すはま物語
デンマンさん。。。「すはま」にこだわっていますわね?
拘っているわけではないのですよ。。。これも元々は小百合さんのメールが始まりですよ。 覚えていますか?
ええ。。。そう言われてみるとメールの中で“すはま”のことを書いたことがありましたわ。
Subj:小百合さんの風邪が全快するように
バンクーバーの空からマリア様に
お願いいたしますよ。
Date: 19/12/2007 12:39:12 AM
Pacific Standard Time
(日本時間:12月19日午後5時39分)
From: barclay1720@aol.com
To: fuji@adagio.ocn.ne.jp
少し 頭痛が残ってますが薬を飲むほどでなく
今日は母のところに行くつもりです。
健康第一ですよ。
無理しないようにね。
ヽ(´ー`)ノ
健全な心は
健全な体に宿る。
幸せを感じる心は
健全な体に宿る、ですからね。
日曜の納骨はとても遠いところでした。
朝はやく8時半に家をでて、実家の仏壇に父の遺骨を
迎えにいき、群馬の榛名山まで午後の供養に
間に合うよう連れて行きました。
榛名山ですか。。。
懐かしいですよ。
僕の親父がまだ生きていた頃だから、
(亡くなったのが1999年の1月でした。)
確か1998年の11月か1997年の11月でしたよ。
僕が運転して家族で水上へ行き
その帰りに榛名山までドライブしました。
榛名湖が凍っていて公魚釣り(わかさぎつり)をしている人がたくさん居ましたよ。
なぜ水上(みなかみ)だったのか?
今思い出したら、親父が小学校の校長先生をしていたので、退職後も共済会で安く泊まれる旅館が水上にあったのです。
その旅館を利用するために水上にしたのでした。
親父がビデオ撮影に凝っていて、
カメラを始終動かしていましたよ。
その時のビデオもあるはずです。
家族旅行のビデオを得意げに見せる愚か者が多いのですが、あれを面白がるのは写っている家族だけですよ。(微笑)
でも、いつか機会があったら小百合さんにも見せますよ。(爆笑)
うへへへへ。。。
\(@_@)/
その日はとても風が冷たく
屋根に雪の積もった車がずいぶん走ってました。
うん、うん、うん。。。
分かりますよ。
“赤城おろし”は寒いですからねぇ~。
“榛名おろし”と言うのは、(なぜか?)聞いた事がないですが。。。
帰りの途中 前橋、伊勢崎は
ここ佐野市より大きな町で
子供の好きな本屋 おもちゃ屋 かわったレストラン(外見)があり、せっかく遠くまできたからあちこち寄り道して…
家につくと夜7時。
1日中私の運転でずーっと つかれて
帰り道 頭痛がはじまって風邪をぶり返しました。
そうですよ。
うちの家族も、ドライブインに寄って山菜そばやうどんを食べるのが何よりの楽しみでしたね。
あれは、前橋の近くだったか?
名物の“黒豚”のトンカツ屋を探しても見つからず、
前橋警察署まで聞きにいったのですよ。
(前橋だったか?はっきりと覚えていませんが。。。)
父はどんな風景を毎日をみていくのかな~?
と思い、墓石のうしろにまわり正面をみました。
何もさまたげる物もなく180度いっぱい
大地と空だけでした。
大地なんておおげさで 普段使わない言葉です。
榛名山の裾のように広がる だだっ広い高原です。
子供達も「ここに納骨するの?」と寂しそうでした。
うん、うん、うん。。。
榛名山のあたりは、なぜか、寂しそうですよね。
群馬の寒々とした空風(からっかぜ)のイメージですよね。
父の好きだった、ビールや どらやき りんご 赤飯
手ずくりしたクッキー、すはま(ピンクのもち)を備えて
しばらく一緒に冷たい風の中にいたのです。
うん、うん、うん。。。
小百合さんは父親思いですねぇ~
父と娘のほのぼのとした家族ドラマが思い浮かぶようですよ。
(#´ー`) フッ
ん。。。? “すはま”? 初めて聞きました。
ピンクと白のもちは、お供えなどで、よく僕の母の実家でも目にしますが。。。
私の祖母、祖父も先にはいってます。
父はやっと病気に開放されて、親の元に戻っていきました。
うん、うん、うん。。。
そうでしょう。。。そうでしょう!
一緒に仲良く眠っている事でしょう!
来春、暖かい日にお弁当でも持っていきます。
そうですよ。
亡くなってからでも親孝行は大切ですよね。
そう言う僕は墓参りなど全くしない新人類ですよ。うしししし。。。
でも、カナダの空の下から、いつも亡くなった父親の冥福を祈願しています。
小百合さんのお父さんも、小百合さんの心温まる墓参を草葉の陰で、きっと喜んでいると思いますよ!
軽井沢の“山の家”をお父さんに見せる事ができないので残念でしょうが、でも、軽井沢の“幸福の谷”はお父さんの眠る榛名山の裾に続いていますからねぇ~。
バーナビーとは違いますよねぇ。
ヽ(´ー`)ノ
そう言う訳で、いつか、“幸福の谷”を小百合さんと歩きながら、亡くなった人の冥福を祈りたいですね。
そして、このメールの話もしたいものですよね。
(・_・;)
これは、全く脇道にそれてしまいましたア。
(#´ー`) フッ
ところで、今日(日本時間の19日)は“レンゲ物語”の記事を書きました。
H系のすっご~♪~いレンゲさんの恋愛詩が載せてあります。
時間があったら小百合さんもぜひ読んでみてくださいね。
風邪がすっかり治りますよ!(^ー^*)
僕が保証いたします。
(^_-)
■ 『恋心とロマンがムカつかせるのよ』
(2007年12月19日)
では、風邪を治すために上のリンクをクリックしてくださいね。
僕も小百合さんの風邪が全快するようにバンクーバーの空からマリア様にお願いいたしますよ。
では。。。 \(^-^)/
『榛名山の小百合さん』より
(2007年12月20日)
『実家の思い出』に掲載
(2011年3月16日)
でも、ずいぶん前のメールですわ。 どうして今更「すはま」などを持ち出してきたのですか?
あのねぇ、たまたま僕は『別冊 太陽』で「東院庭園」について読んだのですよ。 その中に「すはま」が出てくるのですよ。
私がメールに書いた「すはま」ですか?
それが違うのですよ。 食べ物とは全く関係ない。。。と言うよりも食べ物の「すはま」の由来が分かるのですよ。
日本庭園の源流
平城宮跡には「東宮」とよばれる張り出しがある。 孝謙・称徳天皇の頃は「東院」とよばれ、儀式や宴会が催されたという。
そこには複雑な地形の庭園が構成され、池の北には築山石組、西南部には中島、さらに池の汀(みぎわ)は小石を敷き詰めた州浜(すはま)が設けられた。
それは平安時代以降、自然をモチーフとして洗練されていく日本庭園の原型ともいえる庭園であった。
こうした庭園の遺構は飛鳥での発掘調査においても明らかになりつつあるが、では、日本人が求めた庭の源流とはどのようなものだったのだろうか。
(中略)
巨岩・巨石は磐座(いわくら)・磐境(いわさか)と称されている。 磐座は神が座す岩であり、磐境は神域を境する石群である。 日本庭園の本質は石にあると言っても過言ではない。 そして、その拠って来るところは、磐座(いわくら)・磐境(いわさか)に始まるといってよいだろう。
日本庭園の源流は神霊を招く場としてあるということにつきる。 神霊とは人知を超越した畏敬すべき存在であり、捉えどころがない。 万物の成り立ちそのものであるから、神仏の差異もない。 そのような模糊とした空間を作り出しているのが日本庭園である。
東院庭園(平城宮跡内)
1967年、平城宮東張り出し部の東南隅に大きな庭園の遺構が発見された。
この場所は『続日本紀』にある「東院」に当たることから「東院庭園」と名付けられる。
東院庭園は東西80メートル、南北100メートルの敷地に複雑な汀線をもつ州浜敷きの池が設けられ、いくつもの建物が配されていた。
池は前期と後期の二時期に分けられ、後期(奈良時代中頃)になると前期の逆L字型から入り江や出島、北部に築山石組をもつ形に作り替えられた。
建物もそれに伴い作り替えられ、称徳天皇は「東院玉殿」を建て宴会や儀式を催したという。
(注: 写真と地図はデンマン・ライブラリーから)
80 - 82ページ 「日本庭園の源流」
小埜雅章(おのまさあき)著
『別冊太陽 日本のこころ - 165
平城京 平城遷都1300年記念』
監修: 千田稔
2010年4月1日 初版第3刷発行
発行所: 株式会社 平凡社
この上の文章には「すはま」の由来らしきものは書いてないようですけれど。。。
うん。。。確かに食べ物の「すはま」については書いてないのですよ。 でもねぇ~、調べてみると上の庭園の「州浜」が食べ物の名前「すはま」になったというのですよ。
どういうわけですの?
あのねぇ、波がよせては返す、優しい音。 その中に小さな小島がある。 上の庭のように洲が入り組んでいる浜辺の事を、州浜と呼ぶのですよ。 日本画には古くから、この州浜の光景が描かれてきた。
いつしか、「州浜」がパターン化されて、次のような模様になって家紋(州浜紋)などに使われ、日本人の生活の中にはいってきたというのですよ。
それで上のような形をしたお菓子を「すはま」と呼ぶようになったのですか?
その通りですよ。
でも、上の「すはま」は州浜紋に似ていませんわ。
確かにそうですよ。 州浜紋には似ていない。
それなのに、どうして「すはま」と呼ぶのですか?
あのねぇ、よく見ると、やっぱり「すはま」に似ているのですよ。
どこが。。。?
次の写真を見ればすぐに分かります。
あらっ。。。「州浜」の小石に似ているのですわね。
その通りですよ。
。。。で、この事を言うためにわざわざ「すはま」を取り上げたのですか?
もちろん、それだけではありませんよ。
。。。で、他に何か面白いことでもあるのですか?
いや。。。小百合さんにとって面白いかどうか、僕には分からないけれど、称徳天皇が「東院玉殿」を建てて宴会や儀式を催したという箇所を読んで急に懐かしくなったのですよ。。
何が懐かしくなったのですか?
だから、称徳天皇と「東院庭園」と平城宮跡の朱雀門ですよ。。。
朱雀門
あらっ。。。このような物がそれほど懐かしいのですか?
あのねぇ~、僕は称徳天皇に興味をもって、ずいぶんと本を読んだことがあったのですよ。 それで記事も書いたことがある。 ちょっと読んでみてください。
阿部内親王は、なぜ女帝になったのか?
天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。
阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。
私の母上の大皇后(光明皇后)が私にお告げになった。
「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。
それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」
このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである
SOURCE: 『続日本紀』
つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。
一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。
天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。
聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。
それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。
持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。
藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。
美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。
藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。
『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。
藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。
橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。
感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。
僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。
■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い
このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?
長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。
本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。
上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。
でも、そればかりではないと僕は思います。
阿修羅像のまなざしの中に込められた奥深い苦悩は阿部内親王のものであると同時に光明皇后の感じてたものではなかったのか?
この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか?
一体、その情念の苦悩とは?
それは藤原仲麻呂を間にしての三角関係だったと言う事ができるかもしれません。
阿部内親王が孝謙天皇として即位したときの実権は、母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙女帝と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、光明皇太后は娘をないがしろにしていたわけです。
これでは孝謙女帝はおもしろくありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。
要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。
藤原氏の野望、つまり、不比等の亡き後は、橘三千代に引き継がれ、三千代の亡き後には光明皇后に引き継がれた藤原氏の野望。
この野望さえなければ、阿部内親王はこれまでの他の内親王のように、すでに結婚し家庭を持ち子供も生まれて、ささやかな女の幸せに浸(ひた)っていたかもしれません。
しかし、阿部内親王には、それは許されなかった。
藤原一族の繁栄と栄光のために、阿部内親王は“犠牲”にならなければならない“宿命”を負わされていた。
他に藤原氏の血を持つ天皇後継者がいなかったから。。。
天皇という日本国の最高位につきながら夫を持つことが許されない。
これは“むごい”と言えるかもしれませんよね。
生きていながらの“生贄(いけにえ)”---藤原氏のための“犠牲”
16才の阿部内親王には、まだそうした将来までは、はっきりと目には見えていない。
しかし、自分が結婚できない宿命にあることは、この時点ですでに十分に知り尽くしている。
この聡明な少女は、多難な将来を予感して苦悩している。
この表情に、僕はそのような聡明な少女の苦悩を見るのですが、僕の思い過ぎでしょうか?
『日本女性の愛と情念の原点』より
2006年5月30日 (火曜日)
あらっ。。。ずいぶんと熱心に書いたものですわね。 でも、阿部内親王、のちの称徳天皇が「すはま」と関係あるのですか?
もちろんですよ。 上の文章にも書いてあるでしょう! 複雑な汀線をもつ州浜敷きの池がある「東院庭園」で称徳天皇は宴会や儀式を催したのですよ。
でも、「東院庭園」に立っているのは私ではありませんか!
そうですよ。 軽井沢タリアセン夫人が「東院庭園」を訪ねたのですよ。
私はまだ平城京跡へ行ったことがありませんわ。
だから、僕がわざわざ「すはま物語」を書いて、こうして小百合さんを「東院庭園」へ連れて行ったのですよ。 うししししし。。。
分かりましたわ。。。で、デンマンさんとって興福寺の阿修羅像は少年ではなく16才の阿部内親王その人だと信じているのですか?
そうですよ。 僕が仏師ならば阿部内親王の内面を阿修羅像を借りて描き出しますね。
つまり、阿修羅像を造った仏師は阿部内親王の内面を表現しようとしたのですか?
それ以外に考えられませんよ。 阿修羅像をもう一度じっくりと見てくださいよ。 多難な将来を予感した16才の阿部内親王の苦悩が余すことなく表情に出ているとは思いませんか?
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
阿部内親王は孝謙・称徳天皇として2度も女帝の座につくのですけれど、不幸な女性だったようでござ~♪~ますわ。
道鏡がらみの言い伝えのせいで日本史からほとんど抹殺されていた悲劇の女帝です。
この阿部親王という女性は、後世によからぬことを言われたました。
この女性が攻撃の対象となったというより、道鏡がボロクソに言われたのでござ~♪~ますわ。
その道鏡を庇護したというので、孝謙・称徳天皇もボロクソに言われたというわけです。
このコンビは江戸時代になるとアダルトグッズの業界ですっかり有名になってしまいました。
うふふふふふ。。。
葛飾北斎が「魂胆遣曲道具」の中で『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』と画題をつけて道鏡を登場させていますが、道鏡が鎧兜をつけて戦いに臨んだということはもちろん記録にありません。
この鎧甲(よろいかぶと)とは性生活をサポートするための性具なのですわ。(微笑)
それに道鏡の名を付けたというわけです。
詳しいことは次の記事を読んでくださいませ。
■『道鏡と孝謙女帝は性具でも有名』
とにかく次回も面白くなりそうです。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
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■『アナクロニズム(2011年3月27日)』
こんにちは。ジューンです。
道鏡さんは本当に悪者だったのでしょうか?
わたしは偉いお坊さんだったと思うのですわ。
なぜなら、当時、僧を目指すということは、
言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟と
それに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのですわ。
生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。
道鏡は語学にも才能があったと見え、
留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って
唐招提寺の鑑真を訪れた時、
二人の会話が理解できたと言います。
道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に
異国語を習得することは大変なことでした。
あなただって、想像がつくでしょう?
だから、道鏡さんが相当の頭脳の持ち主であったことは
まず間違いないようです。
でも当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、
勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。
これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える
“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決めました。
それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて
日本にやって来たというわけです。
以来、僧侶として認められるためには、
“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。
この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を
持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、
そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の
3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。
道鏡のレベルの僧侶になると、
セックスにむちゃくちゃをするような僧は
まずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。
とにかく鑑真和尚が居た頃の話ですから。。。
ところで、卑弥子さんにもちょっと信じがたいような
恋物語がありますわ。
関心があったらぜひ次のリンクをクリックして
じっくりと読んでみてくださいね。
■『平助さんが卑弥子さんに
恋をしたのがウンのつき』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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