2011年6月8日水曜日

定慧と小百合の物語(PART 1)

 


定慧と小百合の物語(PART 1)








あなたも知らない日本の悲劇



        











こんにちは。。。

デンマンです。



ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、

これは、涙を流しているのですよ。

悲しんでいるのですよ。

念のため。。。



写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。

この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。

日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。



その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。

この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。

しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。

この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。



藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。

あなたはまず、聞いたことが無いと思います。



実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。

古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。

でも、日本史では知られていません。

なぜ?



ところで、どのような悲劇なの?



それを、これから僕がお話しようと言うわけです。

どうか、最後まで読んでくださいね。



定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。

なんと!わずか11歳の時の事でした。

彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。



この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。

つまり、定慧は一人息子だったわけです。

どうして鎌足はこの一人息子を、

しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、

危険な船旅へ出したのでしょう。



ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。

遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。











ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。

しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。



しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。

なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。



要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。

表が出たら、めでたく命拾いをする。

裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。



実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。

念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。



僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。

しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。

しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。







しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。

絶対にしてはならないことです!

反省しています。

この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!

と呆れる人が出て来ると思います。



馬鹿は死ななきゃ治らない!

僕もそういう馬鹿だったんですよ。

でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!

うへへへへ。。。



とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。

仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。

今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。



当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。

もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。







それほど危険な船旅に、



なぜ定慧を出したのか?




ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。

もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?

一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。

長いのになると、30年帰ってこれない。



もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。

結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。



したがってどういうことが言えるでしょう?

初めて、この話に出くわした時の僕の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。

定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。

それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。

要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。



これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。

11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。

だから、出家させて、唐に追いやってしまう。

運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。

運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。



おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。

このように書くと、僕が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。

鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。

この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。



なぜか?



それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。



太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。

なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。

命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。



したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。

それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。

鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。



鎌足とは、一体どういう人なの?



鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。

彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。

しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあります。

その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。

鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。



問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。

たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。

詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。



端的に言うと、非常に頭のいい人でした。

視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。

おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。

このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。

朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。

しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。

もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。

しかし、その規模が違います。



『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。



要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。

はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。

つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。

それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。



したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。

古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。

しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。

しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。

したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。

そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。



『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。



現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。



しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。







つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。



しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。



藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。僕は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。



『定慧の出生の秘密』



どうですか?

ここまで読んできたら、定慧の出生の秘密が知りたくなったでしょう?

上のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてください。

涙なくしては読んでゆけない悲劇は、更にその後に語られてゆきます。

残念ながら、このページですべて語りつくすことは出来ません。



定慧の出生の秘密を読んだ後で、更に引き続きその悲劇の内容を読んでみてください。

こんな事が実際に起こったのだろうか?

あなたも信じがたい思いに駆られるはずです。 
 







『あなたも知らない日本の悲劇』より

(2007年4月2日)








あらっ。。。デンマンさん。。。また定慧さんの話を持ち出してきたのですわね。 ちょっとしつこいとは思いませんか?







うん。。。確かに僕のブログを毎日読んでいる人は、そう思うかもしれません。 でもねぇ、毎日読みにやって来る人はそれほど多くはないのですよ。 だから、同じ話を2度読まされてウンザリしている人は少ないと思いますよ。



ところで、どうして私の名前を持ち出してきたのですか? 私と定慧さんがまるで関係ありそうではありませんか?



関係ありますよ。



でも、私の知る限り「定慧」という名前は私の家に伝わる家系図の中にありませんわ。



それは最近の家系図だけしか小百合さんの家には伝わってないからですよ。



デンマンさんは私の家の古い家系図を見たことがあるのですか?



いや。。。見たことはありません。 でもねぇ、僕の家の遠い祖先と小百合さんの家の遠い祖先は、百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた時に避難民として日本へ逃げて来たのですよ。



そのような事をおっしゃっても誰も信じませんわ。



初めてこの記事を読む人は信じられないかもしれません。 でもねぇ、かつて僕の記事を読んだ人には理解できると思うのですよ。



その記事ってぇいつ頃の記事ですか?



2年前に書いたのですよ。 小百合さんのために関連する部分をここに書き出しますから読んでみてください。




デンマンの祖先は百済からやって来た











僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。







それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?



後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。



つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?



難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。



それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?



そう言う事ですよう。



。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?



そんなモノは残っていませんよう。



。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?



僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。



その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?



“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。



つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?



そうですよう。



でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?



その通りですよう。



。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?



全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。







。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?







そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。



どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?



小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。



そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?



不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。







バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。







この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。



















この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?







そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。







これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?



確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。



でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?



小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。



ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?



ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。








こんにちは。ジューンです。



袖触れ合うも他生の縁



(そでふれあうもたしょうのえん)



聞いたことがあるでしょう?



なかなか味わいのある諺ですよね。



袖が触れ合うようなちょっとしたことも、



前世からの深い因縁によって



起こるものである、と言う事です。



わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”



だと思ったのですわ。うふふふふ。。。



つまり、袖が触れ合ったのは、



全く偶然ではなくて、少しは



そうなる運命にあったのよう。。。



私は、そのように思い込んでいたのです。



でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。



「他生」というのは「前世」の事だと、



デンマンさんに教わったのですわ。



調べてみたら、「他生」とは



「前世」と「来世」の事を言うのですって。



上の諺では、文脈から



「前世」となる訳ですよね。



この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。



そう言えば「今生の別れ」と言う語句を



何度か耳にしたことがありました。



仏教の輪廻(りんね)と



関係のある諺なのでしょうね。



わたしは英語には、この諺は



無いと思っていたのですけれど、



調べてみたら、次のようなものがありましたわ。



A chance acquaintance



is a divine ordinance.



Even a chance meeting is



due to the karma in previous life.




つまり、「偶然の出会いは神の定め」



と言う事なのです。



多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。



カナダでは耳にしたことがありませんわ。













『出会い系の悪魔』より

(2008年9月10日)








僕と小百合さんの出会いは、偶然の出会いのように見えて偶然ではないのですよう。つまり、小百合さんと僕に共通するモノが実にたくさんあるのですよう。







“海外飛躍遺伝子”でござ~♪~ますか?



それも一つですよう。まず、車で30分も走れば会える距離に住んでいたのに、僕と小百合さんが初めて出会ったのは、何千キロも離れたバーナビーだった。僕の祖先と小百合さんの祖先が1400年程前に百済から日本に一緒に渡ってきた事が分かるような気がしますよう。小百合さんの祖先の娘は、やがて武蔵国から現在の栃木県の栗山村へ嫁にゆき、上の昔話を伝える事になったのですよう。どうですか?



確かに、そのような可能性があったかもしれませんわ。だってぇ~、デンマンさんの祖先の中には、きっとお話に出てくるような「ばか息子」が居たでしょうからねぇ~。。。うしししし。。。



一人ぐらい変わり者が居たかもしれませんよう。。。とにかく、このように見てゆくと、すべての話がここで丸く収まるのですよう。卑弥子さんも、そう思いませんか?








『歴史を散歩させる食べ物』より

(2009年5月1日)




 (すぐ下のページへ続く)

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