藤原清河
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春日野に 斎く三諸の 梅の花
栄えてあり待て 還り来るまで
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藤原清河 (万葉集 卷19-4241)
(読み: かすがのに いつくみもろの うめのはな
さかえてありまて かえりくるまで)
意訳:
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梅の花咲く春日野の御蓋(みかさ)山の神々に
お願い申し上げます。
遣唐使として唐に赴くことになりました。
大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください。
その間、大和の国がさらに栄えることをお祈り申し上げます。
遣唐使として唐に赴(おもむ)いた藤原清河さんは16年間も唐に滞在して亡くなってしまったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよ。 19歳で唐に渡り72歳で亡くなるまでの53年間を唐で過ごした阿倍仲麻呂の陰に隠れて藤原清河は、それほど知られていないけれど、それでも16年間を唐で過ごして日本へ帰ってきたかったけれど、それがかなわず他国で死んでしまった。 阿倍仲麻呂と同じような目に遭(あ)っていたのですよ。
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おそらく、清河さんも仲麻呂のように故郷をしのびながら、何度となく奈良の都を思い浮かべたはずですよ。
。。。んで、上の短歌は清河さんが遣唐使に任命されて唐に赴く時に詠んだのですか?
そうです。 藤原清河の叔母さんの光明皇后が次のような送別の短歌を詠んだので、そのお返しに上の短歌を詠んだのですよ。
大船に 真楫繁貫き この吾子を
韓国へ遣る 斎へ神たち
光明皇后 (万葉集 卷19-4240)
(読み: おおふねに まかじしじぬき このあこを
からくにへやる いわえかみたち)
意訳:
櫂(かい)をずらりと並べた偉容を誇る大船に、
親愛なる甥を遣唐使として唐へ遣わします。
そのような訳で、どうか神々の皆様、
この人に祝福をお与えください。
この時、清河は47歳で叔母さんの光明皇后は51歳だった。
あらっ。。。清河さんは叔母さんと4つしか歳が離れていないのですわね。
昔のことだから、こういうことは普通だったのですよ。 僕の叔母も僕よりも6つ年上です。
あらっ。。。デンマンさんも、そんな昔に生まれていたのでござ~♪~ますか?
何を寝ぼけたことを言ってるのですか! 僕は戦後生まれですよ。
日清戦争の戦後ですか?
笑ってもらいたくって、そういう事を言うのですか?
うふふふふふ。。。いけませんか?
僕が明治生まれのはずがないでしょう! 戦後と言ったら、太平洋戦争の戦後ですよ。 僕のお袋は農家生まれで、戦前のことだから大家族だった。 お袋が一番上の長女でその間に兄弟姉妹が8人居て、僕より6つ年上の叔母は、お袋の一番下の妹だった。
そうだったのですか。 知りませんでしたわ。
僕は長男で上に兄も姉も居ない。 叔母は一番下だから妹も弟も居ない。 それで叔母は僕をまるで弟のように可愛がってくれたのですよ。 だから、僕も叔母を姉さんのように慕っていたわけです。
そう言えばデンマンさんは次のように書いていましたわね。
映画『禁じられた遊び』の
メインテーマ曲「愛のロマンス」を
僕がギターで弾いて、
初めて聴いてくれたのが叔母でした。
今夜(2008年7月19日)は、午後10時に、珍しい事に鴻巣市に住む叔母から電話がかかってきました。
半年振りでした。
この叔母は僕のお袋の一番下の妹で、僕よりも6歳年上です。
親戚中で僕とは最も気の合う人物です。
その叔母も暑いと言ってましたよう。
35度と言ったのかな?
なぜか35度と言う数字がオツムに残っています。
零時10分まで、つまり、2時間10分話し込みました。
現在は行田市に編入されましたが
南河原村と言うのが僕の母親の実家があったところです。
もちろん、現在でも、同じところにあります。
お袋が僕を産んで1年した頃、僕を連れて実家へ帰ると、
7歳の叔母がどうしても僕を“おんぶ”したいと言ったのだそうです。
お袋も、仕方なく“おんぶ”させたとか。。。
近所の人に見せたいと。。。
赤ん坊なのに“わかいし(若者)”のような顔をしている、と近所の人が言ったそうです。
そのような話をしていました。
もちろん、僕には記憶の無いことです。
行田女子高校に入学して初めて僕の家に来たときには、
僕を自転車の後ろに乗せて本町通りの川島本屋まで連れてゆきました。
そこで、スーパーマンか何かの消しゴムのついた鉛筆を買ってくれました。
叔母が16歳のときですから、僕は10歳。4年生ですよね。
まてよう。。。
違いますね。
僕は小学校に上がるか上がらない年頃でしたよう。
だったら、6つか7つの頃のはずです。
第一、小学校4年生ならば、スーパーマンの形の消しゴムがついている鉛筆などもらっても、うれしくも何とも無いはず。
それなのに覚えていると言うことは、小学校1年生の頃の事に違いないですよう。
だとすると、叔母は中学1年生ですよう。
セーラー服を着ていたから、まず間違いありません。
自転車に乗って僕の家まで遊びに来たのでしょう!
とにかく、この叔母とは、それ以来よく出かけました。
日光に行ったり、上高地に行ったり。。。
そう言えば帝国ホテルで食事した事もありました。
よく喫茶店にも一緒に出かけましたよう。
もちろん、バンクーバーにもやって来ました。
大学生の頃は、とりわけ叔母と良く出かけました。
叔母はちょうど結婚前で、結婚する前に思いっきり羽を伸ばしておこうと言うつもりだったのでしょうね。
知らない人が見れば、僕と叔母は、まさに恋人同士のように見えたでしょうね。
叔母にしてみれば、安心して連れて行ける“ボーイフレンド”だったのでしょう。
ずいぶんとおごってもらいました。
ある時、今でも忘れませんが、熊谷の駅の近くの“田園”と言う喫茶店に入りました。
その夜、テレビでアランドロンの主演する映画「太陽の季節」(もしかすると「太陽がいっぱい」)をぜひ見たいと言っていたのですよう。
叔母はアランドロンの熱烈なファンでした。
ところが、どう言う訳か、時間に間に合わなかった。
後で、僕のせいにされてしまったのですよう。
それ程見たければ、“これからテレビで映画を見なければならないから、もう出ようね。”
そう言えば良かったじゃないか!
なぜか、この時の事を何度も聞かされたものです。
どうして、僕が責められるのか、未だに訳が分かりませんが。。。
僕のせいじゃないよう!
電話の声を聞く限り、喫茶店“田園”で話した頃と全く変わっていません。
その声には、今でも夢とロマンを感じます。
2時間10分。
20年以上時計がタイムスリップして
熊谷駅の近くの喫茶店“田園”でダベッた2時間10分でした。
『夢とロマンの軽井沢』より
(2008年7月19日)
それにしても卑弥子さんはよく覚えていましたねぇ~。
これを読んで、あたくしにもハンサムな6つ年上の叔父さんが居たらいいなァ~、と思ったのですわよ。 それで、印象的に覚えていたのですわ。。。で、どうしてデンマンさんは藤原清河さんの短歌を冒頭に書いたのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、藤原清河の事をネットで調べていたら、たまたま次のような説明を読んだのですよ。
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大船に真楫繁貫きこの吾子を
韓国へ遣る斉へ神たち
光明皇后 万葉集 19-4240
(大船に左右の楫を一面に通して、この子を唐へ遣わす。祝福を与えよ、神々たちよ。)
甥の清河が遣唐使として中国へ渡るときの光明皇后の歌です
遣唐使を子と呼び、神々に祝福を与えよと命令しています
一族の期待を一身に背負って唐へ渡った清河
藤原清河は 不比等の子房前の第四子
光明皇后にとっては 甥
大伴古麻呂と吉備真備を副使に従えた
遣唐使藤原清河を 光明皇后はわが子と言っています
藤原一族の中でも際立った力が光明皇后にあったのでしょうか
光明皇后に子供扱いされた清河が
唐へ行って玄宗皇帝に謁し君子人なりと賞賛され
外交官として日本の面目を保ち
阿倍仲麻呂の帰国
鑑真和尚の来日に関係しましたが
帰路船がベトナムに流され
その後唐の地で亡くなります
光明皇后にわが子と呼ばれて唐へ旅立った清河の一生に感動します
この記事を書いた人は光明皇后が「わが子と言って清河を子ども扱いした」と書いてるけど、決してそうではないと僕は思いますよ。
でも、上のような解釈だってなりたつでしょう?
あのねぇ~、上の記事を書いた人は光明皇后と藤原清河の年の差に気づかなかったのか? それとも考慮に入れなかったのですよ。 光明皇后は清河を決して子ども扱いしたわけではない。
どうしてデンマンさんはそのように断定なさるのですか?
最近、叔母が僕に書いた次の手紙を読んでみてください。 卑弥子さんは叔母が僕を子ども扱いしていると思いますか?
デンマンさん、お元気ですか?
先月末(4月29日)、久しぶりで芳江さん(注:デンマンの母親)を訪ねてきました。
暮に伺った時「春の彼岸頃また来るから」といって…。
数えたら5ヶ月も経っているのですね。
この冬は例年になく寒く私も含めて高齢者に近づいた人には厳しかった。
芳江さんも大変だったのではと行く前に心配が大きく
電話をして様子を確かめたところ張りのある声が聞こえてきました。
会うと顔色も非常によく案じていたよりは、はるかに健康的で、私の方が薬負けしているせいか、ずっと病的だなあと思いました。
4次元の会話もほとんどなく、しっかりと的を得ていました。
(泥棒の話がひとつだけ出てきましたが。。。)
あと半年したらデンマンさんが帰ってくるからと、もう楽しみにしている状態です。
私はこの日も「芳江さん、りっぱだね」と長寿のことを誉めましたが必要以上に誉めそやすと油断するのが怖いので楽な気持ちで今まで通り気張って欲しいと勇気付けてきました。
人は皆 死に行く道を歩んでゆくわけですが、私は最近すんなりと逝ければいいなあと願うようになっています。
デンマンさんの誕生日のすぐあとに私の誕生日で、この好きな桜の季節にまた年を重ねました。
隠遁生活者の僻(ひが)みでしょうか?
小さいながらも事業を起こし、それが失敗したことが今でもストレスとなって追いかけてきます。
この僻み根性が顔に出ないうちに喘息という病症から抜け出たい。
デンマンさん想像してみてください。
例えば口を塞がれて鼻が詰まりながらも、かすかに息ができる。
こんな状態が続くと、もう肩で呼吸し体で息が苦しいと叫んでいます。
通常薬で抑えていますが薬は麻薬であって切れると前記のような禁断症状となります。
薬を離そうと何度も試みるのですが繰り返すばかりです。
ある程度健康に関する本は読んでいるので今更どうの、こうのということもないので、この喘息とじっくり向き合っていくより方法はないと近頃へこんでいます。
「健康は人が与えるものでなく 自分で創るもの」
中学校3年間を担任だった理系の先生が後日結核になり見舞った時の言葉を思い出します。
デンマンさんが偉いなあという点はたくさんありますが、そのひとつには健康であるということ。
その健康であるという裏打ちとは、格好をつけて言えば倫理を踏まえた自立かなあと。。。
私にはすべてにそれが欠けていた。
私の年齢では遅しですが、今から出発しようと思います。
実家の両親や芳江さんのように90歳の声は望んではいませんが念じることがとおるなら あと20年は生きたいと思います。
そして指折れば3つばかり成就したいものがあります。
今、そのひとつに挑戦しています。
明日は子供の日で休日です。
佐保姫さまの到来なくして若葉になり 冷暖房の要らない過ごしやすい時期にやっとなりました。
台湾の歌手テレサテンさんのようにならないよう私も気張って生きます。
では、お体に気をつけて。。。
九条多佳子
2012年5月4日
『テレサテンと叔母』より
(2012年5月11日)
確かにデンマンさんを子ども扱いにはしていませんわ。
そうでしょう!? 「吾子(あこ)」とは文字通りに現代訳すれば「我が子」という意味になりますよ。 実際、古代にもそのように使われていた。 でもねぇ、光明皇后と藤原清河の歌のやり取りを読んで、二人の年の差を考えれば、「吾子(あこ)」とは「我が子」ではなく、「親愛なる人」というような意味で親しみを込めて目下の者・年下の者を呼ぶ時に使われてもいた、ということが解るのですよ。
でも、それはデンマンさんが、たまたま叔母様と親しいので、そのように考えただけではないのですか? 光明皇后と藤原清河さんは、デンマンさんと叔母様のように、それほど親しかったわけではなく、言わば社交辞令というか、二人とも藤原氏だったために光明皇后が万葉集に載せるために遣唐使の派遣というテーマを選んで詠んだ歌だということも言えるのではありませんか?
いや。。。それは考えられません。
どうしてですか?
あのねぇ~、それならば、叔母の光明皇后ではなくて、清河を遣唐使に任命した従妹である孝謙天皇が歌を詠むはずですよ。 なぜなら、孝謙天皇は任命した本人だし、しかも常識的に考えれば叔母よりも従妹の方に、より親密感をいだくはずです。。。でも、実際には、叔母である光明皇后が歌を詠んだ。 それは、とりもなおさず光明皇后と清河の間に歌に読まれていたような親密感があったからですよ。 つまり、「吾子(あこ)」とは光明皇后が清河を「親愛なる人」という意味で呼びかけたのですよ。
【ジューンの独り言】
ですってぇ~。。。
そうですよね。
光明皇后は清河さんと、とても親しかったのだと
わたしも思いますわ。
二人の歌は昔の言葉で書かれているので
説明がなければ、わたしにはさっぱり解りません。
英語にも Old English といって
古い英語がありますけれど、
日本語の場合、それほど古くなくても
例えば明治時代の日本語を読んでも
現在の日本語とはかなり違うのですよね。
戦前の旧仮名遣いで
「てふてふ」が「ちょうちょう」のことだと知った時には
マジで驚きましたわ。
英語の場合、話し言葉も書き言葉も
100年前とほとんど変わっていません。
日本語の変わりようにはビックリさせられます。
ところで、私のような外国人が
日本語を勉強するのに、最も難しいのは
何だと思いますか?
敬語の使い方です。
日本人でさえ適切に敬語が使えない人が
増えていると聞いています。
だから、やっぱり敬語は難しいのですよね。
英語にも敬語が無いわけではありません。
でも、日本語ほど体系的には使われていません。
ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは
敬語の定義次第です。
敬語を広く「人物間の上下関係や
親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば
英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め
学校で生徒が教師に、
軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に
sir や madam(ma'am)を付ける例があります。
英語の二人称代名詞である you はもともとは敬称でした。
英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと
常に本来敬称であった you のみを使うようになったために
you が敬称としての意味を失い、
敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。
現在では敬語表現としては
次のような形を使って表現することが多いです。
Could you ...?
Would you ...?
May I ...?
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを
やっています。
興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして
覗いてみてください。
■『あなたのための笑って幸せになれるサイト』
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
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