2011年6月5日日曜日

冠詞の悲劇

 


冠詞の悲劇


















the と a







東京の新宿界隈を歩いていたら、知らない男性に英語で話しかけられた。 アジア系の外国人のようで、私に次のような質問をした。



Can you help me? I'm looking for the department store.

(すみません、デパートを探しているのです)



最初、どう返事をすればいいかわからなかった。 20年以上日本に住んでいて、新宿の周辺もよく知っているが、その簡単な質問にすぐに答えられなかったのだ。 原因は the だ。



the は英語でもっとも使用頻度が高く、もっとも意味深い単語である。 それにもかかわらず、日本人をはじめとして、英語を母国語としない人にとっては、もっとも使いにくい英単語だと思う。 私が新宿で当惑したのは、出会った人が英語のネイティブではなくて、その the の使い方が間違っていたからだ。



the department store の the で何が間違っていたかを説明する前に、先にコミュニケーション(情報伝達)について少し考えたい。



会話、講演、論文などで他の人に情報を伝えようとするときに、もっとも大切なのは、自分が伝えたい内容を相手に正しく理解させることだ。 それはコミュニケーションの基本である。 しかし、知識や理解力は相手によって違うし、時と場合によって、私たちが使う言葉が相手に別の意味に解釈されることもある。



 (中略)



私が新宿で混乱した理由は、this や she や it と同じように the にも「相手が知っている」という意味合いが含まれているからだ。



I'm looking for the department store.



と言えるのは、通例、話し手が探しているのが具体的にどのデパートなのか、聞き手が知っているときだけだ。 しかし、新宿には伊勢丹、小田急、高島屋など、複数のデパートがあるから、初対面のアジア人がどれを探しているのか、わかるはずがなかった。



結局、私は聞き返した。



Which department store are you looking for?

(どのデパートを探していますか)



相手は答えた。



Any department store will do.

(どのデパートでもいいのです)



私は近くにあるデパートに案内した。 もしも彼が最初から



I'm looking for a department store.



と、the の代わりに a を使ってくれたら、こうして問題は起こらなかっただろう。



(注: 写真はデンマン・ライブラリーより

赤字はデンマンが強調)








14 - 17ページ 『英語のあや』

著者: トム・ガリー(Tom Gally)

2010年10月25日 初版発行

発行所: 株式会社 研究社








デンマンさん。。。あんさんも the と a の使い方を間違えることがありはるのォ~?







わては英語圏で20年以上暮らしているから、the と a の使い方を間違えることは、まずあらへん。



マジで。。。?



そやけど、うっかりして言い間違えることはあるねん。 まだネイティブ・スピーカーのように完璧にペラペラしゃべれるわけではないからなァ。



あんさんは20年以上も英語をしゃべっておるのに、まだ間違えることがあるのォ~?



当たり前やがな! Such is the imperfect nature of man! という文句もあるねん。



どういう意味やのォ~?



つまり、「人間は完璧ではないから、そういう間違いもするねん」という意味やんかァ!



マジかいなァ!?



めれちゃんも辞書を調べてみればええやんか! そういう意味なのやァ!



それで上のエピソードのアジア人はどうして間違いはったん?



あのなァ~、そのアジア人はかなり英語がしゃべれる人やァ。



どうして、あんさんには、そうやと判りはるのォ~?



なぜなら、そのアジア人はトムさんの質問に答えて次のように言うことができた。




Any department store will do.

(どのデパートでもいいのです)




英会話に慣れておらんと、このような使い方(will do)が咄嗟(とっさ)に出てこんものやァ。



そないなものやろか?



そういうものなのやァ。 つまり、かなり英会話に慣れているアジア人でも、日本人であれ、中国人であれ、韓国人であれ、ネイティブ・スピーカーでない限り the と a の使い方はごっつう難しいということなのやァ。



そないなものですやろか?



あのなァ~、養老猛司さんが『バカの壁』の中でも書いていたでぇ~。



どないに。。。?



ここに書き出すよってに、めれちゃんも読んでみたらええやん。




意識と言葉



日本人には理解しづらい「定冠詞と不定冠詞」の違い、つまり「the(定冠詞)」と「a(不定冠詞)」の違いも分かってきます。 意識の共通性を考える上で、ここでは言葉を脳がどう処理するかを考えてみましょう。

例えば「リンゴ」という言葉を考えて見ます。 リンゴという言葉を全員に書かせると、全員が違う字を書く。 当たり前です。 私の字とあなたの字は違う。



 (中略)



音声にしても同じことです。 英語の正しい発音なんていっているけれど、それじゃあほんとうに正しい英語の発音をしてみろといったら、それはその人の発音にしか絶対にならない。 ネイティブの発音だって人それぞれどこか違う。

「apple」を「アップル」と言うか「アポッ」というか「アッポウ」と言うか、同じ発音をしているつもりでもそれぞれ異なる。

同じ人間が同じ言葉を同じように発音したつもりでも、インクの乗り同様、やはりどこかが違うのです。 しかし、我々はそれを同じリンゴとして、全員が了解している。







私の知る限り、この問題を最初に議論したのがプラトンです。 彼はなんと言ったかというと、リンゴという言葉が包括している、すべてのリンゴの性質を備えた完全無欠なリンゴがある。 それをリンゴの「イデア」と呼ぶのだ、と。

そして、具体的な個々のリンゴは、その「イデア」が不完全にこの世に実現したものだと言ったのです。 つまり、言葉は意識そのもの、それから派生したものなのです。 プラトンが言いたいのは平たく言えばこういうことです。

「おかしいじゃないか。 リンゴはどれを見たって全部違う。 なのに、どれを見たって全部違うリンゴを同じリンゴと言っている以上、そこにはすべてのリンゴを包括するものがなきゃいけない」

この包括する概念を彼は「イデア」と定義したのです。



プラトンはこのように全部包括する概念を考えた。 では、我々がリンゴという言葉を文字に書いても、音声にしても、全部違うのに、それを同じリンゴだと言っているのはなぜか。

それは、まさに我々が意識の中で、すべてを同一のものだと認識することが出来るゆえに起こる現象なのです。

本来なら、外の世界は感覚で吟味する限り、全てのものが違う。 あらゆるリンゴは全部違っている。 さっきの文字の話しと同じ。 あらゆる人間は違った人間なのと同じです。

ということは、そこに「人間」という言葉は、本当ならば使えないはずです。 全部が違うことを厳密に考えれば。



ではなぜ意識は、それを無視して、「同じ」リンゴだ、と認識する機能を持たなくてはいけないのか。 脳が、それぞれの情報の同一性を認めないことになると、世界はバラバラになってしまうからです。 耳から認識した世界と目から見た世界が別ではしようがない。 だから同じだと脳=意識は言わざるを得ない。



 (中略)







「机の上にリンゴがあります」と言うときに、英語では「There is an apple on the desk」と言う。 このときの意識の流れはこうなります。

「机の上に何かあって、それが視覚情報として脳に入ってきた時に、私の脳味噌で言語活動が起こった、リンゴ活動が起きた」



その時は「an apple」なんです。 この時点では、あくまでも、視覚情報として入ってきた「赤くて丸い物」に対して脳の中で「リンゴ活動」が発生した結果としての「リンゴ」に過ぎない。 不定冠詞が付く時は脳内の過程に過ぎないのです。



では次に、その外界のリンゴを本当に手で摑んで齧(かじ)ってみます。 もしかするとそれは実際には、蝋細工かもしれません。 ともかく、この時点でようやく実体としてのリンゴになります。 それが英語では「the apple」になります。 実体となったから定冠詞が付く。

大きな概念としてのリンゴではなく、ある特定の私が手にした(場合によっては実は蝋細工のレプリカだった)リンゴになった。 外界のリンゴはそれぞれ別々な特定のリンゴだと言うことです。
 


(注: 赤字はデンマンが強調

イラストはデンマン・ライブラリーより)








70 - 75ページ

『バカの壁』 著者: 養老猛司

2004年1月30日 第45刷発行

発行所: 株式会社 新潮社








どうやァ、めれちゃん? 分かるやろう?







なんだかプラトンまで出てきよって、哲学的になってしもうて難しいやん。



そやけど、「the(定冠詞)」と「a(不定冠詞)」の違いがどういうものなのか? 上の説明を読めば分かるやろう?



まあ。。。何となく分かりますわ。。。んで、「冠詞の悲劇」ってなんやのォ~?



あのなァ~、「the(定冠詞)」と「a(不定冠詞)」の使い方を理解してなかったばっかりに日本人の歴史研究者が中国人の女性の心を傷つけてしまい、裁判になってしもうたのや。



マジかいな?



このような時に冗談やウソが言えるかいな。 しかも、挙句の果てに日本人研究者が有罪になったと言う話なのやァ。



ホンマに。。。?



めれちゃんのために、ここに書き出すから読んでみたらええやん。




あのなァ、オマエが本の中でも紹介している亜細亜大学教授の東中野さん---この人も欧米で半年以上暮らしたことが無い。



どうして、そんな事がデンマンさんに分かるのですか?



その質問に答える前にオマエがどのように東中野教授を紹介したか?その部分をもう一度読んでみろよ!








「南京虐殺」に関する研究は現在急速に進んでいます。亜細亜大学教授・東中野修道(おさみち)氏の欧米の第一次史料を徹底的に研究し、『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社)で、「『南京虐殺』を証明し得る公式記録、即ち歴史学で言う一等史料、二等史料、三等史料が、ひとつもない」

という重大な結論を発表しました。

ニセ写真のケースなどに顕著ですが、「南京虐殺」の証拠として提示されているのは、すべて資料作成者の明らかでない「四等史料」と、いかなる基準で作成されたのかわからない「五等史料」であり、それらを歴史叙述の根拠とすることは事実無根の宣伝(プロパガンダ)である、という結論です。

『新・ゴー宣』でも、それらの研究の成果を踏まえ、第五巻の特集『南京の本当の真実』で『戦争論』よりもさらに詳細に「南京虐殺」の虚構性を指摘しました。



「歴史学」における正当性を評価するのは「史料批判」にある。

つまり歴史資料の信憑性を徹底的に審理しなければならないってことは、はっきり意識しておかなければならないよね。

常に史料批判をしながらじゃないと歴史は語れない。

それなのに、本田勝一とか左翼連中は全く史料を無視して、おそらく当時八路軍(パーロ軍=中国共産党軍)にいたんだろうと思われるじーさん、ばーさんたちから「証言」を集めてくるようなバカなことをずーっとやってきたわけだけど、あんなもんは全然史料に値しないんだから。

思い込みだけでモノ語るんじゃなくて、ちゃんと徹底的に史料批判をやった学者の本も出ているんだから、やっぱり今の時点では「虐殺があった」と主張するなら東中野修道氏に戦いを挑むしかないんじゃないの?



(注: 赤字はデンマンが強調のため。

写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました)








195 - 197ページ 『「個と公」論』

著者: 小林よしのり

2000年5月10日 第2刷発行

発行所: 株式会社 幻冬舎








つまり、デンマンさんは東中野先生に戦いを挑むつもりなのですか?







もう戦いは済んでいるよ!



マジで。。。?



次の小文を読んでみろよ。








東中野の論法は、被害者の証言にたいしてもつかわれる。 南京事件当時、八歳の少女だった夏淑琴さんが一家九人も殺害され、四歳だった妹とともに孤児として生きなければならなかったことを証言したのにたいし、東中野は「夏淑琴が事実をありのままに語っていれば、証言に食い違いのおこるはずもなかった」、証言内容に「一点の食い違いがあってもならない」と、証言記録(これも本人ではなく聞いた者が記録したもの)によって年齢や家族数が一致していない、として夏淑琴さんを「ニセ被害者」と書いたのである。 この論法は、東中野が聞き取り調査資料の扱いの基本も知らないことを意味している。 聞き取り調査の場合、証言者の数や年、月日に関する記憶の誤りはさほど問題にならない。 大切なのは基本的な体験記憶である。 夏淑琴さんの証言ではこの体験記憶は一致している。



さらに、ドイツ外交官ローゼンの外交文書にあった夏淑琴さんの家族の惨劇の場面の報告で、夏さんを bayoneted とあるのを「銃剣で突き殺した」と訳して(「銃剣で突き刺した」と訳すべきところ)、夏さんが死んだことにし、その後に the 8-year old girl が負傷して生き残ったと記されているのを、the(その)とある意味が理解できずに、生き残ったのは夏さんでなく、別の少女である、つまり夏淑琴さんは死んだはずなので、負傷して生存したと証言している夏淑琴さんは「ニセ被害者」であるというのである。 英文の初歩的な誤訳にもとづいて、夏淑琴さんを「ニセ被害者」と断定してはばからないのである。



日本人の研究者に「ニセ被害者」と書かれた夏淑琴さんは心に大きな衝撃と傷を受け、憤りと無念さで精神不安定な状態に陥った。 その怒りと悲しみから東中野の本を名誉毀損で提訴したのである(2006年6月)。 夏淑琴さんが来日、東京地裁の法廷に立って、「東中野に直接申し上げたい」と証言したが、東中野は法廷にあらわれることなく、準備書面で自分は「学問的な見解を述べたまで」と繰りかえし、自分の言論が被害者の夏淑琴さんの心を傷つけた「第二の罪」を犯しているという自覚はまったくない。



同裁判の東京地裁の判決が2007年11月2日に出され、夏淑琴さんの名誉毀損を認定し、慰謝料など400万円の支払いを命じた。 判決文は「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」と言い切った。 東中野の研究者としての資格を否定する厳しいものである。 東中野は「非常に心外だ。控訴する方針だ」とのコメントを出したという(『朝日新聞』2007年11月3日)。



(注: 写真はデンマン・ライブラリーより

赤字はデンマンが強調)








247 - 249ページ 『南京事件論争史』

著者: 笠原十九司

2007年12月10日 初版第1刷発行

発行所: 株式会社 平凡社








デンマンさんはオイラの本を読んだのでしょう?







もちろんだよ!



だったら、上の本を書いた笠原さんには問題があるのですよ。 知らないのですか?



分かっているよ。 オマエの言おうとしている事は分かっているんだよ! 僕はオマエが言おうとしている事を本の中で読んだよ。




この本の中でも特に「小林よしのり」をムキになって攻撃しているのが、都留文大教授・笠原十九司(とくし)氏です。 この人は、著書『南京事件』(岩波新書)で写真誤用事件を起こし、その経緯を『戦争論』第11章『反戦平和のニセ写真を暴け』に描かれた人です。



日本軍が支那人の農民、女・子供を、敗残支那兵の略奪から守っていたという写真を「日本軍に拉致される中国人女性」として平気で載せてしまう、つまり史料批判をしていないわけだから、結局歴史学者として失格なんだよ。 まあそれでも今まで左翼の中では通用したんだろうけれどね。 写真誤用がバレてもせいぜい二千部の岩波新書の写真を差し替えればいいだけなんだから。 ところがそれが今度は65万部で大宣伝されちゃった。 それでプライドが傷ついたのかもしれんけど、読者の方だって目が肥えてきて、水準が上がってしまっているんだからしょうがないよ。 史料批判も何もしない写真をいくら載せてしまったって、これからはどんどん見破られるよ。








197 - 198ページ 『「個と公」論』

著者: 小林よしのり

2000年5月10日 第2刷発行

発行所: 株式会社 幻冬舎








読んだのだったら笠原さんの本など無視してくださいよ!







あのあァ~、そのように言う事からも、オマエが極めて人生経験が乏しいことが垣間見えるのだよ!



デンマンさんは、オイラを批判するほど人生経験があると自惚(うぬぼ)れているのですか?



人生の半分以上を海外で暮らしているから僕の人生経験がオマエの人生経験よりも2倍もある!なんて事を僕は言うつもりは無い。 でもなァ、半年以上海外で暮らした経験の無いオマエと比べれば僕は海外でさまざまな考え方や独断と偏見を持っているたくさんの人間に出会っている。 この程度の事はオマエにも理解ができると思うんだよ。



だから、どうだと言うのですか?



あのねぇ、これまでの僕の人生経験から、はっきりと言える事は、完璧な人間などこの世界には存在しないと言う事だよ。



オイラだってぇそんな事ぐらい分かっていますよ。



だったら笠原さんに問題があっても人間として当然のことだよ。 要は、同じ間違いを2度としないということだよ。 笠原さんは自分の間違いを謙虚に認めて次のように書いていた。




問題の写真は、私がスタンフォード大学フーバー研究所東アジア文庫で閲覧した『日寇暴行実録』(国民政府軍事委員会政治部、1939年)にあった写真を「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」というキャプションをつけて掲載したものだった。 章扉写真なので本文とは関係なかった。 中国語の原文には、「日本軍司令部に護送され、凌辱され、輪姦され、殺害された」という後半の文章があったがそれは翻訳しなかった。 その写真の原典は、『アサヒグラフ』(1937年11月10日号)に「硝煙下の桃源郷---江南の『日の丸部落』」と題して掲載された、上海の宝山県の一農村を日本軍が守る「日の丸部落」があり、「日本兵に守られて女性が野良仕事から部落へ帰る」という、キャプションがつけられたものであった。



『日寇暴行実録』の写真が『アサヒグラフ』で「悪用」されたんものであったことに気がつかずに掲載したのは、私の「写真史料批判」が不足したゆえのミスだったので、「新書『南京事件』の掲載写真について」(『図書』岩波書店、1998年4月号)を発表し、読者ならびに関係者に謝罪し、誤りを指摘してくれた秦(郁彦)に謝意を表した。 








211 - 212ページ 『南京事件論争史』

著者: 笠原十九司

2007年12月10日 初版第1刷発行

発行所: 株式会社 平凡社








。。。で、笠原さんの間違いは許されても東中野先生の間違いは許されないとデンマンさんは信じ込んでいるのですか?







あのなァ、東中野さんの間違いは研究者・学者以前の。。。つまり、人間の尊厳の問題。。。倫理の問題にまで深く喰い込んでいる。 単なるミスではないのだよ。 一人の女性の心に大きな傷を与えてしまった。 しかも判決文では「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しない」と言い切っている。



でも、人間は完璧な人など居ないとデンマンさんは言ったばかりではありませんか! 笠原さんのミスは大目に見るのに東中野先生のミスは許せないのですか?



あのさァ。。。裁判官までが学問研究の成果に値しないと言ってるんだよ! しかも、東中野さんを裁判にかけるほどの精神的な苦痛を夏淑琴さんは強(し)いられた。 単なるミスではない! 一人の人間の存在さえ否定するような致命的な悪意のある間違いを犯している。 しかし、東中野さんのミスは英語のできる中学生だって間違いをしないような初歩的な過ちだった。



それ程初歩的ですか?



あのなァ~、だから、僕はオマエの人生経験を疑うのだよ。 しかも、オマエは本の中で次のように書いている。




亜細亜大学教授・東中野修道(おさみち)氏の欧米の第一次史料を徹底的に研究し、『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社)で、「『南京虐殺』を証明し得る公式記録、即ち歴史学で言う一等史料、二等史料、三等史料が、ひとつもない」

という重大な結論を発表しました。

ニセ写真のケースなどに顕著ですが、「南京虐殺」の証拠として提示されているのは、すべて資料作成者の明らかでない「四等史料」と、いかなる基準で作成されたのかわからない「五等史料」であり、それらを歴史叙述の根拠とすることは事実無根の宣伝(プロパガンダ)である、という結論です。



(注: 赤字はデンマンが強調)








195ページ 『「個と公」論』

著者: 小林よしのり

2000年5月10日 第2刷発行

発行所: 株式会社 幻冬舎








あのなァ、東中野さんには欧米の第一次史料を徹底的に研究するだけの語学力がない。 まず、語学力を身につけることこそが先決だよ! 東中野さんの語学力は日本の中学生レベル、良くても高校生レベルだよ。 これまでに東中野さんが欧米で半年以上暮らしたことが無いと言う事が語学力を見ればすぐに分かる。 bayoneted を「銃剣で突き殺した」と訳すのは、うっかり間違えるということがあるかもしれない。 しかし、海外生活が無くても語学力があって定冠詞の意味や使用法を知っていれば文脈(context)から8歳の少女が死んでいないことが理解できる。 だから、bayoneted は「銃剣で突き刺されて傷ついた」という訳になることが理解できる。 もし、北米でアメリカ人やカナダ人と間で英語を使って半年暮らせば、定冠詞の意味や使い方を経験を通して理解できるようになる。







北米で半年以上生活すると、なぜ理解できるのですか?



なぜなら、知らなかったらコミュニケーションがうまくゆかずに、まごつく場面に直面する。 つまり、実際に死んでない女の子が死んだと理解したら会話がうまく成り立たない。 相手からその間違いを指摘されることになる。 それが海外経験というものだよ! そのような愚かな?あるいは苦い経験をすることによって定冠詞の意味や使い方を間違いから学ぶことになる。 経験が大切だということは、こう言う事だよ!



つまり、東中野先生の語学力では欧米の第一次史料を徹底的に研究することは無理だとデンマンさんは主張するのですか?



いや。。。僕が主張しなくても、すでに判決文の中で言い尽くされている! 残念ながら東中野さんは「畳の上の水練」しかやらずに海に入って泳ごうとした。 それで裁判所で溺れてしまったのだよ。 つまり、経験不足ということだね。








『畳の上の水練』より

(2011年3月15日)








どうや、めれちゃん。。。これが「冠詞の悲劇」でのうて、他に何と呼びようがあると思うのや?







う~~ん。。。確かに悲劇やなぁ~。。。南京事件当時、八歳の少女だった夏淑琴さんが一家九人も日本人兵士に殺害され、四歳だった妹とともに孤児として生きなければならなかったさかいに、それだけでも大変な思いをしたに違いあらへん。 それなのに、日本人の研究者から「ニセ被害者」と呼ばれたら夏淑琴さんの心もさらに傷つくと思うわ。 憤りと無念さで精神不安定な状態になるのも無理あらへん。



そうやろう!? 東中野先生が定冠詞の意味や使用法を知っていれば、このような悲劇は起こらなかったのや。 そやから、定冠詞と不定冠詞の使い方は学校でしっかり勉強せんとアッカ~ン!



あんさんは、その事が言いたかったん?



そうやぁ! そやから、めれちゃんも英語の初歩を復習せんとアッカ~♪~ン。。。うししししし。。。




【レンゲの独り言】







ですってぇ~。。。

あなたは英語の定冠詞と不定冠詞の使い方を知っていました?

あたしは知っているつもりでしたが、上の記事を読んで自分の知識があやふやだった事を知らされましたわ。

いい勉強になりました。



あなたも時間があったら英語の復習をしてくださいね。

英語は国際語です。

知っていて損はありません。

知らないと、上のような悲劇を知らずに起こしてしまうかもしれませんわ。



とにかく、次回も面白くなりそうです。

あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。

では、また。。。












ィ~ハァ~♪~!



メチャ面白い、



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こんにちは。ジューンです。



外国語学習というのは何かと大変ですよね。



わたしも日本語は外国語でしたので大変でしたわ。



日本語の「は」と「が」の使い方が



今でもあやふやです。



日本人であれば、「は」と「が」の使い方は



自然と覚えてしまうそうですよね。



英語の定冠詞と不定冠詞の使い方も



英国人やアメリカ人、カナダ人であれば



自然に覚えてしまうものです。



定冠詞は話者とその対話者がお互いに知っている



特定の物体を指す時に使われます。



でも、それ以外にも the が使われる時があります。



例えば、川や諸島などの自然境界を



人為的に定義する時です。



例) the Philippines,



the Mississippi River



また、大陸などの自然空間を



人為的に定義する場合でも使います。



例) the United States of America,



the United Nations



さらに複数構成単位からなるものを



ひとつのグループとして定義する時にも the を付けます。



例) the Adams, the Simpsons



(アダム一家、シンプソン一家)



また、固有名詞(Tom)には普通は



the が付かないのですけれど、



次のよな場合には the を付けます。



例) That's not the Tom I know.



(あれは私の知っているトムではない)



このような使い方に慣れるのは大変ですよね。



体験を通して覚えるしかなさそうです。







ところで、卑弥子さんにもちょっと信じがたいような



恋物語がありますわ。



関心があったらぜひ次のリンクをクリックして



じっくりと読んでみてくださいね。



『平助さんが卑弥子さんに



恋をしたのがウンのつき』




では、今日も一日楽しく愉快に



ネットサーフィンしましょうね。



じゃあね。








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