2011年3月30日水曜日

裸眼で見る

 


裸眼で見る








高度成長経済と国民の戦争認識の変化







1960年代に本格的な高度成長をなしとげた日本は、1968年には国民総生産(GNP)がイギリス、西ドイツを抜き、アメリカ、ソ連につぐ世界第3位になった。 さらに1986年からバブル崩壊の1990年までの5年間、日本はいわゆるバブル経済に踊った。 この期は中曾根康弘の長期政権がつづいた時期と重なる。



中曾根首相は、高度経済成長をとげ、経済大国となった日本を対ソ戦のための「不沈空母」にたとえ、「戦後政治の総決算」を唱えて、憲法改正と軍備拡張を主張し、自民党軽井沢セミナー(1985年7月27日)での講演で、戦争の侵略性・加害性を承認する見解を「東京裁判史観」「マルキシズム戦争史観」などと批判したうえで、「自虐的な思潮」からの脱却と日本人としてのアイデンティティの確立を強い調子で訴えた。 そして1985年8月15日、中曾根首相の肝煎(きもい)りで設けられた「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」の報告を受けるかたちで、戦後の首相として初めて靖国神社に参拝し、アジア諸国から強い反発を呼びおこした。



戦後の日本政府は、サンフランシスコ講和条約の第11条で対外的には東京裁判の判決を受諾しておきながら、国内政治においては、戦争の侵略性や加害性を否定する教科書検定をおこなうなどダブル・スタンダードの姿勢をとってきたが、中曾根内閣の「戦後政治の総決算」論、「東京裁判史観」克服論は、それをさらに極端にした。 その後、戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた野蛮な復讐裁判であった東京裁判によって日本人に植え付けられた「敗戦コンプレックス」「自虐意識」から抜け出すべきときがきたという東京裁判否定論がいっそうさかんになっていった。 東京裁判否定論と南京大虐殺否定論がセットになっていることはいうまでもない。



(注:イラストはデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)








130 - 131ページ

『南京事件論争史』

2007年12月10日 初版第1刷発行

著者: 笠原十九司

発行所: 株式会社 平凡社








デンマンさん。。。オイラをお呼びですか?







おおォ~。。。マンガ家! 首を長くして待っていたんだよォ。



今日も可笑しなタイトルを付けてオイラをイジメるのですか?



いや。。。僕はオマエをイジメようとしているのじゃないよ! 何度も言うけれど、僕はオマエを尊敬しているのだよ。



でも、そう見えませんよ。



愚か者には、そう見えないのだよ!



そのように言うことが、そもそもオイラを馬鹿にしていることでしょう!?



あのなァ~、いつまでも、このような下らない事をダラダラと言っている暇はないのだよ!



。。。で、笠原十九司さんが書いた『南京事件論争史』の中から上の文章を引用して、デンマンさんは一体何が言いたいのですか?



あのさァ、オマエが中曾根内閣時代に「敗戦コンプレックス」「自虐意識」から抜け出すべきだという東京裁判否定論の洗礼を受けたと言う事が実に良く判ったよ。



それはデンマンさんの独断と偏見ですよ。



オマエは、そう言うけれど、ギャグ漫画に新風を巻き起こして昭和63(1988)年に小学館漫画賞を受賞した。 それから平成4(1992)年に思想漫画『ゴーマニズム宣言』の連載を開始した。 この流れを見てゆくと、どうしてもオマエが時代の落とし子として中曾根内閣時代に「敗戦コンプレックス」「自虐意識」から抜け出すべきだという東京裁判否定論の洗礼を受けた。 そう思えるのだよ。 つまり歴史的にオマエを眺めてみると、そう見えてくる。



分かりました。。。そのデンマンさんの仮説が正しいとしてですよ。 それで何が言いたいのですか?



オマエは理屈を捏ね回して漫画を描いているように思えてならない。



その根拠は。。。?



その前に、オマエが反発している司馬遼太郎さんについて書かれた次の小文をまず読んで欲しいのだよ。








美術を担当した4年間を「まことにおろかな4年間」だったと司馬(遼太郎)さんは言っている。 何をしていたのかといえば、本を買い込んで絵画理論を頭につめこむことに熱中していたのである。 その間、絵を見て楽しんだことも感動したこともなかったという。



ちょうど日本の美術界に抽象・アンフォルメルの嵐が吹き荒れていた時代である。 司馬さんの取材する公募展には、抽象画が「洪水のように氾濫」していた。 個展の会場では、古手の記者が作者に向かって

「色彩のヴァルールはどうなっております」

と、大まじめに質問していた。

「異常な世界にまぎれこんだ」と思いつつ、司馬記者もまた、せっせと抽象画理論を仕入れることに励む。 自分の目ではなく、知識や理論を通して絵の世界へ入っていったというわけである。



突き放して考えれば、なるほどおろかしい。 だが同じことはどこにでも---今の我々の日常のなかにも---ある。 たとえば展覧会場で、作品の解説文を読み、作品の様式や理論についての知識を得、解説者の見方を知り、その確認作業のように作品を見る、ふむふむ、という行為から完全に自由でいられる人間がどれだけいるだろうか。



 (中略)











セザンヌに始まる20世紀絵画の理論偏重が害をふりまいたのではないか、物の見方を誤らせたのではないか。



 (中略)



司馬さんは、19世紀人や20世紀人が「そうした理論の持ち出され方にきわめて弱い文明に存在している」と言う。 文明人の弱点としての「理論好き」「頭でっかち」を指摘するのだ。



 (中略)



美術記者時代、彼の見た最初の光景は抽象画氾濫の図だった。 なぜ氾濫するのか。 みな一斉に同じことをするからだ。 なぜ一斉に同じことをするのか。 それが最先端の情報だからだ。 最先端をやらないと「古い」といって仲間うちから冷笑されるからだ。



 (中略)











キュビスムの先駆者ブラックは「私にとってキュビスムは、私自身のために創案した一手段にすぎず、絵画を自分の才能の届く範囲にもってくることが目的であっただけだ」と語ったという。

司馬さんはこの言葉を引いて「いかにもすぐれた創作者らしい正直さで、読んでいても胸の高鳴るような思いがする」と書く。 それはまた、「自分のための手段」でも「自分の才能の届く範囲」でもない他人の始めた様式に無節操に追随する“創作者”たちへの、嫌悪の表明でもあっただろう。



(注:写真とイラストはデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)








104 - 105ページ

「裸眼で見る、ということ」 著者: 芥川喜好

『別冊太陽 日本のこころ 130 司馬遼太郎』

2004年8月20日 初版第1刷発行

編集人: 湯原公浩

発行所: 株式会社 平凡社








なるほど。。。つまり、オイラが「理論好き」「頭でっかち」で、裸眼で見ていないとデンマンさんは主張するのですね?







オマエにも僕の言おうとすることが分かるか?



その程度の事ならば上の文章を読んですぐ分かりますよ。 これは国語の読解力の問題ですからね。



そうか。。。オマエは国語の読解力があるね。



もちろんですよ。。。でもねぇ、そう決め付ける前に、オイラが「理論好き」「頭でっかち」で、裸眼で見ていないという根拠を示してくださいよ。



分かった。。。オマエがそう言うならばその根拠を示すから、じっくりと読んでみろよ。








パールは「判決書」の結論である「第7部勧告」で、再び「A級戦犯」たちと日本国家の関係について論じている。



ナポレオンはフランスの統治権を国家から簒奪(さんだつ)していたため、連合国はフランス国家そのものを敵とせず、ナポレオンとその一派を敵として戦争した。

ヒットラーもナポレオンの場合と同一視できるかもしれない。

だが日本はそうではなかったとパールは断言する。



「日本の憲法は完全に機能を発揮していた」

「これらの被告は憲法に従い、また憲法によって規定された機構を運営するためだけ、権力ある位置についたのであった。

かれらは始終輿論に服し、戦時中においてさえも輿論は真実にかつ活発に役割を果たしていたのである」



そしてパールはこう断定する。



「今次行われた戦争はまさに日本という国の戦いであった」

「A級戦犯」といえど、憲法に従い、輿論に服し、日本国の機構を運営するために行動していたに過ぎない。

彼らの行為は単に東条英機とか、広田弘毅とかいった個人の意志に基づくものではない。

戦争を遂行した「A級戦犯」の行為は、日本国の行為である。

「A級戦犯」が全員無罪ということは、すなわち日本国が無罪ということなのだ!



「A級戦犯が全員無罪でも、日本国家は無罪ではない」と言った論者は、「国家」とはどういうものと認識していたのか?
 


 (中略)



それはおそらく、国民と国家を切り離し、どこかに「国家」なる怪物がいるとおもっている左翼の思考であろう。

何のことはない。

「A級戦犯無罪は日本無罪ではない」と言っていた学者は、どんなに保守を偽装しようが、

「私は左翼です」と宣言していたに等しかったのだ。



 (中略)



一口に言うならば、「日本が戦争をはじめざるを得なかったのは、インドからシナへとなだれこんだ西半球の侵略が、日本八千万の生存をあやうくするまでにのしかかってきて、日本が生きるためにはそうせざるを得なかった。

それは、日本人のこらずの意思であった。

軍人や政治家は、この国民の意思を行動にうつしたままであった。

日本に、日本人に罪はない」

というのである。



まさにこれが正しい。

「A級戦犯」は日本国民の意思を負託され、

実行する立場にあっただけであり、

彼らの無罪は日本の無罪なのだ。



(注:写真とイラストはデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)








232 - 234ページ 『パール真論』

2008(平成20)年6月28日 初版第1刷発行

著者: 小林よしのり

発行所: 株式会社 小学館








この部分がオイラの「理論好き」「頭でっかち」で、裸眼で見ていないという根拠なのですか?







そうだよ! オマエがムキになってパール判事の理論を繰り返し繰り返し言い張って、無理にこねくり回して「まさにこれが正しい」と理屈を捏(こ)ねているだけだよ! 「理論好き」で「頭でっかち」なオマエが形振(なりふ)りかまわず絶叫している姿が見えてくるのだよ。



でも、パール判事の考え方は正しい!



あのなァ~、僕もオマエのようにパール判事を尊敬している一人なのだよ! でもなァ~、そのパール判事も神様ではない! オマエや僕と同じように不完全な人間なのだよ! だから、正しいと思っても常に批判の目でパール判事の文章を読まねばならない!



デンマンさんはオイラが書いた上の文章の中で誤りがあると言うのですか?



当然だよ。 誤りを犯している。 パール判事は戦争中に日本で暮らしていたわけじゃない! 東京裁判に出席するために日本にやって来て戦時中の事情については資料を読んで勉強したに過ぎない。 「大本営発表」がウソだらけだったことを身にしみて感じたわけじゃない。 「A級戦犯といえど、憲法に従い、輿論に服し」、とオマエは書いているけれど、この“輿論”はウソだらけの「大本営発表」によって操作されていた。 明らかに国民とは別の所に「国家」なる怪物が居た、というのが戦後の日本国民が感じ取った裸眼で見た真実だったのだよ! オマエは熱くなりすぎて冷静さを失って「理論好き」で「頭でっかち」になりすぎている!



熱くなりすぎて冷静さを失っているのは、デンマンさんを含めた左翼ですよ!



オマエは二言目にはサヨク、サヨク!と絶叫するけれど、それはマンガチックだよ!



デンマンさんは、オイラを馬鹿にするのですか?



いや。。。何度も言うように僕はオマエを尊敬している! でも、オマエは冷静さを失っているので、議論が前向きに建設的に進んでゆかない。



そう言ってるのはデンマンさんだけですよ!



いや。。。、僕以外にも、そう言っている人はたくさんいるのだよ。 次の小文を読んでみろよ。




南京大虐殺論争







学者・研究者の反応



肯定論者は、完全否定説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張している。



否定論者は、30万という大量虐殺説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張している。



日本の研究者で、30万人説を主張したり、時代によって変遷する中国政府の公式発表を鵜呑みにしてその度に自説を変更している研究者はいない。

多くの研究者は百から十数万の虐殺者数を推測しているがその差は激しく、仮に少なめに推測するならばそれは歴史上あえて取り沙汰するほどの規模ではなく、多めに推測するならば注目すべき事件となり、その意義も変わってくる。



論争に対する識者からの批判



以上のような日本のおける南京大虐殺論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。



心理学者の中山治は、自著『日本人はなぜ多重人格なのか』の中で、「(虐殺肯定派と否定派が)互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。

事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。

こうなったら残念ながら収拾が付かない。
」と論評。



政治学者の藤原帰一は、自著『戦争を記憶する――広島・ホロコーストと現在』の中において、「(南京大虐殺論争が)生産的な形を取ることはなかった。

論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。

(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない。」と論評。



SF作家でありと学会会長の山本弘は自身のホームページにて、この論争は学術論争ではなくイデオロギー論争であり、左寄りの論者(30万人派、虐殺派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐殺」の範囲を広くし、右寄りの論者(少数派、まぼろし派)は、中国人の犠牲者数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭くしている。

論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである、と論評している。



(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)



出典:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








分かるだろう? オマエのやっているのは歴史の真実を知りたいのではなく、オマエ自身の信条を正当化したいだけなのだよ!







それはデンマンさんの独断と偏見ですよ。



あのなァ~、冷静に裸眼で見れば明らかなことなのだよ!



デンマンさんは裸眼で見ていると言うのですか?



そうだよ。



その根拠を見せてくださいよ。



だったら、まず次の文章を読んでみろよ。




「程瑞芳日記」







私が「程瑞芳日記」に出会ったのは、2005年のことでした。 その2年前から、私達日本側研究者と南京師範大学の歴史研究者が共同で、実践的な南京大虐殺研究のために「南京大屠殺研究援助基金」という研究組織を設立しました。 この基金を基に、南京大虐殺当時に書かれた新たな日記についての研究論文が発表されると南京師範大学の張連紅教授から知らされました。 (中略) 程瑞芳日記とは、1937年当時の南京大虐殺の惨状を克明に記録した日記だと聞いておりました。 (中略) 日記を書き綴った程瑞芳という女性は、ミニー・ヴォートリンと共に金陵女子文理学院に留まり、南京大虐殺と性暴力を目の当たりにし、中国人女性たちを日本兵の暴力から守った人でした。



 (中略)



私は何度もこの程瑞芳日記を読み、傍線を引き、また日本兵の書いた日記や証言の資料を読み返しました。 程瑞芳日記が記述している内容と日本兵が南京で見たり体験したことを話しているたくさんの事例が、驚くほど重なり合っていました。 つまり、安全区や女子学院その他の地域でも、女性への性暴力、市民の連行、集団虐殺、略奪などに関しての出来事が具体的にしかも細部にわたって一致していたからでした。



 (中略)



日本側研究者の多くが、中国人の「証言」は、南京大虐殺や南京レイプの事実として証拠にならないと退けてきました。 日本では、「証言を裏づけがなく時代を経て増幅されるもの」「証言は信憑性がない」「感情がはいっていて客観性がない」と言う人がいます。 侵略戦争を美化する勢力はもちろん、歴史研究関係の部門でも証言者の語る「証言」は取り上げられませんでした。



今回発見された程瑞芳日記は、日本軍が金陵女子大学で起こしたさまざまな暴行を詳しく書き記しています。 南京大虐殺当時、程瑞芳は、毎日体験したことを夜間せっせと、時には深夜に及ぶまで記録として書き記しました。 (中略) 金陵女子文理学院に避難していた多くの女性達やその近くにいた多くの男性達、さらにそこに駐屯していた元日本兵の証言と重ねあわす時、南京国際安全区にある金陵女子文理学院でおきた南京レイプ南京大虐殺の実態が如実に浮かび上がってきます。



(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)








214 - 218ページ 『戦場の街南京』

著者・編者: 松岡環

2009年8月15日 初版第1刷発行

発行所: 株式会社 評論社








これが「裸眼で見る」事の根拠なのですか?







僕は松岡環さんが書いた『戦場の街南京』を何度も何度も読んだのだけれど、裸眼で見て書いている。 つまり、オマエのように熱くなりすぎて冷静さを失って「理論好き」で「頭でっかち」になって書いているわけじゃない。 南京師範大学の歴史研究者と共同で、実践的な南京大虐殺研究をしている。 しかも、金陵女子文理学院に避難していた多くの女性達やその近くにいた多くの男性達の証言、さらにそこに駐屯していた元日本兵の証言と重ねあわせて研究している。 ただ机の上だけで書いているわけじゃない。



デンマンさんは、オイラが机上の空論を書いている、と言うのですか?



いや。。。オマエだって一生懸命になって書いているのだと思うよ。 でも、オマエは中国側の研究者と一緒に研究したことがあるの?



オイラは漫画家ですよ。 歴史研究者ではありません。



だからと言って「理論好き」で「頭でっかち」になって、何事もマンガチックに書いていい、と言う理由にはならない! パール判事だけにハマらずにミニー・ヴォートリン女史や程瑞芳女史の活動にも目を向けるべきだよ。



ミニー・ヴォートリン女史や程瑞芳女史の活動がそれほど重要ですか?



この二人の女性は「南京事件」の歴史的証人として重要な人物だと僕は信じているよ。




南京安全区国際委員会



The International Committee



for Nanking Safety Zone




日中戦争初期の南京攻略戦に際し、市外に避難できなかった中国市民を、南京城内の一部を安全区として保護するために設けられた委員会。

第二次上海事変に際して南市に設立された安全区を手本に、南京に残留した欧米人が中心となって結成された。



略歴



1937年11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウイリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中華民国・日本両政府に認知させるための仲介役を依頼する。

同日、ミニー・ボートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた。

11月22日 南京安全区国際委員会が結成される。委員長は、ジーメンス南京支社の総責任者であるジョン・H・D・ラーベが就く。

12月8日 『告南京市民書』を配布し、安全区への市民の避難を呼びかける。

12月13日 南京陥落



安全区



南京における安全区は南京城内の北西部に設置された。面積は3.85平方キロメートルで、城内全域と比べたなら11%程度の広さにあたる。

安全区は何本かの通りに囲まれており、およそ六角形をしていた。その境界は各地に設置された標識によって明示された。

丘陵地帯が接している南西側は山の稜線が境界とされた。



この地域は高級住宅街であり、本来の住民の一部はすでに市外への避難を済ませていた。

また公共の建物が多かったことも難民の収容に向いていた。

何より国際委員会のメンバーの居宅があるなど、彼らのホームグラウンドであった。

中国軍の施設や陣地からも離れていたが、予定していた地域内の南西の山に陣地が設けられたため、陣地と隣接することになった。



日本軍入城前までに国際委員会は残留していた南京住民20万人余りのほぼ全員を安全区に収容したため、安全区以外の場所には住民はほとんどいない状態となった。

この安全区内には難民のキャンプが多数成立し人口密集地となった。

また、民間人から購入したり盗んだりした民服(便衣)に着替えた敗残兵までが安全区に逃げ込み、民間人と入り混じる結果となった。



メンバー



■マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates)

金陵大学歴史学教授。



■ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch)

委員名簿に名前は載っていないが、安全区の管理責任者として活動した。



■アーネスト・H・フォースター(Ernest H. Forster)

アメリカ聖公会伝道団宣教師。



■ジェームズ・H・マッカラム(James H. McCallum)

連合キリスト教伝道団宣教師。



■ジョン・マギー(John Magee)

アメリカ聖公会伝道団宣教師。16ミリフィルムによる「日本軍の暴行の跡とされる負傷者や虐殺死体」などの映像を残した。



■ジョン・H・D・ラーベ(John H. D. Rabe)

委員長。ジーメンス社南京支社の総責任者。ナチス党員。

1938年2月28日に南京を去りドイツに帰国するが、日本軍の暴虐を止めるよう訴えたことが当時の党の政策に反し、党の監視下に置かれる。



■ルイス・S・C・スマイス(Lewis S. C. Smythe)

書記。金陵大学社会学教授。南京戦およびその後の暴行による被害状況を調査し、『南京地区における戦争被害』としてまとめた。



■エドワルト・スペルリング(Eduard Sperling)

ドイツ資本による上海保険公司の支店長。「日本兵の暴行を体を張って阻止した」と伝えられる。







■ミニー・ヴォートリン(Minnie Vautrin)

金陵女子文理学院教授。宣教師。

学院に婦女子のためのキャンプを開設し、その責任者として強姦や拉致から大勢の女性を保護した。



Vautrin 日記 (英語):

http://www.library.yale.edu/div/Nanking/Vautrin.html

(耶鲁大学図書館收藏)



(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。

赤字はデンマンが強調)



出典:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








つまり、ミニー・ヴォートリン女史や程瑞芳女史の活動を調べれば南京大虐殺否定論が裸眼で見ていない机上の空論だという事が分かるとデンマンさんは断言するのですか?







あのなァ~、僕は東京裁判否定論と南京大虐殺否定論には、それ程の関心はない。 この論争に参加している連中は所詮、オマエを含めた物書きとか学者とか、マスコミや出版界に依存してメシを食べてる連中なんだよ。 庶民にとって論争の行方などどうでもいい。 それよりも、どのような政治的な状況になっても戦争になっては困る。 戦争など絶対にやりたくないし、あっては困る。 それが庶民の願いだよ。 オマエだって第3次世界大戦になって、オマエが戦死して、残された子供に次の女の子のような経験をさせたくないだろう?








アメリカの空襲を受けて、東京をはじめ都市部はどこも焼け野原。

おまけに政府は戦争を続けるために国債を大量に乱発していたので、敗戦直後はものすごいインフレになった。

物価は数十倍になって、戦前に貯めていた貯金や財産は無に等しくなった。

おまけに空襲で家をなくし、人びとは食糧不足で苦しんだ。







1945年3月の東京大空襲で



焼け野原になった江東区。




「約310万人が死んだ」とか簡単にいうけれど、一人の人間が死ぬことは、遺族や縁者に、大きな傷を残すことだった。

作家の夢野久作の長男だった杉山龍丸という人は、敗戦直後に復員事務の仕事に就いていたときのことを回想して、こう述べている。



「私達は、毎日毎日訪ねてくる留守家族の人々に、貴方の息子さんは、御主人は亡くなった、死んだ、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた」。

「留守家族の多くの人は、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった」。

杉山はある日、小学校二年生の少女が、食糧難で病気になった祖父母の代理として、父親の消息を尋ねにきた場面に出会った経験を、こう書いている。




私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島(フィリピン)のルソンのバギオで、戦死になっていた。

「あなたのお父さんは---」

といいかけて、私は少女の顔を見た。 やせた、真っ黒な顔。

伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるをみつめていた。

私は少女に答えねばならぬ。

答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。

「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです。」

といって、声がつづかなくなった。

瞬間 少女は、一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。







…しかし、少女は、

「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。 おとうちゃまが、戦死していたら、係りのおじちゃまに、おとうちゃまが戦死したところと、戦死した、ぢょうきょう(状況)、ぢょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの。」



私はだまって、うなずいて……やっと、書き終わって、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。

涙一滴、落さず、一声も声をあげなかった。

肩に手をやって、何か言おうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血が出るようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。

私は、声を呑んで、しばらくして、

「おひとりで、帰れるの。」と聞いた。 少女は、私の顔をみつめて、

「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。 だから、行けるね、となんども、なんども、いわれたの。」

…と、あらためて、じぶんにいいきかせるように、こっくりと、私にうなずいてみせた。

私は、体中が熱くなってしまった。 帰る途中で私に話した。

「あたし、いもうとが二人いるのよ。 おかあさんも、しんだの。 だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。 あたしは、泣いてはいけないんだって。」

…と、小さな手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。

どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、何が出来るのか?




(注: 写真とイラストはデンマンライブラリーから貼り付けました)








84 - 88ページ 『日本という国』

著者: 小熊英二

2006年3月3日 初版第1刷発行

発行所: 株式会社 理論社








『漫画家の壁』に掲載

(2011年3月10日)








もちろん、オイラの娘にはこんな体験をさせたくないですよ。







そうだろう? そのためにはオマエも、もっと裸眼で見てモノを描けよ!




【レンゲの独り言】







ですってぇ~。。。

デンマンさんは言いたい放題のことを言ってますよね。

ところで、あなたは小林よしのりさんが書いた『戦争論』を読みましたか?

『パール真論』を読みましたか?

デンマンさんが取り上げた『「個と公」論』も読みましたか?



『戦争論』は65万部売れたのですって。。。

出版されたのは、もう10年以上も前のことですから、現在までにはもっと売れているもしれません。

かなり話題になりましたよね。



あなたは大東亜戦争を肯定しますか?

戦争が正義か?

平和が正義か?

考えてみたことがありますか?



とにかく、また、あさってが面白くなりそうです。

だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。

じゃあねぇ。












ィ~ハァ~♪~!



メチャ面白い、



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こんにちは。ジューンです。



わたしもデンマンさんに薦められて



『「個と公」論』を読んでみましたわ。



インタビュー形式で対談のようになっています。



マンガは全く描いてありません。



言葉を惜しみなく駆使した実験だそうです。



インタビュアーが「時浦兼」という人物なんですね。



同書の403ページに書いてあります。



でも、「時浦兼」という人物が実在したとしても



二人の会話がそのまま活字になったのではないと



わたしは思います。



2ちゃんねる流に言えば「自作自演」ですよね。



良くてインタビューに見せかけた「創作」だと思います。




『パール真論』を読んでいたら「時浦兼」という人物は“小林漫画”スタッフの一人だと書いてありましたわ。



このような事は『「個と公」論』の中で明記すべきだと思います。



そうでないと誤解を招きますよね。




デンマンさんのこれまでの記事を読めば



分かると思いますけれど、



上の記事はデンマンさんの「自作自演」です。



マンガ家の「オマエ」と「僕」はデンマンさんが



一人で二役を演じています。



つまり、「創作」です。



ただし、記事で引用した本の内容は



小林よしのりさんが書いたそのものを引用しています。



誤解がないように老婆心から申し上げました。







ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。



楽しいから、ぜひ読んでみてくださいね。



■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』







では、今日も一日楽しく愉快に



ネットサーフィンしましょうね。



じゃあね。








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