2011年6月6日月曜日

鑑真と定慧の物語

 


鑑真と定慧の物語









鑑真和上の目は見えていた







5回の渡航に失敗した後、ようやく日本にたどり着いた鑑真和上。

この間に多くの弟子を失い、目も見えなくなっていたというのが通説である。

この通説に、正倉院に残された鑑真自筆の書状から疑問が投げかけられた。



 (中略)



正倉院には鑑真の書状が伝わっている。 鑑真が奈良の都に入ってから間もない754(天平勝宝6)年3月18日に、良弁に宛てて出されたもので、四大部の経典(『華厳経』『大涅槃経』『大集経』『大品経』)の借用を申し入れている。

良弁はただちにこの書状を造東大寺司へ届け、他所に貸し出されていた『大涅槃経』を除く三大部を鑑真に届けた。 鑑真が経典の借用を依頼したのは、写経用にテキストを校合しようとしたためと考えられる。



 (中略)



鑑真が目を病んでいたのは事実だろう。 それにより「明を失った」ことも一概に否定できない。 しかし、それは完全失明を意味しない。 少なくとも754(天平勝宝6)年3月18日には(次の)書状を書きうる程度の視力を持ちえていたのではないか。







 (中略)



『続日本紀』によれば、758(天平宝字2)年8月、淳仁天皇は「政事の躁煩に敢へて老を労せざれ。 僧綱の任を停むべし」と詔した。 思託は『延暦僧録』のなかで、鑑真が誹謗されたと記しているが、法進があとを継ぎ、唐招提寺での伝戒もみとめられていたのだから、体をいたわってのことだと素直に解釈するほうがいい。 唐招提寺の寺地が福地であることを、その土をなめて鑑真が判断したのは、目が不自由になったからではないかと考えていた。



しかし実際にはさらにそのあと、最晩年のことらしい。 鑑真の孫弟子で、唐招提寺五世長老になった豊安が著した『唐招寺流記』(建立縁起)に、最晩年に「稍生難視之想(ようやく難視の想いを生じ)」「権隠双樹之陰(おわりに双樹の陰に隠る)」とあるのが根拠になる。



(注: 写真はデンマン・ライブラリーから)








140 - 142ページ

「鑑真和上の目は見えていた」西山厚・著

『別冊太陽 日本のこころ - 165

平城京 平城遷都1300年記念』

監修: 千田稔

2010年4月1日 初版第3刷発行

発行所: 株式会社 平凡社








「日本に着いた時、何度も遭難したので鑑真和上の目は見えなくなっていた」と歴史の先生が言っていたのですけれど、実は鑑真和上の目は見えたのですか?







僕も『別冊太陽』を読んで初めて知ったのですよ。 「経典を貸してほしい」と良弁に出した書状は、これまでは鑑真の直筆ではなくて、誰かが代わって書いたのだろうということになっていた。 でもねぇ、最近の研究で直筆らしいと判ったようです。 だから、鑑真和上の目は見えていたと言うわけですよ。



それにしても鑑真和上は5度も渡航に失敗して10年かけてやっと6度目に日本へやって来たのでしょう!?



そうですよ。。。ちょっと常識では考えられないですよ。




鑑真



誕生:688年(持統天皇2年)

他界:763年6月25日(天平宝字7年5月6日)

奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。



唐の揚州江陽県の生まれ。

14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。

18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。



栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。

そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。

その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。



日本への渡海



鑑真第六回渡海図最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。

鑑真は留め置かれた。

2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。

再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。



その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。

しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。

そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。



748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。

懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。

6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。















現在の海南島



鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。

そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。



751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。

その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。

この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。

鑑真が渡日前に失明していたという説は鑑真の伝記である「唐大和上東征伝」を主に論拠としている。

しかし、最近の研究では渡日翌年に書かれた東大寺の良弁に経典の借用を申し出た鑑真奉請経巻状は弟子の代筆説より鑑真の直筆説の可能性が高くなったことから、渡日後も完全には失明はしていなかったとする説もある。



752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに渡日を約束した。

しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。

そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。

それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。

11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。







鑑真記念館

鹿児島県南さつま市坊津町秋目225−2




なお、皇帝の反対を押し切ってまで日本に来た理由について、小野勝年は日本からの留学僧の強い招請運動、日本の仏教興隆に対する感銘、戒律流布の処女地で魅力的だったという3点を挙げている。

それに対して金治勇は、聖徳太子が南嶽慧思の再誕との説に促されて渡来したと述べている。



(注: 赤字はデンマンが強調

写真と地図はデンマン・ライブラリーより)








出典:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








上の『ウィキペディア』にも出てくるけれど、藤原清河の率(ひき)いる第12次遣唐使一行が来唐すると聞いたので、すでに唐で35年間暮らしていた阿部仲麻呂は、その船に乗って日本へ帰ろうと思った。







。。。で、一緒に帰ったのですか?



阿部仲麻呂は清河の乗船した第1船に乗ったのですよ。 ところが暴風雨に遭って南方へ流されてしまった。



。。。で、どうしたのですか?



阿倍仲麻呂は死んだという噂が長安に広まった。 この時、友人である有名な李白がそれを聞いて詠(よ)んだのが、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」だったのですよ。



阿倍仲麻呂は溺れ死んでしまったのですか?



いや、その時は死ななかった。 噂は誤報だったのですよ。 船は南へ流されて安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。 結局、清河と仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)に長安に帰り着いた。



それで、また次の遣唐使船に乗って帰ろうとしたのですか?



唐の朝廷は行路が危険である事を理由に清河と阿部仲麻呂の帰国を認めなかった。 結局、阿倍仲麻呂は日本へ帰るのを諦めてしまったのですよ。







天の原



ふりさけみれば



春日なる



三笠の山に



いでし月かも








阿倍仲麻呂は日本へ帰りたくって、三笠の山を想いながらこうして長安の都で和歌を詠んだと言われているのですよ。







結局、日本へは帰れなかったのですか?



帰れなかったのですよ。 仕方なく、当の都で役人として働いた。 でも、偉くなったのですよ。 天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。 天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)までの6年間は、ハノイの安南都護府に在任した。 天平神護2年(766年)には安南節度使を授けられた。 最後は潞州大都督(従二品)を贈られているのです。 そして三笠の山を想い浮かべながら、宝亀元年(770年)1月に73歳で亡くなったのですよ。



デンマンさんも、阿倍仲麻呂のように「さきたま古墳」の丸墓山を想い浮かべながらバンクーバーで亡くなるのですか?



そうですよ。 僕は辞世の句まで用意しているのですよ。








忍の原



ふりさけみれば



さきたまの



丸墓山に



いでし月かも








デンマンさん!。。。この和歌は盗作臭いですわ。 (微笑)







盗作ではありませんよ。 僕の素直な心の内を詠(うた)ったものですよ。



つまり、この歌を詠みながらデンマンさんはバンクーバーで亡くなるのですか?



小百合さんは、僕をバンクーバーで死なせたいのですか?



いいえ。。。別にデンマンさんがバンクーバーで亡くなることを願っているのではありませんわ。 辞世の句など持ち出すから、このようなお話になるのですわ。



あのねぇ~、僕は辞世の句を見せびらかすために上の句を持ち出したのではなくて、当時、遣唐使船に乗って日本から唐へ行くことや、唐から日本へ帰ってくることがいかに大変であったかと言う事を話したかったまでですよ。



それで、“定慧(じょうえ)”という人物は鑑真和上と関係のある人なのですか?



あれっ。。。小百合さんは知らないのですか?



あまり耳にしたこののない名前ですわ。



小百合さんは僕の記事を読んでいるのでしょう?



時々読んでいますわ。



だったら、“定慧(じょうえ)”の事も知っているはずではありませんか!?



いいえ。。。そのような名前はデンマンさんの記事の中には無かったように思いますわ。



やだなあああァ~。。。ここに書き出すから思い出してくださいよう! んもお~~。。。




あなたも知らない日本の悲劇



        











こんにちは。。。

デンマンです。



ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、

これは、涙を流しているのですよ。

悲しんでいるのですよ。

念のため。。。



写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。

この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。

日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。



その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。

この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。

しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。

この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。



藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。

あなたはまず、聞いたことが無いと思います。



実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。

古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。

でも、日本史では知られていません。

なぜ?



ところで、どのような悲劇なの?



それを、これから僕がお話しようと言うわけです。

どうか、最後まで読んでくださいね。



定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。

なんと!わずか11歳の時の事でした。

彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。



この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。

つまり、定慧は一人息子だったわけです。

どうして鎌足はこの一人息子を、

しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、

危険な船旅へ出したのでしょう。



ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。

遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。











ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。

しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。



しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。

なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。



要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。

表が出たら、めでたく命拾いをする。

裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。



実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。

念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。



僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。

しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。

しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。







しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。

絶対にしてはならないことです!

反省しています。

この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!

と呆れる人が出て来ると思います。



馬鹿は死ななきゃ治らない!

僕もそういう馬鹿だったんですよ。

でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!

うへへへへ。。。



とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。

仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。

今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。



当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。

もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。







それほど危険な船旅に、



なぜ定慧を出したのか?




ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。

もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?

一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。

長いのになると、30年帰ってこれない。



もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。

結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。



したがってどういうことが言えるでしょう?

初めて、この話に出くわした時の僕の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。

定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。

それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。

要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。



これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。

11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。

だから、出家させて、唐に追いやってしまう。

運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。

運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。



おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。

このように書くと、僕が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。

鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。

この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。



なぜか?



それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。



太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。

なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。

命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。



したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。

それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。

鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。



鎌足とは、一体どういう人なの?



鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。

彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。

しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあります。

その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。

鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。



問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。

たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。

詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。



端的に言うと、非常に頭のいい人でした。

視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。

おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。

このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。

朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。

しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。

もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。

しかし、その規模が違います。



『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。



要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。

はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。

つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。

それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。



したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。

古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。

しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。

しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。

したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。

そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。



『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。



現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。



しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。







つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。



しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。



藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。僕は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。



『定慧の出生の秘密』



どうですか?

ここまで読んできたら、定慧の出生の秘密が知りたくなったでしょう?

上のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてください。

涙なくしては読んでゆけない悲劇は、更にその後に語られてゆきます。

残念ながら、このページですべて語りつくすことは出来ません。



定慧の出生の秘密を読んだ後で、更に引き続きその悲劇の内容を読んでみてください。

こんな事が実際に起こったのだろうか?

あなたも信じがたい思いに駆られるはずです。 
 







『あなたも知らない日本の悲劇』より

(2007年4月2日)








あらっ。。。デンマンさんは、このような記事を書いていたのですか?







小百合さんは、やっぱり読んでいなかったのではありませんか!



たまには見逃していることだってありますわ。。。それに、ずいぶん昔の記事ではありませんか!



10年も昔の記事ではありませんよ。。。まだ書いてから5年も経てませんよ。 



でも、3年以上前に書いた記事ですわ。 ネットの世界では3年は一昔ですわ。 それで、定慧さんを持ち出してきてデンマンさんは何が言いたいのですか?



あのねぇ、昔の人たちは生きるか死ぬかの思いをして事に当たった。 もし定慧さんが日本へ帰って来て、すぐに暗殺されなかったならば、現在の日本人の誰もが知っている名前だったのですよ。 つまり、藤原鎌足の次男の藤原不比等よりも長男の定慧さんの方が日本史でチョウ有名人になっていたのですよ。



でも歴史に If はありませんわ。



小百合さんは、このような時に皮肉めいたこと言うのですね?



だってぇ~、歴史家であれば誰だって、そのような決まり文句を言いますわァ。



だから僕は歴史家が嫌いなのですよ。 とにかく、暗殺されなかったら定慧さんは日本史に名を残すほどの偉大な事を行ったに違いない!



だから、それも If ですわよ。 デンマンさんは、長々と上の古い記事を引用して、ただその事が言いたかったのですか?



違いますよ! 現在の自殺者の数を見てくださいよ。 1年に3万人以上の人が自殺している。 1日に100人近い人が自殺しているのですよ。 つまり、パソコンに向かってこの記事をここまで書いている間に、およそ5人の人が自殺しているのですよ。



まさか。。。?



まさかじゃありませんよう! 確率と統計論から、十分に立証することができるのですよ。



それで、デンマンさんは何がおっしゃりたいのですか?



だから、僕は鑑真さんと定慧さんの物語を持ち出してきたのですよ。 自殺する気になれば日本史に名を残す程の偉大な事ができるではないかと。。。




【卑弥子の独り言】







ですってぇ~。。。

確かにデンマンさんのおっしゃることも分かるのでござ~♪~ますわ。

でも、そういう気持ちになれないから自殺するのですわ。

そこの所をデンマンさんは理解していないと思うのですう。

あなたは、どう思いますか?



とにかく次回も面白くなりそうですわ。

だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。

じゃあねぇ。












ィ~ハァ~♪~!



メチャ面白い、



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こんにちは。ジューンです。



鑑真和上も有名ですけれど



道鏡和上も有名ですよね。



道鏡さんは本当に悪者だったのでしょうか?



わたしは偉いお坊さんだったと思うのですわ。



なぜなら、当時、僧を目指すということは、



言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。



色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟と



それに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのですわ。



生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。



道鏡さんは語学にも才能があったと見え、



留学僧でもない道鏡さんが兄弟子・良弁に付き添って



唐招提寺の鑑真さんを訪れた時、



二人の会話が理解できたと言います。



道鏡さんはさらに難解なサンスクリット語にも



精通していたのです。



辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に



異国語を習得することは大変なことでした。



あなただって、想像がつくでしょう?



だから、道鏡さんが相当の頭脳の持ち主であったことは



まず間違いないようです。



でも当時、悪い僧侶も確かに居ました。



仏教が隆盛するに伴い、



様々な問題も現れ始めていたのです。



まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。



生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、



勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。



これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える



“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決めました。



それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて



日本にやって来たというわけです。



以来、僧侶として認められるためには、



“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。



この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を



持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、



そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の



3カ所と定められました。



これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。



道鏡のレベルの僧侶になると、



セックスにむちゃくちゃをするような僧は



まずその地位を保つことが出来ません。



この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。



とにかく鑑真和上が居た頃の話ですから。。。







ところで、卑弥子さんにもちょっと信じがたいような



恋物語がありますわ。



関心があったらぜひ次のリンクをクリックして



じっくりと読んでみてくださいね。



『平助さんが卑弥子さんに



恋をしたのがウンのつき』




では、今日も一日楽しく愉快に



ネットサーフィンしましょうね。



じゃあね。








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