2012年6月25日月曜日

女に溺れて女で滅ぶ

女に溺れて女で滅ぶ




牛若の目がさめます

義経の幼名は牛若丸であり、母は常盤(ときわ)という。
常盤は平清盛に敗れた源義朝の妾である。
義朝との間に、三人の男児を生んだ。
七歳の今若、5歳の乙若(おとわか)、そして一歳の牛若を連れ、逃げ隠れていたが、老母が清盛に捕えられ、むごい目にあっているのを聞いて、子どもと共に自首して出た。
義朝憎しで、一族全滅を遂行していた清盛は、常盤をひと目見たとたん、カッ、と頭から熱を発した。
何しろ、「常盤と申すは日本一の美人なり」(『義経記(ぎけいき)』)
年恰好からいって、色気もふんぷんだったろう。
のぼせ上がってしまったのである。


(bond911.jpg)

清盛は、子の助命を願う常盤に、条件を出した。
自分に従うなら、助けてやってもよい。
舌なめずりしながら迫ったことであろう。
常盤は三児の将来に希望を託し、応諾した。

そこで、川柳子の登場である。
「牛若の 目がさめますと 常盤言ひ」
「義朝と おれとはどうだ などとぬれ」

この川柳をもっと露骨な文章に仕立てたのが、春本である。

(読み易いように改行を加えました。
イラストはデンマン・ライブラリーより)




28-29 ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根 達郎
2009年9月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社新潮社

『色欲は歴史を変える』に掲載
(2012年6月23日)




デンマンさん。。。また平清盛と常盤御前でござ~♪~ますか?



卑弥子さんは、この歴史的瞬間に感動を覚えないのですか?

この歴史的瞬間ですか?

そうですよ! この時歴史が変わったのですよ。

それは大袈裟でござ~♪~ますわ。

大袈裟ではありませんよ! もし常盤がブスで清盛の色欲を刺激しなかったら、3人の幼い子供たちと一緒に常盤は殺されていたのですよ。

そうでしょうか?

だって、そうでしょう! 平清盛は源義朝憎しで、一族を全滅させるつもりだったのですよ。 ところが、日本一美しいと噂されていた常盤をひと目見たとたん、カッ、とのぼせて、この女性をぜひ自分の女にしたいと思ったのですよ。





平清盛でなく、谷岡ヤスジ先生が常盤を見たら、もう鼻血をブー、ブー出すところですよ。



平清盛は鼻血をブー、ブー出さなかったのかしら? うふふふふふ。。。

いや。。。もしかすると出していたかもしれませんよ。 うへへへへへ。。。

つまり、もし平清盛が常盤と3人の子供たちを殺していたら、鎌倉幕府を立ち上げることになる源頼朝も、源義経が活躍する『平家物語』も歴史に登場しなかったということですか?

その通りですよ。

でも、この事だけを取り上げて平清盛が「女に溺れて女で滅んだ」というのは飛躍があると思いますわ。

あのねぇ~、僕は常盤だけの事で平清盛が「女に溺れて女で滅んだ」と言うつもりはないのですよ。

あらっ。。。清盛はまだ他の女性にも目をつけたのでござ~♪~ますか?

あれっ。。。卑弥子さんは忘れてしまったのですか?

あたくしが何を忘れてしまったとデンマンさんはおっしゃるのですか?

やだなあああァ~。。。卑弥子さんは次のように話していたのですよ!


白拍子というのは、平安時代後期に活躍した、
一口で分かりやすく申し上げるならば、
芸者のような者でござ~♪~ますわ。



このように白の水干(すいかん)に
立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)という男装で
「今様」と呼ばれる歌を謡(うた)いながら、
男舞と呼ばれる舞を舞うのでござ~♪~ます。

白拍子であった祗王(ぎおう)は、
時の権力者・平清盛の寵愛を受け、
彼の館で幸せに暮らしておりました。
あるとき、清盛に歌舞を披露したいという
別の白拍子が現れたのです。
その者が仏御前だったのですわ。

ただの白拍子に過ぎない仏御前を清盛は追い返そうとしました。
でも、遠路はるばるやってきた彼女を見かねて、
心の優しい祗王がとりなしたのでござ~♪~ますわ。
それで、仏御前は清盛に舞を見せることになりました。
しかし、これを見た清盛は心を奪われ、
仏御前を寵愛するようになってしまったのでござ~♪~ます。

皮肉なものでござ~♪~ますわねぇ~。
男と言うのは本当に浮気なものでござ~♪~ますわ。
祗王の座を奪う気持ちのない仏御前は辞退しようとしました。
しかし、それに気づいた清盛は、
邪魔な祗王を追放してしまったのですわ。
本当に悲しい事でござ~♪~ますゥ。




萌え出づるも

枯るるも同じ

野辺の花

いづれか秋に

あわではづべき



館を出る祗王がせめてもの忘れ形見にと
詠んだ句でござ~♪~ます。

さらに翌春、清盛は退屈している仏御前を慰めるためといって、
祗王に仏御前の前で舞を披露することを強要したのです。
祗王は、あまりの屈辱に死を決意するのでござ~♪~ました。
しかし、五逆罪になることを母親が説き、
やむなく祗王は清盛の館へ向かうのです。




仏もむかしは凡夫なり

われらも遂には仏なり

いずれも仏性具せる身を

隔つるのみこそ悲しけれ



このように謡(うた)いながら舞い踊り、
諸臣の涙を誘ったのでござ~♪~ます。

祗王は都に居れば、
また同じような思いをしなければならないと、
母、妹と共に尼となり、嵯峨の山里で仏門に入るのでした。

当時、祗王21歳、妹の祇女は19歳、
母の刀自(とじ)は45歳でござ~♪~ました。

ところが、ある秋の夕べ、仏御前は祗王の元を訪れたのです。
なぜ。。。? どうした事でござ~♪~ましょうか?

実は、祗王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、
仏御前は、清盛の館を抜け出して
尼となっていたのでござ~♪~ます。

それからのち、祗王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、
みな往生の本懐を遂げたのでござ~♪~ます。

小百合さん、いかがでござ~♪~ますか?
女の身として涙なくしては読めないですよね。
おほほほほ。。。



それにしても、祗王寺のお庭は
苔がとっても美しいですことォ~。。。
見とれてしまいますわぁ~。
あああぁ~。。。デンマンさんとご一緒に見たいわぁ。。。
うしししし。。。






『愛憎と苔寺 (2008年10月7日)』より




あらっ。。。おほほほほほ。。。思い出しましたわ。



あらっ、おほほほほ。。。はないでしょう! これだけのことを説明しておきながら、平清盛が祗王にも手を出し、仏御前にも手を出した事をすっかり忘れてしまったとは。。。!?

あたくしは平清盛が祗王と仏御前に手を出した事は忘れていましたけれど、清盛が二人の女性に「真ん中の足」を出したことは覚えておりますわ。 うふふふふふ。。。

やだなあああァ~。。。卑弥子さんは平清盛と道鏡を混同しているのではありませんか?


(doukyoux.gif)



混同してませんわよ。



しかし、京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授が、清盛は二人の女性に「真ん中の足」を出しました、と言うのは品格に問題があると思いますよ。

デンマンさん!。。。品格だとか、品がないとか、はしたないとか。。。、そのような表現の自由を束縛するような言葉は、自由を尊重する21世紀のネット市民にはふさわしくないのでござ~♪~ますわ。

解りました。 とにかく卑弥子さんが祗王と仏御前を思い出してくれたので「真ん中の足」の事はこれ以上追求しませんよ。

。。。んで、平清盛が常盤御前と祗王と仏御前に「真ん中の足」を出したことが平家の滅亡を招いたとデンマンさんはおっしゃるのですか?

あのォ~。。。それほど「真ん中の足」に拘(こだわ)らなくてもいいですよ。

あたくしは拘ってませんわよう! デンマンさんが拘っているのですわ。

解りました。 僕はもう「真ん中の足」に拘りません。

じゃあ、本題に入ってくださいましなァ。

あのねぇ~、卑弥子さんが説明したように清盛は祗王と仏御前に心の傷を残したのですよ。 つまり、二人の女性を幸せにできないような男が、どうして日本という国を幸せで平和な国にまとめることができるのか?

つまり、日本の国を統治する者としては清盛は失格だとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

その通りですよ。 二人の女性に心の傷を残してしまうような男は、人の心を自分につなぎとめることができない。 それで優秀な人材が集まらない。 結局、自滅してしまうのですよ。

でも、デンマンさんのその仮説が正しいとして日本に統治者として合格するような歴史上の人物が居たでしょうか?

居ましたよ。 たとえば秀吉などは色好みだったけれど、側室の女性たちをうまくまとめていた。 祗王や仏御前のように心に傷を抱いて尼になるような女性は居なかった。

でも、正室の「ねね」は髪を下ろして尼になりましたわ。

でも、それは心に傷を負ったからではありませんよ。 「ねね」は秀吉が亡くなるまで良好な関係を保ち続けた。 秀吉との関係を断絶したわけではないのですよ。

要するに、女性関係では秀吉の方が清盛よりも優れていたとデンマンさんはおっしゃるのですか?

少なくとも、祗王や仏御前のような悲しい女性を作らなかった。 だから、秀吉は死ぬまで日本の統一を保ち続けることができた。 要するに女性の扱いがうまいと言うことは、人の心をひきつけることもうまいと言うことですよ。

デンマンさんの眼には秀吉が統率者としては最もすばらしい人物として映るのですか?

いや。。。もっとすごい人物が居ますよ。

それは誰ですのォ~?

11代将軍・徳川家斉ですよ。


徳川家斉(いえなり)

生誕: 安永2年10月5日(1773年11月18日)
死没: 天保12年閏1月7日(1841年2月27日)
在任: 1787年 - 1837年 (50年)

御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。
母は側室のお富の方。

安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、父と田沼意次の裏工作、並びに家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も病弱で子供がいなかったことから、天明元年(1781年)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。
天明6年(1786年)家治(50歳)の急死を受け、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。
天保12年(1841年)閏1月7日に死去した。享年69。

このように栄華を極めた家斉であったが、最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。
なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府が死を秘匿したと考えられている。

家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。
そうして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。

側室と子女

特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。
この他、生まれる前に流産した子女も4人いる。

また長命の子息達は他家の養子となったが、養子先に選ばれた諸国の大名の中にはすでに実子が誕生していた例もあった。
子女の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制を行っていたとも考えられる。
また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。
一橋宗尹以来の一橋家の養子戦略の延長でもある。
家斉の子を養子もしくは正室として迎えた(続柄)大名家に対しては特別な待遇が与えられた。

逸話

○ 幼少期から異様な性癖があったと伝えられ、蟹や鶏を相手にして踏み潰したり殴り殺したという残虐な逸話がある。

○ 家斉の将軍在職期間50年は、歴代将軍の最長記録である。

○ 大樹寺にある位牌から推定すると、身長は156.6センチである。

○ 徳川将軍15人の中で5番目の長身であり、後期の将軍の中では大柄である。

○ 次男の家慶とは不仲であったと言われる。
家斉が日蓮宗を信仰していたのに対し、家慶は浄土宗を信仰していたこと、家斉が大御所となってからも権力を握り続けたこと、家斉の寵臣達が家慶の四男である家定を毒殺しようとしているとの噂が流れていたことなどからも、2人の関係性が窺える。

○ 非常に多くの子を作ったのは、15歳で将軍職を継ぐ際に、子女を多く儲けるように実家・一橋徳川家より訓戒を受けたためであり、徳川家の天下を一橋家の系統で押さえるためでもあった。
このため、水戸徳川家を除く御三家・御三卿には家斉の弟や甥、もしくは実子が養子入りしている。
ただし家斉の出身・一橋家は徳川昌丸で家斉の血は絶え、水戸徳川家から徳川慶喜が養子入りし、後に将軍となっている。

○ 毎晩のように晩酌をし、浴びるように飲んでも乱れなかったというが、晩年になると節酒に転じた。

○ 非常に身体壮健であり、在職した50年間の中で病臥したのは数回の感冒のみであった。

○ 「白牛酪」(はくぎゅうらく)という今日で言うチーズのような高タンパク乳製品を大変好んだ。
医師に『白牛酪考』といった本まで書かせている。

○ 生姜が大好物で、1年中毎日欠かさず食べていたという。
これが並外れた精力増強に作用していたとも言われる。

○ 俗物将軍と呼ばれたという。
幕政をほとんど主導せず、松平定信や松平信明らの幕閣に任せ、自分は大奥に入り浸っていた。
また多くの子女を儲け、彼らを多くの大名家に縁組させたことは、幕府財政を大きく揺るがせることとなった。

○ 遊び狂っていた腐敗将軍として有名で、家斉の50年に及ぶ将軍在職期間中に江戸幕府の負の遺産が築かれ、それが幕末にも大きく影響することになる。

○ 父・治済の存命中は父の言いなりであったと言われる。

○ 晩年になっても先代・家治の息子・家基の命日に自ら参詣するか、若年寄を代参させていた。
先代の子供にここまで敬意を払うのは異例であり、家基が変死していることもあり、北島正元や井沢元彦は家斉が家基は自分を将軍の座に就けようとしていた治済に暗殺されたと疑っていた可能性が高いとしている。

○ 生涯頭痛に悩まされたが、家基の祟りを恐れていたからだと言われている。

○ 頼山陽の『日本外史』では、家斉の治世50年間は「武門天下を平治する。
ここに至って、その盛りを極む」とあり、家斉の治世は将軍が政務に無関心であっても世は平穏で幕府の権勢が絶頂期にあったとしている。

○ 従一位・太政大臣にまで昇任しているが、従一位への昇任は第3代将軍徳川家光以来、太政大臣への昇任は第2代将軍徳川秀忠以来である。

○ 精力増強のためオットセイのペニスを粉末にしたものを飲んでいたので「オットセイ将軍」と呼ばれた。

○ 絹織物のお召縮緬を好んだ。
家斉が好んで御止め柄(お納戸色に白の細格子縞)を定めた桐生産が御召の発祥という。




出典: 「徳川家斉」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲け、この他、生まれる前に流産した子女も4人いるということは。。。もし流産した子が生きていれば、総勢で 57人ですわね。 すっご~♪~い!。。。うふふふふふ。。。



おそらくギネスブックに載るんじゃないですか!?

でも、家斉は遊び狂っていた腐敗将軍として有名で。。。、と書いてありますわ。

あのねぇ~、平和な時代に生まれたからですよ。 でもねぇ~、とにかく16人の妻妾を持っていたのですよ。 上の逸話の中には祗王や仏御前のような悲しい女性のエピソードが一つとしてない。 つまり、家斉は16人の女性たちを分け隔てなく、勤めて、すべての女性に不平や不満が出ないように努力していたということなのですよ。

そうでしょか?

だって、もし家斉が清盛のような性格だったら、女性16人の間で血を見る乱闘騒ぎが起こっていても不思議ではないのですよ。

。。。つうことわァ~、もし徳川家斉が戦国時代に生きていたら豊臣秀吉と並び称せられるぐらいの天下人になっていたかもしれないとデンマンさんは思うのですか?

当然でしょう! 徳川将軍15人の中で5番目の長身であり、後期の将軍の中では大柄である。 しかも、非常に身体壮健であり、在職した50年間の中で病臥したのは数回の感冒のみであったというのですよ。 戦国時代にうってつけの人物だと卑弥子さんは思いませんか?

つまり、平和な時代だったので家斉は種馬になっているしかなかったとデンマンさんは思うのですか?

そうですよ。 うししししし。。。 だからねぇ、もし徳川家斉が清盛だったら、歴史は全く変わったものになっていましたよ。 少なくとも、祗王と仏御前は尼などにならずに、心に大きな傷跡なども残さず、そこそこ満足した一生を送れたはずですよ。


【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。

確かに将軍家斉さんは16人の女性を

喧嘩しないよう、嫉妬に燃えて乱闘しないよう、

うまく操っていたようですわ。

平清盛さんよりも女性の扱い方が

うまかったと言えるかもしれません。

それだけ人の心を引き付け

人使いがうまかったのかもしれません。

戦国時代に生まれていたら、

豊臣秀吉よりも大きな天下人に

なっていたかも知れませんわね。


 
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