲が見えるだけです。

気温17度で湿度は60%。

のどかで、すがすがしい!

ここ1週間ばかり『あらすじで読む名作能50』と言う本を寝る前に読んでいるのですよう。

もちろんバンクーバー図書館から借りてきたものです。

能が好きか?と問われれば、嫌いではない、と言えるけれど、

とりわけ好きでもない。

でも、子供の頃から能になぜか惹かれるのは、自分がやっぱり日本人の心を持っているからだと、

本を読みながらしみじみと感じましたよう。

これまでに二つだけ心に残ったエピソードを。。。





テレビで拝見したのだが、大鼓(おおつづみ)の人間国宝・亀井忠雄さんご一家のお稽古ぶりは凄まじかった。

一子相伝というけれど、一つの芸風を伝えるのに、“家”がその子らにいかに壮絶な鍛錬を科すものか、親子ともに生命を賭しておられるようにみえた。

その折息子さんがおっしゃったが、大鼓を打ちながら、曲目の詞章を全部覚えるのだそうである。

そういえば土屋さんがおっしゃったのだ。

「どの能でもそうですけれど、亀井さんが真っ先に詞章を覚えられるんです。若い人たちはかないませんよ、気迫がですね」




石牟礼(いしむれ)道子(作家・詩人)

1927年熊本県天草生まれ。

46-47ページ 『あらすじで読む名作能50』

世界文化社 2005年5月1日発行


 


私(亀井忠雄)は子供の頃、父と小鼓の北村一郎師の絶頂期の『道成寺(どうじょうじ)』を聴いていますが、それは考えられないような狂気の世界でした。

とにかく掛け声がすごかった。それがあったので、16歳のときに『道成寺』のお役がかかりましたが断りました。

ほとんどのものを済ませてから、ようやく披(ひら)きました(初演を演じた)。

 (中略)

とにかく『道成寺』は、狂気の域(いき)に入らないと出来ない、かといってこちら側にいないといけない。

シテも、他の囃子方(はやしかた)も同じです。「離見(りけん)の見」ということを観世寿夫さんからよく言われましたが、やっていくうちにだんだん分かってくるものです。




亀井忠雄(大鼓方葛野流宗家預かり)

人間国宝 1941年東京生まれ。

56ページ 『あらすじで読む名作能50』

世界文化社 2005年5月1日発行



。。。だってよう。

そうだよねぇ~。見えない所にエネルギーを費やす。

西洋的な考えだと、馬鹿馬鹿しい話なのですよう。

大鼓を打つのに、曲目の詞章を全部覚える必要などないのだよね。

カナダ人にやれ!と言っても「どうして?」と言う返事が返ってくるでしょう!

「鼓を打つのに関係ね~じゃねえか!」

そう言われてしまいますよう。

ちょっと聞いただけでは、合理的な考え方じゃない!

「どの能でもそうですけれど、亀井さんが真っ先に詞章を覚えられるんです。若い人たちはかないませんよ、気迫がですね」

この気迫が人間国宝の値打ちなんだろうね。

子供の頃、能など良く分からなかったけれど、僕も能をテレビで見て「大鼓」の響きに魅了されたことがありますよう。

あの響きには、日本人の心を揺さぶる響きがあるのかもしれない!

ビシッと心に響き渡りましたよう。

おそらく、亀井忠雄さんのお父さんが打っていたのではないか?

何だか、そんな気がしてきました。

小百合さんには、つまらない話かもしれません。

では、いつものように日本の神様にお祈りをささげます。



行田の大長寺の大仏様。。。

高崎の観音様。。。

軽井沢の不動様。。。

栃木のお稲荷様。。。

仙台の八幡様。。。

伊豆の海の神様。。。

谷川岳の山の神様。。。

小百合さんが軽井沢タリアセン夫人になりきって、ルンルン気分で今日、一日を無事で楽しく愉快に過ごせますように。。。

そして、この夏休みには、バンクーバータリアセン夫人になって、北京ダックを僕と一緒に食べることができますように。。。

日本の神様、よろしくお願いいたします。

では、小百合さんも時間があったら次の記事を読んでみてね。



『ふるさとの皆さん!』

(2010年7月2日)

うっとうしい梅雨にもめげずに、楽しく愉快に今日、一日を過ごしてね。

じゃあねぇ~♪~!






デンマンさん。。。今日は能のお話ですか?



特に能について話したいと言う訳でもないのですよう。

でも、最近、能の本を読んでいるのでしょう?

たまたま図書館で借りてきた23冊の本の中に能の本があったのですよう。





1番の本ですか?



そうです。

先日は14番の本について書きましたよね。

『つまらない話』

(2010年7月23日)

そうです。

参議院選挙があったから政治の本を選んだのは、なんとなく分かりますけれど、どうして能の本を選んだのですか?

小百合さんの愛の手が選ばせたのですよう。うししししし。。。

そのような事を言っても誰も信じませんわ。

“愛の手”を持ち出せば小百合さんが、そう言うと思いましたよう。

デンマンさんはわざとらしいのですわ。そのような取って付けたような事を言っても誰も本気にしませんわ。

でもねぇ、僕がデタラメを言っている訳ではない事が最後に分かります。

能のお話から“愛の手”のお話になるのですか?

まあ。。。そう言う事ですよう。うへへへへへ。。。

分かりましたわ。。。期待しながらデンマンさんのお話を伺いますわ。

小百合さんは『道成寺』って聞いたことがありますか?

能に『道成寺』という演目があることは知りませんでしたわ。でも、「娘道成寺」というのはよく耳にしました。歌舞伎の出し物だったように覚えていますけれど。。。

さすがですね。。。そうなのですよう。。。能の『道成寺』を基にして作ったらしいですよう。


道成寺



『道成寺』は、紀州道成寺に伝わる、安珍・清姫伝説に取材した能楽作品。

観世小次郎信光作といわれる『鐘巻』を切り詰め、乱拍子を中心に再構成したものという。

後にこの能の『道成寺』を元にして歌舞伎の『娘道成寺」や浄瑠璃の『道成寺』、琉球組踊の『執心鐘入』などが作られた。

シテ: 白拍子(実は女の怨霊)

ワキ: 住僧

アイ: 能力(のうりき:寺男)

安珍・清姫伝説の後日譚に従い、白拍子が紀州道成寺の鐘供養の場に訪れる。

女人禁制の供養の場であったが、白拍子は舞を舞い歌を歌い、隙をみて梵鐘の中に飛び込む。

すると鐘は音を立てて落ち、祈祷によって持ち上がった鐘の中から現れたのは白拍子が蛇体に変化した姿であった。

蛇は男に捨てられた怒りに火を吹き暴れるが、僧侶の必死の祈りに堪えず川に飛び込んで消える。

小鼓との神経戦である乱拍子(間をはかりながら小鼓に合わせ一歩ずつ三角に回る。

大きな間をとるので、ラジオ放送では放送事故 - 無音時間過長 - になったこともある
)から一転急ノ舞になる迫力、シテが鐘の中に飛び込むや鐘後見が鐘を落とすタイミング、鐘の中で単身装束を替え後ジテの姿となる変わり身と興趣が尽きない能である。

出典:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





デンマンさんは能の『道成寺』を見たことがあるのですか?



いや、ありません。

でも、なんだか『道成寺』にこだわっているようですわね?

『ウィキペディア』で調べてみたら、僕は何度かこの話を読んだことがあると思ってね。でも残念ながら、まだ能で一度も『道成寺』を見たことがない。

。。。で、『道成寺』のお話の内容に惹かれたのですか?

あのねぇ~、以前に読んだ時には、御伽噺のような。。。子供だましのような。。。いい大人が真面目になって読む話ではないと思って、さらっと読み流していたのですよう。でもねぇ、本の中の次の箇所を読んだ時に、なぜか引っかかるものがあった。


一途な思いの果て

梅若六郎 (シテ方観世流)

『道成寺』を披(ひら)く(初演する)ことで、はじめて一人前の能楽師と認められる。

ものの本では、しばしば、そのような解説がされています。

けれど、そうではありません。

この曲は、到達点などではなく、あくまでも一人前の能楽師となるためのスタート地点。原点、というのこそがふさわしい曲なのです。

この曲には、乱拍子、鐘入り、急ノ舞(きゅうのまい)と、特殊な技術が詰まっています。

しかしよくよく取り組んでみると、そうしたすべては、徹底した能の基本の積み重ねということがわかります。

すべてが決まりごとで成り立っている。逆に言うならば、ひとつでも基本をはずしたら成り立たないのが『道成寺』なのです。

 (中略)

では、その本質とは?

『道成寺』が表現しようとしているものは何なのでしょう。

それは、一途(いちず)に人を思う純粋さだと、私は考えます。

猛烈に一人の人を思い、コントロール不能に陥った情念。

思う相手を焼き殺さずにはいられないほどの一途さ。

それこそが『道成寺』なのです。



後シテの般若(はんにゃ)の面を、よくご覧になってください。

報われない恋に烈しく憤りながら、深い悲しみをたたえた静かで美しい表情が秘められています。




52ページ 「一途な思いの果て」

『あらすじで読む名作能50』 多田富雄・監修

世界文化社 2005年5月1日発行





上の文章のどこに引っかかるのですか?



般若(はんにゃ)の面を見て専門家は次のように言っている。

報われない恋に烈しく憤りながら、

深い悲しみをたたえた

静かで美しい表情が

秘められています。

人にもよるのだろうけれど、僕は般若の面を見る時、そこに「静かで美しい表情」なんて感じ取れない。

デンマンさんは何を感じ取るのですか?

狂気ですよう。人間国宝の亀井忠雄さんも次のように言ってますよう。

『道成寺』は、狂気の域(いき)に

入らないと出来ない

梅若六郎さんは一途(いちず)に人を思う純粋さだと、言っている。でもねぇ、猛烈に一人の人を思い、コントロール不能に陥った情念。思う相手を焼き殺さずにはいられないほどの一途さは、狂気ですよう。純粋さではない!

つまり、愛とは程遠いものだとデンマンさんはおっしゃるのですか?

その通りですよう。。。あのねぇ、ここまで考えてきた時に、やっぱり小百合さんの愛の手が能の本を取らせたのだと僕には思えたのですよう。

それは、どう言う訳ですか?

ちょっと、めれんげさんの次の手記を読んでみてください。


行き違う愛という言葉
 
 


 
 

わたしに必要なのは

わたしひとりを

愛してくれるひと

わたしひとりが

そのひとに抱かれる
 

  
 

愛という言葉を

ふりまくひとに

わたしは別れを告げる
 

 

by めれんげ
 

2009.02.10 Tuesday 11:01




『即興の詩 行き違う愛という言葉』より





どうして、めれんげさんの手記を持ち出してきたのですか?



誇張して言えば、めれんげさんと伝説の清姫には共通したものがある。良く言えば、一途(いちず)に人を思う純粋さ。悪く言えば、猛烈に一人の人を思い、コントロール不能になる狂気に似た恋心。かつて僕は、めれんげさんの上の手記にコメントを書いたことがあるのですよう。読んでみてください。





わたしに必要なのは

わたしひとりを

愛してくれるひと

わたしひとりが

そのひとに抱かれる






うん、うん、うん。。。

めれちゃんらしいなぁ~

めれちゃんは、

そういう人が現れると信じているんやろなぁ~

うん、うん、うん。。。

信じることは大切やがなぁ~

モンスターエンジンの神さんもゆうてたでぇ~

“信じる者は救われる”と。。。

でもなぁ~

例えば一神教があるよなぁ~

キリスト教、

ユダヤ教

イスラム教。。。

どれも一つの神さんやがなぁ~

でも、日本人は、もともと多神教の民族やがなぁ~

だから、一神教に入信するならば、

他の神さんを捨てな~あかん!

そいで、長い歴史を振り返ると、

宗教戦争っつうモンがあるでぇ~

あれは、一神教を信じている者が起こすのやでぇ~

フロイトがえらいと思ったのは、

一神教の世界で生まれ育ったのに、

人間の本質をじっくりと見て

しかも、既成概念や、既成道徳に囚われずに、

人間の本質を見事に言い当てた事やでぇ~

何て言うたのォ~?

次のように言うたのやでぇ~




When two people make love, there are at least four people present---the two who are actually there and the two they are thinking about.

--- Sigmund Freud




カップルがベッドで愛し合うとき、実は4人がかかわっている。

そこに居る二人と、それぞれが思い浮かべている違う相手。

--- ジクムント・フロイト

『日本で最も有名な三角関係』より

(2007年6月25日)



こうして、愛する二人の関係は、“平穏に”末永く保たれているのやでぇ~。

人は、このような夫婦を幸せで永続する夫婦と呼ぶのやがなぁ。

でも、お互いに自分が相手にとって“一番”でない事を知っているのや。

人は、このような夫婦を祝福するし、

また、この二人も、世間では祝福されていると思うておるのやでぇ~。

しかし、ぶっち明けた話が、フロイトには正直に内心を話すのやでぇ~

つまり、“本音”と“建前”は、洋の東西を問わず、どこにでもあるもんや。

ただし、程度が違っておるだけやがなぁ~

フロイトは絶対的な愛など信じておらん!

絶対的なつながりなど信じておらん!

そう言う考えを持つことが不幸の根源だという事をフロイトは知っておったのやでぇ~

つまり、





わたしひとりを

愛してくれるひと

わたしひとりが

そのひとに抱かれる



こう言う考えを持っている者は、必ず不幸になる事をフロイトは知っておったのやでぇ~

うへへへへ。。。

でも、めれちゃん、わてを誤解しないでね。

わては、フロイトの言葉が絶対真理やと思うとらんでぇ~

でも、これまでにフロイトを越えた真理を話したおっちゃんに、

わては出会ったことが無いわぁ~

うししし。。。

この地球上の60億の人間は、みな一人づつ、その人独自の世界観を持っておるのや。

厳密に言わなくとも、めれちゃんの考えている愛と

わての考えている愛は違っている。

もちろん、違っていて当たり前やでぇ~

60億の人間は、みな一人づつ、その人独自の世界観を持っているのやから。。。

。。。んで、何が大切なのか?

レンゲさんが、かつて書いてたでぇ~



わたしはボダを

克服したんですよ!

投稿日時: 2007-04-09 11:29



それにしても

デンマンさんのおっしゃるように、

長いおつきあいになりましたよねっ!

(ニコニコ)

ネットで知り合って、

紆余曲折はあったものの、

現在もこうして、

きわめて親密なやりとりを

続けることができている、ということに、

あらためて「縁」というものを

感じています。

そして、今のわたしはデンマンさんを

信頼しています。

信じていると同時に、

頼りに思っている面も

あるんですよ

(困りますか??)



わたしがデンマンさんに対してキレること…

今は、自分から一方的に決別するようなことは考えられないんですよ

互いを人間として尊重しつづければ、何ら恐れるものはないと、思っています。

それに…

しつこいようですが

わたしはボダを克服したんですよ!

とっても苦しい道のりでしたが、

通院するとともに、

自分でも勉強して、

回復のための、

あらゆるメソッドの中で、

気付き」というものを、

得ることができました。

かたくなで脆い自我を、

育てなおすこと…

それは、死ぬまで続けなければならないことですが、逆戻りなどしたくはありません。

ボダのマイナス面によって、

自分以外の方に、

迷惑をかけることが

如何に幼稚で見苦しいものかということを、血がでるほど、痛感しています。

 

 

by レンゲ




『ムカつくコメント』より

(2007年12月15日)



そやがなぁ~

わても、この「気付き」が大切だと思うでぇ~

お互いの意見の違いに気づいて

かたくなで脆い自我を、育てなおすこと。。。

それは、めれちゃんにとっても、

わてにとっても、

もちろん、レンゲさんにとっても、

死ぬまで続けなければならないことやでぇ~





愛という言葉を

ふりまくひとに

わたしは別れを告げる



そうやがなぁ~、

自慢げに振りまく人は嫌われるがなぁ~

でも、もし、わてがめれちゃんに、そのように見えているとしたら、

めれちゃんの見方が間違っておるのやでぇ~

わては愛を振りまいておらん!

わてがしている事は、自分の思っている事を

めれちゃんのように素直に言うてるまでやぁ~。

気付き」が大切だと思うでぇ~

お互いの意見の違いに気づいて

かたくなで脆い自我を、育てなおすこと。。。

それにつきるがなぁ~

午前4時を回ったから、

わても、これで寝るでぇ~

ほな、めれちゃん、

夢でまた逢おうなぁ~

おやすみ。

 

by 心の恋人 (デンマン)
 
 

\(*^_^*)/ キャハハハ。。。
 
 

2009-02-10 09:16 PM

(バンクーバー時間: 2月10日午前4時16分)




『即興の詩 行き違う愛という言葉』のコメント欄より

『漢字馬鹿の再来』に掲載

(2009年2月13日)





つまり、伝説の清姫のように、一途(いちず)な恋心にとらわれてしまうと不幸になる。デンマンさんは、そう思っているのですか?



その通りですよう。

。。。で、私の“愛の手”が、どのように関係しているのですか?

小百合さんは、覚えてないかもしれないけれど、次のようなメールを書いたことがあったのですよう。





件名:ねちねち ブログしてるんじゃ、

ないでしょうね?

もうやめな!

メレンゲさんだって次に行くんだから。

日付: Thu, 28 May 2009 21:27:10 +0900 (JST)

(バンクーバー時間: 5月28日 木曜日 午前5時27分)

差出人: "sayuri@hotmail.com"

宛先: "denman@coolmail.jp"



ただいまー

昨日戻りました。いろいろ やる事たまって。

今日は大変でした。

今、家にいるけど、

明日の夜おそく 軽井沢に帰る、予定。

子供の学校の模擬試験の振りこみ用紙、

進路指導費納入の振込、

父母の会で夜集まるとか、

学校も急な集金がしたくなると、

振込用紙だけ寄こして

それも まったく急ぎの日付で、

私の家の場合、

主人に頼む事は出かけてる私が怒られるので、

頼めないのです。

デンマンさん 元気?

いつまでも ソッポ向かれた事を

ねちねち ブログしてるんじゃ、ないでしょうね?

もうやめな!

メレンゲさんだって 次に行くんだから。


スタート。

後で 手紙書くね、いい絵葉書でも見つけて。

ねむッzzZZZZ

さゆりより






『愛の形 (2009年6月6日)』より





こんな事を書いていたのですわね。うふふふふふ。。。



小百合さんらしいですよう。

余計なお世話だったようですね。

いや。。。決して余計なお世話ではないですよう。。。小百合さんがめれんげさんの幸せを願っているのが感じられますよう。。。そして、僕も小百合さんの愛の手を感じましたからね。。。そして、その同じ愛の手が、僕に上の能の本を取らせたのですよう。うしししし。。。



【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。

でも、こじ付けでござ~♪~ますわ。

あなただってぇ、そう思うでしょう?

いつもの事ながら、回りくどい理屈を並べ立てて、それらしいお話を組み立てているのでござ~♪~ますう。

うふふふふ。。。

でも、あさっては、もっと興味深い話題が続きますわ。

だから、あなたも明後日、読みに戻ってきてくださいましねぇ。

では。。。




メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

人間万事塞翁が馬

良く耳にする諺ですよね。

何が幸せか?

何が不幸か?

予測しがたいことを言います。

昔、中国の北の地方に

塞翁というおじいさんが居たのです。

そのおじいさんの馬が逃げてしまったのです。

おじいさんは不幸な事だと思いました。

当然、そう思うでしょうね。

でも、そのうち、さらに北方の駿馬を率いて

戻ってきたのです。

もちろん、おじいさんは喜びました。

こんな幸福な事はないと。。。

すると、ある日、馬に乗った息子が落馬して

足を折ってしまいます。

それ以来、ビッコを引いて歩くようになったのです。

おじいさんは、なんと不幸なことだろうと嘆きます。

でも、そのうち戦争が始まりました。

息子は足が悪いので兵隊にとられなかったのです。

おじいさんは息子が戦死しないで良かったと

幸せな気持ちに浸ったのでした。

さて、英語で何と言うのでしょうか?

Bad luck often brings good luck.

不運も時には幸運をもたらす。

その通りですよね。

次のように言うこともできます。

Sadness and gladness succeed one another.

悲しみと喜びは交互にやって来る。

考えて見れば、当然ですよね。

悲しみだけが続くことも、

喜びだけが続くこともありません。

次のように言う人も居ますよ。

A joyful evening may follow a sorrowful morning.

朝悲しい事があっても、晩には

うれしい事があるかもしれない。

また、次のようにも言えます。

Good and bad fortune are next-door neighbors.

幸運と不運は隣同士なのよ。

そうですよね。

だから、不運だと思って

いつまでも嘆く必要はありません。

でも、幸運だと言って

手放しで喜んで居てもいけません。

つまり、何があっても人生を前向きに考えて

生きることが必要だと言うことでしょうね。

ところで、英語の面白い話を集めました。

時間があったら覗いてみてください。

『あなたのための

愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



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