2011年6月12日日曜日

ピカソと凡人

 
ピカソと凡人




ピカソの秘密



ピカソの絵については、岩田誠・東京女子医大教授が興味深い分析をしています。 例えばキュービズム時代の絵は空間は位置がメチャクチャです。 鼻が横を向いていて、顔が正面向いているというのがザラですから、メチャクチャだと見られても仕方が無い。
しかし、あれは一つ一つのデッサンはかなり正確に描いている。 つまり、モデルである人間や物をあちこちから見て描いたものをゴチャまぜにして合体させたようなものになっています。
通常、デッサンに必要な空間配置の大事な四つの機能のうちの一つです。 それが壊れたままであると、その人にとって世界は、ピカソのキュービズムの絵になってしまいます。 もちろん、ピカソ自身は日常生活を普通に営んでいたし、ご存知の通り、初期には非常に正統派のわかり易い絵を残しています。 では、彼はどうやって、キュービズムの絵を描けたのか。

それは別に、一人のモデルをあちこちから見てデッサンしたものをツギハギであとで組み合わせた、ということではありません。 おそらく彼は意識的に、絵を描く際に、ノーマルな空間配置の能力を消し去ったのです。 ピカソはそれを意識的に行っていた。 病気になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがありますが、ピカソ自身は、健康なのに意図してああいう絵が描けた。

(注: 赤字はデンマンが強調
イラストはデンマン・ライブラリーより)




143 - 144ページ
『バカの壁』 著者: 養老猛司
2004年1月30日 第45刷発行
発行所: 株式会社 新潮社




デンマンさん。。。あんさんは、どうしてピカソのおっさんを持ち出してきやはったん?



めれちゃんは、ピカソのおっさんが嫌いなのか?

別に嫌いではあらへん。。。そやけど、好きでもないねん。

さよかァ。。。でもなァ、めれちゃんは横尾忠則のファンやからピカソの話もおもろいと思うでぇ~。。。

あんさんは、どないな訳でそないな事を言わはるのォ~?

そやかてぇ、めれちゃんは次の手記を書いていたやはないかいなァ!



読書して怒られる

 



2006/05/11 14:16

子供のころから、
家にはたくさんの本がありました。

わたしは江戸川乱歩の少年探偵団を、
よく読んでいたのですが、
そのうち、飽き足らなくなったのか、
親が持っていた「江戸川乱歩全集」を、
愛読するようになりました。

しかし。
その全集には、
横尾忠則氏の挿絵がついていて、
えっちなんです。
なので、親には読んじゃダメと
言われていました。
(だったら、かくしといてくれ)

わたしはこっそりかくれて、
そのえっちな江戸川乱歩の本を、
読んでいたのでした。
しょっちゅう見つかって、怒られました。

さらに。
印象的なのが
「チャタレイ夫人の恋人」です。
もちろん禁止本です。
禁止されたら、読むに決まってます。

・・・ませガキ。
・・・エロガキ。


by めれんげ




「めれんげの日記」
『だれかつっこみいれて!』より

『エロい文学少女』に掲載
(2007年4月11日)





わたしは横尾さんのファンではあらしまへんがなァ。



そやけど、めれちゃんは横尾さんのエッチな挿絵を楽しんでいたようやないかいなァ。

別に楽しんでいたわけやおまへん。

さよかァ~。。。?

。。。で、横尾さんがピカソのおっさんのことで何か書きはったん?

そうなのやァ。 次のような事を書いてるねん。


ピカソの四次元論



ピカソの「アヴィニョンの娘たち」はピカソの代表作であるだけではなく、20世紀美術を語る上でももはや最も重要な作品のひとつになってしまった。 この作品はニューヨーク近代美術館の目玉商品として常設展示されているので観た人も多いと思う。 「アヴィニョンの娘たち」について通りいっぺんの解説をしてしまうと次のようになるかと思う。

つまりこの作品によってキュビズムが始まった。 描かれている女性達はバルセロナの娼婦。 その様式はアフリカの彫刻やイベリア半島の古代彫刻の影響を受けたものである。 作品が発表されたのは制作されてから9年後。
というわけで、この絵を初めて見た友人のアンドレ・ドランは、
「ピカソはこの絵のキャンバスの裏側で首を吊って死ぬだろう」
とまで言った。 制作されて9年も経(た)つというのにこのあまりの斬新さ故に画家仲間でさえついていけなかたのである。 マチスなどは怒りをあらわに、「彼を葬(ほうむ)ってやる」とさえ息まいている。

 (中略)

この作品によってキュビズムが誕生することになるのだが、一般的にはキュビズムは二次元という平面において三次元という立体を表現しようという試みだが、ピカソは立体の各面を展開図のように見せることによって、実は四次元を表現してみたかったと語ったことがある。

 (中略)

ピカソがあれほどまでに影響を受けたというアフリカやイベリア彫刻だが、彼が興味を持ったのはあくまでも彫刻の表層部分である。 



ここでぼくにはひとつの疑問と不満が生じるのだった。 あれほどピカソがこれらの彫刻から強烈な霊感を得たのであったら、なぜ彫刻をものした黒人たちの霊感に興味をも持たなかったかということである。 (中略) 宇宙にあまねく存在する情報の記憶装置を回路として、黒人彫刻家の中に伝達されるインスピレーションをキャッチするシャーマンの能力と技術があのような作品を生むのである。 だったらなぜピカソがシャーマンになることを求めようとしなかったのだろうかという疑問なのである。 (中略) ぼくはこのことを残念に思うものである。 芸術は常に受身で迎え入れるもの、つまり「迎術」ではなかったのかというのがぼくの創造の源泉になっているから、ついピカソにも文句を言ってみたくなるのだった。

さて、裸婦について語ることを忘れていたわけではない。 ピカソは当初の目的としては、アヴィニョー街の娼婦を描くつもりであったはずである。 ところが、絵はひとりでにピカソの筆によってどんどんあらぬ方向に走り始めた。 ピカソの思いから勝手に絵が自立していったのである。 こんな状況の中でピカソは「絵は画家より強い」とも述懐している。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




45 - 50ページ
『名画裸婦感応術』
著者: 横尾忠則
2001年6月15日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 光文社




横尾さんの書きはったものがどうやと、あんさんは言わはるの?



あのなァ~、横尾さんはやっぱり画家になろうとしただけのことはあって、作家や学者とはちごうてぇ、観念的な事だけではなく、なるほどと思わせるようなことを言うてるねん。

たとえば。。。?

例えば、次のように書いてるねん。

ピカソは立体の各面を

展開図のように見せることによって、

実は四次元を表現してみたかった

...

ピカソの思いから勝手に

絵が自立していったのである。

「絵は画家より強い」


作家や学者とはちごうてぇ、実際に絵筆を取った横尾さんは目の付け所がちごうているのやがなァ。

四次元を表現してみたいとピカソのおっさんは言うたようやけど、2次元のキャンバスの上で4次元を表現しようということは初めから不可能なことやんか!

そやから、その辺が我々凡人と違うところなのやァ。 芸術家として不可能に挑戦したのやがなァ。

わたしは、その事よりもアフリカの彫刻が大いにピカソのおっさんに影響を与えたと思うねん。

めれちゃんは、どうして、そう思うのや?

アフリカの彫刻を見ると、なんとのう「アヴィニョンの娘たち」に似ているやんかァ!







わてには似ているように思えんなァ~。。。



わたしはマジで似てると思うねん。 主観の相違ということやわ。 とにかく、ピカソのおっさんの経歴を見るとアフリカの彫刻とキュビスムは切っても切れない関係にあるのやでぇ~。 あんさんも次の経歴をじっくりと見たらええやん。


ピカソ



生誕: 1881年10月25日
死去: 1973年4月8日

作風
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。

•青の時代(1901年-1904年)
親友カサヘマスの自殺にショックを受け、青色無機顔料のプロシア青をベースとする暗青色を基調として、軽業師、アルルカン、売春婦、乞食、芸術家などを描いた。

•バラ色の時代(1904年-1907年)
フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人などを描いた。

アフリカ彫刻の時代(1907年-1908年)【26-27歳】
アフリカ彫刻の影響を強く受けた。この時期にキュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。


•セザンヌ的キュビスムの時代(1908年後半)
アフリカ彫刻とセザンヌを両親として、キュビスムが胎動しはじめた。

•分析的キュビスムの時代(1909年-1912年)
モチーフを徹底的に分解し、絵は極度に抽象的かつ禁欲的なものになった。

•総合的キュビスムの時代(1912年-1918年)
ロココ的キュビスムとも呼ばれる。色彩と装飾性が特徴で、コラージュ技法も生まれた。

•新古典主義の時代(1918年-1925年)
古典的かつ量感のある母子像を描いた。

•シュルレアリスムの時代(1926年)
化け物のようなモチーフが描かれた時期で、妻オルガとの不和が反映していると言われる。代表作は『ダンス』『磔刑』など。

•ゲルニカの時代(1937年)
フランコのゲルニカ爆撃を非難し、『ゲルニカ』と、そのための習作(『泣く女』など)を描いた。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




上の経歴を見れば、ピカソのおっさんがアフリカ彫刻の影響を強く受けて、キュビスムの端緒となった『アビニヨンの娘たち』を描いたという事が判るやろう?



確かにアフリカ彫刻はピカソに影響を与えたのやろなァ。

そうですやろう!? あんさんにも判りますやろう?

そやけどなァ、ただ似ているからアフリカ彫刻の影響を受けているというのは安直な考えやと思うでぇ~。。。

そいで、あんさんは他に何がピカソのおっさんに影響を与えたと思うてるん?

もっと本質的なことやと、わては思うでぇ~。。。

本質的なことってぇ、具体的にはどのようなことやのォ~?


本質的な視点とは?



20世紀への変わり目、科学は二つの大きな未解決の問題をかかえて、まったく混沌としていた。 第一に、二つの物理学の体系である古典力学と電磁気学のあいだに不整合が存在していた。 第二に、遠く光を伝える媒体として考えられたエーテルが、宇宙空間に存在するのかという問題である。 この二つの問題による不安定さによって、相対性理論の登場する機が熟したといえるが、その不安定な世相が当時の芸術家たちの作品に反映されたと考えることもできる。

逆に、後期印象派の巨匠たちが物理学における問題を解決する手だてを少しでももっていたと考えるのは、もちろん無理がある。 また、物理学における不安定な状況は、19世紀末にヨーロッパ文化や知識人たちのあいだで蔓延していた世相を反映していただけということもできる。 したがって、芸術が物理学の大発見を予示したというよりは、芸術と物理学の発展が平行して起こったと考えたほうが妥当だろう。

不幸なことに、科学者と芸術家が話し合うことはめったにない。 しかしながら、芸術と科学における変革は同じ根をもっている。 それは、ものごとの本質が従来の見方ではとらえきれないこと、そしてそれらを従来の描き方では描ききれないということへの気づきである。 物理学では、量子力学がまったく新しい見方で物理的問題に迫る方法を提示した。 量子力学を確立した人たちは、今までのニュートン流ではなく、抽象的でもっと「本質的」な方法で現実を表現した。 それに並行する視覚芸術の流れでは、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックといたキュビズムの例がある。 ピカソの有名な絵画《アヴィニョンの娘たち》(1907)は、見かけの姿ではなく、その本質を反映させた抽象的な姿で女性を表しているといえる。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




102 - 103ページ
『モナ・リザと数学』
著者: ビューレント・アータレイ
2006年5月1日第1刷発行
発行所: (株)化学同人




つまりなァ、ピカソはバルセロナの娼婦を描きたかったのやァ。 そやけど、誰もが目にするような。。。要するに凡人が描くような娼婦を描くのではつまらん。 そう思うたのやがなァ。



つまらなかったら描かなければええやん。

そやけど、ピカソはどうしても描きたかったのやァ。

だったら、ゴタゴタ言わずに描けばええやん。

そこでピカソは悩んだのやがなァ。。。つまり、従来の画家が描いているような娼婦を描くのやったらつまらんと思うたのやァ。。。そこで、ピカソは従来の描き方では描ききれないモノを描こうと思うたのやァ。

それで描きはったのが「アヴィニョンの娘たち」ということやのォ~?

そうやァ。。。結果として「キュビズム」という描き方になったァ。。。要するに、アインシュタインと同じようにピカソも時代の落とし子やったのやァ。





アインシュタインがニュートン力学で考えると、古典力学体系では、どうにも、とらえきれないことにぶつかった。 ちょうどピカソがバルセロナの娼婦を見た時のように考え込んでしもうたのやァ。 アインシュタインは、そこから特殊相対理論を生み出しおった。 ピカソは、バルセロナの娼婦から、従来の描き方とは違う本質的な見方で「アヴィニョンの娘たち」を生み出しおったのやァ。


【レンゲの独り言】



ですってぇ~。。。
なんとなく、こじつけ見たいに聞こえますよね。



いずれにしてもピカソがもし上のようなオーソドックスな絵を描かずに、初めから「アヴィニョンの娘たち」を描いていたら、おそらく周りの人はピカソを精神病院へ送り込んだと思いますわ。
精神病になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがあります、とお医者さんも言っているほどです。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

ピカソの生涯は「アヴィニョンの娘たち」のように

常識では考えられないような

起伏に富んだものでした。

ピカソは生涯に2度結婚し、

3人の女性との間に4人の子供を作りました。

ピカソがパリに出て最初に付き合ったのは

フェルナンド・オリヴィエでした。

「青の時代」と「桃色の時代」をへて

富と名声を得ると、つぎにエヴァという名前で知られる

マルセル・アンベールと付き合いました。

ピカソは彼女を讃えるために、作品に

「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、

「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を

書き込みました。

しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなりました。

1916年には、バレリーナで貴族出身の

オルガ・コクローヴァと知り合い、

1918年に結婚しました。

オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、

ブルジョワ趣味を教えたのです。

二人のあいだには息子、パウロが生まれました。

ピカソは初めの内こそ妻に調子を合わせていましたが、

しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、

衝突が絶えなくなりました。

1927年には、ピカソは17歳の

マリー・テレーズ・ワルテルと出会い、

妻に隠れて会うようになりました。

ピカソはオルガと離婚しようとしましたが、

資産の半分を渡さねばならないことがわかり

中止したのです。 (微笑)

ピカソとオルガの結婚は、

1955年にオルガが亡くなるまで続きました。

マリー・テレーズと密会を続けていた1935年には

娘、マイアが生まれました。

またピカソは1936年から1945年まで、

カメラマンで画家のドラ・マールを愛人にしていました。

彼女はピカソ芸術の良き理解者でもあり、

『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録しています。

1943年には、ピカソは

21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、

1946年から同棲生活を始めました。

そしてクロードとパロマが生まれました。

しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと

嗜虐癖に愛想をつかし、

1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去りました。

ピカソは大きなショックを受けました。

フランソワーズはピカソを捨てた

唯一の女性と言われています。

しかしピカソはすぐ次の愛人の

ジャクリーヌ・ロックを見つけました。 (微笑)

彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところを

ピカソが見そめたのです。

それで1961年に結婚したのです。

でも、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する

意趣返しと言われました。

当時フランソワーズはクロードとパロマの

認知を得る努力をしていたので、

ピカソはフランソワーズに

「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」

と誘いかけたのです。

これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚しました。

でも、ピカソは既にジャクリーヌと結婚していたのです。

なんとも波乱に富んだ人生でした。

ところで、英語の面白い話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。




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